終わりの魚

晏久良 魚月

夢の中で私はただの魚になっていた。

そして南を目指している。

泳ぎながら話そう。




南の魚は洪水を飲み込むんだそうだ。


いつの頃か神さまはその手に抱えた水瓶みずがめをひっくり返してすべての人、すべての地を這う動物、空を飛ぶものに至るまで世界を水の底に沈めてしまう。

海の生き物とて流され溺れる。


でも南の魚だけはあふれた水を飲んでやがて飲み切ってしまうのさ。



バカな神さまだ。

どうしてひっくり返してしまうほど重い水瓶を抱えてしまったのだろう。

それともわざとだろうか?

ぜんぶ沈んでしまった。



南の魚はこぼれた水を飲み続ける。

神さまがこぼすのをやめるまでずっと。



その魚がいるのはずっと南だ。低い星が燃えているのが見える。

星は白にも見えるが色彩のないこの世界で本当は何色かは分からない。



ずっと南、もっと南かもしれない。

まだ南だろうか。


ずいぶん泳いだ。

水墨画のような世界は水ばかりで筆で描いた雲と山の峰がときどき見える。

水は黒いが綺麗だ。

冷たくて寂しい。

水面に顔を出しながらバシャバシャと水音を立ててみても波紋は遠くへ行くばかりで一向に戻ってこない。

このままではきっと私は溺れて死んでしまう。



ふと上を見れば空を大きな鶴が飛んでいた。


おーい、聞こえるか。


声をかけてみれば鶴はパッとこちらを見た。

ゆっくり近づいてくるので聞こえたのだろう。



止まるための枝もないので鶴はバサバサと大きく羽ばたいて空中に留まろうとしていたがすぐに落ちるように着水した。

私はその荒波に飲まれて水中で一回転。

溺れた気分になったが私は魚。大丈夫だった。

比較対象が現れたことで私は自分がずいぶんと小さな魚であることを知った。

いや、相手が大きいのだろうか?


大きな鶴の表情は分からないが何故か笑っている気がした。


「わたしも魚だったら上手く水にとまることが出来たのにまた失敗してしまった。大丈夫だったかい?」


魚だったらそもそも着水するなどという発想はないのでは?


そう言うと鶴は、ああそうか、とまた笑った。

空から水へ入るにはまず飛ぶための羽が要る。

水面に浮かんで休むためには魚ではなく鳥でなくてはならない。


魚は動くのも休むのも水の中だ。

不公平だな。

鳥には空と水の選択が与えられているのに私はここから出ることも出来ないじゃないか。


ああ、鳥が羨ましい。

どうして私は魚なんだ。


「なにを。空など危なくて寂しいだけで何もいいことがない。わたしは羽なんてものを生まれながらに持たされたせいで飛ばなくてはいけなくなってしまった。いったいどこへ行けばいいのかも分からないのに」


贅沢な悩みだ。

行先なんてそのうち考えればいいじゃないか。

どこかへ行きたいと思ったとき羽があったほうがいいに決まっている。


魚より鳥のほうがいい。


「そうかい? 鳥でよかったと思ったことはないが魚の君が言うならきっといいものなんだろう」


鶴は嬉しそうだ。

本当に鳥で良かったと思ったことがないのだろうか。

自由に移動して広大な視野で世界を見るのにこんな優れた個性はないだろう。


「個性なんて要らないと思うけどね。生き方が制限されてしまうよ」


なんにしたって魚よりマシだ。


「そんなことを思うのは魚だけさ。でもわたしも同じだ。鳥でよかったのだと最初から思えていればどこかに止まり木も見つけられたかもしれない。いや、止まり木がないことさえ愛おしく誇らしかっただろう」


鶴はそう言って着水時よりももっと激しく羽をばたつかせると荒波をまき散らして空へを舞いあがった。


「飛ぶ必要もなくただ美しく咲いているだけで価値のある花に嫉妬してこんなことになってしまった。ここから少し南に行くと白い椿がいる。とても綺麗だよ」


飛び去りながら鶴はそう言ってゆっくりと見えなくなった。



南か、もっと南に行かなくては。



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