第3話 時間軸の歪

 さて、もう一つというと、

「武士のおこり」

 あたりから、

「承久の変」

 までという、平安末期から鎌倉初期の時代である。

 そもそも、武士の起こりというのは、平安時代というと、

「貴族の時代」

 と言われる、貴族だけが、歴史の表舞台に登場する時代だった。

 優雅な時代に思われがちであるが、実際には、貴族の間で、ドロドロとしたものが渦巻いていた。

 菅原道真の左遷に纏わる陰謀であったり、追手門が火付けに遭うなど、さらには、伝染病や、飢饉なども頻繁にあった。

 もちろん、他の時代にもあったことだが、

「平安時代というのが、それほど平和あ時代ではなかった」

 ということは、明らかに間違いだったのだ。

 何しろ、宮中文化というものが、国風文化として花開いた時代で、

「ひらがなの登場」

 であったり、

「枕草子や源氏物語」

 などの、小説や随筆が流行ったことで、平和に感じるのだろう。

 しかも、藤原摂関家の力が増大で、

「平安時代というのは、藤原摂関家の時代だ」

 といってもいいくらいであった。

 だから、荘園なども、ほとんどが藤原氏が抑えていたり、有力寺院が抑えていたりした。

 だが、寺院や一部貴族が、荘園を守る、

「武力警察」

 のようなもので自分の領地を守ろうとしたことで、

「武士」

 であったり、

「僧兵」

 と呼ばれるものが出てきたのだ。

 武士は、次第に、貴族間の争いであったり、藤原摂関家、さらには、天皇家の後継者争いにまで口を出すようになった。

 武士の反乱はそれまでにもあり、

「平将門・藤原純友の乱」

 であったり、

「東北清原家の内乱」

 などに端を発した、

「前九年、後三年の役」

 などというものがあったのだった。

 そしていよいよ、

「藤原摂関家の対立」

 と、

「天皇後継問題」

 とが重なって起こったのが、

「保元に乱」

 であった。

 そこで、平清盛と、源義朝側が勝利したことで、二人の権力が増大したが、実際には、平清盛の方が明らかな優遇を受けていたのだ。それに不満があった源義朝が兵を挙げたが、結果負けてしまったのだった。

 そのせいもあり、頼朝、義経と、源義朝の子供たちは流人となったが、その流人が平家を倒すことになる。それを、

「治承・寿永の乱」

 という。

 いわゆる、

「源平合戦」

 のことである。

 この戦いは、平家が、清盛の死によって、勢力が衰えてしまったことで、力も衰えたところを、木曽義仲に都を追い出され、

「源氏内部の同士討ち」

 というものが起こっている間、福原に逃れたが、福原では、兵を立て直すこともできず、結果、義経に追い込まれ、滅亡してしまう。

 しかし、その義経も、頼朝に排除され、鎌倉が、政治の中心になった。

 ただ、せっかく成立した鎌倉幕府だったが、頼朝の突然の死によって、荒れに荒れた。

 御家人同士の潰し合いというか、

「北条氏が、権力を握りたいがための、パワーゲーム」

 だったのだ。

「梶原景時」

「畠山重忠」

「二代将軍頼家」

「比企氏」

 さらには、

「和田義盛」

 と、怒涛の粛清劇だったといってもいいだろう。

 ほとんどの御家人を滅ぼして、北条だけになったといってもいい状態にしたのは、二代目執権であった、北条義時だったのだ。

 そして、最後に朝廷と幕府の全面戦争であった、

「承久の変」

 によって、朝廷が敗れたことが、この時代のターニングポイントになったのだった。

 これが三つ目の時代だが、この時代は、他の2つの時代から比べれば、少し地味であろう。

 しかし、某国営(?)放送の1年続く歴史ドラマでは、ほぼ、この3つの時代を繰り返しているといってもいいだろう。

 もちろん、違う時代もあるが、興味を持てるという意味で、なかなか、他の時代は1年のドラマとして描くのはなかなか。難しいものなのかも知れない。

 歴史というものを勉強するにあたって、どの時代を考察するかということを考えた時、この3つ以外を考えることはなかった。考えたとしても、あ飛鳥時代から奈良時代に続く、律令制度の時代が多いかも知れない。

 最近では、言わなくなった、

「聖徳太子」

 いわゆる、

「厩戸皇子」

 の話から、蘇我氏一族、馬子、蝦夷、入鹿の時代に続いて、入鹿の時代に栄華と誇った蘇我氏だったが、そこで、中大兄皇子と、中臣鎌足によって、

「乙巳に変」

 を起こされたのだ。

 その時代には、律令制度は、正直、確立していなかった。

 しかし、その後の天武天皇の時代になってだいぶ確立したのだが、その時代が、激動の時代であることを示しているのだった。

 その証拠に、

「大化の改新から、どれだけの土地に遷都したというのか?」

 ということであった。

「飛鳥に始まり、難波、さらに筑紫と、信楽にあった時代もあった」

 そのあと、大津に遷都して、中大兄皇子が天智天皇として即位し、さらに本当は、弟に譲るはずの天皇の位を、息子に譲ると言った時点で、

「壬申の乱」

 が、勃発することになったのだ。

 結局は、弟の大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位することになるのだ。

 そんな歴史を考えていると、高校時代には、

「歴史研究部」

 というところに入部して、歴史を勉強するつもりだった。

 しかし、自分では、

「どの時代に造詣が深いか」

 ということが正直よく分かっていなかった。

 実際にどの時代も、

「帯に短し、たすきに長し」

 という感じで、勉強をするにも、どれも、中途半端で、要するに、

「自分がどこまで分かっているのかが分かっていない」

 ということであった。

 だからこそ、一生懸命に勉強しているつもりでも、

「これくらいのことは分かっている」

 という思い込みも入ってか、そのあたりを、

「すべて分かっていると勘違いして、他の時代との裂け目が分からなくなり、結果、話が繋がらなくて、うまくいかないのだった」

 つまりは、何も分かっていないのと同じで、他の人と話をしても、まったく明後日の方向を自分だけが向いているので、

「本当にこの人分かっているのだろうか?」

 と思われるのだった。

 実際に、自分でも、

「何かが違う」

 と思うのだが、

「いまさら違うのではないか?」

 ということを言っても分かるはずもないということであった。

 だが、歴史というものを好きになったきっかけとしても、

「時代時代のターニングポイントを見つける」

 という感覚だけは残っていたので、少々間違ったところに向かっていたとしても、そこは、大体のところで軌道修正ができていたのだ。

 歴史というものが、いかなるものであるかということを、同じ部員でも分かっていない人がいる。

「歴史というものは、人間で見るか、事件で見るかによって変わってくる」

 というターニングポイントを必要とする考え方の自分たちと違って、

「歴史というのは、原因があって結果があるという、時系列を重視するものなのではないか?」

 という人である。

 マサツネは、あくまでも前者を推奨する人間だったら、後者のような考え方は、明らかに違うと思うのだが、大学に入ってから思い返してみると、

「その考えも間違いではない」

 と感じた。

 間違ってはいないのだが、それでも、自分が納得できるものではない。そこだけは考え方がブレることはなかった。

 そんな歴史の勉強をしていると、大学時代には、自分なりに本を読んだりして勉強をした。ただ、その勉強であっても、その内容は、あくまでも、

「ターニングポイントに絞った勉強」

 であり、大学時代になると、余計に、凝り固まった自分が出来上がった気がしていた。

 しかし、時系列を主張する連中に対して、

「分かっていない」

 とは思わなくなった。

 そのおかげで、自分が勉強をしている内容が、

「時系列派から見て、どのように見えるというのか?」

 ということが、

「自分の考えをいかに証明してくれるというのか?」

 ということを考えるに十分だと思うのだった。

 マサツネは、歴史の勉強をする時も、

「他の勉強をしている時の気持ちになればいいのか?」

 ということを考えた方がいいのかを考えるのだった。

 歴史の勉強にいおいて、

「何が正しいということはない」

 と言えるのではないか?

 なぜなら、

「誰も見た人間がいない」

 ということであり、

「いかに過去の発掘資料から推測して、真実に近づくか?」

 ということになるのであろう。

 実際に、歴史の資料の中で、今までは、

「神話」

 とでもいうように、当然のことと信じられていたものが、実は違っているなど、山ほどあるというものだ。

「いいくにつくろう鎌倉幕府」

 なども違うというし、教科書などに載っている、源頼朝の肖像画が、実は別人のものであり、

「そう伝わっている」

 ということで、

「肖像画:源頼朝伝」

 と言われているということである。

 さらに、歴史の登場人物への評価もそうである。自分たちが習った頃は、

「蘇我入鹿、明智光秀、田沼意次」

 などは、

「極悪人」

 とでもいうような評価だったが、今は研究が進むにつれて、

「実は、こっちが善ではないか?」

 とも言われるようになっている。

 善というのは、大げさかも知れないが、

「汚名返上の余地はある」

 といってもいいのではないだろうか?

「蘇我入鹿などは、本当は、朝鮮半島との外交を、平等外交でうまくいっていた、そして、仏教を導入することで、国教を侵害したと言われていることも、実際には、聖徳太子の理想を忠実に守った」

 などといわれて、蘇我氏を滅ぼしたことで、朝鮮半島の新羅に加勢をしたため、朝鮮半島で、日本軍は大敗し、

「結果、九州にて、朝鮮からの侵入を防ぐための防衛をしなければいけなくなったし、そのために、遷都も激しくなった」

 と言われているのだ。

「蘇我氏が滅亡したことで、歴史が百年後退した」7

 と言われたほどである。

 しかし、これは、

「平家滅亡」

 においても言えるのではないだろうか?

 というのも、平家というのは、平清盛の時代よりも昔から、海上において、権威を誇っていた。

 だから、海上貿易も盛んで、宋との貿易で、利益も上げてきた。それが清盛の時代になって、福原の港を整備することで、利益も膨れ上がり、その財力を使って、朝廷や帝に取り入ったのだろう。

 それで、朝廷内において、平家の力が増大し、

「奢れる平家」

 となってしまったことで、貴族や、武士からも、疎まれたり、妬まれたりしたのだった。

 しかし、清盛が権勢をふるっている時代においては、その権威は、皇族と結びつくことで、さらなる権勢が備わってきて、

「平家にあらずんば、人にあらず」

 などという言葉が出てくることになるのだ。

 清盛は、自制していたということであるが、それも分かったものでもない。

 朝廷との結びつきがはげしいことから、平家は、結果、清盛の死後、急激に勢いを失っていくのだった。

 結果平家は、源氏に滅ぼされる。その後鎌倉幕府が成立することになるのだが、鎌倉幕府というのは、その後の、

「封建制度」

 の基礎を作るということになる

 封建制度というのは、

「御恩と奉公」

 と言われるように、基本は、土地である。

 武士の命よりも大切なものは、

「土地」

 である。

 土地がなければ、コメを作ることができず、領民を養っていくことができない。貴族のように、寺院や領主から上がってくるコメを年貢としてもらい、生活しているのとはわけが違う、一方通行であった。

 しかし、封建制度は、

「双方向からの助け合いのようなもの」

 が、信頼関係として、結びついてくるのだった。

 というのも、

「土地を保証してもらえるっと、そこから年貢も上げることができ、いざ、主君が戦争などというと、奉公として、兵を出す。あるいは、馳せ参じる」

 ということになるのだ。

 それはそれの間違った考えではないのだが、あくまでも、戦が起これば、

「論功行賞」

 のようなものが存在し、それによって、死に物狂いで戦った武士は、報われるというものである。

 そうやって成立した鎌倉幕府であったが、この、

「封建制度」

 という関係が、自分の首を絞めることになるとは、実に皮肉なものであった。

 というのも、

「それまでは、うまく封建制度を活用し、うまく運用していたのだったが、問題は、元寇と呼ばれる、

「モンゴル襲来」

 が問題だったのだ。

 そもそも、元の皇帝である、フビライが、親書を持って日本にやってきたのだが、鎌倉幕府の役人は、当時の執権、北条時宗の命を受けてになるのだろうが、

「そんなものは見ない」

 ということで、親書を持ってきた人間を、惨殺してしまった。

 それが原因で、蒙古軍が博多湾に襲来したのだが、相手の戦法の違いに戸惑い、負け戦必死であったが、何とか、台風、いわゆる、

「神風」

 によって、助けられたのだった。

 ただ、その後、もう一度襲来してきたのだが、それも神風によって、撃退することができた。

「日本軍の勝利だ」

 ということで、喜んでばかりはいられなかった。

「三度目の襲来があるかも知れない」

 ということで、九州の守りを完璧にしておかなければならず、しかも、問題は、駆り出された武士の疲弊だったのだ。

 というのも、

「今回の戦は、こちらから攻めていって、相手を打ち負かし、その領地を奪った」

 というものではなかった。

 しかも、幕府の命令で、九州に配置しなければいけなかった武士は取るものも取り合えず、

「借金をしてまで、馳せ参じた」

 という人もいたくらいだった。

 それだけに、死に物狂いで働いたことだろう。

「借金分を、褒美で取り返さないと」

 と思っているわけで、問題は、やはり、

「外国から攻められた」

 ということであった。

 攻めているわけではないので、土地を奪取できたわけではない。

 つまり、

「くたびれもうけだった」

 ということである。

 幕府は、功労者から、

「わしは、何人の首を取ったから褒美をくれ」

 といっても、もらえる土地がどこにもないのだ。

 借金ばかりが膨れ上がり、しょうがないから、徳政令を出したがそれでも、うまくいかない。

 結局、御家人の不満は膨れ上がり、ちょうど、

「幕府を倒して、政権を朝廷に取り戻そう」

 という後醍醐天皇に、不満を募らせた御家人がつくことで、結果、鎌倉幕府が滅亡するということになるのだった。

 しかし、実際には、幕府を倒して、朝廷が政権を奪取しても、結局、昔の貴族政治のようなものに戻るだけなので、御家人がついてくるわけがない。

「歴史を逆に戻そうとすると、反発が起きる」

 ということの現れであった。

 そういう意味で、

「大化の改新」

 であったり、

「平家の滅亡」

 というのは、ある意味歴史の流れを妨げたものであるから、必ずどこかにひずみが襲ってくるというものだった。

 そんな歴史の逆行が、いかに情勢をカオスにするかということが問題となるのだった。

 同じことが、

「坂本龍馬の暗殺」

 に影響しているのではないだろうか?

 しかし、

「蘇我入鹿暗殺」

 を別にして、

「平家滅亡」

「本能寺の変」

「坂本龍馬暗殺」

 などと、時代の寵児と呼ばれる人たちが暗殺されたり、滅亡しているが、その検証ができるような出来事はすぐには表に出ていない。

 だが、歴史のどこかで何らかの歪があり、それが表に出てきていないだけで、

「他のまったく関係のないことに影響を及ぼすことで、見えないところで、歴史が狂ってきているのではないだろうか?」

 と言えるのではないだろうか?

「時間というものが、いつも同じサイクルで動いているとは限らない」

 というような、おかしな発想になっているのだった。

 それが何を意味しているのかというと、正直分からない。

 だが、その人はかなり、しっかりとした考えを普段からいう人で、

「まるで夢を見ているかのようだ」

 とは思わない。

 どちらかというと、

「考え方はしっかりしていて、説得力はあるのだが、その発想の奇抜さで、どこまでが本当のことなのかを見失ってしまう」

 というところであった。

 ということは、

「俺の考えを相手に合わせればいいのか、相手の考えを重視しなければ、自分の考えを貫けるのか?」

 ということになり、

「本来であれば、自分の考え方が正しいとして考えなければいけないところを、相手に合わそうとしているのがまずいのではないか?」

 とも考えられた。

 これは、あくまでも、

「歴史というものは、すべて正しい」

 として、今まで勉強してきたことが、

「最近の研究で、今まで定説とされてきたことが、実は間違いだったということが、どんどん証明されてきている」

 ということになるのだった。

 そういえば、昔見た映画で、革命軍とされていたものが一転、反乱軍として鎮圧されそうになってきたことで、いわゆる、

「反乱軍」

 の将校が、

「俺たちが正しかったことは、歴史が答えを出してくれる」

 ということを言っていたが、その場ではそうでも言わないといけないのだろうが、実際にその将校も、

「本当に歴史が答えを出してくれると思っているのだろうか?」

 と思っているのではないかと感じたのだった。

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