02  ラプラスの魔

 悪い夢と言われたけど・・・ベッドから落ちた時の痛みはまだ、左手にじんじんと残っている。

 私は差し出された男性の手を右手で取り立ち上がった。


「ありがとうございます・・・」


 とは言いながらも、まだ状況を受け入れられてなくて、ぼうっとしている。

 ひんやりとした黒い床、赤を基調とした壁。床と壁の間に間接照明が有りおしゃれだ。ただ部屋の中は家具が一切ない。バスケットコートぐらいの広さだ。天井は宇宙のように青暗く小さな光が星のように瞬いている。現実感のない風景だった。


「よかったらこれを着て。寒いでしょう?」


 彼は纏っていたローブを私の肩にかけてくれた。人の温かみを感じる・・・ふわっと知らない香りがして、ハッとした。そうだ・・・今の私は部屋着だ。もこもこのロングワンピース。気に入ってはいるがこの格好だけで外出は普段していない。家族以外の人にまじまじと見られるのは恥ずかしい。


「あ、ありがとうございます。お言葉に甘えて、お借りします。」


 声が上ずってしまった。ここは厚意に甘えよう。恥ずかしくて彼の顔から目を逸らしてしまった。気遣い検定1級のお兄さん、ありがとう・・・。


「不安だよね?君の現状を説明するよ。部屋を移動するからついておいで。」

「―――!はい。わかりました。」


 慌てて彼の後を追う。部屋は廊下を出て向かいだった。病院や研究施設のような廊下で、各部屋の入口の上部にプレートが付いている。人の往来も少しは有るが、みんな似たようなローブを身に纏っていた。


『ラプラスβベータ 研究室』と書かれた部屋に通された。


 木製の黒い扉を開けると、部屋には応接用のソファーとテーブルが並んでおり、その奥には重厚な作りの木製の机と茶色の革張りの椅子があった。先ほどの部屋とは違いここは人間の存在を感じる。壁面には本がたくさん詰まった本棚。棚にはうさぎの置き物が飾ってある。机の上には数枚書類があった。


「ここに座って待っていて。今お茶と資料を持ってくるから。」


 彼は私にソファーを勧めて、優しく笑うと部屋から出て行った。

 私は言われた通りぽつんと座っていた。不思議な所だ・・・

 コンコンコンと軽くノックが有り扉がガチャリと開いた。


「失礼します。あ!居た!!あなたね。」


 女の子がドアからひょっこり現れ、嬉しそうに話しかけてきた。

 いちごミルク色の髪に、ぱっちりとした目と紫色の瞳が印象的な小柄な可愛い子だ。どうやら腕に何か抱えている。彼女は部屋に入りドアを閉めると小動物の様に、私に向かって近寄ってきた。座る私のすぐ傍に到着すると、神秘的な紫の瞳で見つめられる。パーソナルスペースが近い・・・小動物が人に興味を持って観察しているような光景だ。見透かされそうでドキドキする。


「ここ寒いでしょう?そのローブも男物で重いからこれを使って!あとこの靴もよかったら・・・あ!この靴、サイズが合わなくて履けなかったやつだから。両方ともあげるわ!―――わぁ!呼ばれちゃった!行かないと。じゃあ気を強く持ってね!ファイトぉぉ。」


 ファイトぉぉとこぶしを振り上げ、手を大きくぶんぶんと私に向かい振りながら、嵐のように彼女は去って行った。お礼を言う隙も与えてくれなかった。

 何だったのだろう?でも、彼女も気を配ってくれたようだ。初対面の私への優しさに、心が温かくなる・・・。感謝しながら、彼女がくれた群青色のローブを纏い、茶色の革靴を履いた。両方ともサイズがぴったりだ。感動していると、またノックが鳴った。


「入るよ。――やぁ!待たせてしまったね。コーヒーをどうぞ。これ砂糖とミルクね。ミルクは多めが好きだったよね?―――ああ、ピンク頭の騒がしい奴が来たかい?服と靴ちょうど良さそうでよかった。」


 ――コーヒーはありがたい。ミルクは多めに入れて飲むのが好きなので嬉しい。なんで知っているのだろう?この人、私の事知っている・・・?

 彼はそれらをテーブルに手際良く置き、向かいのソファーに座った。

 私はコーヒーにミルクを混ぜ、彼と話した。


「コーヒーありがとうございます。頂きます。―――はい!可愛い子が来ました!お礼言いたかったのですが、言う前に慌てて部屋から出て行ってしまわれて・・・そうだ!お兄さんからお借りしていたローブもありがとうございました。」

「ははは!可愛い子か・・・相変わらずせわしい奴で申し訳なかった。お礼なら僕から伝えるよ。彼女呼び出されて出掛けたみたいだし。可愛い子って言われただけでも、お祭りみたいに喜ぶよ。」


 彼はローブを受け取りながら悪戯っぽく笑った。彼らのおかげで止まっていた私の時間が動き出した。


 ―――さて


「君がここに居る理由だけど・・・。」


 本題が始まった。

 さっきまでの笑顔が煙のように消えて、彼は真剣な眼差しで話し出した。


「君は異世界転生や異世界転移っていう話を知っているかい?」


 突拍子のない話に眉をしかめる。―――え? 異世界?

 もしや・・・ドッキリではないのか?私、騙されている?動画の企画か何かかも。とりあえず話に乗ってみて様子を伺う。


「はい、小説やゲームの題材になる、現実とは違う世界で生まれ変わったり・・・飛ばされたりという」

「そう・・・君は今、異界転移している。夢ではないんだ。」

「あの・・・元居た世界には帰れないのでしょうか?家族や友人に心配かけたくないので。」


 そうだ、ゲームもまだ終わってない。続きを進めたい。


「残念ながら・・・。君はとある奴にさらわれたんだ。僕たちは偶然それを見つけて、奴から君を奪い取った。そいつはとても厄介で、世界から君という概念だけを切り取って存在ごと攫う奴なんだ。だから元の世界に戻って誰も君の事を覚えていない・・・。存在が無いことにされてしまっている。それに・・・奴は君に執着している。だから元の世界に戻ってもまた攫いに来るだろう。」


 ・・・誰も私の事を覚えていない。帰る場所がない。


 彼はすまないと悔しそうに首を横に振った。言っていることは現実離れしているが、演技にしては迫真過ぎる。映画かドラマを見ているようだった。


「奴は標的にマーキングする。君の左薬指の指輪がそれだ・・・。」


 指輪?私は普段アクセサリーを着けていない。ハッとして左薬指をみた。ぶつけて痛いと思っていた箇所に黒い指輪がはまっていた。取ろうとするが、指に吸い付いて動かない。いつの間に着けられたのだろう。私は気を失っていないし、左手は誰にも触られていない。気持ち悪い・・・


 本当に奇妙なことになった。不気味で取れない指輪を見て、異世界に来てしまった実感が湧いた。涙が出そうだった。いや、ぽろぽろとあふれてきた。悪夢だ。誰よ、こんな事をしたの。何で、私なの?・・・


「君を攫ったのはケイオスと呼ばれている、僕達の敵だ。奴は様々な異世界を乱し壊して遊んでいる。狂った奴だ。ケイオスは君を花嫁候補としてマークした。奴は繁殖のために君を攫って弄び、用が済んだら最後は命を奪うつもりだ。過去にも事例がある。」


 背筋が凍った。弄んで命を奪うとか、絶対にお断りだ。

 左の薬指に初めてつける指輪がこれって・・・最悪。


「可能ならこの世界で君を最後まで守りたいが、残念ながら守りきれない・・・。奴がここに来る前に別の世界に逃がすのが精一杯なんだ。僕が君を奴から奪ったことはバレている、奴がここに来るのも時間の問題だろう。」


 私は涙を拭って天を仰いだ。落ち着こう。


 よくわからないけど、命を狙われているから、更に異世界に逃げろと。展開が急だな。唇をぐっと結んで、お兄さんを見つめた。そうだ・・・私はこの人たちを知らない。


「すみません・・・お兄さんって・・・誰ですか?どうして私を助けてくれたの?」


 彼は一瞬驚いて動きを止める。聞いてはまずかったかな?彼はまた、悲しそう優しく微笑む。


「・・・そうだったね。紹介が遅れてごめん。僕はβベータと名乗っている。僕も異世界転移者だ。元々、君と同じ日本に住んでいた。だから同郷の人は放っておけなくてね。今はこの世界で『ラプラスの魔』という集団に属していて、異世界転移・転生予定者に対して転移先の仲介や紹介斡旋あっせんをしている。」


 ――――仲介や紹介斡旋。急に現実で聞いたワードが出てきて涙が引っ込んだ。

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