椿
鶴に言われた通り南に向かって泳ぎ続ける。
大して変わり映えしない墨の景色はなぜか飽きることはなかった。
白い椿に会ってどうしたいのだろう。
不思議なもので頭でそうは思ったのに別に疑問ではなかった。
会うだろう? 普通のことだ。
水面から顔を出しながら動くたびに小さな波紋をうねらせてみればこの何もない世界が少しはマシになる気がする。
そういえば潜ってみようか。
ふいに全身を水に沈めてみれば顔を出していたときよりもっと早く泳げることに気が付いた。
水は重たいもののはずなのに私はそれを切るようにビュンビュン進んでいける。
ヒレの動かし方一つ、また早くなった。
ついつい楽しくなってしまったけれどこれでは白い椿を見逃してしまう。
慌てて私は上昇した。
通り過ぎてはいないだろうか?
確かめる術などないのでまだだと信じてまた泳ぐ。
このまま泳ぎ続けてそのうち世界を一周してしまうのではないだろうか。
そう思い始めた頃、真っすぐ向こうに水から飛び出た山の一部が見えてきた。
洪水前はとても高い山の頂だったのかもしれない。
近づいていくとその頂から一本の枝が生えている。
木ではなく枝が直接生えていた。
その枝の一番先。
いたいた。
「魚? 気持ち悪い」
開口一番なんてことを言うんだ。
曲げるへそはないのでわざと大きく跳ねて水しぶきを浴びせてやると白い椿は悲鳴を上げた。
いい気味だ。
「なんてひどい魚。裁判で捌かれてしまえばいいのに」
それはジョークか?
あまりに下手すぎる。
だいたい最初に酷いことを言ったのはそちらだ。
悪いのは白い椿のほうだ。
「水しぶきをかけるのは悪くないとでも? どちらが先かで善悪が決まるわけがない」
顔があるわけではないが仏頂面で言い放つのが分かった。
どちらが先かは重要だろう。白い椿が酷いことを言わなければ私は何もしなかった。
やられたから私は自分を守っただけだ。
私は正しい。
「身動きの取れないわたしにあなたは水をかけた。わたしは抵抗できないのに。今度その尾で飛び掛かってこられてもわたしは何もできずに枝から落とされて散ってしまう。立場の違うあなたに正義なんてない」
なんて傲慢な花だろう。
では私は言われ放題で黙っていろと?
私は自分がやられた痛みを返しただけだ。
白い椿だけ何もお咎めがないなんて納得できない。
「痛みを返した? わたしの命が終わってしまうかもしれない仕返しをどうやって同じ痛みだと判断するの?」
それを言ったら最初にそちらが発した酷い言葉で私が死んでいたかもしれないじゃないか。
だから同じだ。
「同じじゃない。後手のやり返しは必ず度を越える」
度を越えたからなんだというのだ。
悪党に与える罰はそのくらいで丁度いいはずだ。
私が受けた痛みの何倍も苦しめばいい。
「怒りで水増しした罰を与えることのほうが罪だ」
繰り返しの押し問答。
この分からず屋はどうしたって自分の非を認めないつもりだ。
受けた痛みは返さなければならないのがどうして分からない。
「何故返す必要がある? あなたが水に流してしまえばわたしが苦しむことはなかった」
私はついに我慢できなくなって白い椿に飛び掛かった。
花ごとボトリと水に落ち浅ましく浮いていたがバシャバシャと執拗に執拗に水面を動かしてやればすぐに沈んでいった。
枝についていた椿はそれ一つだけ。
ここまで泳いできて見つけた花もそれ一つだけだ。
花はとても美しかったのに中身は醜くて咲いているのが腹立たしかった。
美しいまま沈んでいくのも許せないので私は勢いよく潜って花びらをビリビリに千切り取りそれが花だったかも分からないほど無残な姿にしてやった。
間違っているのは白い椿のほうだ。
誰に聞いてもそう答えてくれるだろう。
過ちを認めないならこの結果も仕方ない。
あんなやつは死んだっていいだろう。
死んでしまって構わない。
誰が構うものか。
悪いやつが死んだだけだ。
みんな嬉しいだろう。
悪いやつがいなくなったんだぞ。
酷いやつが苦しんで喜ばしいことじゃないか。
復讐は正しい。
間違っているやつに間違いを突き付けただけだ。
どうして私のほうが痛みを飲み込んでやらないといけないんだ。
おかしいだろう。
途端に凄まじい勢いで水位が上がり始め、わずかに見えていた山の頂もあっという間に水のはるか底に沈んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。