第6話 ドッペルの憂鬱





孝一郎は車を走らせ、愛人のあおいを住まわせているマンションに向かっていた。

普段は週末にそのマンションへ行く事は無いが、今日は特別だった。

娘の涼香の事で街の事を良く知っているあおいから、自分なりに何か情報を得る事が出来ればという気持ちからだった。

妻の涼子との関係は冷めていたが、娘は娘なのだ。

その娘が酷い目に遭っていた事は腸が煮えくり返る思いだった。


孝一郎は車をマンションの地下にある駐車場に滑り込ませ、助手席に乗せたバッグとDVDを取った。

その時、孝一郎の車をノックする音が聞こえたのでゆっくりと音のする窓の外を見ると、そこには妻の愛人である有山隆文が立っていた。






あおいはショウジの電話を鳴らしていた。

先程から何度も何度も鳴らしているのだが、一向に出る気配が無かった。


「まったく…また寝てるんじゃないでしょうね…」


あおいはブツブツと文句を言いながら苛立っていた。

週末に来る筈の無い、孝一郎が突然来ると言って来た。

週末に売春斡旋の仕事をしている事を孝一郎に知られる訳にはいかなかった。


「もう。何やってるのよ」


あおいは下着姿のまま携帯を持って部屋の中を歩き回る。

ビデオを撮り、そのビデオで脅している女に数人、客を付けているのだ。

その女から金を受け取る必要が有り、そんな女にこの部屋に来られると厄介な事になる。

その代わりをショウジにして欲しかった。


「もう…ショウジ…」






孝一郎は車を降りて隆文の後ろを歩いた。


「何だ。こんなところまで…」


隆文の背中を孝一郎は睨んだ。

隆文は答えず、ただ孝一郎の前を歩く。


「何かわかったのか…」


孝一郎は更に隆文に訊いたが、隆文はやはり何も答えなかった。

昼間と感じの違う隆文に戸惑いながら孝一郎は隆文を追う様に歩いた。


「何か言ったらどうなんだ」


とうとう孝一郎は立ち止まり声を荒げた。


「不愉快だ。いい加減にしたまえ」


隆文は立ち止まり、ゆっくりと孝一郎の方を振り返った。

孝一郎は隆文の顔を睨むように見ると来た道をあおいのマンションの方へと戻り始めた。


「あんたにそのDVDを送ったのは俺だ」


今度は孝一郎の背中に向かって隆文が言った。

その言葉に孝一郎は立ち止まり振り返る。


「何だと…」


孝一郎は隆文の傍に歩み寄った。


「ではこのDVDの出元も知ってるんだな…」


孝一郎は隆文の胸元を掴んだが、隆文はそれでも顔色一つ変えずに首を鳴らした。


「一体誰なんだ。娘を…涼香をこんな目に遭わせたのは…。教えてくれ…」


孝一郎は声を震わせながらそう言って隆文を見た。


「アンタが今から行く部屋の奥のクローゼットを見てみろ」


「あおいの部屋のか…」


孝一郎は隆文の胸元から手を放し、呟いた。


「あおいが関係していると言うのか。何故だ…」


隆文は答えずに何も無い空を見ていた。

孝一郎は苛立ち、手に持ったDVDをアスファルトに叩き付けた。

ケースは割れ、中のDVDが飛び出し、そのDVDを何度も何度も子供の様に踏みつけた。

DVDは二つに割れたが、それでも孝一郎は一心不乱に踏みつけ続ける。

そして息を切らして我に返ると、ゆっくりと隆文を見た。


「どうしてお前はそんな事を知ってるんだ」


孝一郎は隆文の前に立ち詰め寄ったが、隆文はやっぱり答えなかった。

そして隆文は孝一郎を押し退ける様にして歩き出しだ。


「おい待て。お前は一体何者なんだ…」


その言葉に隆文は立ち止まった。


「俺は俺だ」


そう言うとまた歩き出した。

去りゆく隆文に孝一郎は大声で訊く。


「なあ…教えてくれないか。涼香をこんな目に遭わせたヤツ…。俺がこの手で殺してやりたい…」


「それが知りたきゃ、女に訊けよ…」


隆文は口元を歪めて笑った。


「それに…」


隆文は振り返り、孝一郎を見てニヤリと笑った。


「あんたはその手を汚せないだろう。そんな根性もない。いい加減な事を言うな…」


隆文はそう言って街の雑踏の中に消えて行った。

その後ろ姿が見えなくなるまで孝一郎は隆文の背中を見ていた。

誰も居なくなった路上から割れたDVDを拾い、顔を歪めながら更に小さく割り、茂みの中に放り投げた。


「あおい…」


孝一郎はそう呟くとあおいのマンションの方へ歩き始めた。






ケンイチはショウジの携帯が鳴っているのに気付いて、ショウジの肩を叩いた。

ショウジは姉のリョウコと隆文との話に夢中だった。


「何だ…」


「鳴ってるよ…ケータイ」


ケンイチはショウジにそっと携帯を渡すと液晶画面にはあおいの名前が表示されていた。


「ちょっと失礼します」


ショウジはそう言うと店の表に出た。


「何だ…。何かあったのか」


ショウジは迷惑そうな表情で言った。


「良かった。やっと出たわね…」


あおいはイラつきながら言う。


「どうしたんだ。こっちも立て込んでてな」


「何か今からオヤジが来るらしいのよ。悪いけど今日の子たちお願い出来るかな…」


ショウジは少し無言で考え、店の中を曇った窓越しに見た。


「わかった。皆に俺に連絡するように連絡、入れておいてくれ…」


そう言うと電話を切った。

厄介な事だった。

女たちは仕事が終わると金を持って店に来る事になる。

普段はあおいのマンションのエントランスであおいに金を渡す事になっていて、その金をショウジは週明けに取りに行っていた。


「まあ、なるようになるか…」


そう呟くと携帯をポケットに入れて店の中に戻った。


「何かあったのか…」


店の中に戻ったショウジにケンイチは訊いた。


「いや…何でもない」


ショウジはそう言うとカウンターの中に戻った。

ボックス席に居た客はさっき帰って行った。

リョウコと隆文さえ帰してしまえば、ケンイチも帰らせて、一人で店に居る事が出来る。

ショウジはそう考えた。


「姉貴、今日は仕事じゃないのか」


ショウジは酒が並ぶ棚にもたれてリョウコに訊いた。


「今日は休みよ」


リョウコはもう酒を控えてジンジャーエールを飲んでいた。

これ以上酔われるとまずいという隆文の配慮だった。


「何か眠くなってきたな…」


リョウコはそう言うと奥のボックス席へフラフラと歩き、横になった。


「おい。姉貴…そんなところで寝ると風邪ひくぞ…」


ショウジはリョウコを起こそうとカウンターを出て、寝ているリョウコの肩を取り、起そうと揺さぶるが完全に寝入ってしまった。

ショウジは溜息を吐いて、


「有山さん、すみません。こんな姉貴で…」


そう言うと頭を下げた。

隆文は何杯目かのバーボンを飲みながら、微笑んだ。


「いいさ…。よほど楽しかったんだろう。前から弟の店に一緒に行きましょうってうるさかったんだから…」


隆文は眠るリョウコを眺めながら言った。


「そんな事より、君たちも飲んでくれよ…」


隆文はショウジとケンイチに酒を勧めた。


「頂きます」


ケンイチが元気良く言った。


「あー。ケンイチ。今日はもう良いから上がってくれ…」


ショウジははしゃぐケンイチに言う。


「え…」


ケンイチはグラスを手に持ったまま動きを止めた。


「いいのか…」


「いいよ。お前もここのところあんまり休めて無いだろう…。今日は暇だからゆっくり休んでくれ…」


ショウジはケンイチに微笑む。


「そうか…。じゃあ、そうさせてもらうよ」


ケンイチはカウンターの中に置いてある自分の荷物を取り、グラスを元の位置に戻した。


「久々に俺も飲んで来るよ…」


ケンイチはニコニコとショウジに微笑んだ。


「じゃあ、有山さん。お先に失礼します」


ケンイチはそう言うと店を出て行った。


店の中は静まり返り、静かな音楽だけが流れていた。

隆文にもショウジにもチャンスだった。

目的はまったく違う二人。

二人は黙ってお互いを見つめた。


「どうしたんですか…有山さん。何か怖い顔してますよ」


ショウジは自分のグラスにコーラを注ぎ、そのグラスを隆文の前に置いた。


「頂きます」


そう言うと隆文のロックグラスに軽く当てた。


「沖中…正二君。だったね…」


隆文はグラスの縁を指でなぞりながらショウジの名前を呼ぶ。


「はい…」


ショウジはコーラの入ったグラスを口に付ける前に止め、不思議そうな表情で隆文を見た。


「実は知ってるんだよ…。君たちのやってる事…」


隆文は下からショウジを覗き込む様に見ながら言う。


「やってる事…ですか」


「ああ…」


「何の事でしょうか…」


「とぼけなくてもいいさ」


「よくわかりません」


二人は相手の言葉にかぶせる様に声を発する。

その口調は徐々に強くなった。


「さっきのDVD。あれがそうなんだろう…」


隆文はグラスを口に付けた。


「デスメタルのDVDですか…」


全部知っている…。


ショウジはそう思ったが、シラを切り通すしか無かった。


「良いんだよ…。俺は君たちをどうこうしようと思ってる訳じゃない」


隆文はグラスをコースターの上に置いた。


「どちらかと言えば、君たちを救いたい。そう思ってる」


「おっしゃってる意味がまったく…」


ショウジは初めてそこでコーラのグラスに口を付ける。


隆文は一度深く息を吐いた。


「俺が見たDVDにはそこの席が映っていた」


隆文はリョウコの眠るボックス席を指さした。


「酷いDVDだった…。何時か天罰が下る。それもそう遠くない将来…」


ショウジはその言葉にピクリと動いた。


「そうか…知ってるんだ…」


ショウジはコーラのグラスをカウンターに置いた。


「ああ…」


隆文はタバコを咥えると、そのタバコの前にショウジは火を差し出した。

隆文はチラリとショウジの顔を見てタバコにその火を移した。


「金ですか…」


ショウジはライターを引っ込めながら言う。


「そんなモンはいらん…」


隆文は細く煙を吐いた。


「じゃあ何が目的で…」


ショウジもタバコを咥えて火を点けた。

隆文はじっとショウジの顔を見た。

よく見ると、リョウコにも似ている端正な顔つきだった。


俺はこの男を助けようとしている…。


隆文はそう思うと可笑しかった。

罰せられて当然の男なのだが、それを隆文は何故か助けようとしているのだ。


「君たちが撮った子の中に、ある有力者の娘が居る。その有力者は裏の世界とも繋がりが有る。そして、もうすぐ君たちに辿り付く。すると裏の世界の力を使って君たちに復讐するだろう…」


隆文はタバコの先を赤く燃やした。


「その有力者に頼まれてここへ…」


ショウジは微笑んだ。


「それもある。しかし俺はそんな事を報告しようとは思ってない。復讐なんて馬鹿みたいな話だ。忠臣蔵じゃあるまいしな…」


隆文は灰皿でタバコを揉み消した。


「そんな事をして犯罪者を増やす事もなかろう」


そう言うとショウジを見て口元を歪めた。


「俺にどうしろと…」


ショウジは黒薔薇のボトルを持ってカウンターから出て来た。

そして隆文の横の席に座り、少なくなった隆文のグラスにバーボンを注いだ。


「それは自分で考えろ…。姉さんを悲しませずに済む方法をな…」


隆文は眠るリョウコを見た。


しばらくの沈黙があり、二人の息遣いだけが聞こえる様だった。


「そんなの無理ですよ…」


ショウジは自分のグラスのコーラを一気に飲み干し、その空いたグラスにバーボンを注ぎ、それも一気に飲み干した。

隆文は身体をショウジの方に向けた。


「いいか…。確実に殺されるぞ」


隆文は声を荒げて言う。


「お前が敵に回した男は手段を選ばない男だ」


隆文はショウジの細い肩に手を乗せた。


「それだけの事をして来たんです…。殺されても文句は言えません」


ショウジはそう言って微笑んだ。

ある意味覚悟を決めたショウジに隆文は息を飲んだ。

そして、ショウジの罪の意識は、隆文がずっと抱えていたモノに似ている事に気が付いた。

会社を潰し、社員を路頭に迷わせ、取引先に蔑まれ、平本の様に全ての人が自分を憎んでいる。

そう思っていた。

このショウジも同じなのだろう。

罪を犯し続けながら、仲間など居ない。

世の中の全てが敵だと考えている、それが痛い程伝わって来た。


隆文の目から自然と涙が溢れ頬を伝う。


「有山さん…」


ショウジはその涙に気付いた。


「悪い…何でもない…」


隆文はそう言うと体をカウンターの方へ戻しグラスの酒を一気に飲み干した。


「今日は帰るよ…」


隆文は静かに言うとグラスを置いた。

ショウジは立ち上がり、隆文に深々と頭を下げた。

隆文はそのショウジに頷くと立ち上がり、ボックス席で眠るリョウコの傍に立った。


「リョウコちゃん…。帰るよ…」


隆文はリョウコを起こそうとすると、リョウコの目から涙が流れている事に気が付いた。

それがショウジにばれない様に、リョウコの耳元で囁く。


「ショウジ君に気付かれない様に…」


リョウコはソファに一度顔を伏せ、涙を拭いていた。


「もう帰るんですか…」


リョウコは酔った様な顔を作りソファに座った。


「ああ…俺も飲み過ぎたからな…」


隆文はポケットから一万円札を出してカウンターに置くと、ショウジはその金を取り、隆文に差し出した。


「今日は俺のおごりです。姉貴の面倒見て頂いてますし」


ショウジは前髪を直しながら笑っていた。







「どうしたのよ…パパ。今日は平日じゃないのに…」


あおいは玄関に立つ孝一郎に言う。

孝一郎は下着姿のあおいを尻目に、ズカズカと部屋に入りソファに座った。


「今日は会いたい気分になったんだよ…」


そう言うと上着を脱いであおいに渡した。

あおいはその上着をハンガーに掛け、キッチンに向かった。

孝一郎はいつもあおいの部屋に入ると一番に冷たい烏龍茶を飲む。

ペットボトルの烏龍茶をグラスに注いで孝一郎の前に置いた。


「ああ…ありがとう」


孝一郎はあおいに礼を言うとグラスの烏龍茶をいつもの様に一気に飲んだ。


隆文と対峙して話した後で、喉はカラカラだった。


隆文と話した後、あおいの部屋に来るまで何分かかったのだろうか、孝一郎には物凄く長い時間に感じられた。

実際には数分だったのかもしれないが、それだけ足取りは重かった。


涼香のレイプビデオにあおいが関わっている。

隆文に聞いたその話が脳裏から離れず、隆文の言っていた奥の部屋のクローゼットが気になっていた。

あおいの部屋は孝一郎の会社が社宅として借りていたのだが、この部屋を色々と物色する事はなかった。


「どうしたの…怖い顔してるわ…」


あおいは孝一郎の前に座った。


「疲れているのかもしれん…」


孝一郎はソファの横になった。

その孝一郎に跨るようにあおいは座ると、首からネクタイを優しく抜き取った。

若いあおいだが孝一郎の愛人になって数年が経っていて、孝一郎の扱いはお手のモノだった。

ネクタイを取るとワイシャツのボタンを手際よく外していった。


「着替え取って来るね…」


あおいはそう言って奥の部屋へ向かった。

チャンスだった。

あおいは奥の部屋のクローゼットを開け、孝一郎の着替えを出している。

今、そのクローゼットの中を覗けば、隆文が言っていた事が正しいのか間違っているのかが判る。

しかし孝一郎の体は動かなかった。

怖かったのだ。

愛人とは言え、数年の月日を一緒に過ごして来た少女だった。

その少女が自分を裏切る様な事をしている。

そんな事を考えると怖くて簡単に確かめる事は出来なかった。


着替えを持ってあおいは孝一郎の傍に戻って来た。

あおいは孝一郎のベルトを外し、ワイシャツのボタンを全部外した。

そして慣れた手付きでソファに横になる孝一郎を着替えさせた。


孝一郎はあおいの部屋の天井を見つめていた。

あおいもいつもと様子の違う孝一郎に少し戸惑っていた。


「何か食べる」


あおいは孝一郎の顔を覗き込みながら訊く。


「いや…いい」


あおいは孝一郎にキスをした。


「シャワーは…」


「それもいい…」


孝一郎は突然ソファから起き上がり、下着姿のあおいを抱きしめた。


「どうしたの…パパ。今日は何かいつもと違う…」


孝一郎に抱きしめられながらあおいは言った。

孝一郎はあおいの胸に顔を埋めた。


「しばらくこうしててくれ…」


あおいはそんな孝一郎の頬を包む様に抱いた。

孝一郎の目から自然と涙が溢れ、その涙はあおいの胸を伝った。






森野は隆文を襲った高架下で膝を抱えて震えていた。

野村の返り血は公園のトイレで洗い流し、羽織ったジャンパーに付いた血はそんなに量も多く無く、目立たない事を確認した。


「馬鹿にしやがって…」


無意識に何度もそう呟いていた。

何故その場所に来たのか、森野自身にもわからなかったが、ただ何処かに身を潜めようと考えた時にその場所を思い付いた。


今頃、野村の死体は発見され警察に通報されているだろう。


そう考えると森野の脳裏には苦痛に顔を歪めた野村の姿が蘇って来て、その光景は何故か恐怖より怒りを奮い立たせた。


この狭い街の出来事だ。

すぐに警察は動き出し自分は捕まる。


森野はそう考えると心が踊った。


一分でも一秒でも長く逃げてやる。


物音がする度に体を震わせて辺りを見回した。

意識の中に恐怖心は無かったが、心の奥底にそれは有ったのだろう。

今は、森野の思考は恐怖よりも怒りが確実に前に出ていたのだった。

森野の横にはタオルに巻いた果物ナイフが置いてあった。

今でも野村を刺した時の感覚が手から消えず、森野は自分の両手を開いて見ていた。


「絶対許さない…」


森野の手は震えていた。






隆文はリョウコと帰り道を歩いていた。

タクシーに乗ろうとリョウコに言ったが、リョウコは歩きたいと言い、歓楽街から隆文のアパートまで酔った足で半時間程かかる道のりをゆっくりと歩いていた。

その間、二人は無言で白くなり始めた息を吐きながら静まり返る街を横目に歩いた。


隆文は道の傍に光る自動販売機に金を入れ、温かい缶コーヒーを買った。

取り出し口に落ちて来た缶コーヒーをリョウコに渡すと、再び金を入れて自分のコーヒーを買う。


「ありがとう」


リョウコは両手でその缶コーヒーを握り、両手を暖めた。

隆文は自分のコーヒーを取り出し口から取りながらリョウコに微笑んだ。

そして二人は、再び歩き始めた。


「済まんな…嫌な思いをさせたな」


隆文は静かな街に溶け込む様な声で言うと、リョウコは無言で下を向いて、首を横に振った。

隆文はその様子を見て、缶コーヒーを開けた。


「でも…事実なんだよ」


隆文は呟いた。


「はい…。わかってます」


リョウコは空に向かって白い息を吐いた。


「今は、自分の中で整理が付かなくて…」


じっとリョウコを見る隆文は小さく頷いた。


誰も居ない道のアスファルトを二人の靴音だけが支配していて、たまに遠くに光るヘッドライトが二人を照らし出す暗い道だった。


「そうだよな…」


隆文は缶コーヒーを飲んだ。

リョウコは少し足早に歩き、


「この上の公園。行ってみませんか」


都会の中にある公園に登る階段を差した。

そしてニッコリと微笑み、駆け上がる様に石の階段を上って行った。

隆文もその後を追う。

少し高台になった公園は、ベンチが有るだけの質素な公園だった。

隆文も久しぶりにその公園に来た気がした。


その公園のベンチに二人は座った。


隆文は自分の横に缶コーヒーを置いて、タバコを吸った。

リョウコは両手で缶コーヒーを握りしめているままだった。


「この街…俺は好きなんだよ」


隆文は遠くに、近くに続く夜景を見て呟く。


「色々なヤツが居る。良いヤツも悪いヤツも。そしてその良いヤツに使われるヤツ。悪いヤツに騙されるヤツ。そんなヤツらが大勢居る」


隆文はタバコの煙を吐くと、リョウコはその隆文の横顔をじっと見ていた。


「街には必ず、そんなヤツらが揃っている。そうでなければ街は成り立たない。俺はそう思うんだ」


リョウコも隆文の視線の先を追った。

すぐ近くに海の迫る街で背中にはすぐに山がそびえる。

リョウコもこの街が好きだった。


「街で生きて行くには、自分の弱さに勝つ事の出来る心を持つ事」


隆文は自分の胸を親指で差しながら言う。


「ショウジ君はそれに負けただけだ」


リョウコはその言葉に立ち上がり、公園の縁まで歩くと、手摺に手を突いて街を眺めた。


「有山さん」


突然、リョウコは振り返った。


「ん…」


隆文はタバコを地面に落して靴の先で踏みつけ、ゆっくりとリョウコに歩み寄った。


「どうしたの…」


隆文がリョウコにそう訊くよりも早く、リョウコは隆文の胸に飛び込む。

リョウコは隆文の胸に顔を埋め、動かなかった。


「しばらくこのままで…」


リョウコはそう言った。

隆文は微笑み、リョウコを優しく抱いた。

リョウコは泣いていて、隆文はその涙でシャツが濡れるのを感じた。


隆文はふと公園の下の線路沿いの道を見た。

その道をフラフラと歩く森野が居た。


「森野…」


隆文は無意識に呟いた。


「え…」


リョウコには聞き取れなかったのだろう。

ピクリとリョウコは動くが、隆文はそのリョウコを抱いたまま、


「いや…何でもない。…何でもないんだ…」


そう言った。






ショウジは店のカウンターに座り、隆文にもらったライターの火を何度も何度も繰り返し点けていた。


あの人は本気で俺の事を考えてくれていた。


ショウジは隆文の表情を思い出して、そう思った。

もう自分の事など真剣に考えてくれる人などいないと思っていた。

ショウジ自身も、このまま女を泣かせながら生きて行こうとは思っていなかった。

いつかはそれを辞め、真っ当に生きて行きたい。

日々それは考えていたが、既に黒く染まり過ぎてしまっていた。

その黒い世界にはヤクザも居て、簡単に辞めてしまう事など出来ないのかもしれない。


ショウジはライターをカウンターの上に音を立てて置いた。

溜息を吐いて、カウンターの上に有ったバーボンのボトルを開けて、自分のグラスに注ぐ。

目の前に置いた携帯が鳴った。

相手は売りをやらせているOLの女だった。


「はい」


ショウジは電話に出た。


「タカコです。終わりました」


女は元気な声でそう言った。


「そうか。ご苦労さま。今から店に来てくれ」


「わかりました」


ショウジは電話を切った。

静かな店の中をショウジはじっと見回した。

あちらこちらが傷み、掃除も行き届いていない事に気付く。


「掃除してやらなきゃな…」


ショウジはバーボンのグラスを手に取り、口を付けた。

立ち上がり、カウンターの奥からノートパソコンを出して来て、そのパソコンを開いて電源を入れる。

液晶画面が青白く光り、ショウジの顔を照らし出す。

画面を見つめるショウジの瞳は真剣な眼差しだった。

画面には今まで、この店で撮影した女たちの映像が並んでいた。


「沼田貴子か…」


ショウジがそのファイルをクリックすると、何の変哲もないOLの貴子の音の無い映像が流れ始めた。

ショウジがいつもビデオを回し、ケンイチとアキラが女たちをレイプする。

その映像をショウジは黙って撮り続ける。

ショウジはタカコを撮影した日を思い出していた。






嫌がるタカコは店の入口へ半裸の状態で走って行った。

しかし、それをアキラは力づくに店の中へ押し戻す。

酔った女だが、それでもいざという時にはかなりの力を発揮する。

そのタカコの手を縛り、ケンイチは下半身を開かせた。

その光景をショウジは無表情なままカメラを回し続ける。

そのタカコは抵抗を諦めたのかカメラを回すショウジを睨む様にしっかりと見ていた。

そのタカコの表情は今もはっきりと覚えている。


ケンイチとアキラはあらゆる罵声でタカコをいたぶり続けた。

それでもショウジはビデオを回し続ける。

タカコの抵抗はそこで終わり、その後はケンイチとアキラにされるがままに、それが終わるのを待つかの様に静かになった。







「ショウジ」


店のドアが開き、タカコが入って来た。

ショウジたちにレイプされた後、このタカコの生活の様子も大きく変わってしまった。

売春の報酬で、生活や金銭感覚も変わり、街の中の高級マンションに引っ越し毎日歓楽街で飲み歩く様になった。

そして、あおいが客を取るとすぐにやって来る。


「お疲れ様…」


ショウジは自分の横の椅子を引いて、タカコを招いた。


「何やってるの…」


タカコはショウジの隣に座り、ショウジの前のパソコンを覗き込む。

そこには忌まわしい自分がレイプされている映像が流れていた。

タカコの表情が一変した。


「やめてよ…」


「そのつもりだ…」


ショウジはその映像を消して、タカコの前でそのファイルを削除した。


「これで終わりだ…」


ショウジは静かにタカコに言った。


「いいの…そんな事して…」


タカコは足を組んでタバコを咥えた。

このタバコもショウジたちがタカコを撮影した後に始めたモノだった。


「ああ…今日で終わりだ…」


ショウジは立ち上がり、カウンターの中へ入った。


「何か飲むか…」


「ああ…うん。ビールちょうだい」


タカコはまだ長いタバコを灰皿で折った。


「かしこまり…」


ショウジはそう言うと微笑み、冷えたグラスにビールを上手に注いだ。


「どうぞ」


ショウジはタカコの前にそのグラスを置いた。


「ありがとう」


タカコは礼を言った。


「いや…ビールくらい…」


「ううん。そうじゃ無くて…ビデオ…」


タカコはショウジに微笑んだ。


「あ、お金…」


タカコはブランド物のバッグから今日の上がりを出して、ショウジに差し出した。


「それもやるよ…」


ショウジはカウンターから出て、タカコの横に戻った。


「何…どうしっちゃったの…」


「別にどうもしないさ…。全部が嫌になっただけさ…」


二人は無言でグラスを口にしていた。


「出回ってしまった女の分は、どうしようもないけど、お前たちの分はここにしか無い。これでお前のビデオは何処にも存在しない。もう自由だ。俺たちとも縁切りだ…」


ショウジはそう言うとタカコに微笑んだ。


ヤクザの高木に渡してしまったDVDの女たちは高木が良い様に使っている。

しかし、その中から数人はショウジとあおいが使い、稼がせていた。

DVDも高木には渡していなかった。


「私さ…。別にこの仕事は続けてもいいよ」


タカコはそう言ったが、ショウジは直ぐに首を横に振る。


「あおいがどう考えてるか知らないけど、俺は抜けるよ…」


ショウジはグラスに残ったバーボンを一気に飲み干す。


「お前も出来れば、辞めた方が良い」


タカコは半分程飲んだビールのグラスを持ったまま、黙っていた。

「売り」が嫌という女に無理に仕事をさせる事もショウジは嫌っていた。

だから「売り」をやっている女は自分も稼ぎたいと考えている女が多いのかもしれない。


「それ飲んだら行け…。そしてもう二度と此処には来るな…。あおいには俺から言っておくよ」


タカコは何度か小さく頷いた。


「わかったわ…」


残ったビールを一気に飲んだ。


「御馳走様」


そう言うと席を立ち、ツカツカと入口へ歩いて行った。

タカコはドアに手を掛けて立ち止まる。


「どうしようと思ってるかわかんないけど…。元気でね。少なくとも、私はショウジを恨んだりはしてないわ…」


そう言って振り返り微笑んだ。


「それ、私からの餞別ね…」


タカコはカウンターを顎で指し出て行った。

ショウジはカウンターのビールのコースターの下に挟まれた金を見た。

今日の売上をそのままタカコは置いていった様だった。

その金を見て、ショウジは微笑む。


「あの馬鹿…」


ショウジは少し清々しい気分になった。






孝一郎は眠ったあおいをベッドに残し、クローゼットを開けた。

あおいのバッグや服、そんなモノが山と積まれていた。


この女にもよく金を使ったモノだ…。


と孝一郎は苦笑した。

そしてそのバッグをクローゼットから出し、奥を見ると、そこには一見メイク用の道具が入っている様なケースが有った。

その箱を取り出し、中を見ると、そこには大量のDVDが入っていた。

孝一郎はクローゼットを元通りにして、その箱を持ってリビングへ移動した。

数十枚のDVDは全て、孝一郎に送られて来たDVD同様に何も書かれていない白いDVDだった。

その中の一枚を出し、孝一郎はDVDプレイヤーに差し込んだ。

テレビは静かに映像を消し、明かりを付けていない部屋を暗く染めた。

そしていきなりそのレイプシーンは始まった。


間違いない…。

同じ場所だ。


孝一郎は映像を見て確信した。

涼香をレイプし撮影した場所で別の女が同じ目に遭っている。

孝一郎は眉間に皺を寄せて大きなテレビを睨んでいた。


もしかするともっと何処かに男たちが映っている映像が有るかもしれない…。


孝一郎はそのDVDを停止し、別のDVDを入れる。

どれも同じ様なアングルで始まるDVDだった。

更に続けて何枚もDVDを取り替えて見る。


そして、ある一枚のDVDに孝一郎は目を止め、完全に言葉を失った。


そのDVDに映っている女。

それは隣の部屋で眠るあおいだった。


涼香同様に無理矢理に犯され、泣きながら抵抗している姿が延々と撮影されていた。


「あおい…」


孝一郎は暗い部屋で呟いた。

その瞬間にリビングの明かりが点いた。

孝一郎は振り返り部屋の入口を見ると、そこには下着姿のあおいが腕を組んで立っていた。


「そう…それは私よ…」


あおいは静かにそう言った。

孝一郎は立ち上がり、ゆっくりとあおいに近付いた。


「どういう事なんだ…教えてくれないか…」


孝一郎はあおいの肩を揺さぶりながら訊いた。






涼子は一人、リビングでお茶を飲んでいた。


出て行った孝一郎は、今日は帰らない。

家には娘と家政婦が居るだけで、夫がうろつく事も無い。

それだけで気が楽だった。

涼子が今、座っている場所は家の中で一番落ち着く所で、高台にある家からは、綺麗な街の明かりが一望できた。

日付けが変わった事にも気付かず、涼子はその明りを眺めながら大好きな紅茶を飲んでいた。


ふと窓ガラスを見ると、涼香の姿が映った。


「ママ…」


涼香が窓辺で寛ぐ涼子に声をかけると、涼子は椅子に座ったまま振り返った。


「どうしたの…まだ寝て無かったの」


「うん。どうせ明日は休みだし…」


涼香はゆっくりと涼子の傍に近寄る。


「私も貰っていい…」


涼香は涼子の飲むお茶を指さした。


「良いわよ。カップ持ってらっしゃい」


涼子は涼香に微笑むと、涼香は自分のカップを持って涼子の向かいに座り、静かにカップに紅茶を注いだ。


「あー。美味しい」


一口飲むと涼香は涼子の顔を見て微笑んだ。


「でしょ…結構高いのよ、この紅茶」


涼子はそう言うとまた窓の外…いや、窓に映る涼香を見た。

涼香自身は酷い目に遭っても、案外平常心を保っていた。

しかし親としては、その娘の気持ちを考えると直視出来ない日々を送っていた。


「ねえママ」


涼香はカップをテーブルに置いた。

その声に涼子はゆっくりと涼香を見た。


「何…」


「パパはアイツらの事、殺すのかな…」


涼子はその言葉にゆっくりと目を伏せた。

孝一郎だけでは無い。

涼子だって殺してやりたいと思っていた。

しかし時が経つにつれて徐々に冷静になって行く自分がいた。

そして隆文に言われた言葉が頭から離れなかった。


復讐は何も生まない…。


確かにそうなのかもしれない。

今は涼香の事を考えてやる事が一番なのだろう…。


涼子は顔を上げる。


「わからないわ…。涼香はどうなの。殺して欲しいの…」


涼子は静かに微笑んだ。


「ううん。そんな事どうでも良いよ」


涼香はそう言うと窓の外を見た。

その涼香の顔を見て、涼子は目を閉じた。


「そうね…。どうでも良いわね…」


「うん。あんな奴ら、どうでもいい。そんな事でパパに犯罪者になって欲しくないし…」


涼香は涼子が考えているよりずっと大人なのかもしれない。

涼子は優しい顔で涼香に微笑んでいた。


「一つ告白してもいいかな…」


涼香はカップを取り、上目づかいに涼子を見て言う。


「女同士の話」


「何よ…。変な子…」


涼子はそんな涼香を見て笑った。


「ほら、ママだって有るでしょ。パパには言えない女の話」


涼子は心臓が鼓動を打つリズムを狂わせたような気がした。


「な、何よ…」


涼子は必死に平然を装う。

女同士、娘と言えど女である。

涼香にはその様子で見透かされている気分になった。


「私さ、別に今回の…初めてじゃないんだ。だから蚊に刺された様なモンでさ…」


涼香はカップを置きながら平然とそう言った。


「もう…、結構経験してるんだよね…」


そんな話を娘としたのは初めてだった。

それどころかこうやって二人でお茶を飲む事も初めてかもしれない…。

涼子は涼香のその言葉に驚きもせずに微笑んだ。


「そうなのね…。最近の若い子は私たちの頃よりも何でも早いわね…」


「あら…ママは遅かったの」


涼香は唇を尖らせた。


「ママはもう少し遅かったかな…」


「ふーん。そうなんだ…」


「何よ…」


涼子は少し怖い顔で涼香を見た。

そして二人で笑った。


「あのね…涼香」


涼子は笑うのを止めた。


「何」


涼香も同じ様に笑いを止めた。


「ママも若い頃に、涼香と同じ目に遭った事があるの…」


涼香から表情が消え、しばらくの沈黙があった。


「そうなんだ…」


「ええ…」


「辛かった…」


「ママの場合はそれで妊娠しちゃってね…」


涼子は涼香から視線を外した。


「辛かったわ…」


「そうなんだ…」


涼香は窓の外を見た。


「衝撃の告白だね…」


「そうね…。パパも知らないのよ。この事は」


涼子は涼香に微笑んで、お茶を飲んだ。


「そっか、じゃあこれからこの事ばらすぞーってお小遣いせびれるじゃん。ラッキーだ」


涼香はそう言うとニッコリ笑った。


「そんな事、今まで一回も言った事ないじゃない」


「そうだね」


二人はまた笑っていた。


「ママも、涼香を酷い目に遭わせたヤツらを殺してやろうって思ってた…」


「え…」


涼香が眉を寄せて涼子を見ると、涼子はその涼香を見て微笑む。


「でもやめたわ。そんな事しても意味が無いって、自分が一番わかってた。忘れてたけど…」


「そうだよ…。そんなの意味無いし。ちゃんと病院行ったし。もう平気だよ」


涼香は必死にそう言う。


「そうね…」


涼子は涼香に優しく微笑んでいた。

それは長い間、涼子が忘れていた微笑みだったのかもしれなかった。






隆文とリョウコは部屋に戻り、ダイニングテーブルに向かい合って座った。


隆文はさっき見た森野の姿が気になっていた。

森野が普段、夜中にうろつく場所じゃ無かった。

トキワサイクルのオヤジの店が近い事も有り、胸騒ぎが止まなかった。


明日、朝一でバイク屋に行ってみよう。


隆文はそう考えた。


野村はどうしたのだろうか。

森野を使い、関係無い人間まで巻き込んで、その上、俺に殴られたと言った。

平本にどう説明しているのだろうか…。


そして最大の問題は、リョウコの弟、ショウジの事だった。

涼子に頼まれたのは調べて欲しいという事だけだったが、涼子はアラスカを知っている。

だが孝一郎はまだそこまで辿りついていないのだ。

今ならまだショウジを逃がす事は出来る。

後は涼子を説得するしかない。

これも明日にでも話をしてみよう。


隆文は色々な問題を抱え過ぎて、頭はパンク寸前だった。


「お水飲みますか…」


リョウコは冷蔵庫を開けて水のペットボトルを出した。


「ああ…貰おうかな」


隆文は前髪をかき上げながら言う。

リョウコはグラスを二つ並べて、ペットボトルの水を注いだ。


「どうぞ」


リョウコはニッコリと微笑んで隆文にグラスを渡した。


「ありがとう」


「どう致しまして」


リョウコは立ったまま水を一気に飲むと、ツカツカとベッドルームへ歩いて行き、服を脱ぎ出した。

そして下着姿になると隆文に後ろから抱きついた。


「女から抱いて下さいって言うと嫌われますか…」


隆文の耳元でリョウコは言った。

隆文は水の入ったグラスをテーブルに置く。


「リョウコちゃん…」


隆文はゆっくりと立ち上がりリョウコを抱きしめた。

リョウコの気持ちが痛い程わかった。

二人はベッドにもつれ合う様に沈んで行った。







「私もレイプされて、ビデオに撮られたの」


あおいは孝一郎の向かいに舞い降りるかの様にゆっくりと座った。

あおいの背中にあるテレビにはあおいが犯されるビデオが流れていた。


「パパと出会う少し前…。このビデオばら撒かれたくなかったら、言う事を聞けって言われて客を取らされたの。初めは歯を食いしばって耐えた。けどそれも疲れて来て…死のうって思ってた。そんな時にパパと知り合ったの」


あおいはテーブルの上のタバコを取り、火を点けた。

孝一郎はあおいの言葉を黙って聞いていた。


「けど、気が付くと私のビデオはヤクザに売られてたのよ。約束が違うって言ったけど、遅かった。そこにあるのはそのヤクザに売られたビデオのマスターデータのDVD。撮られたけど、ヤクザに売られなかったビデオも有るわ。そんな子のデータはここには無いわ」


あおいは孝一郎にかからない様に、自分の斜め下に煙を吐いた。


「そんな子が十人くらいいるはずよ…」


孝一郎はあおいが哀れに思えた。

自分の娘と同じ目に遭いながら一人で耐えたのだ。

孝一郎は俯き目を閉じた。


「パパと付き合い出したって話しをしたら、客を取らなくて良くなったの。パパの名前を聞いてヤクザが手を出すなって言ったらしくて…」


「ヤクザ…どこの組か知ってるのか」


孝一郎は顔を上げてあおいに訊く。


「私は知らない。高木って男に一度会った事あるけど…それ以外の人には会った事も無いし…」


このビデオの裏にはヤクザの組織の存在が有り、そのヤクザは孝一郎の名前を聞いてあおいから手を引いたと言う。

孝一郎に近い存在なのかもしれない。

孝一郎はあおいが映し出されるテレビを消した。


「消さなくても良いわよ。私はもう忘れたわ」


あおいは微笑んだ。


「自分の大事な女が酷い目に遭っている映像を見たいと思うか…」


孝一郎はそう言うと背もたれにもたれた。


「お前も辛かったんだな…」


そう言うと天井を見た。


「うん…。パパと出会うまではね…。だから感謝してるの…。いろんな意味で私を救ってくれたから…」


「あおい…」


「何…」


「一つ教えてくれるか」


孝一郎はゆっくりとソファに身体を起こし、膝に両肘を突いた。


「私が知ってる事なら…」


孝一郎は自分の足元に転がる箱を顎で指した。


「このDVDの中に、杉本涼香と言う子はいるか…」


あおいの顔色が変わった。

杉本涼香。

その少女のビデオはそこには無かった。

しかし自分が客を取らせている少女だった。

そして杉本という名前を聞いて初めて孝一郎の娘で有る可能性に気付いた。


「有るのか…この中に…」


孝一郎はその箱からガチャガチャと音を立ててDVDを何枚も取り出した。


「有るんだな…」


あおいは黙って目を伏せた。


「無いわ…」


あおいは何故か自然と涙が溢れ出した。

それでも孝一郎はDVDをガチャガチャと引っ掻き回す。


「無いってば」


あおいが叫ぶように言うと、その声で孝一郎は手を止めた。


「杉本涼香は俺の娘だ…」


孝一郎は息を荒くしていた。


「そうなんだ…」


あおいは涙声で言う。


「大事な…大事な娘なんだ…」


「そうなんだ…」


あおいは俯いて涙を流した。


「そうなんだ…」


何度も何度もそう繰り返した。


あおいは孝一郎の事を信頼していた。

ショウジとの関係も有ったが、今、自分が生きているのは孝一郎のおかげだと思っていた。

家出してこの街に来て、年齢を偽り、水商売のアルバイトをしながら細々と生きていた。

そしてそんな生活の中でレイプされビデオに撮られた時は、あおいは死ぬ事を考えた。

しかし、死ぬのならば流されて生きても同じだと思った。

ショウジたちの言いなりに生きて、落ちるところまで落ちる。

それを覚悟した時に孝一郎に出会った。

愛人としてだが、孝一郎はこの街で唯一、あおいを人間として扱ってくれている気がした。

それが嬉しくて、孝一郎に尽くそうと考えていたのだった。

知らなかったとは言え、その孝一郎の大切な娘にあおいは客を取らせた。

それが自分の中で大きなショックだった。


私は何て事をしてしまったのだろう…。


そう思うと涙が溢れて止まらなかった。


「パパ…ごめんなさい…」


あおいは小さな声で呟いた。

孝一郎もその組織に何らかの形であおいが関与している事はわかったが、その先を訊くのは孝一郎にも怖かった。

孝一郎はDVDのケースを投げ入れる様にその箱の中に放り込んだ。

孝一郎の目からも涙が流れていた。


「私…最低だね…。パパをこんなに苦しめるなんて…」


そう言うとあおいは立ち上がり、窓辺に立った。

明け始めた街の空はラベンダーの色に良く似ていた。


あおいは本名ではない。

あおいはいわゆる源氏名で、水商売で店に出ていた時の名前だった。

中学を出てすぐに北海道からこの街へ出て来た。

あおいが幼い頃に育った町は季節になるとラベンダーが咲き誇り、どこに居てもその香りが消える事は無かった。


「綺麗…」


あおいは皮肉にも汚れた大気が作り出すそのラベンダー色の東の空を見て呟くと、ゆっくりと窓を開けてベランダに出る。

裸足のあおいはコンクリートが既に冬の冷たさになっている事に気が付いた。


「もう、冬が来るね…」


ベランダの手摺に触れてみると、その手摺にも冬が訪れていた。


あおいはゆっくりとその手摺に登った。


孝一郎が顔を上げるとあおいが手摺に登ろうとしている所だった。


「あおい…」


孝一郎は我に返り、あおいの名を呼んだ。


「来ないで…」


あおいは孝一郎に言った。


「それに私はあおいじゃないの…。雪子。スノウの雪に子。雪に包まれた日に生まれたから雪子。私、北海道の生まれなの…。話した事無いよね…」


あおいは力なく微笑む。

そんな話を今までした事も無かった。

孝一郎はあおいに何も聞かなかった。

それでも人として接してくれた。

あおいの脳裏に孝一郎との思い出が走馬灯の様に蘇った。


「私はパパの大事な人に酷い事をしたわ」


「あおい…」


あおいはニッコリと孝一郎に微笑んだ。


「私は私に、私なりのやり方で決着を付けるわ…」


「何を言ってるんだ…。止めなさい」


あおいは首を横に振った。


「パパ…ありがとう」


あおいは普段の様に嬉しそうに笑っていた。

その様子を見ている孝一郎は一歩も動く事が出来なかった。


「あおい…」


「そして…」


あおいは手摺を掴んだ手を放し、上半身をゆっくりと後ろに倒して行った。


「ごめんなさい…」


孝一郎は立ち上がりベランダへ手を伸ばす。

あおいを…あおいの命を掴もうと手を伸ばした。

あおいの体はゆっくりとスローモーションの様にラベンダー色の空の麓に落ちて行った。


「あおい」


孝一郎はベランダに出て、もう少しであおいの体に触れそうな指を泳がせた。


大きな音と共にあおいは冷たいアスファルトの上に落ちた。

孝一郎はベランダの手摺から身を乗り出し、あおいの姿を見た。


「あおい…」


孝一郎はベランダに崩れ落ちる様に膝を突いた。






隆文もそのラベンダー色の空を見ていた。

リョウコはベッドで寝息を立てている。


窓の外を見るが、まだ街には人影は無かった。

建てつけの悪い窓を開けて、冷えた大気を隆文は浴びる。


その冷たさで体の中まで洗い流された様な気分になり、一気に目が覚めた。


ふと気配を感じて窓の下を見ると、そこにはドッペルゲンガーの隆文がポケットに手を入れて立ち、こちらを見てうすら笑いを浮かべていた。


それを見付けた隆文は慌てて服を着て、部屋を飛び出した。

窓から見えていた細い道へ隆文は走り出る。

その細い道を下って行くドッペルゲンガーの隆文の背中が見え、走ってそれを追った。

見えているのに一向に追いつけない。

隆文は必死に走った。

角を曲がり、見失う。

周囲を見回すと再び背中を見付ける。

そんな事を何度か繰り返すと隆文は国道まで出ていた。


「どこに行ったんだよ…」


ドッペルゲンガーの隆文は隆文を嘲笑う様に歩いていた。

着いて来いと言わんばかりに姿を見せては消える。


「クソ…馬鹿にしやがって…」


隆文は再び走り出す。

息が切れる。

もう何年もこんな走り方をした事は無かった。


国道を渡る歩道橋の上を歩くドッペルゲンガーの隆文を見付け、隆文は歩道橋の階段を駆け上がった。

駆け上がると反対側の階段を降りる姿が見える。

隆文は走った。

そしてとうとう海に出た。

その海岸に掛かる手摺に寄り掛かるドッペルゲンガーの隆文を見付けた。

どうやらそこに誘い出したかった様だった。


隆文はドッペルゲンガーの隆文の前まで走ると、苦しそうに呼吸を繰り返した。


「やっと…追い…着いたぜ…」


息絶え絶えに隆文が言うと、ドッペルゲンガーの隆文は近くの階段に座った。

隆文も後を追い、その階段に倒れ込む様に座った。


「俺はこれで死ぬのか…」


倒れ込み大の字になり天を仰いで隆文はドッペルゲンガーの隆文に訊く。


「そんな事で死ぬかよ…」


ドッペルゲンガーの隆文は無表情なまま言った。


「そうか…なら安心だ…」


隆文は目を閉じて呼吸を整えると、しばらく二人の隆文は沈黙した。

ようやく息が治まると、隆文はゆっくりと体を起こした。


「今度は何だ…」


隆文は隆文の横顔を見た。


「森野が野村を殺した…」


「何だって…」


隆文は息を吸うのか吐くのかわからなくなる程驚き、昨日の夜の森野を思い出した。


「そして、ショウジと一緒に涼子の娘に「売り」をやらせていた女…杉本孝一郎の愛人のあおいが自殺した…」


隆文には何が何だか理解出来ず、ゆっくりと首を左右に振った。


「ちゃんと説明してくれるか…」


そう言うと隆文は近くに有った自動販売機で冷えた缶コーヒーを二本買い、その一本をドッペルゲンガーの隆文に渡した。

隆文は黙って受け取ると、話を始めた。


「ショウジは利用価値のある女だけを選んで、自分で強請り、あおいという女を使って売春させてたんだ」


ドッペルゲンガーの隆文は朝靄のかかる海を見つめていた。


「そのあおいって女も元々はショウジたちにビデオを撮られた被害者だったんだが、杉本と付き合い始めると、ヤクザが手を引いた」


隆文もその視線の先を追う様に海を見た。


「それだけ杉本は裏の世界でも力が有るって事だろう。そして、そこに目を付けてショウジはあおいを使い、ヤクザの真似事を始めたんだな…」


ドッペルゲンガーの隆文はもう一人の自分を見て口元を歪めた。


「餌食にしたのはいわゆる「良い女」ばかり。ヤクザに渡さずに自分たちで管理して客を取らせた」


ドッペルゲンガーの隆文は缶コーヒーを開けて一口飲んだ。

隆文はドッペルゲンガーでも飲み食いするのかと思い苦笑した。


「ショウジもあおいも涼香が杉本の娘と知らずにビデオを撮った。そしてたまたま利用価値のある女だったから、ヤクザに渡さず、ショウジの売春組織に放り込んだんだな…」


隆文は喉を鳴らした。


「ショウジが自分で囲う女のDVDはヤクザにも渡らん。だから無闇に広まる事も無い。どっちが良いかなんてわからんがな…」


「それで…」


隆文も缶コーヒーを開け、一気に半分程飲んだ。


「そのあおいは、杉本に恩義を感じていたんだろう…。闇の世界で生きて来たあおいにとっては唯一自分の拠り所だっただろうしな。自分の手で杉本の娘に売りをやらせた事を悔いて、杉本の目の前でベランダから飛び降りた…」


「何て事だ…。」


隆文は吐き捨てる様にそう言った。


「まだ、誰か死ぬのか…」


隆文は隆文に訊いた。

しかしドッペルゲンガーの隆文は答えなかった。


「肝心なところはダンマリかよ…」


隆文は苦笑した。


「で…野村の方は…」


「そっちは想像付くだろう…。森野は野村と平本に騙された事に気付き、トキワサイクルのオヤジを傷つけた罪の意識もあったんだろうな…。平本を刺しに行ったところ、偶然野村に出くわし、刺殺した。皮肉にも野村は平本のやり方に飽き飽きして、奴とと縁を切った直後だったようだが、森野にはそんな事は関係無い…。小心者の森野は逆上し、殺さなくても良いのに、殺してしまったみたいだ。その野村の死体を発見したのは平本だ。平本は怖くなって、愛人の部屋に籠っているよ」


隆文はそれを聞いてこめかみを押さえた。


これで森野を庇い切れなくなってしまった…。


「その森野はどこにいるんだ」


その質問にも隆文は答えなかった。

隆文はドッペルゲンガーの隆文の先の事を教えない徹底ぶりに呆れた。


「もう誰も傷つけたくない…」


隆文はそう言うと缶コーヒーを飲み干した。


「それはお前次第…俺次第だ」


ドッペルゲンガーの隆文は立ち上がった。


「また会おう…」


そう言うと階段を上って行った。


「もう一つ教えてくれないか…」


隆文が隆文に声をかけると、その声にドッペルゲンガーの隆文は足を止めた。


「俺は間違った事をしていないか…」


「法的にどうのって話なら間違ってるかもしれんな…。だが、お前…俺自身の信念の話なら間違って無いと思うぜ…」


「そうか…」


「人生に間違いなんて無いんだよ。自分が行こうと思った道こそが正解なんだ。その正解が一番合理的なのかそうで無いのか、それだけの話だ」


ドッペルゲンガーの隆文は振り返り歯を見せて微笑む。


「理屈っぽいな…」


「俺はお前だからな…」


隆文は苦笑した。


「どの道も正解か…」


隆文は自分の歩んできた道を振り返った。

どんな場面でも信念を持って道を選択して来た。

その道が非合理的な道だったと言うだけで、結果は同じだったと思うと可笑しくなった。


一人、明け方の静かな海を見ながら微笑んだ。


振り返るとドッペルゲンガーの隆文の姿はもう、そこには無かった。


「俺に残されたのは非合理的な死に方だけか…」


隆文はそう呟くと立ち上がり、尻の土を払うと、飲み干した缶コーヒーの空き缶を拾った。

ふと横を見ると、ドッペルゲンガーの隆文に渡した缶コーヒーの缶が立ててあった。

そのコーヒーの缶はまだ未開封のままだった。


「やっぱ幽霊は…、缶コーヒーは飲めないのか…」


隆文はそのコーヒーを手にしっかりと握り、歩き出した。







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