第7話 死を迎える前に…





由紀子は両手に紙袋を提げて、隆文の部屋の階段を上って行く。

部屋のドアノブを握るとカギが開いていた。


「あれ…。開いてるわ」


玄関で靴を脱いで部屋に入ると、荷物をテーブルの上に置いて上着を脱いだ。


明かりの点いていない静かな部屋。


由紀子はとりあえず一段落したので、荷物を取りに一旦帰って来たのだった。

夜行バスが早朝に着いたので、その足でまず隆文の部屋に寄った。


「何…酔っ払って寝ちゃったのかしら…」


由紀子はベッドルームに入ると、窓が開いていて寒かった。

腕を摩りながら窓を閉め、カーテンを開けると、


「こら隆文…」


と言いながらベッドの中に潜った。

由紀子はベッドの中で隆文の身体を触ると、いつもと様子が違っていた。

その違和感に勢いよく起き上がり毛布を捲った。

そこには隆文のワイシャツだけを羽織ったリョウコが眠っていた。

由紀子は言葉を失い、眠るリョウコの顔をそっと見つめた。


「リョウコ…ちゃん…よね…」


由紀子はほぼ裸の状態で眠るリョウコの顔を覗き込んだ。


「何…どうなってるのよ…」


隆文とリョウコがそういう関係になっている事は一目瞭然だった。

少し怪訝な顔をして由紀子はベッドから出て、熟睡するリョウコにそっと毛布を掛けた。


「隆文は何処に行ったのかしら…」


由紀子は腕組をして睨む様に部屋を見回し、鼻息を荒くしながらダイニングテーブルに座った。






隆文は商店街で早くから開くパン屋でパンを買って、部屋へ戻った。

軋む階段をそっと上がり、玄関のドアノブを握るとカギがかかっていた。


「しまった…」


隆文はカギを持たずに出てしまったのだった。

リョウコが内側からカギをかけてしまったのだろう。

隆文はドアを控えめにノックしながら小さな声で、


「リョウコちゃん。俺だ、開けてくれ」


そう言うとすぐにカギが開き、隆文は安堵してドアを開けた。


「いや…カギ忘れて出ちゃったよ。パン買って来たよ…」


そう言いながら靴を脱ぎ、顔を上げると、そこには腕を組んで怖い顔をした由紀子が立っていた。


「ユキ…」


隆文は驚いて壁に背中を付ける。


「リョウコちゃんじゃなくて悪かったわね…」


由紀子は眉間に皺を寄せて隆文を睨んでいた。


「帰ってたのか…」


隆文は由紀子の脇をすり抜け、部屋に入った。


「夜行バスで帰って来たのよ。さっき着いたから、驚かせようと思ってやって来たら、こっちが驚いたわよ…」


隆文は椅子に座り、パンの入った袋をテーブルに置いた。

そして、動揺を隠すためにタバコに火を点ける。



「ああ…昨日な、リョウコちゃんの弟さんのバーに一緒に行ったんだよ。そしたらリョウコちゃんがベロベロに酔っちゃってさ…。仕方なく泊めてあげたんだよ」


隆文はギリギリの言い訳をした。


「泊めてあげて、抱いてあげたのね」


「え…」


隆文はタバコを持った手を止めて。


「何を言ってるんだよ。ユキの後輩だろ…。そんな事する訳…」


「ゴミ箱見ちゃったわ」


由紀子の言葉が隆文の言葉を遮る。


「ちゃんと使ったモノが捨ててあったわよ」


女は怖い。

どんな嘘も通用しない事を隆文は悟る。


「あー。あー、俺も酔ってたからな…」


隆文は由紀子から視線を外し、タバコを吸った。


「何考えてるのよ」


由紀子はダイニングテーブルをドンと両手で叩いた。


「どうしたんですか…」


その音で目覚めたリョウコが起きて来た。

そして由紀子が居る事に気付いた。


「ゆ…ユキさん」


リョウコは部屋に引っ込んで慌てて服を着た。

リョウコが服を着るまで隆文の部屋は静まり返っていた。

リョウコは髪の毛の乱れを直しながら、寝室から出て来た。


「リョウコちゃん…貴女も座って」


由紀子は顎で空いている椅子を差した。


「はい…」


リョウコも俯いたまま大人しく椅子に座る。


「隆文…説明してもらえるかしら…」


由紀子は椅子にもたれ、腕を組んでいた。

説明も何も、多分何を言っても由紀子は隆文を許さない事は、その口調から推測出来た。

隆文は下を向いて黙っていた。

目の前に置かれた灰皿の中の吸い殻だけが増えて行く。

何も言わない隆文を由紀子は睨む様にじっと見ていた。


「私からお願いしたんです…」


リョウコが俯いたままそう言うと、由紀子はゆっくりとリョウコの方を見た。


「隆文…貴方、女にこんな事言わせて恥ずかしくないの…」


「そうじゃないんです…。本当なんです」


リョウコは顔を上げて由紀子に言う。


「私が…寂しくて、辛くて…どうしようもなくて…。抱いて下さいって。ごめんなさい…」


リョウコは再び俯きながら言った。

由紀子は再び椅子にもたれ、溜息を吐いた。


「何か世界一複雑な気分よ…。自分の彼氏と彼女が出来ちゃうなんて…」


真面目な顔で由紀子は言った。


「良いわよ。許してあげるわ…」


隆文とリョウコはその意外な言葉にゆっくりと由紀子を見た。


「何よ…」


由紀子はキツイ口調でそう言った。

そして次の瞬間、微笑んだ。


「私ね…田舎に帰る事にしたわ…」


由紀子は紙袋からお土産のお菓子を取り出した。


「母がさ…。一人になっちゃうし…。私が帰ってあげる事にしたのよ」


隆文たちの前に九州の有名な銘菓が並んだ。


「お前の実家…九州だったのか…」


隆文はそのお菓子を見て呟いた。


「そうよ。隆文、お花贈ってくれたじゃない…。何言ってるのよ。色ボケかしら…」


由紀子は皮肉たっぷりに言う。

隆文は思い出した。

しかしそれは隆文が贈ったモノでは無く、ドッペルゲンガーの隆文が贈ったモノだった。


「そうか…そうだったな…」


「私、田舎に帰るから、後はお二人でご自由にどうぞ…」


由紀子はお菓子の包みを開け出した。

全部のお菓子の包みを開けて、


「リョウコちゃん…悪いけどお茶入れてくれないかしら…お腹すいちゃって…」


そう言うと微笑んだ。


「はい…」


リョウコは立ち上がり、急須にお茶を入れてポットのお湯を注ぎ、そして由紀子の前にお茶を差し出した。


「お二人もどうぞ…。自分で食べる為に買って来たんじゃないんだから…」


由紀子は強い口調で言う。

リョウコはすぐに隆文と自分のお茶を入れてテーブルに置いた。

由紀子は自分が買って来たお菓子を物凄い勢いで食べていた。


「パンも買って来たけど…」


隆文は自分の買って来たパンを袋から出すと、口の中をいっぱいにした由紀子は、


「食べるわよ」


と、多分、そう言ってそのパンにも手を伸ばす。


「何やってんのよ…二人とも食べなさいよ」


由紀子はお茶で口の中のモノを流し込んでそう言った。


「ああ…」


「頂きます…」


隆文とリョウコもお菓子に手を伸ばした。

隆文はふと上着のポケットに入っていた缶コーヒーを思い出しテーブルの上に立てた。

その缶コーヒーを触りながらドッペルゲンガーの隆文の事を思い出した。


「二人とも聞いてくれるか…」


隆文は顔を上げて二人を見た。






海辺の大きな公園の石碑に寄り掛かる様にして森野は眠っていた。

近くにはホームレスの段ボールハウスもあり、ここならば目立たないだろうと思い、そこで夜を明かした。


昨日の夜、森野は野村を刺殺した。

その時の感覚は今も両手に残っていて、それを思い出すと身震いがした。

駅前に二十四時間開いているジーンズの店が有り、そこで朝方、服を買って全部着替えた。

野村の血の付いた服は道端に置いてあったゴミ袋を開けて、その中に突っ込んだ。


その服屋の袋にコンビニで買った食料と果物ナイフが入っていた。


まだ、俺にはやる事が有る…。


森野は無意識に、その袋の中の果物ナイフを握っていた。


昨日、平本の会社に行く前に、古山と東田に電話を入れた。







「どうやら騙されたのかもしれない…。俺は平本社長と野村さんを殺そうと思う」


古山は電話の向こうで黙っていた。


「一緒にやってくれないか…」


森野は古山にそう言った。


「森野さん…勘弁して下さいよ。俺はもう森野さんには関わりたく無いんですよ。刃物振り回すなんて尋常じゃないですよ…。犯罪者になるなんて嫌ですから。勝手にやって下さい」


古山は森野にそう言った。

森野も返事は予測出来ていた。


「そうか…。わかった」


森野は電話を握ったままニヤリと笑った。


「それから…」


「何…」


「もう二度と連絡して来ないで下さい。迷惑ですから…」


古山はそう言うと電話を切った。

森野は切れた電話を握ったまま怒りに震えていた。






その後、東田にも電話を入れたが、まったく古山と同じ様な対応だった。

古山から先に連絡が行ってたのかもしれない。

そんな事を森野は朝の海を見ながら思い出していた。


自分が考えている様な関係では無かったって事か…。


森野はそんな希薄な関係を強い絆だと考えていた事が可笑しくなり、広い公園の片隅でニヤニヤと笑っていた。


その森野の前に立つ男が居た。

森野はその男にピクリと身体が反応した。


警察だろうか…。


そう思い、袋の中の果物ナイフに巻いたタオルを片手でゆっくりと解き、その男を見上げた。

そこには隆文が立っていた。


「社長…」


森野はそう呟き、袋の中のナイフから手を離した。


「何しに来たんですか…。俺を笑いに来たんですか」


隆文は答えなかった。


「何とか言って下さいよ」


隆文が森野に背を向けて岸壁の方へ歩き出すと、森野は袋を提げて後を付いて行く。


「何で野村を殺した…。お前が憎いのは俺じゃなかったのか…」


隆文は森野に背を向けたまま言う。


「平本社長に嘘をつかれた事にムカついたんです」


森野は隆文の背中に向かって言った。


「嘘なんて街には溢れてるさ」


「そうですけど…」


森野は隆文の背中を見ながら、段になっている岸壁に座る。

ほとんど眠っていない事で、立っているのも辛かった。


「平本も殺すのか…」


「はい…。そのつもりです」


森野は顔を伏せて言う。


「俺は俺を騙すヤツが許せないんです」


「相変わらず、おぼっちゃまだな…お前は」


隆文は振り返り手摺にもたれかかる。


「この世の中には騙すヤツと騙されるヤツ。その二種類の人間しか存在しない。自分が騙される方に回る事だってたまにはあるさ…」


隆文は無表情な顔で森野に言うと、森野は下を向いたまま黙っていた。


「平本を殺した後、どうするんだ」


「逃げます。何処までも…」


森野は顔を上げた。

その目は虚ろで、何かに取り憑かれた様な目つきだった。


「そうか…。わかった」


隆文は森野の傍に歩み寄った。


「困ったら連絡して来い…」


そう言うと森野の肩を叩いた。

そして、ドッペルゲンガーの隆文は歩き出した。







「ドッペルゲンガー…」


由紀子は隆文の話す内容がまったく理解出来なかった。


「何よそれ…。ロックバンドか何か…」


「怪奇現象ですよ。もう一人の自分が現れるっていう…」


リョウコがそう言うと隆文は二人の顔を交互に見ながら頷いた。


「そしてそのドッペルゲンガーに自分が会ってしまうと必ず死ぬと言われているんだ」


隆文はタバコを咥えた。


「それがどうしたのよ…」


由紀子はおもむろに怪訝な顔をした。


「ユキの実家に花を贈ったのは俺じゃない…。もう一人の俺だ」


隆文はタバコにライターで火を点けた。


「現に俺はユキの実家を知らない。もちろん今も…」


由紀子は眉間に皺を寄せた。


「それからリョウコちゃん…。リョウコちゃんが最初に俺に連れられてここに来た日。あれも俺じゃない…。もう一人の俺だ」


隆文は煙を吐いた。


「まだまだ有るんだ…。二人とも、様子の違う俺と話した記憶はないか…」


由紀子とリョウコは顔を見合わせ、記憶を辿り出した。


「有ります…」


リョウコは小さな声で言った。


「私もあるわ…」


由紀子もそう言う。


「それは多分俺じゃない…俺のドッペルゲンガーだ」


隆文はまだ長いタバコを灰皿に押し付けた。


「そしてそのドッペルゲンガーに俺は会ってしまった…。ここで話をした。そして今朝も…」


そう言うとテーブルに立てた缶コーヒーを取り、再びテーブルに音を立てて置いた。


「何よ…そのオカルト…」


由紀子は息を飲んだ。


「じゃあ…隆文はもうすぐ死ぬって事なの…」


その言葉にリョウコも隆文を見た。


「どうやらそうらしい…。そのドッペルゲンガーの俺が言うにはな…」


隆文はテーブルの上の缶コーヒーを開け、一口飲んだ。


「だから、死ぬまでにすべて片付けておきたいんだよ…。今抱えている事を…」


「隆文…」


由紀子は何か言いたげに眉をひそめた。

隆文は手を上げて由紀子を制した。


「良いんだ…。死ぬのは怖くない。俺はそれ程に色々な人に迷惑をかけた。自棄になった事もあった。その時はユキ。お前に助けられた。だけど…法的には許されても、人として俺を許せない人は大勢いるだろう」


隆文はそう言うと微笑んだ。


「けど…嬉しかったんだ。どれだけ人に白い目で見られても、死んだ様な目で見られても、俺には味方が居た。それが、ユキ、お前だったり、リョウコちゃんだったり…。それだけで充分だ…」


隆文は顔を伏せた。

昨日、リョウコに見せた涙を思い出し、もう誰にも涙を見せたく無かった。


「わかったわ…」


由紀子はしっかりと隆文を見ていた。


「私も手伝うわよ」


「ユキ…」


「その前に…」


由紀子はリョウコの方を向き、リョウコの手を取った。


「リョウコちゃん。隆文を支えてくれてありがとう」


そう言うと頭を下げた。


「そんな…」


リョウコも由紀子の手を握り返し、頭を下げた。

二人は手を握り合ったまま、お互いの顔を見て微笑んでいた。


「さあ、説明してちょうだい…。今、隆文が抱えている事…」


隆文は微笑みながら頷いた。

そして、


「その前に飯だ…。腹が減った…」


隆文は微笑んだ。






隆文はオヤジに借りた原付に乗ってトキワサイクルにやって来た。

原付を店の前に停めて、店の中を覗く。

店の中には隆文の原付がピカピカになって停めてあった。

店のドアを開けて中を見回すが、オヤジの姿はどこにも無かった。


朝食を由紀子とリョウコと三人で食べた。

その後、この数日で起こった事を全部話した。

涼子の事は伏せておいたが、知り合いの娘が被害に遭ったと話しておいた。







「そんな事が有るのね…この街でも」


由紀子は驚いていた。


「ああ…良いヤツも居れば悪いヤツも居る。大都会だけの話じゃない。人が居れば犯罪は起きる」


隆文はそう言った。

リョウコはそのDVDを撮っているのが自分の弟である事を自分で話した。


「弟…どうするの…」


「犯罪は犯罪ですから…」


隆文が恐れているのは警察ではなく、ショウジの後ろに居るヤクザと孝一郎が使うヤクザだった。

闇の世界で葬られる事こそが隆文が一番恐れていた事だった。


「整形して顔でも変えて、しばらく身を隠すしか方法は無いな…」


隆文が冗談交じりにそう言うと、由紀子とリョウコは瞬きもせずに隆文をじっと見つめる。


「何だよ…」


「それよ…」


由紀子が言うと、リョウコもその言葉に頷いた。


「何言ってるんだよ…そんな事出来る訳…」


隆文はそう言いながら由紀子を見た。


「それは私に任せてよ…」


由紀子が胸を張って言う。


「そうか…」


隆文は忘れていた。

由紀子は整形マニアと言われる程に体をいじっている事を。

整形に関しては由紀子の右に出る者は居ないだろう。


「しかし普通の医者じゃ…」


「あら…私が普通の医者で整形してると思ってたの」


由紀子は誇らしげに言う。


「威張るところじゃないだろ」


隆文は苦笑した。


「大丈夫なのか…」


「大丈夫よ。私が整形してるのは私の元彼。いっぱい弱み握ってるから、いつもタダみたいな値段でやってるのよ」


隆文は頭を抱えた。

ますます威張って言う事では無い。


「わかった」


隆文がそう言うと由紀子とリョウコは二人で声を上げて喜び、自分たちのタイプの顔にショウジの顔をしようと二人は話し盛り上がっていた。


やはり、女は理解出来ない…。


隆文は苦笑した。

後は涼子の方だった。






隆文はトキワサイクルの前から涼子の電話を鳴らした。

ドッペルゲンガーの隆文に聞いた話によると、孝一郎の目の前で愛人が自殺したと言う。

今、涼子の家は少なからず大騒ぎになっている筈だった。

数回コールすると涼子は電話に出た。


「隆文…」


「涼子か」


涼子の声は意外にも普通だった。


「大丈夫か」


「杉本の件かしら…大丈夫よ。あの人が殺したってのなら別だけど…」


「そうか…」


隆文はトキワサイクルの周囲を見渡した。


「例の件だけどな…」


そう言うと、


「ああ…あの件ならもういいわ」


「もういい…」


「ええ…。なんか冷めちゃったわ。涼香もこれ以上、事を荒立てて欲しくないって言ってるし…」


その言葉を聞いて隆文は安堵した。


「そうか…」


「うん…でも…」


涼子は少し声を小さくした。


「杉本は別よ。あの人、帰って来てないから…。もう既に手を回してたら…」


孝一郎が情報を何処まで掴んでいるのかはわからない。

もし、愛人のあおいにすべてを聞き、動いているとしたら、ショウジは既に狙われているかもしれない。


「そうか…」


隆文は眉間に皺を寄せた。


「涼子…。本当は今日、会って話がしたかったんだが、どうやらそんな時間も無さそうだ」


「何…どうしたの…」


涼子は隆文の言葉を心配そうに訊いた。


「俺の最後の願いを聞いてくれるか…」


隆文は高架を通る電車が過ぎるのを待って涼子に言った。


「何…最後って…」


涼子は隆文の言葉を冗談だと思ったのか笑っていた。


「どうしたのよ…」


「俺は、杉本さんが手を回したかもしれないヤクザから、君の娘をレイプしたヤツらを守る。これ以上誰にも犯罪者になって欲しくない。君には申し訳ないが…」


隆文は電話を握ったまま俯いた。


「ううん…。是非そうしてあげて…。私も…娘も…涼香もそう思ってるから…」


涼子は涙声でそう言った。


「ありがとう。君にそう言ってもらえると気持ちも楽になるよ」


隆文は高架の天井を見た。


「とりあえず、この街からは出て行ってもらう。君の娘にも二度と接触する事も無いだろう。早く忘れさせてあげてくれ…」


「ありがとう」


涼子は流れる涙を拭く。


「それと…」


隆文は鼻の奥がツンとする感覚を覚えた。


「何よ…」


涼子は涙声のまま笑っていた。


「変な隆文…」


「もう…会えないかもしれない」


隆文がそう言うのと同時に高架を電車が通過した。


「え…何…。今、何て言ったの」


涼子には聞こえなかった様だった。

隆文は微笑んだ。


「いや…何でもない。また連絡するよ…」


隆文はそう言うと電話を切った。


トキワサイクルのオヤジはまだ帰って来ない。

隆文は借り物の原付を他の原付が並んでいる所に並べて止めた。

そしてヘルメットを取り、店の中に入ると、棚の上に自分のヘルメットを置き、原付のカギを机の上に置いた。

近くに有ったメモを取り、オヤジ宛てに伝言を残す事にした。


「オヤジさんへ。原付、お返ししておきます。私の原付は勝手を言い申し訳ありませんが、もう少し預かっておいて下さい。有山」


そう走り書きし、店を出て隆文は自分の部屋へと歩き出した。

空は徐々に冬の形相を帯び始めていた。






隆文との電話が終わった涼子は自分の部屋を出て、リビングへ下りて来た。

リビングでは娘の涼香が出掛ける準備をしていた。


「あら…何処か行くの…」


「うん…少し気晴らしにね…」


涼子は涼香の服装がいつもと違う気がした。


「何か、今日はいつもと違うわね…上から下まで真っ黒じゃない」


涼子は涼香に笑いながらそう言った。


「あー。この間せっかく買ったからさ」


涼香は微笑む。


「何かゴキブリみたいよ」


「酷いなあ」


もう娘の涼香に陰りは無い様に見え、元の娘に戻ってくれた気がして涼子は嬉しかった。


「ねえママ…」


「なあに」


「パパ…まだ警察なのかな…」


涼香は涼香なりに孝一郎の事を心配しているのだろう。


「そうだと思うわ。でもパパが殺した訳じゃないんだし、すぐに戻ってくるわよ」


涼子にはどうでもいい話だった。

愛人が夫の目の前で飛び降り自殺をした。

その知らせを涼子は警察から電話で聞いた。

しかし、それを聞いても何も感じなかった。

詳しい内容は涼子も知らなかったが、人が一人、死んだ事は事実だった。

それを聞いても何も感じなかった自分に気付き、涼子は夫、孝一郎に対し、愛情が完全に残っていない事に気付いた。


「あんまり遅くならない様にね…」


涼子は涼香に言った。


「わかってるって。先輩とボウリングにでも行って来るから」


涼香はそう言うと立ち上がった。


「じゃあ、行ってきます。ママも気晴らししてくれば」


涼子は涼香に微笑んだ。


「そうね…」


涼子は夫が警察で事情聴取されているのにフラフラと気晴らしする気分には流石になれなかった。

涼子自身がそう思っているのか、世間体の問題でそうしようとしているのか、それは今の涼子にはわからなかった。


涼香はボストンバッグを提げて出て行った。


出て行った涼香の事よりも、涼子はさっきの隆文の様子が気になっていた。

隆文に会いたい。

そう思ったが、今日だけはそれも許されない事だろう。

涼子は昨夜座っていた椅子に座り、そこから広がる街を見た。


そして、ふと何かを思い付いたように突然立ち上がった。






森野はセンター街の人混みの中をフラフラと歩いていた。

平本の携帯に公衆電話から何度か電話してみたが、一向に出る様子は無かった。


しばらくしたらもう一度電話してみよう。


森野はそう考えて、人混みの中に紛れる。

向こうから二人の警官が歩いて来るのが見え、素早く脇道に逸れ、地下街への階段を下りた。

自分の事を探している警官とは限らないが、用心に越した事は無い。

地下の通路を森野は肩を窄めて目立たない方向へと歩いた。

何処かへ行く当ても無い。

自宅にも既に警察は来ているだろう。

森野はそれを想像すると笑みがこぼれた。


「もう終わりだな…」


森野は人混みの中で立ち止まり、ふと、そう呟いた。


駅やタクシー乗り場には大勢の警官が立っていた。

バス乗り場も同様で、森野が車を停めた駐車場の入口にも数台のパトカーがパトランプを回しながら停まっていて、完全に森野はこの街で包囲されている。

森野一人の為に、大勢の人間が動いている事を、森野は誇らしく感じていた。


「何でこうなってしまったんだろうか…」


森野は周囲を見渡しながらまた呟く。

そして、ふと足を止めた。

自分の周囲の人々は誰一人、自分に気付く事も無く、ただ足早に歩いて行く。

森野はその色も音も無い世界で何かを見付けた気がした。


そうか…。

やっぱり始まりはあそこに有るんだ…。


森野は何かを決意したかのように顔を上げ、今までと違う足取りで歩き出した。






県警本部を孝一郎はフラフラと出て来た。

あおいの自殺の件で長い事情聴取をされ、ようやく解放されたのはもう正午を充分に過ぎた時間だった。

昨夜から一睡もしていないため、太陽がやけに眩しく感じた。

視線を向けると、その孝一郎の前に孝一郎より若い男女が立っているのが見えた。


あおいの両親…。


何故か孝一郎にはそれが一瞬でわかった。

何処となくあおいの面影があったのだろう。

その二人は孝一郎に前にゆっくりと歩み寄り、いきなり孝一郎に掴みかかった。


「貴様…。恥ずかしく無いのか…。自分の娘と歳も変わらない雪子を…」


県警本部の入口に警護の為に立っていた警官が走って来て、二人の間に割って入ろうとするが、それを孝一郎は制した。


「いいんだ…。話をしているだけだから…」


警官たちは二人から少し離れると、あおいの父親も孝一郎の胸倉を掴んだ手を離した。


孝一郎は自分の娘に対する愛情を、あおいの父親の震える腕から痛い程感じた。


この場でこの父親に殺されても文句は言えまい…。


そう思った。


殺されても仕方ない…。


しかし、まだ孝一郎にはやらなければいけない事があった。

自分の娘、涼香をレイプした男たちの後始末である。

孝一郎は歯を食いしばってコンクリートの上に膝を突き、頭を下げた。


「申し訳…、ありませんでした…」


孝一郎はそう言った。


「申し訳ありませんでした…。申し訳ありませんでした…」


孝一郎は繰り返し二人にそう言った。

あおいの両親はその孝一郎を睨んで、ツカツカと県警本部に入って行った。

孝一郎は土下座して頭を下げたまま、しばらくその場を動かなかった…。






隆文は自分の部屋に戻ったが、部屋には誰も居なかった。

リョウコも由紀子も自分の部屋に戻ったのだろう…。


隆文はフラフラと身体を投げ出す様にベッドに横になった。

昨日から一睡もしていなかったが、不思議とまったく眠く無かった。

じっと見慣れた天井を見つめ、ポケットから携帯を出すと、同じ倉庫でのアルバイト仲間の佐々木に電話をかけた。


「はい。佐々木です」


語尾を伸ばす癖のある佐々木はすぐに電話に出た。


「佐々木君…俺、有山だけど…」


「どうしたんですか。こんな時間に…」


佐々木は何かを食べながら話している様子だった。


「今日、どうしても外せない用事が有ってさ。バイト休むわ。伝えといてくれないか」


隆文は焦点の合わない目をしていた。


「あー、女っすか…」


隆文はこの佐々木の言葉で、一気に気持ちが和んだ。


「まあ、そんなところだ…」


「良いな…。俺にも紹介して下さいよ」


佐々木はそう言うと笑った。


「今度な」


「約束っすよ」


「ああ…約束するよ」


隆文も笑った。


「じゃあ課長には言っておきます。一個貸しですからねー。女頼みますよ」


若いヤツは悩みが無いなどとよく言うが、若いヤツは若いヤツなりに悩みを抱えている。

隆文は佐々木と話をしてそう感じていた。

一見、軽く見える佐々木を憎めなかった。

佐々木だけじゃない。

自分の会社に居た若いスタッフも同じだった。

それどころか、ある意味、家族の様にも感じていたのだった。

それが故に会社を潰し、彼らを路頭に迷わせた事が隆文は辛かった。


ドッペルゲンガーの隆文が言うには森野は野村を刺殺してしまったと言う。

自分のせいで森野を犯罪者にしてしまった。

そう考えると胸が痛かった。


「お前のせいじゃないさ…」


ドッペルゲンガーの隆文が隆文を覗き込んでいた。


「お前…」


隆文は素早く身体を起こした。


「やたらと現れるな…。もう俺の死期は近いのか…」


ドッペルゲンガーの隆文は答えず、窓辺まで行き、外を眺める。

それを見て隆文はダイニングテーブルへ移動した。


「座らないか…」


隆文のその言葉に振り返り、ドッペルゲンガーの隆文もダイニングテーブルへ移動した。


「杉本孝一郎が出て来た」


ドッペルゲンガーの隆文はそう言い椅子に座った。


「そうか…」


隆文は立ち上がり、冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを二本出し、ドッペルゲンガーの隆文に渡そうとしたが、


「お前はいらないんだったな…」


と一本を冷蔵庫に戻し、ドッペルゲンガーの隆文の向かいに座った。


「お前…本当に死ぬのは怖くないのか…」


「ああ…。死んで当然だ…。とうとう殺人犯まで生んでしまったんだからな…」


隆文は力無く微笑んだ。


「森野が馬鹿なだけだろう…」


「馬鹿だろうが何だろうが、アイツは俺のせいで人生を狂わせたんだ。俺がその罪を背負うさ…」


隆文はペットボトルを開けて水を飲んだ。


「人の罪なんて背負える訳が無い…。森野は森野で制裁を受ける事になる。野村もそうだ。もちろんこの先、平本も…」


「そして、俺もだ…」


隆文は小さな声で呟いた。


「お前は制裁じゃない…。運命だ」


ドッペルゲンガーの隆文は首を左右に振った。


「運命か…それじゃ救われんな…」


隆文は髪を掻き上げて頭を掻いた。


「死ぬのは怖くないんだろう」


ドッペルゲンガーの隆文には相変わらず表情が無かった。


「ああ…怖くはない。だが抵抗はする。出来れば死にたくはないからな…」


「お前らしいな…」


「お前らしいだろ…」


隆文は身を乗り出して微笑んだ。


「お前に…いや、俺に運命を変える程の力があるとは思えん…。次に会うのが楽しみだ…」


ドッペルゲンガーの隆文はそう言うと立ち上がった。


「そうだな…。まあ、それでも精一杯頑張ってみるさ…」


隆文がそう言うと、ドッペルゲンガーの隆文は無表情なまま頷いた。


「天国への階段の下で待ってるよ…」


そう言うとドッペルゲンガーの隆文は寝室へと入って行った。

隆文が振り返り寝室を見ると、既にドッペルゲンガーの隆文はそこには居なかった。


隆文はそれを見て苦笑した。


一人残された隆文は手に持ったペットボトルを思い切り壁に投げ付けた。


「俺はまだ死ねない…」


そう呟いた。






涼香は帽子を深く被り、歓楽街の入口にあるコンビニの前に立っていた。


季節は秋から冬に移り変わるところだった。

日暮れは日に日に早くなり、闇の時間は街を包み始めていた。


涼香は涼子や孝一郎が考えるより大人だった。

孝一郎の愛人の事も、涼子が会っている男の事、そして最近中絶手術をした事も知っていた。

涼子がコソコソと電話で話しているのを何度も聞いていた。

涼香は家庭が崩壊しているのを誰よりも先に感づいていたのだった。


黒のジャンパーのポケットには孝一郎がワインを開けるのに使うナイフが入っていた。


自分をレイプしたショウジたちが憎い訳じゃなかった。

そんな事よりも涼子と孝一郎に復讐したい。

そんな思いでこの歓楽街の入口に立っていたのだった。

ショウジたち三人の中の誰でも良い。

このナイフで刺殺し、それから孝一郎と涼子の前で自分の命を断つ。

涼香はそう決心し家を出て来た。

既に遺書は準備してあった。

昨夜、涼子と話した後、遺書を書き、机の上の日記に挟んだ。

涼香の考えた、両親への最高の復讐だった。


「あれ…涼香…」


声をかけて来たのは高校の先輩で久美子だった。


「何やってんのよ…こんなところで」


涼香は咄嗟に顔を隠したが、間に合わなかった。


「先輩こそ」


涼香はぎこちない笑顔を作って久美子に言った。


「部活だったんだけど、その後の塾サボっちゃってさ…。暇だからブラブラしてたの」


久美子は手に持ったバッグを指さしながら言う。


「先輩もサボる事あるんですね」


「あら、サボりまくりだけど」


久美子は笑った。


「で、こんなところで何してんの…。待ち合わせかな」


「まあ、そんなところです」


涼香は照れる素振りで顔を隠した。


「良いな。彼氏でしょ…。涼香、可愛いモンな」


久美子は辺りを見回しながら言った。


「何言ってるんですか。先輩の方が大人気じゃないですか…」


「女にモテたって仕方ないのよ」


涼香と久美子が通う高校は女子高で、一つ上の学年の久美子は涼香たちの学年で素敵な先輩として大人気だった。


「じゃあ。お邪魔しちゃ悪いし。そこで買い物して帰るわ…」


久美子は涼香にそう言うと手を振りながら歩いて行った。


「またね」


「はい」


涼香は元気に返事をすると頭を下げた。

そしてゆっくりと顔を上げたその時、涼香の目の前をショウジが通り過ぎた。

涼香はそれを見逃さなかった。


いた…。


涼香はショウジの後ろを、少し間を開けて歩き始めた。

涼香はポケットの中のナイフを確認して、人の波を避けながらショウジに付いて行った。







「ああ…そうだ。沖中正二だ。アラスカというバーをやっている。今日中に処分してくれ。ああ…適当に山にでも埋めてくれ。ああ…わかった。じゃあ頼んだぞ…」


孝一郎は社長室の机に座り、電話の相手に呟くように言った。

しかし、孝一郎の声に力は無かった。

目の前で若い愛人に死なれたそのショックからは簡単には立ち直れなかった。


そのあおいが死んだのも、ショウジのせいだと孝一郎は思った。

そしていつも厄介な事を頼むヤクザに連絡したのだった。

孝一郎からこのヤクザには巨額の金が動いていて、今までも厄介な事はすべてこのヤクザを使って処理してきたのだった。


孝一郎は椅子に深くもたれると、リクライニングが限界まで倒れた。

そして椅子を回し、暮れた街を見た。


夢の様だった。

目の前であおいは自分の身体を空に投げ出した。

そのあおいを止める事が孝一郎は出来ず、スローモーションのように落ちて行くあおいの姿が今も目の奥に焼き付いていた。


その時、社長室のドアが開き、ツカツカと妻の涼子が入って来た。

孝一郎は椅子を回し涼子を見た。


「涼子…」


涼子は無言のまま孝一郎の机の前に立つと、バッグを開け、中から薄っぺらい紙を出し、机の上に叩きつける様に置いた。

孝一郎はその紙に目を落す。離婚届だった。


「サインして」


涼子はサングラスを外すとそう言った。

孝一郎は溜息を吐いて離婚届を開いた。


「馬鹿な事を言うな…涼香はどうなるんだ」


孝一郎は力の無い声で言う。


「私は涼香と二人で新しい生活を始めるわ」


涼子はソファに座った。


「涼香がそうしたいと言っているのか」


「あら…自分の娘と歳の変わらない愛人囲ってた父親の傍になんて、大事な娘は置いておけないわ」


涼子はバッグからタバコを出して火を点ける。


「有山と一緒になるのか」


孝一郎は椅子にもたれてそう言うが、昨日までの孝一郎とは違い、声に張りが無かった。

それは涼子にもわかった。


「隆文は関係無いわよ」


細く煙を吐いて涼子は言った。


「俺も情報を手に入れた」


孝一郎のその言葉に涼子は立ち上がり、孝一郎の机の前に歩み寄った。


「涼香は自分の父親が犯罪者になるなんて耐えられないって言ったわ…」


孝一郎はゆっくりと顔を上げ、涼子の顔を見た。


「それじゃ俺の気が済まん…」


孝一郎はそう言うと涼子から視線を外す。


「やっぱり貴方は父親失格よ…。私、気付いたの…。隆文が言った事が正解よ。今は涼香の事を一番に考えてあげるべきなのよ」


涼子は孝一郎の机の上の灰皿にタバコを押しつけた。


「じゃあ、サインお願いね。後は弁護士に渡して。もう話はしてあるから…」


涼子はソファに置いたバッグを持って出て行った。


「涼子」


孝一郎は涼子の背中に言うが、涼子は振り返りもせずにドアを勢いよく閉めた。


「くそ…」


孝一郎はそう呟くと机の上のモノを薙ぎ払う様に床に落とした。






隆文はバーのカウンターでグラスを握っていた。


「有ちゃん…どうしたの。目が怖いよ」


マスターの河村は隆文の前に立ち、顔を覗き込んだ。


「ん…ああ、そう…。少し寝不足でね…」


隆文はマスターに微笑んだ。


「女が寝かせてくれなくてさ…」


「あー。この間の子ね…」


冗談だとマスターはわかっている。

そんな長い付き合いだった。

会社をやっていた頃は接待でマズイ酒を飲んだ後、よく一人でこの店で飲んで帰った。

隆文はこの街で一番この店が好きだった。


「今日はどうしたの…。スーツなんか着て…。デートかい」


マスターはスーツ姿の隆文を見て言う。

冷え込んで来ているので、冬物を着ようとしたが、今まで仕事漬けだった隆文はスーツしか持っていなかった。

別にそれだけが理由ではない。

ある意味、隆文にとっても決着をつける大事な日になるかもしれなかった。

以前着ていたダークな色のスーツを着て、薄めのコートを羽織り、部屋を出て来た。


「服が無くてさ…。冬物買わなきゃ…」


隆文は照れ隠しにそう言うとマスターに微笑んだ。


「スーツ姿久しぶりに見たな…。やっぱ有ちゃんはスーツが良いんじゃない」


マスターもニッコリと笑い、他の客の酒を作り始めた。


「有ちゃんの戦闘服って感じするね…」


文字通り戦闘服のつもりで着たスーツだった。

久しぶりにスーツを着て街に出ると、少し身が引き締まった気がしていた。


「ありがとう…」


隆文は礼を言うと、手に持った酒を一気に飲み干した。


「御馳走様。そろそろ行くよ」


「あら、今日は早いんだね…」


マスターは作った酒を客に出しながら言った。


「ああ…ちょっと用事が有ってね…」


隆文はカウンターに金を置くと、ハンガーに掛けたコートを取り、羽織った。

マスターはお釣りを持ってカウンターから出て来る。


「ありがとう。また来てよ」


隆文は店のドアを開けて、マスターからお釣りを受け取った。


「ああ…。また来るよ。必ず…」


そう言うと階段を下りて行った。


「有ちゃん」


マスターの通る声が聞こえ、隆文は階段の途中で振り返る。

マスターは何処かいつもと違う隆文に気付いていたのだろう。


「何が有るのか知らないけど、無茶するなよ…」


そう言うと微笑んだ。

隆文は一度、下を向いて顔を上げる。


此処にも自分の事を心配してくれる人が居る…。


そう思うと目頭が熱くなった。


「俺が無茶出来ないの、河村さんが一番知ってるでしょ…」


隆文はそう言うと階段を軽快に下りて行った。


この店に来るのも最後になるかもしれない。

そう考えると少し寂しかった。


隆文はコートのポケットに手を入れると歓楽街の方へ歩き出した。


その隆文の姿を森野は少し離れた場所から見ていた。

そして気付かれない様に間合いを取って、隆文の後を付いて行った。






ショウジが店の前に着くと、そこにはリョウコが立っていた。


「姉貴…」


ショウジはリョウコを見て呟き、ポケットからカギを出した。

今日はケンイチが遅番で、ショウジが店を開ける事になっていた。


「何だよ…こんな時間から。また酔い潰れられると迷惑なんだけど…」


ショウジはそう言うとリョウコに微笑み、店の中に入った。


「あら…そんな事あったかしら…」


リョウコはショウジに付いて中に入った。

ショウジはカウンターの中に入り、シンクに溜まったグラスを洗うために蛇口から水を出した。

リョウコはそのショウジの向かいに座った。

音の無い店に蛇口から出る水の音だけが響いていた。


「あのさ…」


ショウジはリョウコの顔を見て言う。


「何…」


リョウコもショウジの顔を見た。


「俺…しばらく居なくなるから…」


ショウジはそう言うとグラスを洗い始め、リョウコはその言葉に俯く。


「俺さ…」


ショウジの言葉をリョウコは遮る。


「知ってるわ…。全部…」


リョウコは俯いたままそう言った。


「そっか…」


ショウジは洗ったグラスをカウンターの上に並べ始める。


「警察に行くの…」


リョウコはゆっくりと顔を上げた。


「いや…事情が有って、警察には行けない。だから東京にでも行こうかと思って…。あれくらいでっかい街ならわかんないだろ…」


ショウジの言う事情とはショウジたちの撮ったDVDを販売するヤクザの事だった。

ショウジが捕まれば、高木たちも一網打尽になる。

もちろんケンイチもアキラも同様だった。


「そう…」


リョウコはショウジがカウンターに並べたグラスを拭き始めた。


「うん…。しばらく身を隠すよ…」


ショウジの言葉からは自分のやって来た事への反省の色が感じ取れ、その言葉にリョウコは涙を流した。


「本当は警察に行かなきゃいけないんだろうけど…今は、許して…」


ショウジはグラスの泡を切りながら静かにそう言う。


「わかったわ…」


リョウコはそう言って次のグラスを取った。

ショウジも今朝、あおいが死んだ事がそれなりに大きな意味をなしていた。


「うん…」


ショウジは蛇口の水を止めた。






涼子は孝一郎の会社を出て、少し走ると車を路肩に停めた。

そして携帯を取り出すと、隆文に電話をかけた。

昼間の隆文の様子が気になって仕方なかったのだった。

それに、涼香と二人で新しい生活を始める為には隆文にも別れを告げなければならなかった。


「はい…」


隆文はすぐに電話に出た。


「私…」


「ああ…」


隆文は短く返事をした。


「少し話が有るんだけど…」


涼子は淡々と言った。


「ちょうど良かった。俺も…、話があるんだ」


「何よ…」


車の中は静まり返り、涼子の声だけが響く。


「いや…お前から言ってくれ…」


亮子はしばらく黙っていたが、鼻をすすりながら口を開いた。


「今、杉本に離婚届…叩きつけて来た」


涼子の目からは自然と涙が溢れていた。


「そうか…」


「うん」


涼子は自分が泣いている事を隆文に知られたく無かったが、それは無理だった。

とめどなく涙は溢れていた。


「涼香と二人で新しい生活を始めるわ…」


その言葉で隆文は別れを悟り、立ち止まり微笑んだ。


「そうか…」


「うん」


涼子は鼻声で返事をした。


「隆文の話って何…」


涼子は窓の外を見た。

暮れた街には人影は疎らで、家路を急ぐ人々は誰も涼子の事など気にも留めなかった。


涼子はそんな風景を見ながら小さくに息を吐き、呼吸を整えた。


早く話を終わらせたかった。

二人の別れ話にこれ以上の言葉は必要ない。

お互いがこれで終止符を打ったという認識が出来た。


「どうやら、俺はもうすぐ死ぬらしい」


隆文はそう言った。


「何、馬鹿な事言ってるのよ…。振られた腹いせ…」


「そうかもな…。俺が死んだら泣いてくれるか…」


隆文は笑っていた。


「泣くわよ、馬鹿」


「そうか。一人確保だな」


「死んだら殺してやるから…」


涼子はそう言うと涙声で笑った。


隆文はタバコを咥えて火を点けた。


「お前に殺されるなら本望だな…」


そう言って歩き始める。


「馬鹿」


涼子の電話に別の電話が入った。

涼子は携帯の画面を見て、それが家政婦からの電話だと確認した。

何故か嫌な予感がした。


「隆文、ごめん。すぐかけ直すわ…」


「わかった…」


隆文の返事を聞くと涼子は電話を切り替えた。


「はい、涼子です」


「奥様…。涼香さんが…涼香さんが…」


家政婦は完全に取り乱していた。


「何…。どうしたの」


「涼香さんの机の上に…」


家政婦の言葉の中から、それだけが聞き取れた。


「遺書が…遺書が…」


「遺書…」


涼子は叫んでいた。


「何て書いてあるの…読んで」


涼子は口には出さなかったが、何処かでそんな空気を感じていた。


「犯人を殺して、私も死にますって書いてあります…」


涼子は目を閉じた。

全身に抑えきれない程の震えを覚えた。

そして、ゆっくりと目を開けると、


「ありがとう。こっちで涼香を探すわ。あなたは涼香の携帯を鳴らし続けてちょうだい」


涼子はそう言って電話を切り、再び隆文に電話をかけた。


「はい…」


隆文はすぐに電話に出る。

歩行者信号の電子音が電話越しに聞こえた。


「隆文、今、何処に居るの…」


涼子は車をスタートさせた。


「歓楽街の入口だけど…」


「そこからアラスカは近いの」


隆文は立ち止まった。

涼子の口調から何かあった事はわかった。


「どうしたんだ…」


「涼香が、アラスカの男を狙ってるの…」


「何だって…」


隆文の周囲から音が消えた。

そして隆文を中心に色を無くした街が回っている様な錯覚を覚えた。


「とにかく、涼香に殺させないで」


涼子は叫ぶように言う。


「わかった」


隆文は走り出した。


「私もそっちに行くわ。どの辺りなの」


「歓楽街を南から入って百メートルくらい北の路地を西に入ったところだ」


隆文はコートの裾を翻して走った。


「わかったわ。急いで行くから、涼香をお願いね」


「ああ、何とかする」


涼子は電話を切って助手席に放り投げた。


「涼香…」


涼子はアクセルを踏んだ。

涼子の車は後輪を滑らせながら、これから始まろうとしている混沌の中へ勢いよく走り出した。






涼香はじっと、アラスカの隣にあるビルの非常階段の影に隠れる様に立っていた。

店に入る瞬間に刺してやろうとしたのだが、ショウジを待っている女が居て刺す事が出来ず、ナイフをポケットに戻し、そのままそこに隠れた。


ショウジじゃなくても良い。誰でも良い。

私をレイプした男たち。

涼香は顔を強張らせ、目の下をヒクヒクと痙攣させていた。

そしてあの日の事を思い出す。

涼香はそれを振り払うかの様に強く目を閉じた。

思い出したくもなかった。

今でも思い出すと全身に鳥肌が立つ。

ポケットの中でナイフを握る手に自然と力が入った。


「殺してやる…」


涼香はそう呟くが、そんな事を口に出した意識さえ無かった。


その路地は、まだ開いている店は少なく、人通りも無かった。

普段からすべての店が開いても、この路地は薄暗く、上から下まで真っ黒な服を着た涼香はその闇に溶け込む様に佇んでいた。


家から持って出たバッグを駅のコインロッカーに入れ、ナイフだけを持ってコンビニの前でアラスカの男たちを待った。

携帯電話も財布もバッグの中で、もう涼香には必要無い。

男を刺したナイフだけを持って家に帰り、涼子と孝一郎の前で、自分の首を欠き切ってやるのだ。


その時の涼子と孝一郎の顔を想像すると、涼香は楽しくなった。


涼子も孝一郎も涼香がレイプされ、ビデオに撮られた事を知っても、涼香の事など考えずに自分たちの世間体の事だけを考えている様に見え、涼香にはそれが許せなかった。


自分の息使いだけが狭い空間で響き、雑踏の声など一切耳に入って来なかった。

その止まった時間の様な空間が涼香には心地良かった。

その時、その路地に一人の男が走り込んで来た。

涼香はそれに気付き、階段の奥にそっと身を潜めた。

男は周囲を見回し、アラスカに入って行った。







「有山さん…」


ショウジは驚いた様に言う。

隆文は肩で息を吐いていた。


「高校生くらいの女の子…見なかったか」


ショウジとリョウコは顔を見合わせて首を振った。


「そうか…」


隆文はカウンターのリョウコの隣に座った。


「どうしたんですか…」


リョウコは隆文の顔を覗き込む様に見た。


「済まん…水をくれないか…」


隆文はショウジに言う。

ショウジはその隆文の言葉と同時に水を差し出した。


「ありがとう…」


河村のバーで酒を飲み、走ってきた隆文の荒れた息はまったく落着かなかった。

それだけではなくトシのせいもあるのかもしれない。

隆文はショウジが差し出した水を一気に飲み干した。


「ショウジ君…君たちがビデオに撮った女の子の中に杉本孝一郎の娘が居たんだ。知っているだろう、今朝、自殺したあおい君の恋人だ」


ショウジはその言葉に目を閉じ、そしてゆっくりと俯いた。


ショウジの中でもあおいの死の理由と自分たちのした事がすべて繋がった。


「杉本さんは裏社会にも顔の効く人だ。その力を使って君を殺そうとしている。俺は君を殺させたくない。復讐は何も生まないんだ。もう犯罪者を作りたくないんだ」


隆文は荒く息を吐きながらそう言った。


「君は行きながら罪を償うんだ。別に俺は刑務所に入れなんて言わない。生きろ…何としても生きるんだ。それが君の償いだ。死ぬより辛い人生になるかもしれん、それでも君は生きるんだ」


隆文はショウジにそう言う。

しかしそれは自分自身に言っている言葉でも有った。


死ぬより辛い人生。


隆文もそれを選んだ。

何度も飛び降りようと思った。

何度も首を吊ろうと考えた。

しかしそれよりも辛い人生を隆文は選び、今も生きている。


「有山さん…」


リョウコは隆文をじっと見つめていた。


「もうすぐ迎えが来る。その車に乗って、姉さんから話を聞いてくれ」


そこまで言うと隆文は椅子にもたれ、大きく息を吐いた。


「有山さん…何で、俺なんかの為にそこまで…」


ショウジは目を開けると、隆文を見て訊いた。

隆文はショウジに微笑んだ。


「君の為じゃないさ…。リョウコちゃんの為でもない…。これは俺の為なんだ…。俺が生きていた証を残したいんだ」


「生きていた証…」


「ああ…。俺はもうすぐ死ぬかもしれん」


その言葉に、リョウコはゆっくりと目を伏せた。


その時だった。

店の表で荒々しく車が停まる音がした。

隆文たちは一斉に表を見た。

普通の車が入って来れる路地では無かった。

店の窓から外を見ると、明らかに客ではない事がわかる男たちが車から降りて来た。






森野は路地の入口から隆文の入った店を見ていた。

そこに黒のセダンがクラクションを鳴らしながら走り込んで来て、隆文の入った店の前で止まった。

その車から降りて来た男たちは明らかにカタギでは無い男たちだった。

森野はゆっくりと物陰から出て、その光景を見ていると、その一人のヤクザと目が合った。


「何見てるんだ。見せモンじゃねえ…。散れ」


その男は森野にそう言った。

森野はその男から目を逸らして、隣のビルの入口に座る。

森野だけじゃ無かった。

そこに集まった野次馬たちは口々にその男たちの事を話す。


男たちはその店のドアを勢いよく開けて中に入って行った。


一体どうなってるんだ…。


森野はその様子を見て、店に近いビルの非常階段まで移動した。

後退りしながらその階段の影に隠れたその時、森野の体に何かが触れた。







「何ですか…」


その男に涼香は言った。

森野は涼香に驚き、腰を抜かしそうになった。

まさかそこに人が居るとは森野も思っていなかった。


「お前こそ何だよ…。こんなところで…」


森野は涼香に大声で言う。


「しっ」


涼香は唇に指を当てた。

店の前に見張りの様に立つ男が辺りを見渡していた。

森野と涼香はその男を見て階段の影に隠れた。


「ヤクザだな…」


「多分、パパの仕業…」


森野は涼香の方を振り返る。


「パパって、お前ヤクザの娘か…」


「違うわよ。面倒だから説明はしないけど…」


森野はそんな涼香を鼻で笑った。







「何だ、お前ら…」


ショウジはカウンターの中から男たちにそう言った。


「お前が沖中正二か…」


一人のヤクザがそう訊くと、ショウジはゆっくりとカウンターから出て来た。


「だったら何だ…」


ショウジは男たちの前に立った。


「ショウジ君…」


隆文はショウジに声をかけたが、その隆文にそっと手を出して、隆文を制した。

そのヤクザの後ろにいた男たちは隆文とリョウコの近くに来て威嚇するかのようにじっと睨みつけた。


「お前に恨みは無いんだが、お前を始末しろって命令でな…。悪く思うなよ」


そのヤクザはそう言い、懐から短刀を取り出した。

暗い店の中でもその短刀は鋭い輝きを見せていて、どうやらジュラルミンの偽物ではなさそうな重量感があった。






涼子は歓楽街の傍で車を停めて、隆文の言う場所まで走っていた。

ふと人だかりに気が付き、その人混みを割って、涼子は前に出た。

黒のセダンが停まっていて、店の前に明らかにヤクザとわかる男が立っているのが見えた。

涼子は何の躊躇いも無く、その男の前に歩み寄った。


「何だ、お前…」


その男は涼子にそう言う。


「怪我したくなかったらどっか行け…」


その男はそう言って舐める様に涼子を見た。

その男の横に下がる年季の入った看板には「バーアラスカ」と書いてあり、この男たちは孝一郎が寄こしたヤクザたちだと確信した。


「退きなさい…」


「あ…」


「そこを退きなさいって言ってるのよ」


涼子は瞬きもせずに男を睨んだ。


「何だ、お前…」


男は涼子に凄んで見せるが涼子は怯む事も無く、その男に平手打ちを入れ、周囲にその鈍い音は響いた。


「どうしたんだ…」


店の中の男がドアを開けて、中から顔を出した。


「誰だ、コイツ」


平手打ちを見舞われた男は目を白黒させながら、


「中に入れろって言うんですよ」


男は涼子の姿を見て、


「今、取り込み中だ。後にしろ…」


と言うとドアを閉めようとした。


「私は杉本孝一郎の妻です」


涼子のその言葉に、男はドアを閉める手を止めた。


「何だって…」


「主人からの伝言よ…」


涼子はその男の横を割って店の中に入った。


「依頼は中止よ」


涼子は店の中を見た。

隆文、そして初めて見る若い男と女。

そこに涼香の姿は無かった。


「本当か…」


「あら、私の言う事が信じられないの」


ヤクザは小さく頷いた。

ヤクザたちも出来れば殺しのリスクは背負いたくないのだろう。


「わかったよ」


そう言うと店をうろつく二人に声をかけた。


「おい、帰るぞ…」


ヤクザたちはぞろぞろと店を出て言った。


「涼子…」


隆文は涼子に微笑んだ。


「ありがとう」


そう言うと涼子の手を握った。

涼子は隆文の手を取って小さく首を横に振った。

隆文の手を放し、リョウコを見た。


「この子がユキちゃん…」


「いや…この子はリョウコちゃんだ」


「あら同じ名前…。隆文の新しい彼女かしら」


涼子は悪戯っぽく微笑んだ。


「違いますよ。ご安心ください」


リョウコはそう言うと頭を下げた。


「別にいいのに…」


涼子は呟くように言って、リョウコに微笑んだ。


「さて…」


涼子はショウジの前に立った。


「私は杉本の妻よ」


「はい…」


ショウジは真っ直ぐに涼子を見て返事をした。


「私は貴方を、本当は殺したい…」


「はい…」


「けど、それも馬鹿な事だって、娘に教わったの…」


ショウジは無言で涼子を見た。


「生かしてあげるわ」


ショウジはゆっくりと頭を下げた。


「あ、でも…」


涼子は思い付いたかの様に言う。


「一発殴らせて…それで今日のところは収めてあげる」


ショウジは無言のまま直立して目を閉じた。


次の瞬間、店の中に涼子の平手打ちの音が響いた。

ショウジは顔を横に向けて、傷みに耐える様に顔を歪めていた。

そしてゆっくりと目を開けて、涼子に頭を深々と下げた。


「本当に申し訳ありませんでした…」


そう言った。


「主人にヤツらが確認したらまた此処に来るかもしれないわ…。ここを出ましょう…」


涼子はショウジの肩を叩いて言う。


「そうだな…」


隆文は立ち上がった。


「迎えもそろそろ来る頃だ」


「迎え…」


涼子はそれが何の事だかわからずに言った。


「ああ…」


隆文はそう言うと店のドアを開けた。

そこには森野が果物ナイフを持って立っていた。







「森野…」


隆文は森野の顔から視線を下に移すと、その手には果物ナイフがしっかりと握られていた。


「社長…。やっぱり俺、こんな風になってしまったのは、社長のせいだと思うんですよ…」


森野はニヤリと口元を歪めるが、その目は笑っていなかった。

隆文はその森野の目をじっと見て、その場を動かなかった。


「だから、今度は俺を刺しに来たのか…」


隆文は森野に微笑んだ。


「良く、この状況で笑えますね…。何でいつもそんなに余裕なんですか…」


森野は焦っていた。

隆文の後ろに居る三人には何が起こっているのか理解出来なかった。


「さあな…。怖いモンが無いからじゃないかな…」


「俺は本当に刺しますよ…ハッタリじゃないですよ…」


森野は口調を強くして言う。


「ああ…俺はお前に刺されても仕方ない事をした。そう思っている」


隆文は心からそう思っていた。

森野の人生を変えてしまったのだ。

自分の人生など此処で終わらせてもいい。

そう隆文は覚悟していた。


「俺はもう既に一人殺している…。社長を殺して俺も死ぬんです。覚悟は出来てます」


森野のこめかみには汗が滲んでいた。


「やれよ…」


隆文はスーツの前を開き、目を閉じた。


「本当にやりますよ…」


「ああ…」


隆文はこれで命を落とすのだと悟った。

森野の今までの苦しみに比べれば、刺されて死ぬまでの痛みなど何でもない事だろう。

その覚悟は出来ていた。

そしてこうなる様な気もしていた。

森野は手に持ったナイフに力を入れ、目を閉じて隆文を目がけてナイフを突き刺した。

しかし、野村を刺した時のそれとはまったく違っていた。


森野はゆっくりと目を開ける。


森野の果物ナイフの刃をショウジが思い切り握っていた。

そのショウジの手からはポタポタと赤い血が油を敷いた床板に落ちていた。


「な…何を…」


森野はショウジの行動が瞬時には理解出来なかった。

しっかりと果物ナイフを握るショウジ。

森野はそのナイフをショウジの手から抜こうとしたが、ピクリとも動かなかった。

隆文は目を開けてその光景を見ると、咄嗟に森野の手首を掴んだ。


「ショウジ君…」


森野の腕を捩じ上げ、ショウジに言う。

しかしショウジは森野をしっかりと睨んだまま動かなかった。


「俺は有山さんに助けられた。だから俺は無条件で有山さんを助ける…。殺したい理由なんて知らない。有山さんが悪いのかもしれない。けど、そんな事は関係無いんだ…。俺は有山さんをアンタから守る」


森野の手から果物ナイフが床に落ちた。

ショウジは止血するように自分の手首を掴んでいた。

隆文は捩じ上げた森野の手首を放すと、森野は痛そうに自分の手首を握った。

リョウコはタオルを持ってショウジに歩み寄ると、ショウジはそのタオルを血の流れる手で強く握った。


その時、店の外にワゴン車が停ると、そのワゴン車からは由紀子が降りて来た。


「ごめん、ごめん。道が混んでて。間に合ったかな…」


由紀子が覗き込むと、店の中は静まり返っていた。


「森野…お前も、ショウジ君と一緒に行け…」


隆文はそう言って由紀子の顔を見た。


「一人、増えてもいいか…」


隆文は由紀子に言う。


「いいんじゃない…。一人も二人も同じ様なモンでしょ…」


由紀子は微笑んだ。


「さあ…早く」


隆文は意気消沈した森野を店から押し出す様にして、何処かの病院の名前の入ったワゴン車に乗せた。


「リョウコちゃんも一緒に行ってくれ…」


隆文がリョウコに言うと、リョウコは頷いて車に乗り込んだ。

ショウジの握ったタオルは既に真っ赤に染まっていた。

それを見て隆文は眉に皺を寄せる。


「ショウジ君。ありがとう…」


隆文はショウジに礼を言った。

ショウジが森野に言った言葉を隆文は思い出していた。


此処にも仲間が居た…。


「いえ…これは罰です」


そしてその言葉の意味が隆文には良くわかった。

この先の人生を、罰を受ける人生として生きて行く。

そんな意味の言葉に隆文には聞こえた。

自分もそう思った様に、ショウジも今そう考えているのだと…。


「行ってくれ…」


「はい…」


ショウジは隆文に深々と頭を下げ、そのショウジの肩を隆文は叩いた。

そして隆文が視線を移したその先にナイフを持った少女が立っているのが見えた。

その少女が涼香である事が隆文には瞬時にわかった。

涼香はナイフを手にショウジに向かって走って来た。


隆文はショウジの前に立ち、涼香を包み込む様に抱いた。

誰からも見えない様に涼香を抱いたままコートの前を合わせた。


「早く行け…アイツらが戻って来るかもしれん…」


隆文は声を張り上げて言うと、顎でショウジに合図し、最後にショウジが車に乗り込んだ。

スライドドアは閉まり、車はバックして路地を出て行った。

隆文は自分の胸に涼香を抱いたまま、誰も居ないアラスカの中転がり込む様に入った。


ショウジの流した血で滑る。

それ以上に腹部に痛みを感じていた。


「どうなってるのよ…」


涼子は隆文に続いて店に入って来た。

隆文が入口から一番近いソファに倒れ込む様に座ると、隆文のコートの中から涼香が現れた。


「涼香…」


涼子は涼香に歩み寄り、思い切り涼香を抱きしめた。

隆文はその涼子と涼香を見て微笑む。


「何やってたのよ…」


涼子は涼香の肩を取り身体を離した。

その時、涼香の手に血が付いている事に気付き、涼子の顔から血の気が引いた。

咄嗟に振り返り隆文を見ると、隆文の腹部には見慣れた孝一郎のソムリエナイフが突き立っていた。

涼子は目を大きく見開き、完全に顔色を失った。


「隆文」


隆文がショウジを庇い、涼香に刺された事に気付き、涼香を押し退け、隆文に歩み寄ろうとした。


「来るな…」


隆文はきつい口調で涼子に言うと、その言葉で涼子は足を止めた。


「涼子…お前は涼香ちゃんの母親だろうが…。今すぐ涼香ちゃんを連れて家に帰れ…」


隆文はゆっくりと立ち上がり、コートを脱ぐと、そのコートを震えながら立ちすくむ涼香の肩に掛けた。


「涼香ちゃん…。ママを信じろ。ママはどんな時でも無条件に君の味方だ。絶対に君を守ってくれるから」


隆文は涼香に微笑むと、フラフラと歩きアラスカのドアを開けた。

冷たい風がアラスカの中に吹き込んで来る。


「隆文」


涼子の声に隆文は左手を上げた。


「いい…。俺の事はいい…。早く涼香ちゃんを連れて家に帰れ…」


そう言うと隆文は縺れる足で外に出た。


「早く、早く行け」


隆文は怒鳴る様に涼子に言うと、涼子は涼香の肩を抱いて、アラスカを出て行った。

涼子は気付かないうちに涙を流していた。

何度も何度も隆文を振り返りながら、車を止めた場所へと向かった。


隆文は二人を見送ると、スーツの上着でナイフを隠す様にして歩き出す。

人混みに出ると、フラフラと歩く隆文は周囲からは酔って歩いている様にしか見えなかっただろう。

だたアスファルトには隆文の血が点々と落ちていた。


これで良い…。


隆文は満足していた。

ヨロヨロと歩く足取りは経験した事のない重さだった。

歓楽街の入口に有るコンビニが近付いて来る。

コンビニの前はいつもの様に若いホストや呼び込みの女たちでごった返していた。


「こんなに遠かったかな…」


その光景を見て呟き、微笑んだ。


隆文はこの街が好きだった。

山が有り、海が有る。


出来れば海まで行きたいが、どうやら無理っぽいな…。


そう考えた自分が可笑しかった。


コンビニのゴミ箱に手を突くと、自分の血で、手の形がべっとりと付く。


やっとここか…。


そこに立ち、見慣れた街の風景を見渡し、思う様に動かない自分の体を憎たらしく思った。

身体を前後にふらつかせながら胸のポケットからタバコを出す。

タバコを一本、包みから出そうと振ると、そのタバコはアスファルトの上に散らばった。

地面に落ちたタバコを拾うために身体を前に屈めると腹部に激痛が走った。

それでも何とか一本を拾い、咥えて火を点けた。

タバコの煙が暮れてしまった街の空に消えて行く。

隆文は一度、身体を伸ばす様にコンビニのガラスに背中を付け、痛みを堪えながらズルズルを滑る様に身を屈める。


「アイツの言う通りになったな…」


歓楽街を歩く人々をぼんやりと見ながら呟いた。


「癪だな…」


隆文はタバコを咥えたまま微笑んだ。


その隆文を覗き込む様に一人の少女が前に立った。

ぼやける視界の中に隆文は、自分に微笑みかける懐かしい少女を見た。


「お前は…」


その少女は隆文に満面の笑みを見せた。


「やっと見付けたよ…」


少女はそう言った。


「覚えてるかな…久美子だよ」


「ああ…確か…そんな名前だったな…」


「何やってるの…」


久美子は笑いながら言う。


「海へ行こうと思ってたんだが…」


隆文は咥えたタバコを地面に落し、靴の先で踏んだ。


「海…良いね。私も一緒に行っていい…」


隆文は久美子を見て微笑んだ。


「行ければな…。その前に天国への階段が見えるかもしれん…」


隆文は体を起こしながら言う。


「変なの…」


久美子は隆文の足元に出来た血溜まりに気が付いた。


「タカフミ…。まさか…」


久美子は隆文の上着の前を少し開き覗くと、隆文の腹にナイフが突き刺さっているのが見えた。


「何やってんのよ…」


久美子は顔色を変えて言う。


隆文は痛みに耐える様に歯を食いしばり、それでも笑って歩き出した。


「何やってるんだろうな…」


少し歩くと隆文は舗道の上に膝を突き倒れ込んだ。

隆文の視界には以前と何も変わらない街の光が見えていた。

その隆文を見下ろしながら人々は何も無かったかの様に傍を通り過ぎて行く。

大勢の人には自分に関係無い出来事の一つでしかない。

隆文もそうやってこの街で生きて来た。


空には星が弱々しい光を放っていた。

それは自分の命の輝きの様に隆文には見えた。







「まだそのバイク触ってんのか…」


トキワサイクルのオヤジが店の中で隆文の原付を触っていると、その後ろからもう一人のオヤジが声をかけた。


「ああ。昔な、一度だけこれと同じモン直した事が有るんだよ…。まだ俺がこの店に入った頃だったかな…」


オヤジはもう一人のオヤジを振り返るでもなく、慎重にボルトを締めていた。


「先代と二人でな…。ああでもない、こうでもないってな…。楽しかったな…。時間を忘れて朝まで二人で必死に直した」


オヤジは手を止めて振り返ると、もう一人のオヤジは無表情なまま、オヤジを見ていた。


「俺の原点だな…」


オヤジはそう言うと微笑み、油で汚れたスパナを工具箱に放り込んだ。


「これが直ったら、もう逝ってもいいぞ…」


オヤジはもう一人のオヤジに言った。

しかし、もう一人のオヤジは答えず、ただ黙ってオヤジの事を見つめていた。







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