第5話 出会い





隆文は重い段ボール引き摺る様にしてコンベアに乗せた。

額には汗が浮かび、重い段ボールを抱える度に歯を食いしばる。

隆文には少しキツイ作業だった。

いつもは若い佐々木がやっているのだが、その佐々木が今日は病欠らしく、居なかった。

隆文もアルバイトの身で文句も言えず、今日は重労働となった。


明日は腰が痛むだろうな…。


そんな事を考えながら隆文はまだトラックの奥に残る段ボールをひたすら、コンベアまで運んだ。


「はい。休憩です」


リーダーの声でコンベアは停止した。

隆文はトラックの奥に残る箱をコンベアの前まで全て移動させて、手袋を外した。

フラフラになりながら、トラックの荷台から飛び降りると、休憩室の方へ向かった。

いつもの軽作業ならここまで喉も渇く事は無い。

しかし、今日は重労働で、一番に自動販売機へ向かい、スポーツドリンクを買った。


「有山さん。大丈夫」


パートの主婦たちが隆文を気遣い、声を掛ける。


「大丈夫ですよ。若いですから」


などと返事をして、いつもの喫煙室の奥に座った。


「有山さん。すみませんね…。キツイ事させちゃって…」


そう言いながら、社員の若い男が喫煙室に入って来た。


「いえ。佐々木君が病気じゃ仕方ないですよ。もう、後少しなので…」


隆文はその男に頭を下げながら言った。


こうやって体を動かしている方が、忘れられる…。


隆文は微笑んだ。


もう一人の自分…。


それが頭から離れなかった。

リョウコと晩飯を食べ、リョウコは先に仕事に出掛けた。

一人部屋に残った隆文は、ベッドに横になり、ただ天井を眺めていたが、その時間は隆文には途轍もなく長い時間だった。


「有山さん…。何か考え事ですか…」


「え…」


「いや…難しい顔されてるので…」


社員の若い男はタバコの灰を灰皿に落としながら話し掛けて来た。

今日はバイトを休もうと隆文も考えていたが、誰かと話をしていた方が気が紛れると思い、気の乗らない中、アルバイトにやって来た。


「ああ…いや、何でも無いですよ」


「腰、大丈夫ですか」


その男は自分の腰を押さえながら言った。

腰が痛いのはその男では無く、隆文だった。

こんな力仕事を何年ぶりにやっただろうか。

隆文は疲れた顔で微笑み、


「今は大丈夫ですけど、これじゃ彼女が不満を言うかもしれないですね…」


そう言って笑った。


「ああ…。治し方教えましょうか」


男は隆文の隣に移動して来た。


「少し我慢して、思い切りセックスするんですよ」


隆文に小声で言う。


「これはうちの会社、伝統の腰痛の治し方です。一回やってみて下さい。絶対に治りますから」


男は誇らしげに微笑んだ。

隆文もその男の真面目な顔が可笑しくなり、笑った。


「やってみます」


男は隆文の肩を叩いて喫煙室から出て行った。

こんな馬鹿話でも気は紛れる。

それが隆文には嬉しかった。

ほとんどスポーツドリンクを一気に飲んで、タバコに火を点けた。

ポケットに入れた携帯を取り出すと、リョウコからのメッセージの着信が有った。


「今から帰ります。朝食作っておきますね。余り無理をなされないように」


リョウコらしい文面だ。

隆文はそう思った。ユキなら、


「帰りに何か買って来て」


そうなるだろう。


「了解しました。今日は重労働してます」


リョウコにそう返信した。


こんな仕事こそ、ドッペルゲンガーが代わりにやってくれれば良いのに…。


隆文はそう思い始めると可笑しくなり、下を向いて一人で少し微笑んでいた。


ベルが鳴り響いた。

このベルが鳴ると作業を再開する合図になっていた。

隆文はタバコを灰皿に放り込み、空になったペットボトルをゴミ箱に捨てた。

そして喫煙室を出て、ポケットに差し込んでいた手袋をした。


「有山さん」


後ろからパートの主婦の声がした。


「はい」


隆文は振り返った。


「大丈夫なの…」


主婦は心配そうな顔で隆文を覗き込む様に見た。


「今朝、砂田医院に居たでしょ…。何処か具合悪いんじゃないの…。リーダーに言って代わってもらったら…」


砂田医院。

もちろん隆文にそんな記憶は無かった。

もう一人の隆文がトキワサイクルのオヤジの為に、訪ねたのかもしれない病院だった。


「ああ…砂田医院は私の古い客なんですよ」


これは嘘では無い。


「病気で行ったんじゃ無くて、打合せです」


これは真っ赤な嘘だった。


「何だ、そうなの…」


主婦は安心したかの様に微笑んだ。


「私はてっきり何処か悪いんじゃないかと思って…。じゃあ後半、頑張ってね」


そう言うと主婦は自分の持ち場へと走って行った。

隆文もその主婦を見送ると、トラックへ走って行き荷台に飛び乗ると、再びコンベアに段ボールを乗せ始めた。


やはり、俺は…いや、もう一人の俺は砂田医院へ行っている…。


隆文は段ボールをコンベアに手際良く乗せながら、その事を考え始めた。


もう一人の俺に会う。

それしか無い。


隆文は当ての無い決心をした。






朝、倉庫を出ると霧雨が見慣れた風景を覆い尽くしており、隆文は上着の襟を立てて原付を止めた場所に急いだ。

明け始めた街は太陽の位置を掴めなければ朝なのか夕方なのかわからない気がして、隆文は薄暗い霧雨の向こうの太陽に微笑んだ。


携帯を見るとリョウコからメッセージが入っていた。


「天気が悪いみたいなので、気を付けて帰って来て下さいね」


それだけの短いメッセージだったが、リョウコの気遣いを十分に感じる事が出来た。


リョウコ。

涼子の娘をレイプした男の姉だったが、隆文にはリョウコに怒りを感じる事は無かった。

リョウコの弟に会ったとして、怒りを感じる事が有るのだろうか。

隆文はそれさえも疑問だった。

涼子と杉本の娘。

隆文にはもともと関係の無い話なのだ。

街には色々な人間が住み、色々な悪事が溢れている。

その街の中で起きた、小さな悪事の一つ。

隆文にとっては、それだけの事で、その被害者と加害者が自分の近くに偶然居ただけの事。

そんな風に考えると隆文も少し気が晴れる様な気がした。


ヘルメットを被り、原付のエンジンを掛けると一気に走り出す。

橋を渡り陸へ下りるとそのまま大通りを北へ走り、二十四時間営業のカフェの前で原付を止めた。

ヘルメットを脱いでメットインに放り込み、霧雨から逃げる様に足早に店の中へ入った。

前髪から雨だれが床に落ちる。

隆文はジーンズのポケットからハンカチを出し、髪や顔、肩を拭き、カウンターでコーヒーを注文した。

すぐに紙コップのコーヒーが出て来て、そのコーヒーを持って隆文は外のテーブルに座った。

そこは先日、野村に殴られた場所だった。

少し肌寒い朝、隆文は曲がった襟を直しながら、ポケットからクシャクシャになったタバコを出し咥えると火を点ける。

そして冷えた朝の大気の中に紫色の煙を吐いた。

どうしても、今すぐにリョウコの待つ部屋に帰りたく無かった。

いや、帰れなかった。

部屋に帰るとそこにはドッペルゲンガーの自分が居るかもしれないのだ。

それを考えると直ぐに帰る気にはなれなかった。


テーブルに肘を突き、何処を見るでも無く、ただ朝の街風景を見つめていた。

タバコの灰がテーブルの上に落ちる。

隆文はそれに気付き、我に返り、タバコをスチールの灰皿でもみ消し、テーブルの上の灰を手で払った。


街は朝の光を浴びて、霧雨は徐々に消えて行った。

それに伴い隆文の心の奥に冷たく沈んでいた霧も晴れて行くように思えた。

隆文は晴れやかな顔で、ビルの間から少しだけ覗く街の空を見た。

昨日とは少しだけ違う空の様な気がした。






ショウジは眠い目を擦りながら店のドアのカギを閉めると、看板の下に掛かった札を「準備中」とひっくり返し店を眠らせる。

重い足を引き摺りながら早朝の人気の無い歓楽街を歩いた。

近くに借りたマンションへは眠るために帰る様なモノで、ショウジにとって生活する場所ではなかった。

ショウジが生活する場所は街で、部屋は言わば、ベッドルームの様なモノだった。


いつもの様に、二十四時間営業のカフェに入り、コーヒーを頼むと、そのコーヒーの載ったトレイを持って外の喫煙スペースへ向かう。

乱暴にトレイをテーブルの上に置くと、霧雨で濡れたアスファルトを見た。


街には雨で洗い流せないモノも有る。


ショウジはアスファルトの上に屋根から落ちる雨だれを見つめた。

同じリズムでポトポトとアスファルトの上に波紋を作る。

革ジャンのポケットからタバコを出し咥え、火を点けようとライターを擦るがオイルが切れている様で点かなかった。

少し苛立ちながらタバコを吸うのを諦めようとした時、ショウジのテーブルの上に百円ライターが置かれた。

ショウジはゆっくりと百円ライターをテーブルの上に置いた男を見上げた。


「やるよ…」


男は微笑みながらショウジにそう言った。

ショウジは無言のまま小さく頭を下げると、男は飲み干した紙コップをゴミ箱に放り込み、店の前に停めてあった原付のシートを開けた。

ヘルメットを被るとそのままその男は走り去った。

やけに爽やかな笑顔の中年だった。 


早起きしてコーヒーでも飲みに来たのだろうか。


ショウジはそう考えながら走り去る男の背中を見ていた。

そしてテーブルの上に置かれた百円ライターを手に取りタバコに火を点ける。

手に持ったライターを見つめて、自分のタバコの箱の上に置いた。






隆文はアパートの階段の下に、いつもの様に原付を停めると、霧雨に濡れて滑りやすい鉄の階段をゆっくりと上がった。

眠っているかもしれないリョウコを起こさない様にという配慮もあった。

ドアに静かにカギを挿し、ゆっくりと音を立てない様に開けると、部屋の中に入る。

するとリョウコがダイニングのテーブルに座って、隆文に微笑んでいた。


「おかえりなさい」


リョウコのこの言葉は何度聞いても柔らかく染み入る様な気がした。


「ただいま。起きてたんだ…」


隆文は上着を脱いで、リョウコの向かいに座った。


「霧雨が酷かったんで、少し雨宿りしてた」


そう言うとポケットからタバコを取り出した。

ライターをカフェに居た若者にあげてしまった事を思い出し、ベッドの横のテーブルの上から百円ライターを取ると、一度試し擦りをして火が点くのを確認した。


「そうだったんですね。私もさっき起きたところです」


リョウコは立ち上がり部屋の明かりを点ける。


「ちゃんと寝たのか…。寝不足はお肌に悪いよ…」


「あら、私の肌はツルツルですよ」


リョウコはコンロの火を点けながら笑った。


「ご存知でしょう…」


「ああ…まあ」


隆文も笑った。

少し昨日までと気分が違っていて、冗談も言える、そんな気分になっていた。


「ご飯、食べるでしょう」


「ああ…。腹ペコなんだよ」


隆文は立ち上がり冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。


「朝からビールですか」


「俺にとっては夕方みたいなモノだ」


隆文の缶ビールを開ける音が部屋に響く。

そして喉を鳴らしながら隆文はビールを飲んだ。


「リョウコちゃんも飲むかい」


朝からビールを飲む隆文を呆れ顔で見ているリョウコに缶を差し出すと、手を広げて隆文を制した。


「結構です。私は朝からビールなんて…」


そう言って微笑んだ。


「すぐご飯出来ますから」


「ありがと…」


隆文は嬉しそうに微笑むと再びビールに口を付けた。






リョウコの作った朝食は今日もホテル並みだった。

その朝食の後、隆文は風呂に入る。

風呂の湯もちゃんと張ってあり、至れり尽くせりの環境だった。

隆文は狭い湯船に久しぶりに入った。

いつも面倒でシャワーだけで済ませるのだが、夜中にリョウコが綺麗に掃除をして、帰って来る時間を見計らい、湯を張ってくれたのだった。


「湯加減どうですか」


リョウコは脱衣所から隆文に声を掛ける。


「最高だよ。一緒に入るかい」


隆文は悪戯っぽい口調でリョウコを誘った。


「はい。入ります」


リョウコの返事は即答だった。


「え…」


隆文は焦って風呂のドアを見ると、磨りガラス越しにリョウコが服を脱ぐのが見える。


「おいおい…マジかよ…」


隆文は呟くように言うと湯船に頭まで沈んで行った。

リョウコは躊躇なく狭いバスルームに入って来た。


「あ…いや…」


隆文は初めてまともにリョウコの裸を見た気がした。

綺麗な若い身体だった。

リョウコと目が合い、ゆっくりと目を逸らしたが気付かれているだろう。


「そんなじろじろ見ないで下さいよ。恥ずかしいですよ…」


リョウコはシャワーを流し始めた。


「ごめん…。つい見とれてしまったよ…」


隆文は壁を見ながら言った。


「私の身体…どうですか…」


リョウコは立ち上がり、シャワーを止めると隆文に自分の裸体を晒した。


「ん…どうって…」


「ユキさんとどっちが魅力的ですか…」


質問の意味が隆文にはよく理解出来なかった。

すると狭い湯船にリョウコがゆっくりと入って来て、湯船から大量のお湯がこぼれ出る。

隆文はリョウコを見た。


「そりゃ、リョウコちゃんの方が魅力的だと思うよ」


これはお世辞では無く、目の前にあるリョウコの肌は若く、お湯を弾いていた。


「私ね…お兄ちゃんが欲しいって幼い頃に母に言った事があるんです」


リョウコは手で自分の肩にお湯を掛ける。


「でもそんなの無理じゃないですか。困った母の顔、今でも思い出します」


そう言うと笑った。


「小さい頃ってそんな風に思うのかな…」


隆文も微笑んだ。


「そうですね…。でも、今でもそうなんですよね…。お兄ちゃんとかお父さんくらいの男性に惹かれるんですよ…」


リョウコは隆文の手を取り、自分の胸に当てた。


「リョウコちゃん…」


隆文は焦った。


「わかってます。良いんです。有山さんはユキさんの彼氏で、手が届かない存在だって事も…。だから、ユキさんが帰って来るまで、ユキさんの代わりに私…」


隆文はリョウコを引き寄せて抱きしめる。

二人は無言のまま、バスルームで身体を合わせた。

熱いシャワーが過ちを洗い流す様に二人の身体に打ち付けていた。






隆文が目を覚ますと、時計は昼を少し回ったところで横に寝ていた筈のリョウコの姿は無かった。

隆文はベッドから起き出し、下着姿のまま冷蔵庫を開けると、ペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、乾いた身体を潤す。

ダイニングテーブルの上には隆文の為にリョウコが作った昼食が準備してあった。

多分、リョウコは寝ずに食事の準備をしていたのだろう。

テーブルの上にはメモが一枚置いてあった。


「有山さんへ。一度家に戻ります。また夕方来ます」


綺麗な字でそう書いてあった。

隆文はそのメモを手に取って微笑むと、リョウコの作ってくれた料理を電子レンジに放り込み温めた。

その間にジーンズを穿き、シャツを着て、ベッドの横のテーブルに置いた携帯を見た。

もう一人の涼子からのメッセージが入っていた。


「何時でもいいので、連絡下さい」


そんな内容だった。


レンジの音がして、隆文はレンジに入れた皿を取り出す。

熱いので急いでテーブルの上に置くと、椅子に座り、その料理を食べ始め電話を掛ける。

忙しい時間を長い事過ごして来た隆文の癖だった。

飯を食いながら何かをするのは隆文には当たり前の事だ。


「あ、涼子か…」


「隆文…。今日、時間取れないかしら」


開口一番、涼子はそう言った。


「何か有ったのか」


「例の件、杉本に知れちゃったみたいなの…」


「何だって…」


「会社に例のDVDが送りつけられたそうなのよ…」


隆文は頭を抱えた。


「杉本も怒り狂っちゃって…彼が先にあの男たち見付けると…」


「わかった。じゃあ三時にいつもの喫茶店でいいか」


「わかったわ…」


涼子はそう言うと電話を切った。


杉本孝一郎が気付いた。

多分、杉本が調べるとすぐにリョウコの弟に辿り付く。

そうなるとリョウコの弟は確実に殺されるだろう…。


隆文はリョウコの作ったチャーハンを勢いよく口に放り込んだ。






涼子が携帯を切り、振り返ると、そこには杉本孝一郎が立っていた。


「有山隆文か…」


孝一郎は眉を寄せて涼子にそう言った。


「何…」


「全部わかってるんだよ。お前が有山という男と付き合っている事は…」


孝一郎は上着を脱いでソファに放り投げ、自分もソファに座った。


「この際だ、座れ…。話をしようじゃないか…」


涼子はそう言われ、孝一郎の向かいに座った。


「有山は自分の会社を潰したそうだな」


涼子は孝一郎を見る事も無く、窓の外を眺めていた。


「そんな男の何処が良いんだ…」


孝一郎はタバコを取り出して、口にした。


「別に彼の会社に惚れた訳じゃないわ」


涼子は吐き捨てる様に言うと孝一郎を睨む様に見た。


「惚れてるのか」


孝一郎は唇を歪めて訊く。


「そうよ…」


涼子はしっかりと孝一郎を見たまま言った。


隆文に恋愛感情など初めはまったくなかった。

しかし、身体の関係を重ねて行くにつれて、涼子の中で恋愛感情という言葉でしか説明の出来ない気持ちが生まれていた。


「お前は涼香の母親なんだぞ…」


「あなただって涼香の父親じゃないの」


静かな部屋に二人の声が響く。


「あなたの愛人、あおいって言ったかしら…。涼香と歳も変わらないじゃない…。そんな女と付き合って。気持ち悪いわよ…」


孝一郎が今度は窓の外を見た。


「私たちはもう破綻してるのよ。相手がどうなんて話、いまさらどうでもいいわ…」


孝一郎はゆっくりと視線を涼子に戻した。


「有山に何を頼んだんだ」


「涼香をあんな目に遭わせた男たちを探って欲しいって頼んだのよ。大っぴらに調べると貴方の名前が表に出るでしょ…。だから彼に頼んだのよ」


孝一郎はその言葉に目を瞑った。


「後の事は俺に任せろ。お前はこんな危険な事に手を出すな。いいな…」


孝一郎はそう言うと立ち上がった。


「嫌よ」


涼子も勢いよく立ち上がる。


「どうしてだ」


涼子は孝一郎に歩み寄った。


「私は涼香をこんな目に遭わせた男たちが許せないの」


「それは俺も同じだ。後は俺が何とかする」


孝一郎は涼子を手で押し退ける様に部屋の入口へ向かった。


「どうせヤクザに頼むんでしょ…」


涼子は孝一郎の背中に向かって叫ぶように言う。


「お前には関係の無い事だ」


涼子は孝一郎が座っていたソファにゆっくりと座った。


「知ってるわ。あなたが、まともじゃない方法で土地を買い漁っている事。ヤクザを使って、立退きをさせている事。あなたの言う事なら何でも聞くヤクザが居る事…」


「涼子…」


孝一郎は振り返り涼子の目を見る。


「その人たちに頼むのよね…」


涼子も孝一郎を見た。


「お願い。そんな男たちがどうなってもいいの。ただ、私は涼香をあんな目に遭わせた男たちに制裁が加えられる瞬間が見たいのよ…」


孝一郎はその言葉でゆっくりと傍に歩み寄って横に座り、涼子の肩に手を回した。

二人は長い沈黙の時を過ごした。

午後の日差しがその部屋を暖かな色に染め出した。






隆文は涼子と待ち合わせた、いつもの喫茶店へ向かっていた。

少し早目に出てトキワサイクルを覗いた。


「こんにちは」


入口のドアを開けて、中に首を突っ込むとそう声を掛けた。


「おう。兄ちゃんか」


オヤジは顔を上げて、隆文に微笑んだ。


「入りなよ…」


そう言うと立ち上がった。隆文が頭を下げて中に入ると、オヤジはいつもの様に手を洗いウエスで拭き冷蔵庫を開ける。


「冷たいモンが無いな…」


オヤジが冷蔵庫を覗き込んでそう言うと、隆文はポケットから冷えた缶コーヒーを二つ取り出した。

今日は傍にあった自動販売機で、自分で買って来たのだった。


「どうぞ」


その一本をオヤジに差し出した。


「ありがとう」


オヤジは礼を言いその缶コーヒーを受け取った。

隆文はいつもの場所に座り、オヤジもその向かいに座った。


「あと一つ部品が届いたら、完成だよ。タイヤが今日来た。中古だが、まだ充分使える」


オヤジは隆文の原付を指さした。

新品とまではいかないが、前とは見違えるほどに綺麗になっていた。


「ありがとうございます」


隆文はそう言うと頭を下げた。


「好きでやってる事だ。気にするな」


オヤジは笑っていた。

隆文はこのオヤジの笑顔が好きだった。

ここでこうやって缶コーヒーを飲みながらオヤジと話す時間が隆文は好きだった。

この時間だけはすべてを忘れる事の出来る時間の様に思えたのだ。


「本当にすみません。何から何まで…怪我までさせてしまって…」


「何を言ってるんだ。困った時はお互い様だ。それが先代の心情でもあった」


オヤジは静かに言うと店の中を見渡した。


「俺はこの店が好きだ。そして、ここにこうやって訪ねてくれる客が好きだ。その客の為に一生懸命やる事が、この店の為にもなる」


オヤジはタバコを取り出し咥えた。

隆文はそのオヤジの言葉がよくわかった。

客の為に仕事をする。

これが崩れるとそれは自分のバランスが崩れる事になる事を、身を持って感じていた。


「今日はこれからどこか行くのか」


オヤジは缶コーヒーを机の上に置いた。


「ええ…すぐ先の喫茶店で、人と待ち合わせなんですよ。その前に少し話がしたくて寄ってみたんです」


隆文は少し東の方向を指さした。


「あのカフェだな。一度見たんだよ。赤い外車に乗って、綺麗な女と走り去る兄ちゃんを」


どうやら見られていたらしく、隆文は少し恥ずかしくなった。


「普通の関係じゃないな…」


その言葉に隆文は詰まった。


「え…」


「何、隠すな。俺は別に関係を突き詰めようとしている訳じゃない」


オヤジはニヤリと微笑んだ。


「少し羨ましいと思ってな…」


オヤジは老眼鏡の上から隆文を見ていた。


「勘弁して下さいよ…」


隆文も微笑んだ。

そして店の中に掛かった時計を見た。


「あ、そろそろ行かなきゃ…」


そう言うと立ち上がった。


「ああ…気を付けてな…」


「はい、ありがとうございます」


隆文は頭を下げた。店を出ると、小走りにカフェへ向かった。

少し息を切らしながら、次の信号まで隆文は走った。

別に走る必要は無いのだが、今日は気分が良かった。

信号まで来るとそのカフェが見え、隆文はそこから息を整える様にゆっくりと歩き出す。

カフェの前に涼子の車はまだ無かった。


「今日は俺の方が早いか…」


隆文はそう呟き、カフェに入った。

いつも座る席が空いているのを見て、コーヒーをカウンターで頼み、それを持って席に座る。

いつも先に来た方が、外が見える方に座った。

今日は隆文が外の方を向いて座ると、ポケットからタバコを出して火を点けた。


リョウコの弟の話を涼子にするべきかどうか、まだ迷っていた。

杉本にDVDが送られて来た事、それによって杉本も何らかの調査をしているだろう。

どっちにしてもばれるのは時間の問題だった。


隆文は腕時計を見た。

三時二分前だった。


しかし、一体誰が何の為に杉本にDVDを送ったのだろうか。

それで杉本を強請るつもりなのか…。


隆文は眉間に皺を寄せて煙を吐いた。

表に白い高級車が停まる。

涼子の車では無い。

隆文は窓から目を逸らし、コーヒーを飲んだ。

安いカフェの割にコーヒーの味は良かった。

隆文はタバコを灰皿でもみ消し、再び外を見ると、そこには涼子と涼子の夫である杉本孝一郎が立っていた。


「杉本孝一郎…」


隆文は思わずカップを持った手を止めて呟いた。

二人は間違いなく一緒にこの店に入って来た。

涼子がサングラスを取り、店の中の隆文を見付けると、孝一郎は下を向いてポケットに手を入れ、その後ろを着いて来た。


「こりゃ…厄介な事になりそうだな…」


隆文は二人を見つめたまま、目を逸らす事が出来なかった。







「君たちの事はかなり前からわかっている」


孝一郎は隆文に言った。

隆文は視線を斜めに向けて、孝一郎の声だけを聞いていた。

孝一郎と涼子は店に入るなり真っ直ぐに隆文のテーブルにやって来た。


「今日はその事を咎めに来た訳じゃない。娘…、涼香の事だ。涼子から聞いているだろ…」


孝一郎はそう言うとコーヒーを飲んだ。


「はい…」


隆文も味のしなくなったコーヒーを飲む。


「何かわかったのか」


隆文は俯き、溜息を吐いた。


「杉本さん。これは立派な犯罪です。警察に任せるのが一番ですよ。娘さんだけじゃない、かなりの数の犠牲者がいます」


その隆文の言葉を遮る様に孝一郎が声を発する。


「他の女の事までは知らん」


「あなた…」


涼子はそう言って、勢いよく孝一郎を見た。


「いいか、有山君。私はこの件を内密に処理したいんだ。娘の為にもな…」


隆文はテーブルの上のタバコを取り、火を点けた。


「色々と情報は掴みました。今日にでも、その男たちのところへ行こうと思ってます」


隆文は煙を吐きながら言った。


「その情報を教えてくれ」


孝一郎は身を乗り出した。

隆文は頭を荒々しく掻き、まだ長いタバコを灰皿に押し付けた。


「今はまだ教える訳にはいきません」


「どうしてだ…。金か…金が欲しいならくれてやる」


孝一郎は上着のポケットから厚い封筒を出し、テーブルの上に投げ出した。


「二百万入ってる。有山君。君も会社を潰して酷い生活してるんだろう…。全部終わったら更に二百、それでどうだ…。教えてくれないか…」


隆文はテーブルの上の封筒をちらと見て、溜息を吐いた。


「杉本さん…。アンタ、何にもわかってない」


隆文はテーブルの上に肘を乗せて両手を組んだ。


「涼子…君もだ」


涼子はその言葉にピクリと動いた。


「何が言いたい」


孝一郎はニヤリと笑いながら固い背もたれに寄り掛かる。


「情報は教える。それは涼子との約束だからな…。だけど、今はまだ教えられない。俺がこの目で確かめるまでは…。それに、杉本さん、涼子。今やらなきゃいけない事は敵討ちじゃない筈です。娘さんの事を考えるのが、今やるべき事なんじゃないですか…」


隆文はタバコを掴んで立ち上がった。


「全部わかったら、こちらから涼子に連絡します。それまでは娘さんの事…考えて上げて下さい」


隆文は店を出た。

白い高級車を横眼に隆文は少し足早に歩いた。


「隆文」


背後から声がして振り返ると涼子が追い掛けて来ていた。

隆文はその涼子をじっと見ていた。

すぐに涼子が隆文に追い着く。


「ごめんね…。今日は」


涼子は息を切らしていた。

隆文はポケットに手を入れて周囲を見渡した。


「いや…いつかはこうなると思ってたからな…。気にするな…」


「これ…」


涼子は孝一郎がテーブルに投げ出した封筒を隆文に差し出した。


「受け取って…」


隆文はその封筒をじっと見た。


「それを受け取る理由が俺には無い。その金、ここで俺に使うなら、娘…涼香ちゃんに使ってやれよ…」


隆文はそう言うと涼子に背を向ける。

涼子は隆文の前に回った。


「杉本は隆文が受け取らなきゃ、あおいとか言う愛人に渡すだけ…。お願い、持ってて」


そう言うと隆文の上着のポケットに捻じ込んだ。


「どうしてもいらなきゃ、何処かに捨てちゃって…。その方が涼香も喜ぶわよ」


涼子は力なく微笑むとサングラスをかけて、孝一郎の車の方へ歩いて行った。

隆文はその涼子を一度振り返ると、再び歩き始めた。






隆文は部屋に入ると、上着を壁のハンガーに掛けベッドに横になった。

上着のポケットには二百万もの大金が入っている。

しかし隆文にとって嬉しい金ではなかった。

二百万でリョウコの弟を売る。

そんな感覚だった。


静かな部屋で見慣れた天井を眺める。

西日がカーテンの間から差し込み、ゆらゆらと揺れていた。

その揺れを見ながら隆文はまどろんでいった。






夢現にカチャカチャとキーボードを叩く音が聞こえ、隆文はゆっくりと目を開いた。


何時の間に眠ってしまっていたのだろうか…。


隆文は目を強く閉じて再び開けるとゆっくりと部屋の中を見た。


キーボードの音…。

リョウコが帰ったのだろうか。


隆文は身体を起こした。


「リョウコちゃん…帰ったの…」


そう声をかけるが返事は無かった。

ベッドの横のテーブルを見た。

そこに置いて有る筈のノートパソコンが無かった。

ダイニングテーブルに持って行き使っているのだろう。

隆文はベッドから降り、そしてキッチンの方を見た。


そこには隆文が座っていた。






リョウコは隆文の部屋の近くのスーパーで、ニコニコしながら買い物かごに食材を入れて幸せそうに微笑んでいた。

リョウコは隆文と一緒に暮らすのが本当に嬉しかった。

先輩の由紀子の彼氏で有る事は充分に承知していたが、それでも隆文の傍に居たいと思っていた。

リョウコは缶ビールのパックを取り、かごに入れるとレジに並んだ。


その様子を野村はスーパーの入口から遠巻きに見ていた。


リョウコは金を払い、袋に買ったモノを詰めるとスーパーを出る。


その後ろを顔に絆創膏を貼った野村は付いて行くが、リョウコはその野村の尾行に気付く事も無く隆文のアパートへ向かった。


「こんなところに居たのか…」


野村は咥えたタバコを道に投げ捨て、更にリョウコを着けた。


リョウコはアパートの階段を上ると部屋のドアにカギを差し込み、ドアノブを回す。


野村はその様子もしっかりと階段の下から見ていた。


リョウコは部屋の中に入り、ダイニングテーブルを見ると、ノートパソコンの液晶が放つ青白い光だけが部屋を照らしていた。

買って来たモノをテーブルの上に置き、ふと寝室を見るとそこに隆文が見えた。


「有山さん…そんなところで寝てるんですか…」


そう声を掛けて微笑んだが、何か様子がおかしかった。

ベッドの横のテーブルはひっくり返り、不自然な状態で隆文は床に倒れていた。


「有山さん…」


ゆっくりとリョウコは隆文に近付くと、テーブルで頭を打ったのか、額が切れて隆文は血を流していた。


「有山さん、有山さん」


リョウコは大声で隆文を呼んだ。

その声に玄関のドアが開き、男が入って来た。


「どうした…」


男はリョウコにそう訊いた。


「あなた…誰ですか…」


リョウコは少し後退り、その男を見た。

男は倒れた隆文に気付き、部屋に入って来た。


「有ちゃん。おい聞こえるか…」


男が隆文の頬を叩くと、それでようやく目を開いた。


「野村…さん」


男、野村は天を仰いで息を吸い安堵した。


「どうしたんだ…」


隆文は視界がやっと開けたのか、リョウコにも気が付いた。


「リョウコちゃん…」


「何があった…」


野村は隆文をゆっくりと起こした。


「ありがとう…」


隆文は野村に支えられダイニングテーブルの椅子に座った。


「もう大丈夫だ…」


隆文はすっきりしない頭を乱暴に振った。

リョウコが隆文の前にミネラルウォーターのボトルを置くと、隆文はリョウコに礼を言い、水を飲んだ。


「誰かに襲われたのか…」


野村は隆文の向かいに座り訊いた。


隆文は目を強く閉じて眉間に皺を寄せる。


「いや…大丈夫だよ」


隆文は手の甲で額の血を拭った。

幸い傷も軽く、出血も止まっている様だった。


「野村さんこそ、どうしたの…その傷は…」


隆文は野村の顔の絆創膏を見ながら訊いた。

野村はじっと隆文を見つめた。


「お前…本気で言ってるのか…」


隆文は野村のその言葉に首を傾げた。

リョウコはその二人のやり取りを黙って見ている。


「どういう事ですか…」


「一昨日、高架下でトキワサイクルに向かう途中の俺をこんな目に遭わせたのはお前だぞ…」


野村は瞬きもせずに隆文に言う。

隆文は黙って俯いた。


「覚えて無いのか…」


隆文はゆっくりと頷いた。

野村はそんな隆文を見ながら苦笑した。


「あんな暴力的なお前を今まで一度も見た事が無い。俺もお前じゃない気はしていた…」


野村はそう言うと背もたれに寄り掛かる。


「一体誰なんだ…。その男は…」


隆文は両手で顔を覆った。


「野村さん…悪い。その件はまた話す。俺もまだ頭の中で整理が出来てないんだ…」


隆文はそう言って野村をじっと見据えると、野村もその隆文の目をじっと見つめた。


「わかった」


そう言うと立ち上がり玄関へ向かった。


「邪魔して悪かったな」


そして散らばった靴を並べて履いた。


「実は今日はこの傷の復讐に来たんだ。でも有ちゃんじゃない事がわかって良かったよ」


野村はそう言うと微笑み、玄関のドアを閉めて出て行った。

隆文は野村の出て行った後の玄関をじっと見つめていた。


「有山さん…」


リョウコは今まで野村が座っていた椅子に座った。


「わかってる…。リョウコちゃんにもちゃんと話すよ…」


隆文は力無く微笑んだ。


「少し整理させてくれ…」


隆文が目の前に置かれたパソコンの画面を見ると、その画面には「沖中正二」というワードで検索されていた。


「リョウコちゃん…。君は「沖中」って言うのかい」


「そうですよ。沖中リョウコ」


テーブルの上に有ったメモにリョウコは名前を書いた。


「沖中亮子」


綺麗な字だった。

隆文はリョウコの置いたペンを取って、リョウコの名前の下に、


「沖中正二」


と書いた。

リョウコは驚いていた。


「弟さんはこんな名前かい…」


「何でご存知なんですか…」


隆文は唇を湿らせた。


やはり間違い無い。

リョウコは涼子の娘をレイプした男の姉だった。


「そうか…」


隆文の口はカラカラに乾いていた。

ペットボトルを取り、喉を鳴らして水を飲んだ。


「今日、弟さんのバーに連れて行ってくれないか」


リョウコはその言葉に不思議そうな表情を浮かべて頷いた。






隆文は隆文の背中をじっと見た。


「お前は…誰だ…」


テーブルに座る隆文はゆっくりと振り返った。

その顔に表情は無く、恐ろしい程に冷静な顔だった。


「お前は俺なのか…」


テーブルに座る隆文はゆっくりと頷いた。

隆文はその隆文の姿を下から上へ舐める様に見た。


「そんなに自分の姿が珍しいか…」


テーブルに座る隆文は静かにそう言った。

自分の声を耳から聞く事はあまり無い。

その声に隆文は違和感を覚える。


「ドッペルゲンガーってやつか…」


しばらくの沈黙が二人を包んだ。


「そういう事だ…」


ドッペルゲンガーの隆文は無表情のまま答えた。


「お前に…いや…俺に死期を教えに来た」


「そうか…。だが、生憎死ぬのは怖くない」


隆文はその場を動けなかった。

ドッペルゲンガーの隆文に掴みかかってやりたかったが、体が動かなかった。


「死ぬ前に、お前がやりたいと思っている事を手伝ってやろうと思ってな…」


そう言うとドッペルゲンガーの隆文は、再び背中を見せた。


「俺がやりたい事…」


「お前は涼子の娘をレイプした男を粛清したいと思っている」


「そんな事は考えていない」


「いや…お前はそう考えている」


「馬鹿な…」


「だが、リョウコを泣かせたくない。そうとも考えている」


ドッペルゲンガーの隆文は勢いよく振り返った。

隆文はそれに答える事が出来なかった。


「迷っているのだろう。だから俺が背中を押してやった」


「…」


隆文はドッペルゲンガーの隆文がやった事を確信した。


「杉本孝一郎にDVDを送り付けたのはお前か…」


ドッペルゲンガーの隆文は不敵に笑う。


「トキワサイクルのオヤジに病院を紹介したり、リョウコをここに連れて来たのもお前だな…」


隆文は拳を握りしめるが、その拳を振り上げる事は出来なかった。


「ついでに、野村にお灸を据えておいた。平本にも少しな…」


ドッペルゲンガーの隆文はゆっくりと立ち上がった。


「自分のドッペルゲンガーに会ってしまったら間違い無く死ぬ…。それは知ってるだろ」


隆文は無表情なままそう言うドッペルゲンガーの隆文に微笑んだ。


「ああ…知ってるさ。しかしそんな事はもうどうでもいい。俺は最後まで俺として生きる。そう決めたんだ…」


隆文は小さな声で呟いた。


「お前が俺を必要とする時に、また会おう」


ドッペルゲンガーの隆文が隆文の額を人差し指で突くと、隆文は全身を棒の様に硬直させたまま後ろに倒れた。

ゆっくりと倒れながら隆文の意識は遠退いていった。

しかしそれは心地よい眠りに付く瞬間の様だった。






野村は隆文のアパートを出て、街を歩いていた。

後味の悪い話だった。

隆文は病んでいる。

そう考えたのだ。

かつて一緒に仕事をした仲間が病んでいる。


「変わって行くな…」


野村は立ち止まり暮れた空を見た。

都会の空に星は少ない。

野村はポケットからタバコを出し、火を点ける。

再び空を見上げた。

やはりそこには何も無く、見慣れた空だった。

野村はタバコを咥えたまま歩き出した。

夕方のざわつく街のアスファルトに野村の踵の音が響く。

交差点で立ち止まると携帯が鳴っている事に気付いた。

携帯には森野の名が表示されてあった。

野村は電話を取った。


「はい…」


「の…野村さんですか…」


「森野か…」


森野は少し黙っていた。


「はい…」


「何だ…」






森野は暗い部屋の片隅で膝を抱えて怯えていた。

機械の様に口にクラッカーを放り込み、そのパサつく口にコーラを流し込む。


「俺はどうなるんですか…」


クラッカーを飲み込むと電話の向こうの野村に訊いた。

そしてまたクラッカーを放り込む。


「さあな…。お前が人を傷つけたのは事実だ。そのバイク屋のオッサンか有ちゃんが警察に行けば、お前は終わりだな…」


電話の向こうから野村の笑い声が聞こえた気がした。


「そんな事はわかってます。社長は警察には行きません。バイク屋の人にもちゃんと謝って来ます」


森野はまたコーラでクラッカーを流し込み言った。


「じゃあ安心してクソでもして寝てろ」


「俺が言ってるのはこの後の事ですよ。平本社長の新会社の役員にしてくれるって話だったじゃないですか…」


森野は声を荒げた。






信号が変わり野村は歩き出した。


「あの話か…あの話は無くなった。新会社に犯罪者を入れる訳にはいかんだろう」


野村は吐き捨てる様に言った。


「それくらい解るだろう…。お前も使えないヤツだな…。有ちゃんの爪の垢でも飲ませて貰えよ」


「騙したんですか…」


森野は携帯から耳を遠ざけたい程に声を荒げていた。


「騙してなんかないさ。お前、自分が失敗したって自覚無いのか」


元々平本が新会社を作るなどという事実は無かった。

平本が考えた話なのだが、それに上手く森野が乗っただけの話だった。


「そうですけど…」


携帯を通して聞こえる森野の声はかすれていた。


「あんな事までさせられて…。こんな事なら社長を襲うんじゃなかった…」


野村は細い路地に入る。

通りよりは幾分静かで、森野の小さな声でも良く聞こえた。


「おい…森野。お前、何か勘違いしてないか…」


「勘違い…」


「俺は有ちゃんを脅せって言っただけだ。ナイフを使えとか知らないオヤジ切りつけろなんて一言も言ってないぜ」


野村は咥えたままのタバコを道に捨て踏みつけた。


「お前は有ちゃん有ってのお前だ。お前だけピンで使うなんてありえん話だ。少し頭冷やせ」


「…」


森野の声は聞こえなかった。

野村はニヤリと歯を見せた。


「森野…運送屋の格好も似合ってたぜ。その方が向いてるんじゃないのか…」


野村はそう言うと電話を切った。






森野は切れた電話をじっと見つめていた。


野村との話で自分が完全に騙された事が確認出来た。

床に転がるコンビニの袋を引き摺り寄せると、その中には森野にとって二本目の果物ナイフが入っていた。






隆文とリョウコは冷え始めた街を、腕を組んで歩いていた。

隆文がコートのポケットに手を入れると、リョウコはそれに当たり前の様に腕を絡めた。

隆文は一瞬戸惑ったが、それもしっくり来ている気がした。


別に「アラスカ」には一人でも行く事は出来たが、自分を抑える為にリョウコと一緒に行きたかった。


ドッペルゲンガーの自分と会った事、それは夢だったのかもしれない。

隆文はそんな曖昧な記憶を思い出していた。


ふと、いつものバーの前で立ち止まった。


「どうしたんですか…」


リョウコは隆文に訊いた。


「ああ…ココ、行きつけなんだよ…。少し寄って行こうか」


隆文はそう言い、リョウコの手を引いて階段を上って行った。


ドアを開けると正面のカウンターにマスターの河村が立っていた。


「いらっしゃい」


マスターは微笑み、カウンターに二人を招いた。


「女性と一緒なんて珍しい」


マスターはそう言うと、またニッコリと微笑んだ。


「たまにはね…。俺もホモじゃない所、河村さんに見せておかないとね」


隆文はカウンターの上にタバコを出した。


「あら、悲し…仲間だと思ってたのに」


マスターはそう冗談を言って笑った。

それにつられてリョウコも笑っていた。


「何にする」


マスターは笑いながら隆文に訊いた。

隆文はいつものモルト、リョウコはお任せの甘いカクテルを頼んだ。

しばらくすると二人の前にグラスが並んだ。

隆文は自分の前に置かれた琥珀色の酒に浮かぶ丸い氷を指で回した。

リョウコは小さなグラスの白く光る液体をストローでゆっくりとかき混ぜた。


「彼女にはウォッカをベースにラ・フランスのお酒作ってみた」


マスターは隆文の前でそう言った。

リョウコの前のグラスの中で光るクラッシュされた氷は綺麗だった。


「お酒も人生もさ、色々な光らせ方が有ると思うんだよ。こんな風にぼおっと光るのも良いし、煌々と輝くのも良いし…。輝くだけが人生でもないしね。輝かなければダメって事でもない…。誰の人生にも間違いなんてない。自分が信じた人生が正解なんだから…」


マスターは二人にニッコリと微笑みかけて隣に移った。

マスターのそんな心遣いに隆文は緊張を忘れて行った。

そして溜息を吐いた。


「リョウコちゃん…」


リョウコはカクテルから視線を外し、隆文を見た。


「はい…」


隆文もリョウコの顔を見る。

いつも通りニコニコと微笑むリョウコが居た。

隆文はテーブルで切った額の傷に貼った絆創膏を剥がした。


「何から話そうかな…」


隆文は戸惑った。


「私…知ってました」


「え…」


「有山さん、時々感じが違う事が有って…」


リョウコはカクテルのグラスを持ち、一口飲んだ。


「最初に有山さんと一緒にお部屋に行った時…初めてセックスした時」


隆文は周囲を気にしながらリョウコから視線を外した。


「あ、ああ…」


それは隆文では無く、ドッペルゲンガーの隆文だった。


「あの時の有山さんって、今とは別人の様で…。少し怖かったんです。でも、二度目はいつもの有山さんで…。優しい人だなって」


隆文もグラスに口を付けた。

ドッペルゲンガーの自分に勝った気がした。

そんな事を考える自分が滑稽だった。


「別人か…そうかもしれないな」


隆文がリョウコに微笑むと、リョウコはその顔を見て安心したかの様に、


「今日の野村さん…。あんな風に傷とか痣とか…あれも有山さんがやったって言ってましたよね…」


隆文はグラスをコースターの上に置いた。


「そう言ってたな…」


隆文にその実感は無く、他人事の様でそうでない。

その感覚は異様だった。


「きっと有山さんに似た誰かなんじゃないかって私は思います。野村さんが有山さんの事ばかり考えてたんで、そんな風に見えたんじゃないかって…」


リョウコはグラスのカクテルをかき混ぜながら微笑んでいた。

そのリョウコの笑顔を隆文はじっと見つめた。


「リョウコちゃん…。野村さんを傷つけたのは間違いなく俺だ」


隆文は酒の並ぶ棚を眺めていた。


「だとしても…だとしても…」


リョウコはその先の言葉を見付ける事が出来ない様だった。


「俺は近い内に罰を受ける。それがどんな罰なのかわからんが…」


リョウコはその言葉に隆文を心配そうに見ていた。

しばらくの沈黙が隆文には逆に心地良かった。

隆文はまたグラスを口に付ける。


「私…有山さんが好きです」


隆文のグラスは口元で止まる。


「出会った時からユキさんの彼氏で…でも、それでも私…」


隆文は椅子を回しリョウコの方を向いた。

そしてリョウコの体を自分の方へ向け、手を取った。


「リョウコちゃん…。ありがとう」


隆文はそう言うと頭を下げた。

そして頭を下げたまま隆文は泣いていた。

声を殺して泣いた。

泣く理由なんて隆文には無いと思っていた。

この一年程で壮絶な経験をした隆文の事を考えてくれる人など居ないと思っていた。しかし実際は違い、色々な人々が隆文の事を想ってくれているのだ。

もう世の中に忘れ去られていると思っていたが、そんな事は無く、隆文に恋心さえも抱いてくれている人もいるのだ。

嬉しかった。

そしてそれと同時に死に対する恐怖を覚えた。

自分のドッペルゲンガーに会った人間は必ず死ぬ。

それが事実なら隆文はもうすぐ死ぬ事になる。


死にたくない…。


隆文は初めてそう思った。

隆文の涙がリョウコの膝に落ちた。

リョウコはそれに気付くと、隆文の顔を両手で包んだ。

そしてリョウコの頬にも涙が伝っていた。

その二人の涙はカウンターのライトに照らされてキラキラと輝いていた。







「どういう事だ。説明してみろ」


平本は野村を激しい口調で怒鳴り付けた。


「だから辞めたんです。これ以上有ちゃ…有山を追い詰めるのは…」


野村は平本の向かいに脚を組んで座っていた。


「有山に殴られて怖気づいたか…野村」


平本はそう言うと激しくテーブルを叩いた。


「アイツに殴られながら思ったんですよ。こんな事したって何にもならない。そりゃ、アイツが会社潰して、貴方にも損害は有ったでしょう。しかし、悪意が有ってした事じゃない。仕方なかったんですよ」


野村はこめかみに貼られた絆創膏を気にしながら言う。


「有山を恨んでいるヤツは大勢居るんだ」


「そりゃそうでしょうね。しかし、アイツは誠実ですよ。逃げずにちゃんと生きている」


「法が許しても俺は許さん」


平本は再びテーブルを叩く。


「じゃあ、アンタがやればいい」


野村は辛抱堪らず声を荒げてそう言った。

その声に怯んだのか平本は身体をピクリと動かした。


「人の頬を札束で叩く様なやり方…有山は絶対にやりませんよ」


「アイツの方が俺より上だと言うのか」


「そうは言ってません。アイツはどっちかと言うと無能なんでしょう…。けど…」


「何だ…」


「アンタはその無能な有山さえも使いこなせなかった…」


そう言うと野村はゆっくりと立ち上がった。


「そういう事です…」


「貴様…」


平本も勢いよく立ち上がる。


「ああ…そうだ。有山の元社員。どう動くんでしょうね…。有山にしか使えなかったモンスターです。楽しみですな…」


野村は平本に頭を下げた。


「では私もこれで失礼します…」


そう言うとドアを開けた。


「野村…」


平本は歯を擦り減らす程に噛みしめていた。


「有山を狙うのなら、命がけでやって下さいね。アイツはホンモノですよ。誰よりも強い信念持ってるんじゃないですかね…」


野村は部屋を出てドアを閉めた。

野村の気分は爽快だった。

誰も居ない平本の会社は静まり返っていた。

その中を颯爽と歩き、エレベーターホールへ出た。

エレベーターのボタンを押すと、階の表示が平本の会社のフロアに近付いて来る。

野村はその表示を見て微笑んだ。

これで平本との縁も切れる。

それが清々しかった。

野村は一人、視線を床に落とし笑った。


エレベーターがフロアに着き、ドアが開いた。

その時、何かが野村にぶつかり、野村の腹部に激痛が走った。

野村は呼吸をするのを忘れ、顔を上げた。

野村にぶつかって来たのは森野だった。


「森野…」


野村は絞り出す様に言うと、腹に突き刺さったナイフを持った森野の手首を掴んでそのままエレベーターの中に押し込んだ。

エレベーターのドアが閉まる。

野村は自分の血で染まった手で何度も一階のボタンを押した。

森野は震えていた。

しかし野村に突き刺したナイフを握った手を離そうとはしなかった。


「何をやってるんだ…」


野村は森野からナイフを奪い取ろうとしたが、その野村に森野は何度も何度も身体をぶつけ、その拍子にナイフは抜け、床に乾いた音を立てて転がった。

森野はもう一度野村に体当たりをして、転がったナイフを拾った。

野村はエレベーターのドアに打ち付けられ、苦痛に顔を歪める。

冷静な判断が出来なくなっている森野は、手にしたナイフと野村の血を見て動転した。


「ああああっ」


森野は大声を上げて、エレベーターのドアに寄り掛かり立っている野村を何度も何度もナイフで刺した。

そして野村はその場に崩れる様に倒れ込んだ。

返り血を浴びて森野の顔は真っ赤に血塗られていた。

一階に着きドアが開くと、ゆっくりと野村の体はエレベーターの外に倒れた。

森野は慌てて野村を避ける様にエレベーターを降りると走ってビルを出て行った。


エレベーターのドアは閉まる。

そして野村の体にドアが当たるとまた開いた。

そのエレベーターは息絶えた野村の身体で遊んでいるかの様にそれを繰り返していた。







「はい。大丈夫ですよ。二時間コースですね。五万円になりますがよろしいですか。はい。かしこまりました。では、いつものホテル前に十一時に。はい。いつもありがとうございます」


あおいは丁寧に電話を切ると、すぐに電話をかけた。


「もしもし、あおいだけど」


今度は先程と違い、ぶっきら棒な口調だった。


「十一時にいつものホテルに行って」


膝を立ててテーブルの前に座り、長いタバコを咥える。


「うん。いつもの客よ…」


テーブルの上に転がったライターで火を点ける。


「二時間コース。五万だから間違わないでね。終わったら連絡して」


そう言って電話を切り、その携帯をテーブルの上に投げる。

そしてもう一台の携帯を取り、メッセージを入れる。


「祥子。二時間コース。北野のホテル。島田さん」


そのメッセージの宛先はショウジだった。


ショウジとあおいはアラスカでレイプした女の中から数人を選りすぐり、自分たちで管理して売春させていた。

この事はケンイチも知らず、ショウジとあおいが二人だけでやっていた。

ショウジたちの後ろにはヤクザがいる。

そのヤクザにばれる事も許されない。


ショウジがヤクザの高木に、


「女が警察に垂れ込むと言っている」


などと話し、数人を自分たちで囲って使っていた。

ショウジにとってはアラスカよりもDVDよりもこの売春が一番の収入源になっていた。

そしてその中に涼子の娘、涼香もいた。


ショウジからメッセージの返信が来た。


「了解」


短い返事だった。


あおいは下着姿でソファに横になり、タバコの灰をテーブルの上の灰皿に不器用に落した。

こんな事を既に一年以上やっていたが、週末しか営業しないので、足が付く事も無かった。

そこで働く女たちは言うまでも無くDVDをネタに脅されて売春しているのだった。


あおいの携帯がけたたましい音を立て、テーブルの上で振動する。

鬱陶しそうにその携帯をあおいは見た。


「孝一郎パパ」


そう表示されていた。

あおいは起き上がり通話ボタンを押した。


「パパ…どうしたの」


思い切り作った声であおいはそう言った。






隆文とリョウコはバーを出て、アラスカへ向かっていた。


「寒くないか…」


隆文はリョウコに言う。


「大丈夫ですよ…」


リョウコはニッコリと微笑んだ。

そのリョウコの笑顔を見て隆文も微笑む。

深夜まで開いているディスカウントスーパーの前を通ると、入口には人が溢れていた。

その人混みを避けながら二人は歩き、静かな路地に入った。


「俺さ…。会社潰して、世界中が俺の敵になった様な気がしてた…。もう俺の味方なんて一人も居ない。これからは一人で生きて行くしか無いんだって…そう思ってた」


隆文は星の無い都会の空を見上げて言った。

リョウコはその隆文の言葉を黙って聞いていた。


「この先の人生…一人で生きるのかと思うと、何のやる気も起きなかった」


隆文はリョウコに微笑みかける。


「だけど違ってた…俺にはまだ味方が居る。大勢な…」


隆文はリョウコの肩を抱き寄せた。


「世界中が有山さんの敵になっても、私だけは味方ですよ」


リョウコは隆文に微笑んだ。


「ありがとう…」


隆文は礼を言った。

しかし、これからリョウコの弟を追い詰める事になるかもしれない。

それでもリョウコは隆文の味方をしてくれるのだろうか…。

その不安は隆文の頭から消えなかった。

リョウコの弟のショウジは涼子の娘だけでなく、大勢の女を食いモノにしている。

そのショウジのバックにヤクザが付いている事も解っていた。

隆文はそれを考えると気が重かった。

しかし、生きている間にそれだけは明らかにしないといけない。

そんな義務感に駆られていた。


リョウコと並んで歩いているとずっと前からこうしている様な気がしたが、リョウコとは知り合って間もなかった。

それでもこの数日色々な事があり、かなり長い時間を二人で過ごした気になっていた。


「こっちです」


リョウコが立ち止まる。

隆文も立ち止まり、リョウコが腕を引く方角を見た。

確かに暗い路地を入る所で、知らなければ足を踏み入れないエリアだった。

その場所は舗装もされておらず、古びた雑居ビルが数軒有るだけの場所だった。


「どうしたんですか…」


リョウコは不思議そうに隆文を覗き込んだ。


「いや…何でもない」


隆文はその路地へ入って行く。

薄暗い外灯と傾いた看板はそこに有り、それがアラスカだという事はすぐにわかった。


「ここです」


リョウコは嬉しそうに言った。

隆文はその前で立ち止まると、自然と厳しい顔になった。

体中の血液が一気に落ちて行く様な感覚を覚えた。


「どうしたんですか…怖い顔して…」


リョウコの言葉に、我に返る。


「あ、いや…何でもないよ。入ろうか…」


隆文が微笑むと、リョウコは小さく頷いて、アラスカのドアを開けた。







「いらっしゃい…。何だ、姉貴か…」


カウンターの中で咥えタバコでショウジは言うと、リョウコの後から入って来た男をじっと見つめた。

男は黙ったまま、リョウコに付いてカウンターに座った。

店の中には数人の客しか居なかった。


「あれ…何処かで会いましたか…」


ショウジはその男、隆文を見て言った。

隆文もショウジの顔をじっと見つめた。


「どこかな…。俺もこの街は長いからな…」


そう言ってカウンターにタバコ出すと、上に乗せた百円ライターが転がった。


「あ…」


「あ…」


二人はお互いに同時にお互いを指さした。


「朝…」


「そこの喫茶店で…」


「ライターくれた…」


ショウジは後ろの棚から自分のタバコの横に置いたライターを取った。


「この、ライターですよね」


「そうだそうだ。いや、君だったのか、リョウコちゃんの弟は」


隆文はニッコリと微笑んでそう言った。


「姉貴がお世話になってます」


ショウジは隆文に頭を下げた。


「いや…お世話になってるのは俺の方なんだよ」


「知ってるんですか…うちの弟…」


リョウコは不思議そうに二人を交互に見た。


「雨宿りしてる時に、そこの喫茶店で会ってさ…」


「そうなんだよ。ライター貰ったんだよ」


ショウジは嬉しそうにリョウコに言った。

リョウコには何の事か解らなかったが、それでも嬉しそうだった。


「偶然もあるもんだ…」


隆文がタバコを咥えると、ショウジは素早く火を点けた。


「ありがとう」


隆文は礼を言う。

ショウジは小さく頭を下げて、


「何にしますか」


と訊いた。


「私はいつもの…」


リョウコは誇らしげにそう言う。


「じゃあ俺は黒薔薇をロックで貰おうかな…」


隆文は煙を吐いた。


「わかりました」


ショウジはすぐに手を洗い、グラスを取り出すと、氷をアイスピックで削り始める。

その光景を隆文はじっと見つめていた。


入口のドアが開く音がした。


「ただいま」


ケンイチが両手に大きな袋を提げて入って来た。


「ケンちゃん。おかえり」


リョウコは親しそうにケンイチに声をかけた。


「ああ…姉さん」


「ケンちゃんの姉さんじゃないけどね」


リョウコはそう言うと口元を手で隠し笑った。


「あれ、今日は男連れっすか」


ケンイチはカウンターの端に袋を置く。


「そうよ。私だって彼氏の一人や二人は…」


「二人いちゃまずいんじゃないの…」


ショウジは隆文とリョウコの前にグラスを置いた。


「黒薔薇と、いつもの…です」


ショウジは二人に微笑んだ。


「いつものって何なの…」


隆文はリョウコのグラスを見ながら訊いた。


「この子が私の為に作ってくれたカクテルなんです。この店でしか飲めない…「リョウコ」ってカクテルなんですよ」


リョウコは静かに言った。

それを聞いてショウジは微笑む。


「姉貴の為に作ってみたんですよ。姉貴の好きなモンだけ入れて…」


ショウジはナッツの入った皿を二人の前に出した。


「まあ、姉貴にしか出さないんで、味の方はわかんないんですけどね…」


「酷いな…私が味わかんないみたいじゃない」


リョウコはまた、口を押さえて笑っていた。

隆文は二人の姉弟の嬉しそうな会話を微笑みながら見ていた。


「じゃあ、頂きます」


隆文はロックグラスに口を付けた。


「姉貴、ちゃんと紹介してよ」


ショウジはカウンターに両手を突き、身を乗り出してリョウコに耳打ちした。


「あ、こちら有山さん」


リョウコは掌を隆文の方へ向けた。


「そしてこれが弟のショウジです」


ショウジは隆文に改めて頭を下げた。


「ショウジです」


「有山です」


その変な光景を見てリョウコは声を出して笑った。


「何がおかしいんだよ」


ショウジはリョウコに食い付く様に言う。


「だって…。二人とも知ってるんでしょ。改まると可笑しい」


更にリョウコは笑い出した。


「彼氏なの」


笑うリョウコにショウジは訊く。


「違うわ…。先輩の彼氏…かな」


リョウコは笑いながら言う。

隆文はその二人を見て再び微笑み、店の中を見渡す。

入口に近いボックス席に居る数人の客。

もう一つ奥にあるボックス席…それは微かな記憶だが、涼子の娘がレイプされるDVDが撮られた場所の様に見えた。


隆文の顔から笑みが消えた。

そして、視線をショウジの方へ戻す。

カウンターに立つショウジの後ろの棚に数枚のDVDが乱雑に置かれていた。


ここで撮られたDVDなのだろうか…。


隆文はじっとそのDVDを見つめた。


「どうしたんですか…」


ショウジは隆文を見て訊いた。

隆文はその言葉にショウジを見た。


「あ、いや…」


ショウジの後ろの棚を指さした。


「そのDVD…何のDVDなの」


隆文がショウジに訊くと、一瞬にしてショウジの顔色が変わった。


「あ、ああ…これですか」


ショウジは数枚のDVDを手に取り、隆文に見せた。


「デスメタルのライブのDVDですよ。興味ありますか…」


隆文はそのショウジの手からDVDを一枚取り、その真っ白いDVDを眺める。


「いや…きっと頭が痛くなる」


そう言うと微笑んだ。


「てっきりAVかと思ってね」


「もう、有山さんったら…」


横からリョウコが肘で隆文を突いて来た。


「そんなの好きなんですか」


「男なら誰だって好きだろう。なあ…」


隆文はショウジに話を振った。


「もちろんです」


ショウジはそう言って微笑んだ。


「機会が有るなら一度撮ってみたいとか出てみたいとか思うよな…」


隆文はさり気なく言う。


「やだ…有山さん。私…隠し撮りされたかな…」


リョウコは少し酔っている様で、いつもより口数が多い。


「姉貴…有山さんとそんな関係なのかよ…」


ショウジはリョウコにニヤリと笑いながら訊いた。


「うーん。ちょっとだけ…かな」


リョウコは親指と人差し指の隙間を開けて瞳の前に出した。


「うわ…姉貴のビデオは見たくねー」


ショウジは大袈裟に声を出して笑っていたが、隆文には上手く話を誤魔化す為の演技にしか見えなかった。

隆文がDVDをショウジに返すと、そのDVDを棚の下の引き出しに入れた。

隆文はその動きをじっと目で追っていた。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る