第3話
あの時からだろう、あの人の背を追うようになったのは。
朧げな記憶の海の中でもはっきりとあの瞬間は思い出せる。私の——唯一の存在が変わったあの事件。
私よりも強く、賢く、優しかった彼女から心からの笑顔を奪った出来事であり、私に確たるゴールを示してくれた出来事でもある。
しかし、私の心を白く染めた代償に天使の羽を黒く染めたのだ。敬愛していた者の死はそれほどまでに大きな転換点だった。憎しみに囚われ、復讐を遂げるための力を追い求めるようになってしまった。笑顔を仮面として貼り付け、心の中に怨嗟の炎を押し込め、牙を研ぎ続けている。ずっと傍にいればその熱は否が応でも伝わってくる。だから、私はその感覚と信念を信じてここまできた。
しかし、私はそれを止めたいのではない。その計画を……信念を否定したいのだ。彼 女の心の奥に大切なあの人が根ざしているように私にも同じものがある。ただ、それは相いれないものだ。
他の人が聞けば譲ればいいというかもしれない。でも、私は絶対に譲らない。いや、譲れない。私という存在が今この瞬間生きている限り、彼女の在り方を肯定できないだろう。
形は違えど、ここには私たちの求める者がいる。そして、それを成すための舞台も整っている。こんな絶好の機会を前にして油断はしない。つまり、彼女の死は偽装だ。今も虎視眈々とあの首を狙っているはずだ。もしその爪が届けば強く、深くあの人に食い込むだろう。
だから私はそれを止めないと。今の彼女を否定し、私の目標へと手を伸ばすために。
日もすっかり落ち、校舎はほんのりと月の光で照らされている。薄暗い廊下を静かに抜け、男の部屋の前に一人の少女が立っていた。少女は慣れた手つきで二本の針金で鍵を開ける。ゆっくりと扉を動かし、部屋に侵入する。寝転がっている男の隣まで来ると腰の刀を鞘ごと持ち上げ、頭目がけて振り下ろした。しかし、それは頭蓋を割ることなくあっさりと男の左手に止められた。
「随分な起こしかただね。眠った男を起こすならお姫様のキスあたりが定番だと思うけどなー」
「まだ夢を見ているようですね」
コトノハは再び刀を持ち上げる。一切表情を変化させることなく刀を構える姿からは無言の圧力が発せられているように見えた。
「ごめん、ごめん。もう起きたよ」
セリルは慌てて体を起こし、きまり悪そうに頭を掻く。相変わらず冗談の通じない子だ。
「それで、朝の発言の意味を教えてくれる気になったということでいいのかな?」
「はい、私の中では誰が犯人か確定したので」
「そうか。じゃあ、ご教授願えるかな。君が掴んだ真相を」
コトノハはセリルを押しのけるようにしてベッドに腰かける。邪魔な刀を膝の上に置き、少しだけセリルの方へ体を動かす。
「まずは今日私が何をしていたのかを説明します。最初に私はこの校舎の探索を行いました。もちろん各生徒の部屋も」
「入れてくれたの? それに校舎の部屋はほとんど鍵が掛かってたはずでしょ?」
セリルは頭に浮かんだ疑問を次々とぶつける。すると、コトノハは懐から二本の針金を取り出した。
「アメリアとアシュリンは普通に入れてくれました。クロエは嫌々でしたが拒否することはありませんでした。マーセルの部屋や他の部屋は……これです」
ピッキングで開けたのだろう。まあ、教えたのはボクだし、注意はしづらいね。
「別にいいよ。それで捜査した結論はどうたった?」
コトノハは赤い瞳に力強い光が見える。余程自分が出した推論に自信があるのだろう。
「私はやはりマーセルの死が偽装だと思いました。理由も説明します」
コトノハは確信を持ってマーセルの死を否定している。否が応でも期待が高まる。
「私はマーセルと幼馴染です。なので、彼女がここに来た理由を知っています」
「君とマーセルの関係はアメリアから聞いたよ。でも、事件前の目標が何か関係あるのかい?」
セリルの言葉を聞いた瞬間、少女の目の端がぴくりと動いた。しかし、何事もなかったかのように凛とした声を紡ぐ。
「ありますよ。彼女の目標は復讐。そしてその相手は——」
コトノハの瞳が真っ直ぐにセリルを捉える。言葉にしなくても答えを提示しているに等しい行為に苦い笑みが漏れる。
「ボクってことだね」
コトノハはゆっくりと頷いた。殺し屋の性質上、恨みを買うことには慣れている。おそらく、過去に殺した人間の縁者だったのだろう。しかし、そうなるといくつもの疑問点が浮かぶ。
「でも、もしそうなら何で死んだように見せかける必要があるんだ? 初日の宣言通り全員でボクを殺しに来ればいいだけでしょ?」
コトノハは分かりやすくため息をつき、膝の上の刀を抜いた。恐ろしく流麗な動作から放たれた一撃はセリルの首へと吸い込まれていく。セリルはその致死の斬撃に感嘆をする。しかし、その勢いを一瞬で無にするように刀に追いついたセリルの右手がそれを止めた。
「いきなりどうしたの?」
「確認ですよ。あなたが怪物だというね。そして、この結果が先ほどの解答でもある」
コトノハは刀を鞘に納め、再び膝の上に置く。
「つまり、マーセルは五人がかりであろうとあなたを本気で殺せるとは思っていないということです。まあ、この意見にはおそらく全員が同意するでしょう」
「ボクはそうは思わないけどね」
「先生の意見は聞いていません。話の腰を折らないでください」
何故か怒られたセリルは「はいはい、すみませんねー」と悪態をついた。そんなセリルの様子を華麗にスルーし、コトノハは話を続ける。
「五人でも殺せない怪物をマーセルは殺したい。ならば、することは一つしかありません」
「長期戦かな」
「その通りです。カオスな場に巻き込み、頭と体を疲弊させる。それが狙いでしょう」
確かに理にはかなっている。相手が格上ならば相手の神経を削る策は定石だ。だが、搦め手としては少し弱い。
もしコトノハの言う通りの作戦を実行するならば明確に隙を生む瞬間を作り出さなければならない。定石であれば達成するべきゴールを設定し、クリアしたときの緩みを狙う……もしくは偽の情報でこちらの認識を歪めて来るはずだ。しかし、今のところそのどちらも存在しない。
「まだあまり信じてもらえていないようなのでさらなる証拠を提示させて頂きます」
コトノハが懐から取り出したものは一枚の写真だった。映っていたのは校舎の裏側にある暗殺協会の共同墓地だ。暗殺協会の人間が死亡した場合や秘密裏に埋葬したい遺体が集められる訳アリの埋葬地である。
「一昨日、私たちと同じくらいの少女が埋葬されたのを覚えていますか?」
「覚えてるよ。埋葬したのボクだし」
「その墓が掘り返された跡がありました。掘り返してみると案の定、中の遺体はありませんでした。その証拠です」
コトノハは一枚の写真を取り出した。月の光でぼんやりと照らされたそれは空っぽの棺桶だった。棺桶の蓋部分に目を向けると見覚えのある識別番号が刻まれている。
「なるほどね。でも、まだ疑問は残るよ」
「現場の血液となくなった首ですね?」
セリルは赤色の瞳を覗き込み、ゆっくりと頷く。コトノハは懐からもう一枚の写真を差し出した。そこにはから血液パックが写されている。
「血液の方はおそらくこれに自分のものをためていたのでしょう。墓地の近くに落ちていました。首の方は発見できてはいませんが同じように山に隠してあるのでしょう」
確かに状況証拠は揃っている。いや、揃いすぎていると言うべきだろう。結論を誘導しているそんな気配を嫌と言うほど感じる。いや、この考えが罠かもしれない。犯人がだれであろうとこっちのことも知っている。こちらの予想を逆手にとってくるかもしれない。
——なかなか厄介なことをしてくれるね。
セリルは思わず口角を上げる。
「先生? 何を笑ってるんですか? 今はそんな気色の悪い顔してる場合じゃないですよ」
「相変わらず辛らつだねー。でも、仕方ないでしょ? こんな生徒の成長を感じられる作戦を目にするとさ」
「……結論を言ってください」
じっとりとした目をコトノハはセリルに向ける。不満がありありと浮かんだ目だ。
「分からない!」
「は?」
怒気の籠った低い声がセリルを貫く。視線は刃のように鋭く、それだけで人を殺せそうだ。
「そんな怖い顔しないでよ。考えるのをやめたってわけじゃないから。単純に今の要素だけじゃコトノハが考えている死を偽装してマーセルが潜伏していると確定できないってだけ。だって、生徒の中の誰かがマーセルを殺してこの工作をしたかもしれないし、それに……」
セリルは顔をコトノハの耳に近づけあり得る可能性を囁く。コトノハは表情を変えることなく立ち上がった。
「ありがとうございました。有意義な情報を交換できたと思います」
「もう満足したのかい?」
挑発するようなもの言いに反応することなく、コトノハは笑みを浮かべた。普段仏頂面な彼女の笑顔はひどく不気味で感じたことのない悪寒が走る。
「ではお言葉に甘えて『これ』をお願いします」
そう言うと彼女は四つ折りの紙を回転させて投げつけてくる。受け取った紙には面倒な注文が書かれていた。
「明後日、街に行かれますよね? お願いしますね、先生」
それだけ言い残すとコトノハは部屋を後にした。まったく、我儘な子たちだ。
——でも面白くなってきたな。
セリルは懐に注文書をしまうと再び眠りについた。
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