第3話 自分の影





隆文は港の倉庫で、荷物の仕分けのアルバイトをしていた。

トキワサイクルを出て、夜の十時頃から始まり、朝方までそのバイトは続く。

少しでも時給の高い所という条件も有ったのだが、出来れば人目に付きたく無いという気持ちも大きかった。

倉庫や工場などの作業のバイトは、自分を知っている人間にはまず逢わない。


隆文は手袋をして周囲を見渡した。

主婦や若いフリーターなど、様々だったが、以前の自分を知っている人間は一人も居なかった。


「有山さん」


自分より若いこの倉庫の社員に声をかけられた。


「はい」


隆文は振り返り、その若い社員を見る。


「休憩して下さい。次の便が来たら、今日は休めない筈なので」


その社員は大声で言うと、さっさと歩いて行った。

隆文は手袋を外して尻のポケットに捻じ込み、休憩所へと歩いて行く。

自動販売機で缶コーヒーを買って、休憩所の隅に座り、タバコを取り出した。

タバコを咥えるとトキワサイクルのオヤジを思い出した。

隆文を信用して新しい試乗車を貸してくれた事を思い出すと嬉しくなり、自然に笑みがこぼれた。


「有山さん」


この倉庫で仲良くなった二十歳そこそこの佐々木という男が隣に座った。


「お疲れ…」


隆文はタバコに火を点けて煙を吐いた。


「見ましたよ…」


佐々木は嫌らしい口調でそう言いながら隆文を肘で突く。


「見たって何を…」


「一昨日、街で女性と歩いてたでしょ。俺もちょうど友達と飲みに出てて…」


「一昨日…」


隆文にそんな記憶は無かった。


「俺じゃないな…」


「またあ、とぼけないで下さいよ。結構な美人だったじゃないですか。俺にも紹介して下さいよ」


佐々木はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべ隆文を見ていたが、間違いなくその日は部屋に居た。

飲みになどもう二月以上も出ていない。


「流石の俺も、有山さんを見間違う事は無いですよ…」


佐々木は声を出して笑った。


またか…。


「俺に似たヤツが居るんだろう…」


隆文は顔を引き攣らせながら笑った。


「そうですか…。間違う筈は無いと思うんですけどね…」


佐々木は首を傾げながらタバコの煙を吐いた。


「何か、知られたら困る関係ですか…。大丈夫ですよ、誰にも言いませんし」


佐々木は小声で言うが、隆文には本当に心当たりは無かった。


今朝のリョウコと言い、この佐々木と言い、自分には関係の無い場所での会話の様に思えてならなかった。


「いや…本当に俺じゃない。そんな美人連れてたら真っ先に自慢してやるよ」


隆文が佐々木に微笑むと、佐々木は少し考える様な表情をした。


「ああ…。そうですよね。納得しました」


ヒョロヒョロとした佐々木はニヤニヤしたまま、何度も頷いていた。


「次の便、到着しました」


倉庫の社員の声がした。

この声がかかると仕事が再開される。

隆文も佐々木もタバコを水の入ったバケツの中に放り込み、腰を上げた。






倉庫を出た隆文は明け始めた東の空を見上げる。

秋になると、どんどん夜が明けるのが遅くなっていった。

隆文はトキワサイクルのオヤジに借りた原付にキーを差し込み、エンジンをかけた。

そろそろ明け方の冷え込み具合は強くなっていき、原付で通うのも辛くなってくる。

数か月のつもりで始めたこのアルバイトも、やってみれば楽しかった。

頭を使わなくて良い仕事。

そんなモノは学生時代以来だった。


隆文の父親は小さな町の工場で働いていて、数年前にリタイヤした。


「手に職を持て」


昔から隆文にそう言っていた。

コンピューターも手に職と言えばそうなのだろうが、とにかく潰しの効かない職業だった。

考えてみれば隆文に出来る事など何も無い。

一生フリーターで終わっても良いと、最近はそんな風にも考える様になった。


「有山さん」


隆文の後ろから佐々木が声をかけた。


「おう。お疲れ」


隆文は佐々木に手を上げた。


「お疲れ様です。また明後日ですよね」


「ああ。その予定だよ。気を付けてな」


隆文は真新しい原付に跨り、颯爽と走り出した。


大きな通りに出て、人工島と陸地を繋ぐ短い海中トンネルに入る。

そのトンネルを出ると国道がある。

早朝の国道は静かで車の数も疎らだった。


見慣れた街。

しかし早朝の街には人影も無い。

いつもはタクシーで埋め尽くされる道もゴミの収集車とカラスが我が物顔で陣取っていた。

隆文はそれを見て苦笑した。


信号が変わり、隆文は原付を走らせた。


右手にトキワサイクルが見える信号で止まる。

勿論、まだ店の開く時間ではない。

昨夜食べた隣のラーメン屋も早朝まで営業しているが、今は閉まっている時間だった。

後ろからクラクションが鳴った。

信号が青に変わっている事に気付き、隆文は走り出した。


部屋の近くのコンビニの前に原付を滑り込ませエンジンを止めるとヘルメットを脱いで、店に入る。

早朝なら、倉庫からこのコンビニまで十数分で到着するが、昼間や夕方は渋滞で倍程の時間がかかる事もある。


隆文の脳裏には、リョウコと佐々木の言葉が鉛の様に重く残っていた。


俺に似たヤツと言う訳ではない。

やはり俺自身なのか…。


隆文は「ドッペルゲンガー」という言葉をふと思い出した。


「ドッペルゲンガー…」


店の中で立ち止まり呟いた。


我に返り、手に持ったカゴに適当に食べ物と飲み物を放り込みレジへ向かう。

レジにカゴを置いて、財布を取り出し、いつも使うポイントカードを取り出そうとしたが、カードが見当たらない。


「あれ…」


隆文はポケットを探った。


「あ、ポイントカード、先程お忘れでしたよ」


店員は隆文のポイントカードをレジに通し、差し出した。


「先程…」


隆文はその言葉を繰り返した。


「先程…」


「はい。先程、ビールとか買われて行かれましたよね…。有山…隆文さん…」


店員はポイントカードの裏に書かれた名前を読み上げ差し出す。


それは間違い無く隆文のカードだった。

隆文はそのカードを受け取り、


「ああ…そうだった、そうだった。朝メシを買うのを忘れてさ…」


そう言って金を払った。


「ありがとう」


隆文はカードをその店員に見せる様にして礼を言った。

店を出て、今一度そのカードを見た。

すると急に頭が痛くなり、こめかみを押さえて原付のシートに手を突く。

歯を食いしばり、痛みに耐えていると、その痛みはすぐに治まり、嘘の様に無くなった。

苦虫を噛み潰した様な顔で、隆文はヘルメットを被り原付に乗った。


やはり、俺の知らない所で自分自身が動いている…。


隆文は確信した。


アパートに着くと、いつもの様に自分の原付を止めている場所にトキワサイクルのオヤジから借りた原付を止めて、軋む鉄の階段を一気に駆け上った。

そして自分の部屋のドアを開けた。

コンビニの袋をダイニングテーブルの上に投げ出す様に置いて、静かな部屋の中を見渡した。

まずはバスルーム、そしてベッドのある寝室、服や段ボールの積んである使っていない部屋…。


「何処に居るんだ…。出て来いよ。居るのはわかってるんだよ…」


隆文は何に話しかけるでも無く、見えない自分にそう言うが、勿論、返事は無かった。


ふとテーブルの上を見た。

隆文の記憶に無い、缶ビールと食べかけのつまみが置いてあった。

隆文はその缶ビールを手にしたが中は空だった。

その缶を叩きつける様に隆文はテーブルの上に置いた。


「おい…ホンモノは俺だ。お前は一体誰なんだ…」


薄暗い部屋の中を見回しながら隆文は興奮していた。

夏でも無いのに額に汗が浮く。

それどころか背中にも嫌な汗が流れていた。


「なあ、一度ゆっくり話し合おうじゃないか…。お前は俺なんだろう…。じゃあ俺は一体誰なんだよ…。なあ、教えてくれよ…、教えてくれよ…、有山隆文」


隆文はベッドのある寝室を覗き込んだ。


その時、さっきコンビニの前で隆文を襲った強烈な頭痛が蘇って来る。

隆文はこめかみを押さえてベッドの横に膝を突き、乱れたままの毛布に頭を押し付ける。


「くぅ…」


痛みに耐え切れずに、隆文は声にならない声を上げると、一度顔を上げて苦痛に表情を歪め、そのままベッドに倒れ込んだ。

隆文はそのまま息を荒くして、意識を失った。







「有山さん…」


隆文の耳にそんな声が聞こえて来る。

隆文がこめかみを押さえながら眩しそうにゆっくりと目を開くと、そこにはリョウコが立っていた。


「リョウコちゃん…。どうしてここに」


隆文はゆっくりと起き上がった。


「やだな…。有山さんが電話して来たんですよ…」


リョウコは隆文の横に座った。

隆文はその言葉に我に返り携帯を探した。

着たままの上着のポケットを探るが携帯は無く、ベッドの脇にあるテーブルの上に隆文の携帯は置いてあった。

その携帯を急いで手に取り、発信履歴を見た。

隆文の知らない番号がコールされていた。

隆文はリョウコの電話番号など知らなかった。


「俺、リョウコちゃんの電話番号なんて訊いたかな…」


隆文は携帯の液晶画面を見つめたまま、静かにリョウコに訊いた。

リョウコも隆文の様子に違和感を覚えたのだろうか、いつもより神妙な口調で、


「お店に来られた時に…名刺を渡したので…。それに書いてあったかと…」


何度も何度も息を飲む様に言った。


「そうか…。そうだったな…」


隆文は呟く様に言った。


「大丈夫ですか…有山さん」


リョウコは隆文の顔を覗き込んだ。


隆文はゆっくりとリョウコの顔を見た。


「ああ…。少し疲れてるだけだよ。ありがとう」


そう言って微笑むと、リョウコは自分の胸に隆文の頬を抱き寄せた。


「私じゃ癒しになりませんか」


震えるリョウコの声が隆文の頬伝いに響いた。


「そんな事ないよ…」


隆文はそう言ったつもりだったが、その声はリョウコにも聞こえない程小さかったのかもしれない。

隆文の手からはこぼれる様に携帯が落ち、そのままゆっくりと目を閉じた。






どのくらい寝ていたのだろうか、重い頭を軽く振ると隆文は起き上がった。

視界がゆっくりと開けて行く。

見慣れた自分のアパートだった。


リョウコは帰ったのか…。


隆文はベッドから足を下ろす。

まだ頭痛が残っていて、両目を強く瞑り、今一度頭を振った。


「やっと目覚めたか…」


隆文はやたらと頭に響く男の声を頭上に感じた。

しかし隆文にはその声に確かに覚えがあった。

そして、ゆっくりと顔を上げた。


「お前…」


隆文の口からはその言葉が漏れた。


「お前は…」


「お前は誰だなんて野暮な事は訊くなよ…」


その男は隆文に静かに言った。


「俺はお前だ…」


男は…いや、隆文は隆文にそう言った。


隆文は瞬きも出来ない様子で、もう一人の隆文を見上げていた。


「何…驚く事はないだろう…。俺はお前なんだから…。お前が誰よりも一番知っている男だ」


言葉を完全に失った隆文はゆっくりと立ち上がりもう一人の隆文を見た。

顔も声も髪型も、服装もすべてが同じだった。

隆文は何かを言おうと口を開いたが、ただ息が漏れるだけで声が出せない。


「…」


「お前が思っている様に、俺はお前のドッペルゲンガーだ」


隆文はニヤリと笑った。


「いや…、もしかするとお前が俺のドッペルゲンガーかもしれないな…」


隆文は何度も何度も首をぎこちなく動かす。

声が出ない恐怖と目の前に立っている自分から目を背けたい一心だった。


馬鹿な…。

これは夢だ…。


隆文はギシギシと音を立てる様にしか動かない首を、もう一人の隆文と逆の方向へ動かした。


「ドッペルゲンガー…。もう一人の自分を見ると死ぬ。そう言われているのは知ってるよな…」


隆文は蔑む様な眼で隆文を見つめた。


「俺とお前も例外ではない。お前はもうすぐ死ぬんだよ…」


隆文を見つめる隆文の形相はまるで悪魔の様だった。

隆文は目を強く閉じ、小さく震え始めた。


「俺を待っていたんだろう。俺に遭う事を望んでいたんだろう。だから会いに来てやったんだよ…。さあ、行こうか隆文。もうすぐ終わってしまうお前の、俺の命を有意義に使おうじゃないか」


隆文は隆文を指さして声を出して笑い始めた。

その笑い声は隆文に耳触りな不協和音として入って来た。


「や…め…ろ…」


隆文は歯を食いしばりながら、声にならない音を発したが、それでも隆文は笑うのを止めなかった。


「や…めろ…。やめろ…」


隆文は何度も何度も声にならない声で、そう繰り返した。


「やめろ」


その声はいつしか叫び声になっていた。






隆文は目を覚ました。

ベッドに起き上がり肩で息を吐きながら部屋を見回した。


夢か…。


「大丈夫ですか…」


隆文の横には裸のリョウコが寝ていた。

隆文はそのリョウコを見て、徐々に記憶が戻って来た。


「夢か…」


「夢ですか…」


リョウコは起き上がり隆文に腕を絡めた。


「疲れてるんですよ…もう少し寝て下さい」


リョウコは隆文の耳元で囁く様に言う。


やけにリアルな夢だった。


何処から夢だったのだろうか…。


そんな事を隆文は考えた。


「そうだな…」


隆文はリョウコの髪を撫でた。


「もう少し寝よう…」


そう言うと二人は再び、ゆっくりとベッドに沈んだ。






隆文は電話の音で目を覚ました。

再びあの悪夢を見る事は無く、今度はしっかりとした意識で身体を起こした。

そして、ベッドの脇のテーブルに置いた携帯を取ると、画面には涼子の名前が表示されていた。


「もしもし、隆文…」


「ああ…。どうしたんだ」


隆文は周囲を見回しながら返事をする。

隣で寝ていた筈のリョウコの姿は見当たらなかった。


「今日、ちょっと会えないかしら…」


涼子はどうやら外から電話をかけている様で街の喧騒が聞こえて来る。


「あ、ああ…良いけど」


「どうしたの…。何か様子が変ね」


涼子は隆文の返事の不自然さに気が付いた様子で、


「あ、ユキちゃんね…。隣に寝てるの…」


「いや…違うんだよ。そうじゃない」


隆文は下着を探して、ベッドの中で身に着け、床に散らばった服を引き寄せて着た。


「他の女かしら…。やらしいわね…」


「いや…そうじゃないから」


涼子からすると隆文の様子は充分に挙動不審だった。


「まあ、良いわ。私は二週間程出来ないし」


「いや、だからそうじゃ無くて…」


「もう、良いって言ってるでしょ。変な人。じゃあ三時にいつものところに迎えに行くわ」


涼子は一方的にそう言うと電話を切った。


「涼子、おい涼子…」


隆文は切れる寸前に涼子の名前を呼んだ。


「はい」


その声にリョウコがキッチンから返事をして、隆文の居る寝室を覗き込む。

電話を持っている隆文を見て、リョウコは、


「あ、ごめんなさい…」


と呟き、またキッチンへと戻って行った。

隆文は切れた電話を見て、大きく溜息を吐き、ダイニングテーブルに座った。


「ごめんなさい。別のリョウコさんでしたね…」


リョウコは隆文に頭を下げた。


「ああ、いいんだ、いいんだ。仕事の関係者だから…」


隆文はニッコリとリョウコに微笑むと、リョウコは声を出さずに頷いた。


「何してんの」


キッチンに立つリョウコは明らかに手料理を作っていた。


「朝ご飯…もうお昼ご飯かな…作ろうと思って…」


隆文は手料理なんて長い事食べていなかった。


「あ、作ってくれてるんだ。ありがとう」


そう言うと立ち上がって、リョウコの作る料理を覗き込んだ。


「あんまり味は期待しないで下さいね」


リョウコは恥ずかしそうに顔を伏せた。


「いや…旨そうだ」


隆文はリョウコの腰に手を回し、耳元で囁く様に礼を言った。


「ありがとう」


「あん…耳…弱いの知ってるくせに…」


リョウコは見上げる様に隆文を見て、唇に唇を重ねた。


「好きな人の好きなモノを作って食べてもらおうって思うだろ…。それと同じだ」


隆文はリョウコを見つめて言った。

その時、隆文の電話が鳴った。

隆文が液晶画面を見ると由紀子の名前が表示されていた。

その表示をリョウコに見せる。

それはリョウコにしばらく黙っていろと言う意思表示でもあった。

隆文はリョウコから離れ、ダイニングテーブルに座った。


「もしもし…」


隆文は電話に出る。


「私…」


隆文はリョウコをじっと見つめていた。


「ああ…ユキか。どうだ…お父さんは…」


「うん。今は落ち着いてる。けど、もう…時間の問題」


携帯を通して聞こえる由紀子の声は、何処か細く尖った声の様に思えた。

リョウコを抱いてしまった罪悪感がそう思わせたのかもしれない。


「そうか…」


隆文はリョウコから視線を外し、椅子ごと横を向いた。


「こんな時、何て言ってやれば良いのかな…」


「いいわよ…。覚悟は出来てるし…」


吹っ切れた様な由紀子の声に、隆文の気も少し楽になった。


「それよりちゃんとご飯とか食べてるの…」


由紀子のその言葉に、隆文はキッチンに立つリョウコを見た。


「ああ…。食ってるよ…」


「そう…。コンビニ弁当ばかりじゃなく、ちゃんと食べてよ…。何ならリョウコちゃんに…」


隆文は罪悪感から由紀子のその言葉を遮る様に声を発した。


「あ…あのさ…」


「何…」


隆文は咳払いをして下を向いた。


「俺の事より…、お前はちゃんと食ってるのか…」


由紀子は無言だった。

携帯の中に無音は無い。

無言でもデジタル音のノイズが耳に着く。


「うん…。ちゃんとって言えるかどうかわからないけど、食べてるわ」


由紀子の声は聞き取りにくい程に小さかった。


「そうか…。お前まで体壊さない様にしなよ…」


「うん…。ありがとう…」


由紀子は涙ぐんでいる様で、時折、鼻をすする様な音が聞こえた。


「じゃあ、また連絡するわ…」


「ああ…。休める時は休めよ…」


「うん…。じゃあね…」


由紀子は電話を切った。

隆文は通話を終えた携帯をテーブルの上に置くと、気を使って動かなかったリョウコが向かいの椅子に座った。

そこは由紀子がいつも座っている場所だった。


「メシ…食おうか…」


隆文はリョウコに微笑んだ。






隆文は涼子との待ち合わせ場所へ線路沿いの道を東へ向かってフラフラと歩いた。

隆文の部屋から待ち合わせの場所までは十分とかからない程度の道のりだったが、昼頃から降り出した雨が邪魔をする。

隆文の足元をアスファルトに打ち付ける雨が弾き、ジーンズの裾を濡らすには充分な量だった。

コンビニで買ったビニール傘を差し、隆文は待ち合わせの場所へと急いだ。


「こんな事なら、近くまで迎えに来てもらうんだったな…」


隆文は立ち止り、クシャクシャになったタバコの包みからタバコを穿り出し、火を点けた。

そして煙を吐きながら雨の落ちて来るグレーの空を見上げた。


朝、苦しめられた頭痛は、あれ以降は無かった。


あれは単なる悪夢だったのだろうか…。


もう一人の自分に話しかけられる夢など、体験したのは初めてだった。

それ以前に夢なんて目覚めるとすぐに忘れてしまうモノなのだろうが、今朝見た夢はいつまでも脳裏に焼き付いていた。


「ドッペルゲンガー…」


隆文は無意識にその言葉を口にして苦笑した。


道を挟みトキワサイクルが見えるが、オヤジは店には居ないようだった。

少し立ち止まりタバコを吸いながら、トキワサイクルを見ていたが、隆文は我に返り足を進めた。

少し行くと、涼子と待ち合わせにいつも使うオープンカフェが見えて来る。

今日は流石に雨の中、外に準備されたスペースでお茶を飲む奴は居ない様子だった。


店の前に涼子の車が停まっているのが見えた。

隆文はそれを見て急ぐ訳でも無く、ゆっくりとその店へと歩き、外から店の中を覗いた。

サングラスをかけた涼子の姿を直ぐに見付けると、涼子も隆文をすぐにわかったらしく、小さく手を上げていた。

隆文は傘をたたみ、店の中に入ると、カウンターでコーヒーを注文して受け取り、涼子の居るテーブルに着いた。


「どうしたんだよ。頼み事なんで珍しい」


隆文は席に着くなり涼子に言った。


「あら…私とはセックス無しでは会ってもらえないのかしら」


涼子はテーブルに頬杖を突いて悪戯っぽく微笑みながら言う。


「何を言ってるんだ…。それよりお前…体は大丈夫なのか」


隆文は涼子の腹部を無意識に見た。


「ええ…心配してくれてたの…ありがとう」


涼子はまた悪戯っぽく微笑んだ。


「心配してくれながら、他の女と寝てたのね…」


「そんなんじゃないよ」


隆文は苦虫を噛み潰した様な顔をして、コーヒーを飲んだ。


「まあ、いいわ…」


涼子はテーブルの上に置いた細いメンソールのタバコに火を点けて、煙をゆっくりと吐いた。

それを見て隆文もタバコを咥えた。


「で…頼みって何だよ…」


「ああ…。そうね。コーヒーを飲んだら出ましょう。ちょっと見て欲しいモノが有って」


涼子の表情が少し変わった様に隆文には見えた。


「こんなところで話せる話でも無いし」


涼子とは不倫の関係であり、オープンに話せない話は日常だった。

隆文もその場でそれ以上の追求はしなかった。


二人はカフェを出て、表に止めてあった涼子の車に乗った。


「今日は少しドライブしましょ…」


涼子はそう言うとアクセルを踏む。線路沿いの一方通行になっている道を車は東へと走った。

涼子の車はアスファルトに浮いた雨を弾き、その湿った音だけが隆文には聞こえた。

車窓から傘を差して歩く人々が流れていく様に見えた。

目の前の信号が赤になり、涼子はブレーキを踏んだ。


「あなたにはこの街はどんな風に見えてるの」


涼子は隆文の視線を追いながら訊いた。


海の傍まで山が迫る狭い街だが、隆文はこの街が好きだった。


「そうだな…欲望が渦巻く街…かな」


「なにそれ」


涼子は声を出して笑った。


「何処からか借りて来た言葉…」


隆文は窓の外を見つめたまま微笑んだ。


「少なくとも、世間が言う様なオシャレでイカした街には俺には見えない。良いヤツも居れば悪いヤツも居るさ…」


隆文は見慣れた雨の街を見つめていた。

知り合いの会社や、隆文の客だった会社の入るビルもある。

当時は毎日、この街を足早に雨の日も雪の日も歩いていた。


「そうね…。それが正解よ」


信号が青に変わり、涼子は再びアクセルを踏んだ。






涼子の車は山道を走っていた。

ロープウェーの駅を越えて更に登って行くと、大きなカーブを曲がり、山の裏側へ抜けるトンネルの手前を脇道に入る様に逸れた。

そこからこの街は一望出来る。

少し走ると展望スペースがあり、そこに涼子は車を停めた。

デートスポットになっている場所で、この街の夜景を見るには最高の場所だった。

週末には「走り屋」と呼ばれる若者たちでいっぱいになる場所としても有名だった。


「見てもらいたいモノが有るの…」


涼子は後部座席に置いたブランド物のバッグから一枚のDVDを取り出した。

隆文は窓の外を見ていたが、涼子のその動作に気付きDVDを見た。


「何のDVDなの…」


隆文がカーナビのボタンを押すと、ゆっくりとカーナビは開く。


「見ながら説明するわ…」


涼子はいつに無く神妙な顔をしていた。


カーナビにそのDVDは吸い込まれる様に挿入される。

カーナビの前面は静かに閉じ、タイトル画面らしきモノが液晶画面に浮かび上がった。

明らかに素人が撮影し、作ったDVDだというのは一目でわかる。


「何だ…コレ…」


隆文はボリュームを少し上げた。

次の瞬間に制服姿の女子高生が男と絡む、無修正の映像が流れ出した。


「おい…。こんなところでこれは…」


隆文がボリュームを慌てて下げながら言った。

その言葉を遮る様に涼子は、


「娘なの…この子」


小さな液晶画面を睨んだまま吐き捨てた。

隆文はボリュームのボタンを押したまま手を止めて、その映像から音は既に無くなっていた。


「何だって…」


「男に騙され、ビデオに撮られて…。言う事聞かないと、このビデオばら撒くって脅されて、売春させられていたらしいわ…」


隆文はその現実の残酷さに眉間に皺を寄せた。

隆文と涼子はしばらく無言でそのDVDの画像を見ていた。


「昨日、娘が話してくれたわ」


涼子は液晶画面から目を逸らした。

惨たらしい映像だった。

隆文はカーナビからそのDVDを取り出し、透明のケースに入れた。


「酷い事しやがる…」


隆文はケースに入れたDVDをダッシュボードの上に放り投げ、窓の外を見た。


「隆文…アラスカってバー知ってる…」


「アラスカ…。聞いた事ないな…」


二人はお互いに窓の外を見つめたまま口を開いた。


「そこなのか…」


「撮影された場所かどうかはわからないけど、娘…涼香はそこに連れて行かれたって言ってたわ…」


涼子は溜息を吐いて、タバコを咥えた。


「そうか…」


隆文は窓を薄く開けた。


「で…頼みってのは」


涼子は車のドアを開けて外に出た。


「外に出ましょう。空気も汚された気がして…」


力無く涼子は微笑みドアを閉めると、隆文も後を追う様に車を出た。

涼子の気持ちが痛い程伝わってきた。

平然を装う涼子だが、明らかに普段とは違っている。

その涼子の横顔を見ていると、殺意にも似た涼子の気迫の様なモノが垣間見えた。


「殺したいの…。この男たち」


涼子は街を見下ろしながらそう言った。

隆文はその言葉にピクリと動いた。

涼子の目が本気でそう言っている様に見え、隆文は何も言えなかった。

涼子の横に立ち、同じ様に街を見た。

薄っぺらな街はすぐに海岸線に辿り付く。

その狭い陸地に犇めき合う様にビルが建ち並んでいた。


「こんな街にも、殺したくなるヤツ、酷い目に遭うヤツ、人を殺すヤツ…優しいヤツ、鬱陶しいヤツ…。色々と住んでるな…」


隆文は手すりに手をかけて身を乗り出すと、涼子はその言葉を黙って聞いていた。

雨は小降りになっていたが、二人の肩を濡らすには充分だった。

涼子も同じ様に手すりに手をかけた。


「隆文にアイツらを殺して欲しいなんて思って無いの…。そんな事は杉本に頼むわ。多分そんな人間とも繋がってるでしょうから…」


涼子は静かに語り始めた。


「涼香も悪いのよ。そんな事はわかってるわ。けど、それでは治まらないのよ。女を食いモノにする男…私は許せないの…」


遠くを見つめる涼子の切ない表情の浮かぶ横顔を隆文はじっと見ていた。


「私も昔、同じ目に遭った事があるの…」


涼子は隆文を見て口元を緩める。


「ほら、中絶するの…初めてじゃないって言ったでしょ」


隆文はコクリと頷いた。


「それがそう…」


涼子はそう言うと雨の落ちて来る曇った空を見上げる。

涼子の首筋を雨粒が伝うのが見えたが、隆文は何も言わずただ涼子の言葉を聞いていた。

涼子や涼子の娘、涼香の事を考えると、自然に眉間に力が入り、唇を噛みしめた。


「この男たちに制裁が加えられる瞬間を見たいの…」


涼子はそう言って隆文を見た。

その目は怒りに満ちていて、隆文はそれに恐怖を感じ、本当に涼子がその男たちを殺してしまうのではないかと思った。


「俺は何をすればいいんだ…」


隆文は乾いた口を開いた。


「この男たちの事を探って欲しいの。それだけ…」


涼子は滴の垂れる前髪を振った。


「興信所に頼めば簡単なんだけど、やっぱり杉本の名前が漏れるのは怖いのよ…。涼香の事を考えると余計に…」


涼子の言う事は理解出来た。

しかし、どう探って良いのかまったくわからなかった。

隆文は溜息を吐いた。


「良いよ…。俺が調べてやるよ…」


隆文はそう言ってポケットからタバコを取り出し咥えた。


「ありがとう」


涼子は隆文に深々と頭を下げた。


「やめろよ…。らしくないぞ」


「だって…」


涼子は下を向いたまましばらく顔を上げなかった。

多分泣いていたのだろう。

隆文もそれを悟り、視線を逸らした。







「森野君。お客さんだ」


ワンボックスの軽自動車の荷台に荷物を積み込んでいた森野は、その声に手を止めて振り返った。


「はい…」


森野は小さな声で返事をした。


「事務所の応接で待ってる筈なんで、行って来て」


森野より若い上司はそう言うと無愛想な顔でその場を去って行った。


「誰だろう…」


森野は軍手を取り、荷台に放り込む様に置くと、小走りに事務所の裏口へと向かった。

裏口のドアを開けると、事務員の女が森野をじっと見る。


「玄関の応接で待ってもらってるから。午後の配達の時間、遅らせないでね…」


女も森野に無愛想に言うと、机に向かった。

森野は頭を下げて、玄関の応接へと向かうと、パーティションで仕切られただけの応接が幾つか並んでいた。

そのブースを一つ一つ覗きながら森野は客を探した。

その入口に一番近いブースに男は座っていた。


「野村さん…」


森野はその男にそう声をかけた。


「やあ…久しぶりだな。こんなところで働いてたのか。探したよ…」


野村はニヤリと笑った。


「有ちゃんも酷い男だな…。有能なSEにこんな仕事をさせるなんて」


森野は黙って、野村の向かいに座った。


「お久しぶりです」


「ああ…元気にしてたか」


野村は身を乗り出して森野を覗き込む様に見た。


「ええ…まあ」


森野は短く返事をする。


「何の用ですか。僕なんかに」


「まあ、そんなに構えるなよ」


野村は椅子の背もたれにふんぞり返った。


「何でこんな仕事してるんだ。お前程の男が」


「良いじゃないですか…僕が何しようと野村さんには関係ありませんよ」


森野は苛立っていた。

隆文の会社で働いていた頃に知り合った野村だが、当時からあまり良い印象を持っていなかった。


「有ちゃんとは会ってるのか」


森野はその言葉に呆れた様に目を閉じた。


「いえ…会社が倒産してからは一度も会ってませんよ。会わせる顔も無いでしょうし」


「何だ…有ちゃんに怒ってるのか」


森野は大きな溜息を吐いた。


「まあ、仕方ないって言えば仕方ないのかもしれませんけど…。突然仕事が無くなって、途方に暮れたんです。それなりに皆怒ってますよ…」


「そうだよな…。特にお前は家族も抱えている訳だしな…。苦労しただろう」


野村は再び身を乗り出した。


「お前、平本さん覚えてるか」


森野は目を細めて、嫌そうに野村を見た。


「平本さんですか。覚えてますよ。あの工事会社の社長ですよね」


「そうだ。その平本さんが、今度システム会社を作る事になった」


その言葉に森野は野村を見た。


「どうだ。その新会社の役員で来ないか」


野村はニヤリと笑った。


「本当ですか」


森野は自然と身を乗り出す。


「ああ…。平本社長が是非にと言っている」


森野は今までの仏頂面を満面の笑みに変えた。


「いや…ありがとうございます。本当に不景気で、何処にもシステム系の就職が無かったんですよ。それで仕方なくこんな仕事をしてるんです…。いや…嬉しいな…」


今にも飛び上がりそうな勢いで、森野は喜んだ。


「お前のチームに優秀なのが何人か居ただろう」


野村は胸のポケットからタバコを取り出した。


「あ、ここ禁煙です」


森野は冷静に野村のタバコを取り上げ、テーブルの上に置いた。


「古山と東田ですね」


「ああ…そうだ。そんな名前だったな。彼らも一緒にどうだろうか」


「訊いてみます。二人とも資格を取るって言って仕事して無いんです。彼らもそろそろ生活キツイでしょうから…」


森野の声は弾んでいた。

隆文の会社で働いていたが、倒産し、コンピューター業界の不況で再就職の口が無く、仕方なく運送会社でアルバイトをしていた森野には、まさに渡りに舟だった。


「そうか。良かった」


野村はニヤリと笑った。


「だが、一つ条件が有るんだ…」


「条件…ですか…」


森野の顔から笑みが消えた。

野村は立ち上がり、森野の横の椅子に移り、森野の肩に手を回すと引き寄せた。


「ちょっと頼まれ事をして欲しいんだ」


野村は森野の耳元で小さな声で言う。


「何、そんなに難しい事じゃない。簡単な事だ」


「何ですか…」


野村の顔からも笑みが消えた。


「平本社長も有ちゃんから回収出来なかった金が有るんだ。どうしてもそれを取りたいらしいんだよ」


「金ですか…」


「そうだ…。その金を有ちゃんに払わせる為に、ちょっと働きかけて欲しいんだよ…」


森野は野村の顔を見た。


「しかし、それは法的に処理されてしまってる話じゃないですか…」


「いや…法律ってのは残酷だよな…。破産すりゃどんな借金でもチャラになってしまうんだからな…。でもそれで良いのか。そんな事で逃げられちゃ、馬鹿にされてる気分にもなるだろう…。平本社長はそういうのが大嫌いでな…。俺も何度か有ちゃんに話をしたんだが、俺じゃ効果が無い。そこで、元従業員のお前たちならちょっとは効果も有るかと思ってな」


森野は野村から視線を外し俯いた。


「その代わり、受けてくれたらお前は新会社の役員だ。もちろん他の二人にもそれなりのポストを用意しよう。方法は考えてくれたら良いんだ。少し有ちゃんにお灸を据えたいだけなんだよ…」


押し殺した野村の声は、静かなその場所では森野の胸に突き刺さる様に響いた。


「脅すだけで良いんですね…」


野村は手を横に振った。


「何を言ってるんだよ…脅すなんて…」


野村はニヤリと森野に笑いかけた。


「有ちゃんが金を払いたくなる様にしてくれれば良いんだよ…」


そう言うと野村は立ち上がり、上着の内ポケットから一万円札を取り出した。


「これで子供におもちゃでも買ってやりなよ」


そっとテーブルの上にその札を置いた。


「じゃあ、窓際の席…準備して待ってるよ」


野村はテーブルの上のタバコを取った。


「邪魔して悪かったな。仕事頑張ってくれよな。携帯に電話してくれ。前と変わって無いから…」


そしてそのまま出て行った。

残された森野はテーブルの上の一万円札を掴む様に取るとクシャクシャに丸めて、ポケットに押し込んだ。






涼子の車は混雑する駅前に強引に停まった。


「今日はありがとう」


車を停めると涼子は隆文に頭を下げた。


「いや…まだ何もして無い。役に立てるかどうかわからんが、やってみるよ」


隆文は涼子に微笑みかけた。


「あ…そうだ」


涼子は自分のバッグを開けて、そこから封筒を取り出し、隆文に渡した。


「これ…お金もかかるでしょう。取っておいて」


「何を言ってるんだ。こんなモン受け取れないよ」


隆文は涼子に突き返す。


「良いの。お願い、これは受け取って」


涼子は金の入った封筒を、隆文の胸先に押し付ける。

隆文はその封筒を手に取り、


「わかった。じゃあ頂いておくよ」


そう言うと上着のポケットに入れた。


「ありがとう」


涼子は力無く微笑んだ。


「涼香ちゃん。一度病院に連れて行きなよ」


隆文はシートベルトを外した。


「隆文…」


涼子の声に隆文が振り返ると、涼子は隆文にキスをした。

長いキスだった。


「何をやってるんだよ…こんな目立つ所で…」


「良いのよ…。どうしてもしたかったのよ」


今日、初めて涼子の本当の笑顔を見た気がした。


「じゃあ、行くわ」


隆文はドアを開けて車を降りた。


「うん。また連絡するわ」


「ああ…こっちも何かわかったら、メッセージ入れるよ」


隆文は車の中を覗き込む様にして手を上げた。


「ありがとう。隆文…」


隆文は小さく頷いて、車のドアを閉めた。

涼子の車はドアが閉まると同時に勢いよく走り出した。


隆文は歩道に立ち、暮れかかる空を見上げた。

都会の空は狭いと言うが、この街の空はそうでも無く、まだ充分に見渡せるスペースは残っていた。

隆文は夕暮れの街をゆっくりと歩き出した。


夕方、歓楽街の人口は一気に膨れ上がる。

水商売の女や飲みに出る男たち。

街角ではその女たちと男が待ち合わせる為に大勢立っていた。

いわゆる同伴出勤と言うヤツだ。

隆文も以前は何度もこんな事をしていたが、離れて見れば、途轍もなく馬鹿な行為に見えた。

そんな姿を横目に隆文は歓楽街を逸れて歩き出した。

少し歩いたところに行きつけのバーが有り、そのバーの階段を上る。

ドアを開けるとカウンターにマスターが一人で立っていた。


「有ちゃん…珍しい、こんな早い時間に…」


マスターは隆文の姿を見てそう言う。


「どうぞ…」


「まだ営業時間じゃないんじゃないの」


隆文はドアをくぐりながら微笑み、何も変わらないマスターの笑顔を見た。


マスターは腕時計を見て、


「後、二分だな…。良いよ。二分オマケしとくから」


そう言うと隆文の前におしぼりとコースターを出した。


「しかし、久しぶりだな。元気にしてたの…」


マスターがステレオのボリュームを少し上げると、店の至るところにあるスピーカーから、静かにビートルズの「ドントレットミーダウン」が流れ出した。


「会社潰しちゃってさ…」


隆文は微笑みながら言った。


「そうか…。まあ元気なら良いんじゃない」


マスターは隆文が会社を潰した事は既に知っていたのだろう。

表情も変えずに薄く微笑む。


「まあね…」


マスターは隆文の前に手を突いて、


「ウイスキーの会社なんてどれだけ真面目にやっててもどんどん潰れてるよ。それでもそのウイスキーが良いモノなら誰かが受け継いで何十年も飲み続けられる。味が変わってしまうモノもあるけどね」


マスターは隆文の前に一本のボトルを置いた。


「これ、好きだろ。誰にも売らずに取っておいたんだよ…」


マスターはグラスを取り、丸い氷を落した。


「有ちゃんに最後の一滴を飲んで欲しくてさ…」


氷はパチパチと音を立てながら、酒を吸収して丸さを増していく。

注ぎ終わると、マスターは隆文の前のコースターにそっとそのグラスを置いた。


「ありがとう…」


隆文は礼を言って、そのグラスを手に取った。

二人の声とビートルズの曲だけが店に響いた。


「失望させないで…か…」


隆文はビートルズの曲を聴きながら呟く。


「ドントレットミーダウンね…」


「俺は何人の人を失望させて来たんだろうな」


隆文はロックグラスに注がれたグランツに口を付けた。


「有ちゃんが失望させたんじゃないさ。仕方ない事だって世の中には沢山ある。人は存在するだけじゃ価値は生まれない。人と繋がって初めて価値が生まれるんだ」


マスターは優しく微笑んでいた。


「有ちゃんが失望させたって思う人の中に、この先も付きあう価値のある人がどれだけ居るんだい」


隆文はグラス越しにマスターを見た。


「出来れば誰も傷つけたく無いし、誰にも後ろ指さされたりしたくない。そう思って生きて来た」


隆文は二口目のグランツを口にした。


「無理だろう…そんなの」


「そうかもしれないって、最近は思う様になって来た…」


隆文はグラスをコースターに置いた。


「それで普通なんだよ…」


マスターは特に口調の強さを変える訳でも無かった。


「人は生きているだけで、誰かを傷つけている。私らだってそうだよ。こんな風に酒売ってても、それが原因で体を壊す人だっているんだ」


隆文は無言で頷いた。


「有ちゃんはさ、人を傷つけるのが嫌なんじゃ無くてさ、人を傷つけた事で、自分が傷つくのが嫌なんだよ…。それが怖いんだよ」


その言葉に隆文は固まった。


そうかもしれない。

これ以上、自分が傷つくのが堪らなく嫌だった。


「河村さん…。それ正解だよ」


隆文の体から一気に力が抜け、頭の中のモヤモヤが晴れた気がした。

そう考え出すと可笑しくなり、微笑まずには居れなかった。


「俺は俺が傷つくのが堪らなく嫌だった。だから無理して人を守っているつもりが、自分を守っていたんだ…。そうか…」


隆文はまたグラスを取り、一口多めにグランツを口に含んだ。

マスターの河村はその隆文を見て微笑んだ。


「ありがとう。何かスッキリしたよ」


「お役に立てたかな…」


マスターは口元を緩めて頷く。


ステレオから流れるビートルズは「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」に変わっていた。


「河村さんも飲んでよ…」


「頂きます…」


そう言うとマスターは自分のグラスにも酒を注いだ。

隆文は微笑みながらその光景を見ると、マスターは隆文の前に立ってグラスを掲げた。


「頂きます」


隆文もグラスを掲げて、微笑んだ。

そしてグラスを口に付けたところで、


「河村さん、「アラスカ」ってバー知らない…」


隆文はマスターにそう訊いた。


「アラスカ…。知ってるよ。行くのかい」


マスターはグラスをカウンターに置いた。


「いや…行った事は無いんだけど…」


マスターはじっと隆文を見つめた。


「あんまり評判の良い店じゃないな。同業者の事悪く言うのは好きじゃないけど、あの店は既にバーじゃない。何か変なヤツの溜まり場になってしまってる」


マスターはグラスを取り、酒を一口飲んだ。


「元々はすごく良い店だったんだよ。新井と高須賀って若い子が二人で始めてさ、だから店の名前も「アラスカ」ね…。真面目に酒の勉強もしてたんだ。それがさっきの話と同じで、真面目にやってても商売っていうのは難しいんだよな。何年か前に人手に渡り、その後も経営者がどんどん変わって…。今はチンピラみたいな若いヤツがやってるらしい」


流石は街の同業者だった。

隆文はマスターの話を頷きながら聞いた。







「ショウジ居るの…」


アラスカはオープンの時間になっても店の灯は消えていた。

あおいが真っ暗な店の中を覗き込むと、カウンターの上でノートパソコンの液晶画面が青白く光っているのが見えた。

あおいがそのカウンターへゆっくりと近づき、その画面を覗き込むと、その画面には無修正の動画が倍速で流れていた。

あおいは呆れ顔でその画面から目を逸らした。


「またやったのね…」


あおいはそう呟いて、静かな店の中を見回した。


「ショウジ…居るんでしょ」


奥のボックス席のソファでショウジは眠っていた。

ヤクザの高木に頼まれたDVDを徹夜でコピーしていたのだった。


「もう…ショウジ」


あおいがショウジに気付き、近付こうとしたその時、店の入口のドアが開いた。


「ショウジ、買って来たぜ」


ケンイチが両手に袋を提げて立っていた。

ケンイチはそこに居たあおいに気付いた。


「あおいちゃん…何でこんなところに居るんだよ…」


ケンイチは袋をカウンターの上に置いて、ノートパソコンを閉じようとした。


「慌てなくて良いわよ。知ってるから」


あおいにそう言われて、ケンイチは手を止めた。


「またやったのね…そんな事」


「ああ…いや、そうじゃ無くてさ…」


ケンイチはしどろもどろになりながら誤魔化そうとしたが、その言葉が思いつかなかった。


「うるさいな…」


そのやり取りにショウジが気付いた。


「何をガタガタ言ってるんだよ…」


ショウジは頭を掻きながら体を起こす。


「何だ…あおいか。何しに来た」


ショウジは鬱陶しそうに言うとカウンターの中に歩き、冷蔵庫からコーラの瓶を出して栓を抜いてそのまま口にした。


「何しに来たじゃ無いでしょ。今日、昼間来るって約束してたでしょ」


あおいは手に持ったバッグでカウンターを強く叩いた。

ショウジは正面の壁をじっと見つめていた。


「忘れてた…」


「もう…死んでるのかと思って、わざわざ来たのよ。携帯も出ないし」


あおいはカウンターの椅子を引いて、勢い良く座った。


「いいじゃないか…。どうせ昨日はオッサン来てたんだろ。オッサン臭い部屋は苦手なんだよ…」


ショウジはカウンターにコーラの瓶を立てた。


「ショウジ…店、開けて良いか」


そのやり取りを見ていたケンイチが堪らず声をかけた。

ショウジとあおいはケンイチを同時に見た。


「当たり前だろ。さっさと開けろ」


「当たり前でしょ。早く開けなさいよ」


ショウジとあおいはケンイチに同時にそう言った。






隆文はバーのカウンターで頬杖を突いたまま眠っていた。

今朝ほとんど眠れていないせいか、或いは久々に飲んだ強いアルコールのせいか、急激に眠気に襲われた。


「有ちゃん。大丈夫かい」


マスターは隆文の肩を叩く。


「あ、ああ…寝てしまってたのか…」


隆文は目を覚まし、体を起こした。


「河村さん、お水下さい」


「はい。もう出してあるよ」


隆文の目の前には水の注がれたグラスが汗をかいていた。

それを見て隆文は笑った。


「ありがとう…」


礼を言うとその水を一気に飲み干した。


「今日は帰って寝なよ」


マスターは隆文に微笑みかけた。


「ああ…そうするよ。酔い覚ましに歩いて帰るわ…」


マスターは隆文の前に伝票をそっと出した。

それを覗き込み、安すぎる代金をいつも払う。


「ありがとう。また来ます」


隆文はそう言うと店を出て行った。

店の階段をフラフラと降りて建ち並ぶビルを見上げる様に空を見た。

すっかり日は暮れていた。

少し歓楽街から離れているせいか人も少ない。

隆文は少し身震いし、上着の前を合わせた。


「もう寒いな…」


そう呟くと歩き出した。

コンビニの角を曲がり、なだらかな坂を下って行く。

その通りは駅に近いせいか疎らだが人も歩いていた。

隆文はその人の波を避けながら歩く。


色々な事が有り過ぎた日だった。

隆文は自分でも整理が付かないまま夜を迎えた。

もう一人の自分の事、涼子の告白の事、そしてリョウコの事。

隆文は頭を激しく振り、全てを忘れ去る様に目を強く閉じた。


駅に着くと、その線路沿いを歩く。

駅の西口を過ぎると高架下に建ち並ぶ商店街が有り、その中に隆文は入って行く。

もちろん商店街は閉まっているが、幾分かの寒さは凌げる。

その高架下を酔っている事も手伝い、鼻歌を歌いながら隆文は歩いて行った。

その商店街の並びにトキワサイクルも有る。

一駅分続くその商店街は酔いを覚ますには充分な距離だった。

ふと立ち止まり、タバコを咥え火を点けた。


「社長」


その時、そんな声が背後から聞こえた。

しばらくぶりにそう呼ばれた気がした。

聞き覚えのある声に、隆文がゆっくりと振り返ると、そこには三人の若い男が立っていた。


「良いですね…。会社潰して社員、路頭に迷わせて…自分は酔っ払って鼻歌ですか」


無表情なままそう言ったのは、かつて隆文の会社で働いていた森野だった。


「森野…」


隆文は目を細めて森野の姿を見ると、その森野の後ろには森野の部下だった古山と東田が立っていた。


「どうしたんだ…三人揃って」


そう言うと隆文はタバコの煙を吐いた。


「待ってたんですよ…。社長があの店から出て来るのを…」


森野の後ろにいた古山がそう言った。

それを聞いて呆れ顔で隆文はニヤリと笑った。


「そりゃ、暇な事で…」


隆文はそう言うと歩き出した。


「待って下さいよ。逃げるんですか…」


森野が少し声を荒げて言った言葉に隆文は再び足を止めた。


「逃げる…。俺がか…」


隆文は振り返りもせずそう言う。


「逃げてるじゃないですか。俺たちからも。平本さんからも…」


隆文はゆっくりと三人を振り返った。


「お前ら…平本さんに言われて来たのか…」


隆文はタバコを床に落とし、つま先で踏み消した。


「関係無いでしょ…。何で来たかなんて…」


森野は隆文にゆっくりと歩み寄った。


隆文は瞬きもせずに、近寄って来る森野を見ていた。

そしてニヤリと笑って、


「そうだな…関係無い。俺とお前も何の関係も無い…。だから俺は帰る。風邪ひくなよ」


そう言って歩き出した。


「馬鹿にしてるんですか」


森野たちは隆文の前に回って立ちはだかった。


「いや…馬鹿に何てしてないさ。ただ、この無能な元社長に何の用事かなって…」


隆文は目の前に立つ森野を押しのけると歩き出した。

夜の高架下は物音一つしない静寂の空間で、明かりもぼんやりと疎らにあるだけで、足元も真っ暗だった。


「社長」


森野がしつこく隆文に詰め寄った。


「しつこいな…」


隆文が振り返るとそこには果物ナイフを持った森野が立っていた。

暗がりでその果物ナイフだけが鈍く光っていた。


隆文はそのナイフを見て苦笑した。


「森野…何のつもりだ」


「関係無いでしょ」


森野はそう吐き捨てる。


「皆、社長を殺したいくらい憎んでるって事ですよ…」


隆文は森野が握っている安物の果物ナイフを見た。

その森野の手も声も震えているのがわかった。

そんなヤツに人を刺す事なんで出来やしないが、こういう輩は無作為にナイフを振り回す恐れがある。


「じゃあ刺せよ」


隆文はそう言うと上着のボタンを開けて、腹を見せた。


「そんなに憎いなら刺せよ。俺もお前らに刺されるなら文句は言えん」


隆文は自分の腹を一回叩いた。


「頼むから一発で決めてくれよ…」


森野は果物ナイフを握り直した。


「森野さん…」


「まずいでしょ…」


森野の横に居た古山と東田が口々に森野をなだめようとしたが、その二人の声には耳も貸さない様子だった。


「そのいつも余裕の態度が嫌だったんですよ…。なんかいつも馬鹿にされているみたいで…」


森野の声は大きくなった。


「嫌いなんだろ。俺の事…だったら命がけで、嫌いな俺を刺してみろよ…」


隆文の声も大きくなった。


「命がけで何もやった事ないヤツが、刺せるのか。ほら、刺されてやるって言ってるんだよ。刺せよ…」


隆文の声は既に叫ぶ様な声になっていた。


「馬鹿にしやがって」


森野は歯を食いしばり、隆文に向かって果物ナイフを構えて走ってきた。


「何をやってるんだ」


その時、隆文の背後から声がした。

その声に一瞬、気を取られた森野の手首を隆文は強く掴んだ。


「放せ…」


森野は握ったナイフをなかなか放さなかった。


「誰に頼まれたか知らんが、お前には荷が重いだろ…森野…」


森野の腕を捩じ上げようとした時に古山と東田がその場に置いてあった木材で隆文を殴り付けた。

隆文はうめき声を上げ、頭部と肩に痛みを覚え、森野から離れた。

森野はゆっくりと立ち上がり、再び隆文にナイフを構え突進して来た。

隆文もその瞬間に刺される事を覚悟した。

ナイフを持った森野が体ごとぶつかる瞬間に隆文は目を閉じた。

しかし隆文は痛みを感じなかった。

ゆっくりと目を開けると、隆文の前に腕を押さえたトキワサイクルのオヤジが立っていた。


「ヤバいっすよ…」


「俺、知りませんよ…」


古山と東田はそう言うと暗い高架下の商店街を走って逃げて行った。

トキワサイクルのオヤジの腕からは血が滴り落ちていた。

その血を見て、隆文の怒りは頂点に達した。


「森野」


隆文はそう叫ぶと、森野の腕を蹴り上げる。

果物ナイフははじけ飛び、乾いた音を立ててコンクリートの床の上に転がった。


「違う…脅せって言われただけなんだ。それを社長が…」


森野も、その目の前の事実に怯んでいた。


「また人のせいか」


隆文はそう言うと森野の腹を蹴り上げた。

森野はその衝撃で、滑る様に床に転がった。

床に転がる森野に隆文は詰め寄り、


「お前は何でも人のせいにしないと…生きていけないのか」


そう言って今一度、森野を蹴り上げる。

隆文と違い、細身の森野は簡単にコンクリートの上に転がった。


「違うんだって…。こんな筈じゃ…」


「兄ちゃん。もう良いよ」


その時、トキワサイクルのオヤジがしっかりした口調で隆文に声をかけて来た。

隆文はその声に振り返り、床の血溜まりを見た。

その隙に森野は慌てて起き上がり、走って逃げて行った。

隆文は走り去る森野を一度見たが、血を流すオヤジの方が心配で駆け寄った。


「大丈夫ですか」


「かすり傷だよ…。なんて事無い」


オヤジは傷口を押さえ、眉間に皺を寄せて苦痛に耐えていた。


「とにかく医者へ…」


「馬鹿…医者なんていいよ」


そう言うと店の方へ歩き出した。

気が付くとトキワサイクルは目と鼻の先だった。

隆文もオヤジに付いて、店に入った。






オヤジの白い作業着の腕は真っ赤に染まり、床にポトポトと赤い滴を垂らしていた。


「兄ちゃん。済まんがそこの救急箱取ってくれ」


オヤジは棚の上に置いてある昔ながらの木製の救急箱を指さした。

隆文はその救急箱を取り、オヤジの作業着を脱がせるのを手伝った。

オヤジが中に着ていたシャツを引きちぎると、右腕の上腕に少し深い傷が見えた。

隆文は思わず目を逸らしそうになった。


「こういうの苦手か」


オヤジは自分の腕を止血の為に縛りながら隆文に訊いた。


「あんまり得意じゃ無いですね…。医者には向いてないみたいです」


隆文は救急箱から消毒液を取り出した。


「医者になれば平気になるさ。傷口にかけてくれ」


オヤジはエタノールを隆文に渡した。


「思い切り行ってくれ」


オヤジはそう言うとちぎったシャツの端を噛んだ。

隆文はエタノールの蓋を開けて、オヤジの傷口にかけた。


「うっ…」


オヤジは小さく声を上げた。

傷口からはまだ赤い血が流れ出ていて、床にはオヤジの血とエタノールの混じった水溜りが出来ていた。


「病院行った方が…」


隆文はオヤジの傷口にガーゼを貼った。


「アイツら…。兄ちゃんの知り合いだろ。可哀想じゃないか…。警察に事情聴取される事になる」


隆文はオヤジの腕にきつく包帯を巻いた。

その痛みに耐えながらオヤジは隆文に微笑んだ。

その顔には脂汗が浮かび、激痛に耐えている様子が隆文にもわかった。


「何で襲われたんだ」


オヤジにそう言われた時に、隆文は我に返った。

一つ間違えば、自分が刺されていた。

そう考えると隆文はゾッとした。

幾重にも重ねたガーゼに染みた血は、包帯にすぐに染み出して来た。

その様子を見ながら隆文は更にその上に包帯を巻いて行く。


「アイツらは、元々俺の会社の従業員だったんです。俺はそこの経営者でした」


隆文の言葉をオヤジは黙って聞いていた。


「会社を潰すと少なからず、色々な人に迷惑をかけたり、恨みを買ったり…。その中の一部なのでしょうね…」


隆文は包帯を巻き終え、救急箱からハサミを取り出し、包帯を切った。


「少しキツメに縛りますよ」


そう言うと隆文はオヤジの腕の包帯をきつく縛った。

オヤジは顔を歪める。

縛り終えると隆文は息を吐いた。

オヤジも自分の腕の包帯を見て、左手で押さえた。


「ありがとう」


オヤジは隆文に頭を下げた。


「何言ってるんですが…。お礼は俺が言わなきゃいけないのに…」


隆文も頭を下げた。


「けど、縫合する程の傷ですよ。大丈夫ですか…」


「大丈夫だよ…。その内、血も止まるだろう」


オヤジは冷蔵後から缶コーヒーを二本出し、一本を隆文に渡した。


「飲め…」


隆文は頭を下げて受け取った。


「そうか…兄ちゃん社長だったのか…」


オヤジはゆっくりと椅子に座ると、左手で缶コーヒーのプルトップを開けようとしたが、どうやら無理っぽかった。

隆文は自分の持っていた缶コーヒーを開けて、オヤジに渡した。


「ああ…済まない」


オヤジは自分の缶コーヒーを隆文に渡し、受け取った缶コーヒーを一口飲んだ。


「しかし時代も変わったな…」


オヤジは缶コーヒーを机の上に置いて、店の中を見回した。


「俺もな…働いてた会社が潰れた事があってな…」


隆文はその言葉にオヤジの顔を見た。


「そんな大きな会社じゃなかった。町の小さな自動車整備工場だったけど。倒産したって社長に言われた日、俺は社長を怨むどころか、申し訳無いって気持ちでいっぱいだった。俺たちがもっとちゃんと仕事出来ていればってな…」


隆文はオヤジの優しい表情を滲ませた。

そして胸の奥が熱くなり、声も出せなかった。


「私物をまとめて帰ってくれって言う社長を尻目に、誰一人として帰らず、普段通りに仕事をしていたよ。翌日から来ないヤツも居たが、俺はその工場が引き渡されるまで、その会社で働いた」


オヤジは机の上に置いたタバコを咥えて火を点けた。


「恩返しがしたかったんだ。単純にそれだけだった」


狭い店の中にオヤジのタバコの煙だけが漂う。


「最後の日は涙涙で別れた。俺は何時かその社長に恩返しするって心に誓ってな…」


隆文は微笑んだ。暖かい話だった。


「ある日、そこの駅前でその社長に十数年振りに偶然会ったんだよ。そしたら、小さな店をやってるって言うんだ。俺はすぐに会社を辞めて、その社長に土下座して頼んだ。俺を雇ってくれってな…」


オヤジはタバコを灰皿に押し付けた。


「それがこの店だよ」


隆文は目を閉じた。

目に溜まった涙は隆文の頬を伝った。

オヤジもその隆文を見て、目を閉じて微笑んだ。


「残念ながら、数年前にその社長は亡くなった。その時にな…。その社長が言うんだよ。お前には何も恩返しが出来なかったってな。だからこの店をもらってくれって…。断れなかったな。俺は社長に恩返しがしたかった。社長は俺に恩返しがしたかった。それを聞いた時は、俺は声を上げて泣いたさ…」


オヤジは何処を見るでも無く、ただ店の中を見渡していた。


「結局、俺は最後まで社長の恩義に報いる事が出来なかった」


「オヤジさん…。そんな事ないですよ」


隆文は堪らずそう涙声で言った。


「ありがとう」


オヤジも小さな声で答えた。

その日、隆文は朝方まで、オヤジと話していた。






隆文はパソコンの青白い光で目を覚ました。


「誰だよ…ユキか…」


そう呟く様に言うとベッドの上で体を起こした。

寝不足なのか、昨夜色々とあったせいか、やけに頭が重く、こめかみを押さえる様にして周囲を見た。

しかしそこには誰の姿も無く、ベッドの横に置いたテーブルの上のノートパソコンだけが光を放っていた。

徐々に目が慣れて、そのパソコンの画面が見えて来る。

インターネットの検索サイトが表示されており、その画面を何気なく隆文は見つめていたが、突然、パソコンの前に勢いよく移動した。


「バーアラスカ レイプ 動画」


そんなキーワードで検索されていた。

この話は誰にもしておらず、知っているのは涼子と隆文だけだったのだ。

隆文はふとパソコンの横に置かれたカップに目をやると、そのカップにはコーヒーが半分程残っていた。

恐る恐るそのカップに手を添えた。

まだ温かい。

隆文は勢いよく立ち上がり、部屋中を探しまわった。

見えない何かを…。

だが部屋の中に、自分以外の姿は無かった。


「俺…なのか…」


隆文はゆっくりとベッドに腰掛けた。


「馬鹿な…」


隆文は目を閉じて、口元を歪めた。


「おい。居るんだろう」


隆文は声に出して見えない相手にそう言った。


「わかってるんだよ…。出て来いよ。お前は俺なのか…」


絞り出す様な声で、隆文は独り言を続ける。


「ドッペルゲンガーか何か知らんが、気持ち悪くて迷惑してるんだよ。さっさと姿を見せろ…有山隆文」


しかし部屋の中は静寂を保ったままで、何も変わらなかった。

隆文は声に出して笑った。

その笑い声は徐々に大きくなり、隆文はその声に合わせてベッドに仰向けに倒れた。


「居る訳ないか…」


そう呟くと体を起こし、パソコンの前に座った。

検索されたリストにはアングラなサイトが多かった。

アラスカで撮影されたDVDを購入し、サイトにアップしているヤツも居るのだろう。

そのサイトを隆文は開いてみた。

涼子に見せられた、涼子の娘の映像同様に制服姿の女子高生やOL、水商売の女などがその餌食になっている様で、無修正DVDとして売られている様だった。

アングラの掲示板にはもっと詳しい情報が載っていた。


「撮影されているのは「アラスカ」というバーで、バーのマスターとその友達が三人で撮影している様だ。そのDVDはあるヤクザを経由して販売されている」


などという書き込みが有った。


「さらに、撮影された女たちはその映像で脅され、風俗に売られる者、援交させられる者、酷い例では海外に売られている者も居るという噂だ」


そんな書き込みも有る。


隆文はその情報を元に、更に調べる。

アラスカの場所。

マスターの俗称、その友人などそのアングラサイトには色々な情報が書き込まれてあった。

隆文はそれらをメモに書き写した。

そして自然にパソコンの横に置いたカップに手を伸ばし、カップを口に運ぼうとして手が止まった。

そのカップの中に残ったコーヒーを見て隆文は微笑むと立ち上がり、そのコーヒーをシンクに流した。


その時、玄関のドアを叩く音が聞こえた。

隆文はその音のしたドアを睨む様に見た。

昨日の今日だ、用心に越した事は無い。


「はい…」


隆文は小さな声で返事をした。


「あ…リョウコです」


ドアの向こうからリョウコの声がした。


「リョウコちゃんか…。ちょっと待って、今開けるから」


隆文はそう言うとベッドの横のテーブルに置いていたメモを壁に掛けた上着のポケットに入れ、ノートパソコンの電源を落した。

玄関を開けると、大きな袋を抱えたリョウコが立っていた。


「こんにちは。これ持ってもらっていいですか」


リョウコは抱えた大きな袋を隆文に押し付ける様に渡した。


「な、何…これ…」


「あ…食材です。買い物し過ぎちゃって…」


そう言うと隆文の部屋にリョウコは何の躊躇いも無く上がり込んだ。

隆文はリョウコに渡された袋をテーブルの上に置いた。

リョウコはダイニングの蛍光灯を点けて、手を洗っていた。


「ご飯まだですよね…何か作りますね」


「ちょっと…リョウコちゃん…」


隆文はリョウコを制しようとするが、リョウコには聞こえていない様子だった。


「リョウコちゃん…まずいよ」


隆文は慌てていた。

まさに押しかけ女房だった。


「頼まれたんです…ユキさんに」


リョウコは水道の水を止めて静かに言った。


「ユキに…」


「ええ…。有山さん一人だと、まともなモノなんて食べないから、作ってあげてって…」


隆文は呆れ顔で、


「ユキのヤツ…」


そう呟いた。


「それからお洗濯とかお掃除とかも、何にも出来ない人だからって…」


隆文はその言葉に小さく何度も頷いた。


「アイツ…。リョウコちゃんにだって予定も有るだろうし…こんなオッサンの部屋に来てる時間なんてもったいないだろう」


リョウコは隆文の方を見て微笑んだ。


「大丈夫です。私、彼氏も居ないし、これもバイトですから…」


「バイト…」


「はい。ユキさんからバイト代頂ける事になってますから…」


隆文は呆れていた。

由紀子が隆文を心配してリョウコに頼んだ事はわかったが、余りの言われように少し腹も立っていた。


「バイト代って…。家政婦さんって事か」


隆文は吐き捨てる様に言う。


「そうですね…。あ、でも言われちゃいました…」


「何を…」


「シモの世話はしないでねって…」


リョウコはそう言って微笑んだ。


「もうしちゃいましたけど」


隆文はリョウコに微笑みかけ、大きく息を吐いた。







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