7話 隣からふわりと香って

 果たして実験は失敗した。


「クソッ・・・・・・」


 俺は唇を軽く噛む。

 ここ最近の実験に費やした時間が無駄になったのだ。

 ここで成功し成果に繋ぐことが出来ていればアルバイトに時間を使うことも出来ただけにショックも大きい。



「調子はどうかね、雪城くん」

「・・・・・・」



 黙々と実験の片付けをする俺の背中に愉悦の混じった声が掛けられる。



「そろそろ成果が出るころだろう? 結果はどうだったのだ」



 教授だ。

 俺は何の用だと目を細めゆらりと振り返る。



「・・・・・・失敗したので結果は得られませんでした」

「ほう、そうかね、学生ならそういうこともあるだろう」



 ふむと頷く教授に胸騒ぎがする。

 長野教授は言葉通り学生を慰めるような人間ではない。

 なじって否定することに喜びを感じるような人物だ。

 真面目くさった顔で教授が言う。



「ではもう一つのプロジェクトは? そちらもそろそろ結果が出るころだろう」

「―――――」



 心臓を乱雑に掴まれたような感覚に襲われる。

 穴が空いたように止まった思考は何の言葉も吐き出せない。



「うん? どうかしたかね。複数の研究を同時並行で進めるのは研究者の基本だろう?」



 教授の口角が吊り上がっていることに今更気づく。



「・・・・・・まだ手を付けられていません」

「君は卒業する気があるのかね? 成果を出さなければ卒業させないと私は再三忠告しているだろう? なのになぜそのための努力をしない?」



 睨むように教授が目を細める。



「・・・・・・」

「いいか? これは善意の忠告だ。卒業したければ私に従うことだ」



 卒業を盾に研究を強いる教授に俺は反論する言葉を持たず、ただ去っていくその背中を睨むことしか出来ない。

 俺に取りうる手段は既にない。

 新たに研究を進める時間的余裕などないのだ。

 実験は既に限界まで効率を突き詰めて行っているし改善の余地はない。

 つまり教授に従いたくとも従えず、卒業できないと言うことである。

 ・・・・・・だがそれはアルバイトの時間を削らなければ、の話である。

 アルバイトに費やしていた時間を研究に使えば実験を追加で複数行うことが出来るようになるし成果も出るだろう。

 あるいはイベント開催のために忙しい今だけは教授を無視してアルバイトに注力し、その後研究に割く時間を増やすことも出来る。

 しかし俺はアルバイトよりも研究を優先するなんてことはしたくない。

 妥協できないしするべきではない。

 たびたび思考をかすめる留年という二文字を無視しながら、アルバイト中も打開策を探るが何も浮かばない。

 気づけば深夜だ。

 月光すらも雲に遮られた完全な夜闇の中で今日も研究室の窓からは光が漏れている。

 常と変わらず黙々と実験を進める七々瀬の隣で俺も実験をする。



「・・・・・・」

「・・・・・・っ」



 しかし頭の中は今朝の出来事で満ちており、焦りもあってかミスが多発する。

 疲労もあって徐々に蓄積していくフラストレーションを抑えながら作業を続けていると、ふわりと良い匂いが鼻をかすめ俺の実験器具が左隣へさらわれた。



「それだとサンプルのロスが多くなりますよ。もっと丁寧にしないと」



 ため息混じりに七々瀬はそう言って俺のサンプルを手元に持っていくと、俺の代わ

りに実験を始めた。

 状況が飲み込めず呆けていると、手元にのみ集中し淡々と作業する七々瀬が口を開く。



「代わりにやりますよ、雪城くんの実験」

「え?」



 七々瀬はちらりとだけこちらを見るとため息をつく。



「自分では気づいていないのだと思いますが、雪城くんひどい顔ですよ。目は死んでますし、隈はひどいですし、唇はカサカサですし」

「・・・・・・」



 言われてぺたぺた自分の顔を触るが分からない。

 そういえば似たようなことを白州さんにも言われたな・・・・・・。



「加えて、今日はずっと苦しそうに顔を歪めてときおり頭をかきむしってますし。さっきから実験を見ていましたが手元も危うくて見ていられません」

「いや、でも七々瀬も自分の実験があるだろ・・・・・・?」

「私は別に実験を頑張らなくてもいいですから」



 そんなことを何て事ことのないように言った七々瀬に俺は言葉をさまよわわせる。

 確かに七々瀬の就職先は研究職ではないし、卒業も確定している。

 だから実際俺の実験を代わりに行っても何の問題もないのだろうが・・・・・・。



「雪城くんは寝ててください。少し休むだけでかなり違うと思いますよ」

「や、でも――」

「なら今度バイトで稼いだお金でおいしいご飯奢ってください。それで貸し借りなしです」



 こちらに一切視線を向けることなく話す七々瀬に俺は抵抗しようとするが、止めた。

 七々瀬はこういうときに絶対に譲らないのだ。



「ありがとう、何でも奢るよ」

「楽しみにしてます」



 俺がそう言って降参すると、こちらに一瞬だけ視線を向けた七々瀬が微笑んだ。

 驚くほど綺麗な笑みに数秒俺は心を奪われた。

 それはそうと常識的な範囲のお店でお願いしますね・・・・・・?

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