第2話 ドッペルの幽霊






「え…」


隆文は、バスローブを着てホテルの部屋を歩く涼子を目で追った。


「だから…妊娠したの」


ベッドの中でタバコを咥えた隆文はしばらく固まっていた。


涼子は隆文の横に座ると隆文の首に腕を回して来た。


「心配しないで。ちゃんと堕ろすから…」


そう言って隆文の頬にキスをした。


「今日行くのよ…これから。だからその前に会っておこうと思ってね」


隆文には上手く理解出来なかった。

堕胎するという事ではなく、女という生き物自体を理解出来なかったのだ。


落ちそうなタバコの灰に気付き、隆文は動いた。


「大丈夫なのか、身体は…」


涼子は立ち上がり、長い髪を掻き上げた。


「あら、私の身体を心配してくれるの…。嬉しい」


涼子は窓の外の光る海を見ながら隆文の言葉に微笑んだ。


「それとも産んだ方が良かったかしら」


涼子は悪戯っぽく笑う。

賢い女だった。

隆文が自分の言葉で戸惑う事で遊んでいる。


「あ…いや…何と言えば良いか…」


隆文は動揺して言葉を発する事が出来なかった。

涼子は隆文の横に戻って来て、再び隆文の首に腕を回した。


「良いのよ。あなたはこれからも私を満足させてくれれば…」


そう言うと隆文をベッドに押し倒した。


「妊娠したくらいであなたと別れるのは嫌よ…」


涼子は隆文の唇を唇で塞いだ。


「それに…初めてじゃないしね…」


そう囁く様に言うと再び唇を塞ぎ、隆文は涼子にされるがままに…。

隆文はただぼんやりとホテルの天井を眺めていた。







「大丈夫なのか…その…」


隆文は腰にバスタオルを巻いて缶ビールを飲んでいた。


「杉本ね…。大丈夫よ。彼も今は未成年の愛人に入れ込んでるから、私の事なんて死んでも気付かないんじゃないかしら」


涼子は鏡の前で長い髪を梳かしていた。


「未成年の愛人…。杉本さんもやるね…」


隆文は窓から海の見える街を見降ろした。


「男は若い女が好きなんでしょ…」


涼子は隆文の後ろに立ち、バスローブの上半身をはだけさせると、自分の胸を隆文の背中に押し付けた。


「あなたも若い女が好き…」


隆文は首だけを涼子の方へ向けると髪を優しく撫でる。


「俺は遠慮しとくよ…。自分の小遣いで初めて買ったのが、レコードじゃ無くてCDだなんて言われただけで会話が出来ないからな…」


隆文は一気にビールを飲み干した。


「あら…私もCDよ」


「あれ…そうだっけ」


隆文は飲み干したビールの缶をテーブルに置いた。


「どおりで肌が若い筈だ…」


そう言うと涼子の形の良い乳房にそっと唇を寄せた。






昼間の歓楽街の人影は疎らで、その中の更に細い路地に入ると真夜中よりも物騒な街の顔を持っている場所があった。

そんな路地の奥にウイスキーの樽の蓋で作られた看板のぶら下がる店がある。


「BAR ALASKA」


看板にはそう書いてあったが、元々塗られていた塗料は雨に打たれ剥がれ落ちてしまい、辛うじて読める程になってしまっていた。

アラスカという名前はどうやらアメリカ合衆国のアラスカとは関係が無いらしい。

この店は元々二人の男が始めたそうで、一人は新井、もう一人は高須賀と言い、それで二人の名前から「アラスカ」と言う名前になったと言う。

しかしその店も人手に渡り、名前と古い看板だけが受け継がれていた。


そして、今、その店は危ない昼間の顔も持っていた。


「おい、ショウジ。今日中に二百枚とかコピー出来るのかよ」


カウンターに数台のノートパソコンを並べ、ケンイチはDVDをコピーしていた。

ショウジと呼ばれた男は後ろのボックス席に座って両足をテーブルの上に投げ出し、ダーツの矢を壁に向かって投げている。


「出来なきゃ出来ないで、仕方ないだろう」


そう言うとまた矢を投げる。


ケンイチは機械的にノートパソコンにDVDを入れると、マウスをクリックした。


「で、この女はどうしたんだよ」


ケンイチはカウンターの椅子を回し、ショウジの方を向いた。


「ああ…どっか北の方の風呂に沈めたそうだ」


「ソープかよ…。怖いねえ…」


ケンイチはコピーの終わったパソコンに、また機械的にDVDを入れてクリックした。


「人間扱いしてもらえるだけマシだろう」


ショウジは立ち上がり、ダーツの矢をまとめて抜き、ノートパソコンの画面に倍速で流れるビデオの映像を見た。

その液晶画面には数人の男に強姦される女が映し出されている。

所謂、裏DVDの製造がこの店では行われていた。

ショウジたちが撮影したDVDはコピーされ一枚数千円で地元のヤクザに渡され、ヤクザたちはそのDVDをあらゆる手段で販売する。

それだけではない。被害者の女たちもそのヤクザに引き渡され、売られて行く仕組みになっていた。

ある時は風俗店、ある時は温泉地のコンパニオンとして。

もちろんそれ以外もあるのだろうが、ショウジたちには知らさる事は無かった。


「そう言えばアキラが一人、引っ掛けて来るって言ってたよな…」


ショウジはケンイチのその言葉に小さく頷いた。


「ああ…。そろそろじゃないのか…」


ショウジはカウンターの中に入り、冷蔵庫からコーラの瓶を取り出した。


「アキラが言うにはかなりの上玉らしいけどな…」


「アキラが上玉…。無い無い。アイツの面に引っ掛かる上玉が居たら…」


ケンイチはドアの開く音で入口を見た。


「入って入って」


アキラはニコニコしながら店に入って来た。

そのアキラに続いて制服を着た「上玉」の少女も。

それを見て咄嗟にケンイチはノートパソコンを閉じた。






隆文は涼子の車を、いつものファミリーレストランの駐車場の入口で降りた。


「じゃあ、行ってくるわね」


涼子は運転席に座ったまま言った。


「付いて行かなくて良いのか」


「止めてよ…。惨めだわ」


涼子は隆文に微笑んだ。


「それに…」


「それに…」


隆文は涼子を覗き込む様に見た。


「付いて来られると、もうセックス出来なくなっちゃう」


涼子は歯を見せて笑った。


「じゃあ行くわ」


涼子の車は勢い良く走り出した。

その車が見えなくなるまで隆文は見送り、コーヒーでも飲んで帰ろうと、そのファミリーレストランに入る。


中に入ると直ぐに店員が隆文に寄って来る。


「お一人様でしょうか」


マニュアルで決まっているのだろう。

いつ来ても同じ声のトーンで同じ言葉をかけられる。


「一人で喫煙席を」


隆文はその店員に呟く様に言った。


「申し訳ございません、お客様。当店は喫煙席を廃止致しまして…」


隆文が店内を見回すと、確かに誰一人、タバコを吸っている客は居ない。


「その代わり、喫煙コーナーを設置させて頂いております」


店員が手を差す方向を見ると、ガラス張りの狭い箱の様なスペースが作られていた。

隆文はその箱を見て、苦笑した。


「ごめん…閉所恐怖症なんだ」


隆文はそう言うと店を出た。


「ファミレスでも箱に入ってタバコ吸えってのかよ…。ただコーヒーを飲みながらタバコが吸いたいってだけなのに…。そんな事も叶わなくなってしまったか…」


隆文は足早に歩き出す。

幹線道路に出たところで隆文の後ろからクラクションが聞こえ、ゆっくりと振り返ると見覚えのある車が隆文に近づいて来た。

平本が乗る高級車だった。


「またかよ…」


隆文は吐き捨てる様に呟くと車は真横で止まり、ゆっくりと後部座席のウィンドウが下がる。

後部座席から顔を出したのは平本では無く野村だった。


「有ちゃん。昨日は悪かったな」


野村は昨日の仏頂面とは違ってニコニコと笑っていた。


「野村さん…」


「乗らないか。話がしたいんだよ」


隆文は野村の笑顔に躊躇したが、手を横に振った。


「いや…止めておきますよ。また殴られたんじゃたまらないんで」


そう言うと頭を下げて歩き出した。


会社が倒産し、自己破産してそれでも金を払えと言って来たのは平本が初めてだった。

もちろん人としてどうするかと言う事で有ればそれは払うべきなのかもしれない。

しかし、今の隆文には物理的に無理な話だった。

弁護士もそう言った話には乗らない様にと隆文に釘を挿していた。

破産後の返済は好意的な要素で行えと弁護士は言っていた。

しかし、その好意的と言うモノが今の隆文にはまったくわからなかった。

もちろんお世話になった人々は沢山居るが、それ以上に多くのモノを犠牲にして世話をして来たのも事実だった。

そんなモノだと言ってしまえばそうなのだろうが、何故か大きな被害者意識の様なモノが隆文から無くなる事はなかった。


「おい、有ちゃん…」


野村は車を降りて隆文を追いかけ、隆文の肩を掴んだ。


「わかってるんだよ。有ちゃん、杉本孝一郎の嫁と付き合ってるんだろう。良い金蔓じゃないか…。幾ら引っ張るんだよ。やっぱ頭良いな」


野村は笑っていた。

どうやら今日一日尾行されていたのだろう。

隆文はぞっとして振り返り、溜息を吐いた。


「彼女はそういうんじゃない。ただの友人だ」


「ただの友人とホテルの部屋に何時間もいるかね…」


野村はニヤニヤと笑った。

隆文は下を向き、頭を掻いた。


「俺が誰と何をしようと勝手だろうが。第一、何の権利が有って、俺を尾行してるんだよ」


隆文は顔を上げて野村を睨んだ。


「おいおい、有ちゃん。昨日とは大違いだな」


野村は両手を軽く上げて抵抗はしないとアピールしている様子だった。


「ああ…平本さんは俺の債権者だけど、アンタは違うしな。そう言う意味では昨日殴られたのも腑に落ちないんだけどな」


「なるほどな…。有ちゃんの言うのが最もだ」


野村は右手でメガネを上げた。


「俺は今回、有ちゃんから金を回収するために平本さんに雇われた。これからもちょくちょく顔見せるよ」


そう言うと笑った。


「あのさ…。こんな事言いたくないけど、法的には処理は終わってるんだよ。人としてどうかって話はもちろんあるけど、それは落ち着いたら考える。少なくとも嫌らがせされる筋合いは無いだろう」


隆文はタバコを取り出し咥え、火を点けた。

野村も隆文からタバコの箱を引っ手繰る様に取り、自分も一本タバコを咥え、箱を隆文に返した。

怪訝な表情の隆文に、


「タバコくらい良いだろう…」


と言うと、野村は自分のポケットからライターを出して火を点けた。

隆文は苦笑した。


「何故そこまで有ちゃんに拘るのか、それは俺にもわからん。もしかしたら本当に嫌がらせなのかもしれん…」


野村は暮れ始めた空に向かって煙を吐いた。


「平本さんの会社…。キツイのか…」


「さあ、そこまでは知らん。俺は有ちゃんから金が回収出来たら半分もらう約束で雇われた。それだけだ…」


「ヤクザの世界だな…」


「ヤクザよりエグいんじゃないのか…。相手は平本さんだ。大人しく金払った方が身の為だと思うぜ…」


野村はまだ長いタバコを指で弾き、溝の中へ放り込んだ。

隆文は野村に苦笑した。


「知った事か…。言っとくけど、俺を着け回しても無駄だ。俺の周りに金なんて無い。人としての話はいずれさせてもらう。不満なら弁護士に言ってくれ。そう伝えてくれ」


隆文はタバコを咥えたまま歩き出した。


「また来るよ」


野村は隆文の背中に言った。


「いいよ。もう来なくて…。タバコがもったいない…」


隆文は後ろ手に野村に手を振った。

平本にも野村にも別に恨みがある訳ではない。

どちらかと言うと平本が隆文を恨んで当然なのだろう。

しかし、野村には関係の無い話だった。

野村を雇い、金を回収しようという平本にも隆文は違和感があり、そうなると人としてという部分も欠落して来る。


何処にも向けようの無い苛立ちを隆文は噛みしめていた。






隆文はいつもの店で弁当を買い、部屋に戻った。

誰も居ない部屋の蛍光灯を入口で点ける。


「ただいま…」


誰も居ない部屋に声をかけるのは癖の様なモノだった。

買って来た弁当をダイニングテーブルの上に置いて、ベッドに身を投げ出す様に横になった。

薄暗い部屋の古びたデザインの天井をじっと見つめ、そのまま隆文はまどろみ始めた…。






メッセージの着信音で隆文は目を覚ました。

床に落ちた上着から携帯を取り出して液晶画面を見ると、幾つかのメッセージが来ていた。


「処置終わったよ。心配かけてごめんね」


そんなメッセージが涼子から早くに入っていた様だ。

隆文はそのメッセージを見て、何か安堵感に似たモノを覚え、携帯を胸の上に置いて目を閉じて微笑んだ。


そして、次のメッセージを読む。


「オヤジ殿が病院へ担ぎ込まれたので、しばらく実家に戻ります」


由紀子からのメッセージだった。


「実家か…アイツ、実家ってどこだっけ…」


隆文はゆっくりと起き上がり、ダイニングテーブルに座り、床に落ちていた上着からタバコを取り出して火を点けた。


「オヤジ殿、どうやらガンで、もう助からないらしい。どうしたらいいかな…」


由紀子からさっき来たメッセージはそんな内容だった。


隆文のタバコから一気に味が無くなった。

こんな時にかけてやる言葉、それは本当に難しい。

少し迷い隆文は、


「最後の親孝行。これでもかって程して来いよ」


そう返信した。


携帯をテーブルの上に放り出し、買って来た弁当を食べる事にした。

もう冷めているので電子レンジで温めようと弁当を手に取るが、隆文はその弁当の軽さに動きを止め、慌てて弁当の包みを開くと中は空っぽだった。

隆文は帰って来てから今までの行動を思い出すが、弁当を食った記憶は無かった。


「おかしいな…」


一緒に買って来た缶ビールの空き缶もちゃんといつものところに置いてあった。


「疲れてるんだろうな…」


隆文はそう呟くと再びベッドに潜り込み、時計を見た。

既にバイトに行く時間だったが、今日の隆文には気分的に無理だった。


「日を変えてもらおう」


そのまま隆文は空腹の腹を抱え眠る事にした。


その日、夢を見た。







「え…。今、何と…」


隆文は平本に訊き返した。


「良いですか有山さん。人には五分の関係など無いのですよ。もちろん私とあなたにも」


平本は静かに言った。


「はあ…」


隆文からすると信じられない言葉だった。

綺麗事など言うつもりは無い。

隆文は自分の会社の社員に対しても、協力会社に対しても五分五分の関係で接して来た。

どちらが上で、どちらが下などという関係は考えた事も無かった。

優れている部分を称え、そこを協力してもらう事こそがビジネスの世界の関係だと思っていた。

しかしこの平本は違い、酒の席ではあったが、まだ知り合って間もない隆文に「五分の関係など存在しない」と言い切った。

そして、


「軍門に下れ…」


平本は隆文にそう言ったのだった。

その不愉快さは隆文には耐え難いモノだった。

その日、前後不覚になる程、隆文は酒を飲んだ。

どうやって自分のマンションに帰ったかなど覚えていなかった。

平本にとってはそれがステイタスの様なモノだったのだろう。

しかし、隆文が生きている世界とは違う世界だった。

その言葉はそれから数年経った今でも隆文の胸には深く残っていた。







「馬鹿にしやがって…ふざけるんじゃないぞ…」


隆文は目を覚ました。

嫌な夢だった。

この夢は過去にも何度か見た夢で、その夢を見た日は汗だくになっている事が多く、今日も例外では無かった。

まだ夜明け前だったが、充分に寝た隆文はベッドを抜け出してバスルームに入り、少し熱めのシャワーで一気に目を覚ます。


隆文は素直に平本と話が出来ない理由がわかった気がした。

この言葉が隆文の中で深く残っているからだった。


ダイニングテーブルに座った隆文は、その言葉をもう一度、噛み締める様に言った。


「ふざけんじゃねぇぞ…」






夜が明けると隆文はフラフラと部屋を出て、近くの行きつけの喫茶店へモーニングセットを食べに向かった。

気が向くと良く通っている店で、いつもの様にモーニングセットを注文し、興味も無い週刊誌を暇潰しにペラペラと捲った。


しかし、昨日の弁当は誰が食べたのだろうか…。

由紀子は実家に帰っていると言うし、それ以外に部屋のカギを持っているヤツなどいない。

本当に自分で食ったのだろうか…。

いや…そんな筈は無い。


隆文は自問自答しながら、運ばれて来たモーニングセットに手を伸ばす。


もしかすると泥棒でも入ったのか…。

しかしそれなら財布や金目のモノも持って行くだろう。

見たところそんな形跡も無い。

よほど腹を空かせた泥棒だったのだろうか…。


隆文はそれを考えると面白くなり、下を向いてクスクスと笑った。


待てよ…、由紀子が連れ込んでいた女…、リョウコ。

由紀子があの女にカギを渡してるって事は無いだろうか…。

夜中に俺の部屋に来て…俺が寝てたので、弁当だけ食って帰った。

いや…それは無いな…。


隆文は顎に手を当てて考えていた。


「どうしたんだい。隣で寝てた女が誰だかわからなかったのか」


その喫茶店のマスターは隆文の向かいに座った。


「あ…」


隆文は我に返った。


「いや…昨日の相手が女だったか、男だったか、思い出してた…」


マスターはニヤリと笑って、


「冗談キツイね。コーヒーお代わりいるかい」


「ああ…もう一つモーニングセットちょうだい。腹減ってて…」


隆文は週刊誌をテーブルに置いて言った。


「ああ…わかった。ちょっと待ってな」


マスターは隆文の食べ終わったトレイを持ってカウンターの中に戻った。

その時、入口のドアのカウベルが鳴り、ドアが開くと、見た事のある常連客が入って来た。


「雨、降って来やがったよ」


そう言いながら腕や肩の水滴を払っていた。


「天気予報じゃ昼頃からって言ってたんだけどな」


マスターはタバコを咥えたまま、窓から外を覗く様に見ていた。

その様子を隆文も目で追う。

すると入って来た常連の男と目が合った。


「あれ…。さっき女連れて歩いてた兄ちゃんだよな…」


その男は隆文の顔を見てそう言った。


「さっきって何時だよ」


マスターは隆文のテーブルにモーニングセットのプレートを持って来た。


「いや、今だよ、そこのタバコ屋の角のところで」


「そんな訳無いだろう。このお客さんはかれこれ三十分はうちに居るよ」


マスターはその男の肩を叩いて笑っていた。


この男の見間違えだろう。


隆文が腕時計を見ると、この店にやって来て既に四十分近くが経過していた。


「そうか…。そうだよな…」


その常連の男も笑ってカウンターに座った。


「俺もモーニングくれ」


「はいよ」


そのやり取りを聞いて隆文は二皿目のモーニングセットに手をつけた。






隆文は雨で肩を濡らしながら部屋に戻った。

軋む階段を駆け足に登り、自分の部屋のドアノブを掴んだ。


「あれ…」


部屋のドアのカギが開いていた。


「おかしいな…ちゃんと閉めた筈なのに…」


隆文は首を傾げながら部屋に入ると、上着を脱いでダイニングテーブルの椅子に掛ける。

壁に掛けたカレンダーを見た。

今日は、昨日サボったので夜、バイトに行かなければいけない。

夜の十時から朝の六時まで運送会社のセンターで商品の仕分け作業のバイトをしていた。

時給千数百円。休憩時間が一時間あり一日一万円程度のバイトだった。

隆文にはそれでも充分だった。


「メシが食えりゃそれでいいさ」


口癖の様にそう言っていたが、しかしそれも本心だった。


「もう少し寝ておこう」


隆文はそう呟いて、服を脱いでベッドに入ろうと毛布を捲ると、そこには裸のリョウコが眠っていた。


「え…」


隆文は驚いてベッドの脇に膝を突いた。


由紀子が居るのか…。


隆文は立ち上がり、先日の様にバスルームのドアを勢いよく開けた。

しかしそこには誰も居なかった。


「どうなってるんだ」


とりあえず隆文は服を着た。

再びベッドを見ると、やはりそこには間違い無くリョウコが全裸で横たわっていた。

隆文はリョウコに毛布をかけて、ダイニングテーブルに座った。


由紀子の悪戯だろうか…。


色々な思考が隆文の脳裏を駆け巡った。

悪戯にしては性質が悪い。


寝ボケているのだろうか…。


隆文は頭をすっきりさせるためにマグカップにインスタントコーヒーを入れ、コンロにケトルをかけた。

お湯が湧くとピーピーと音が鳴り始めた。


隆文はテーブルの上に顔を伏せてしばらく考えていた。

するとそのケトルの音が止り、ゆっくりと顔を上げるとそこには全裸のリョウコが立っていた。


「大丈夫ですか…」


リョウコはテーブルの上に置かれたマグカップにお湯を注ぎ、隆文にそっと差し出した。


「ああ…」


目のやり場に困りながら、隆文はカップを手にした。


「大丈夫ですよ。約束通りユキさんには言いませんから…」


リョウコは隆文の後ろに回り、抱きついて来た。


「ユキには言わない…。言わないだと…」


隆文は振り返り、険しい表情でリョウコを見た。

顔を見て、ゆっくりと視線を下に。

リョウコの裸体を舐める様に下から上に。


「どうしたんですか…」


リョウコはその裸体を晒す事に微塵の羞恥心も無い様子だった。


「リョウコちゃん…。気を悪くしないで聞いてくれるか…」


隆文はリョウコの肩を掴んで、隣の椅子に座らせた。


「はい…」


「ここへは誰と来た…」


隆文はリョウコの顔を覗き込んだ。

リョウコはその言葉に驚く。


「有山さんですよ…。やだ…何を…」


「何時頃…」


リョウコの言葉を隆文が遮る。


「あ、明け方ですけど…」


隆文は目を閉じた。

いくら考えてもそんな記憶は自分の中に存在しなかった。


「大丈夫ですか…」


「あ、ああ…悪い…。何でも無いんだ」


「結構飲んでいらしたんで…」


リョウコは隆文の顔を自分の胸に埋めた。


「少し休みましょう…。疲れてらっしゃるんですよ…」


そう言うと隆文の手を引いてベッドへ誘った。

隆文はされるがままにベッドに横になった。


「やっぱり私は女…。女より男が好き…」


コケティッシュな笑みを浮かべてリョウコもベッドに入って来た。


隆文は静かに目を閉じた。






窓から入る緩やかな風。湿った不快な筈のシーツ。

心地よい気だるさ。

そしてリョウコの寝息。


隆文はベッドに横になったままタバコを咥えていた。


リョウコとのセックスはまた違っていた。

朦朧とした意識の中で気が付けば隆文は必死にリョウコを抱いていた。

そして崩れる様に眠った。

一種爽快な気分で目を覚ましたが、まだ二時間程しか経っていなかった。

昼前の街の匂いをベッドの中で思い切り吸い込んだ。


隆文は横で眠るリョウコを見ると、若い肌が呼吸と共に上下していた。

それを見て苦笑に近い微笑みを浮かべ、隆文はベッドを抜け出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを取るとベッドの隅に座った。


「もう起きたんですか…」


背後からリョウコの声がする。


「ああ。朝まで良く寝てたからな…」


「嘘ばっかり」


リョウコはそう言うと隆文のミネラルウォーターのボトルを取り飲んだ。


「あんなに飲んでらしたのに…。有山さんってタフですね…」


そう言うと隆文の肩に顎を乗せた。


「なあ…」


隆文は振り向いてリョウコの目を見た。


「俺は本当に朝まで飲んでたのか」


「やだなあ…。そんなに酔ってらしたんですか。朝まですごいペースで飲んでましたよ。ユキさんお休みですよって言ったら、だから来たんだよって言って」


リョウコはクスクスと笑っていた。

そんな記憶はまったく無かったが、リョウコが嘘をついているようにも見えなかった。


「そうか…。疲れていたのかもしれないな…」


隆文は立ち上がり、ミネラルウォーターのボトルをリョウコに渡した。


「昼になるな…飯でも食いに行くか…」


「はい」


リョウコも裸のままベッドの上に立ち上がった。






リョウコは隆文と昼食を食べると帰って行った。

その後、隆文は一人部屋に戻った。

リョウコを抱いた事に罪悪感は無かったが、解せない事が一つあった。

リョウコは隆文に二度抱かれたと言ったが、隆文はリョウコを一度しか抱いていない。


隆文は下を向いたままブロックで出来た階段を上がって行った。


ふと、喫茶店で女を連れた隆文を見たと言った男の言葉を思い出した。


もしかすると自分は二人居るのではないか…。


隆文はそう思い始めた。


「馬鹿な…」


自分の部屋の裏手の窓を見ると、カーテンの陰で何かが動いた気がした。


「まさか…」


隆文は軋む階段を駆け上り、部屋のドアを開ける。

しかしそこには誰も居なかった。

部屋の中を荒々しく探し回る。

ベッドの中、バスルーム、押し入れ、テーブルの下。

しかし誰も居なかった。


「ドッペルゲンガーってやつか…」


隆文はそう呟くと、ベッドの脇に置いていたノートパソコンを取り出し、ダイニングテーブルの上で広げ、電源を入れた。

検索エンジンを開き、そこに「ドッペルゲンガー」と打ち込んだ。

隆文は食い入る様に画面を見た。

そして静かにノートパソコンを閉じた。

しばらく茫然としていたが、隆文はふと可笑しくなり鼻で笑った。


「まさかな…。誰かの悪戯だろう…」


そう呟くと、冷蔵庫を開け、中からミネラルウォーターを取り出し、それを一気に飲む。

その水はダラダラと隆文の顎を伝い、白いシャツを濡らした。

息を荒くした隆文はテーブルに両手をつき、肩を揺す。


どうなっているんだ…。

もう一人、俺が居るのか…。

それとも無意識の内に俺は歩きまわっているのか…。


隆文は力無く椅子に腰を落した。






隆文はベッドに横になっていた。

部屋に差しこむ夕日は暖かな記憶をそこに残して行く様だった。

隆文はその夕陽で目を覚ました。


「寝てしまったのか…」


そう呟くとゆっくりとベッドを抜けた。

冷蔵庫を開け、飲み物を探した。

缶ビールを手にして開けようとし、止めた。


「今日はバイトに行かなきゃな…」


隆文は缶ビールを冷蔵庫に戻し、ミネラルウォーターを手に取って、今朝の事を思い出した。

リョウコを抱いた。

そして隆文がリョウコを抱く前に、もう一人の自分がリョウコを抱いていた。

そのもう一人の自分の存在。


隆文はペットボトルを手にベッドに座り込んだ。

ベッドの脇のテーブルに投げ出される様に置いてあった携帯を手に取る。

メッセージの着信があった。


「寝てるかな。起きたら電話ちょうだい」


そんなメッセージが由紀子から入っていた。

リョウコと寝た事がばれたのでは無さそうだった。

隆文は由紀子に電話した。


「ユキか」


由紀子は少し無言だった。


「どうしたの」


どうやら病院の中で電話が出来るところまで移動している様だった。


「どうしたのって…電話くれってメッセージが来てたから」


「何言ってるのよ…。電話くれたじゃない」


「え…。俺が…」


「そうよ。一時間程前に…」


隆文は金槌で頭を叩かれた様な気分だった。


「大丈夫。隆文…」


隆文はやはり無意識に動いている自分が居る様に思えた。

携帯を耳に当てたまま、しばらく硬直していた。


「隆文…」


「ああ…。大丈夫だ。少し寝ボケていたのかもしれんな…」


隆文は無理に笑っていた。


「ところでどうだ。お父さんの様子は…」


「うん…。もう後、数日持つかどうかって感じ…」


「そうか…」


「うん…。もう意識もほとんど無いから…」


由紀子はいつに無く神妙な声だった。

父親の寿命が尽きようとしているのだ。

それが当たり前かもしれない。


「最後まで付き添ってあげなよ」


隆文はそう言うと電話を切った。







「なかなかじゃないか…」


ヤクザの高木は満面の笑みでショウジを見た。

ショウジは店の隅の椅子に座り脚を組んでいた。


「ありがとうございます」


ショウジはゆっくりと頭を下げた。


「高木さん、この辺で少しコッチの方、上げてもらえませんか…」


ショウジは手で金を表すジェスチャーをした。


「ん…ああ、そうだな」


高木はパソコンの画面の映像を再び覗き込んだ。


「しかし、それは俺の一存では決めれん。帰って兄貴と相談するよ…」


ショウジは高木に見えない様に怪訝な顔をした。

そのショウジの顔を見て、傍に立っていたケンイチが高木に詰め寄った。


「高木さん。俺たちも結構苦労してるんですよ。これだけ良い画撮るの。それなりに金も掛かるし」


「わかってるよ。ちゃんと話しとくからよ」


高木は眉間に皺を寄せて、ケンイチを手でなだめた。


高木は地元のヤクザだった。

ショウジたちと手を組み、DVDを闇ルートで捌く。

いくらショウジたちがDVDを撮っても、この高木たちの販売ルートが無いと金にはならない。

いくら高木たちの販売ルートが有っても、ショウジたちがDVDを撮らないと金は出来ない。

そういう持ちつ持たれつの関係だった。


「まあ、俺たちもお前らの働きがなきゃ仕事は出来ない。ちゃんと兄貴には話しといてやるから…。とりあえず、あと二百枚…、週末までに頼むよ」


高木は立ち上がり、ケンイチの肩を叩いた。


「ところで、この女は…」


ショウジは組んでいた脚を解き、ゆっくりと立ち上がった。


「いつもの様に指示してますんで、大丈夫ですよ…」


ショウジの言ういつもの様にとは、もちろんこのビデオをばら撒かれたくなかったら言う事を聞けという事だった。

もちろん月に一、二本撮るレイプビデオだけでは満足なアガリは取れず、そのため、ビデオを撮影した後、その女もこの高木に売っていた。


「お前たちも相当なワルだな…」


高木はニヤリと笑った。


「高木さんに言われたく無いですよ…」


ショウジは高木を流し見て、テーブルの上に置いたノートパソコンで流れ続けるレイプビデオを見た。

制服姿の女子高生が無理矢理に犯されているビデオが延々と流れていた。







「すみません」


隆文はトキワサイクルのドアを開けた。


「あ、ごめん。今日はもう終わりなんだ…」


老人は顔も上げずにそう言った。


「直りましたか…」


隆文がその様子に恐る恐る言うと、その声にトキワサイクルのオヤジは顔を上げた。


「何だ…兄ちゃんか…。入りなよ」


オヤジは油で汚れた顔で微笑んだ。


「すまん。まだなんだよ。色々と悪いところも有ってな…」


隆文は後ろ手にドアを閉めた。


「すみません。手間かけちゃって…」


隆文はオヤジに頭を下げた。


「良いんだよ。古いモノを大事に扱う。俺はそんな気持ちが大好きだ」


オヤジは手をウエスで拭きながら隆文に近くにあった椅子を差し出した。

隆文が頭を下げてその椅子に座ると、オヤジは店の隅にある小さな冷蔵庫から缶コーヒーを二本取り、隆文に一本渡した。


「ありがとうございます」


隆文は礼を言った。


「もしかして今日使うんだったかい」


オヤジはコーヒーを飲みながら訊いた。


「あ…これからバイトで…港まで行くんで」


「そうか…。兄ちゃん、中型免許はあるか」


「いや…原付しか乗れなくて…」


隆文は頭を掻いた。


「そうか…。じゃあ、アレ使いな」


オヤジはそう言うと店の外に停めてある原付を指さした。


「これが直るまで、そのまま乗っててくれて良いから」


隆文が店の外にある原付を見ると、ピカピカの綺麗な新車だった。


「でも…」


「壊したら、代わりにコレもらうから」


オヤジは隆文の原付を指さして微笑んでいた。


「本当に良いんですか…」


「構わんよ。試乗車だ。こんな店に試乗しに来るヤツなんて何人もいない。思う存分、試乗しててくれ」


オヤジの笑顔に釣られて隆文も微笑んで頷いた。


「わかりました。ではお言葉に甘えます」


「そう来なきゃ…。あ、どうだ、甘えついでに隣のラーメン、一緒に食ってくれよ。晩飯まだなんだよ…」


トキワサイクルの隣は人気のラーメン屋で、隆文もそのラーメンを食ってバイトに行こうと考えていたところだった。


「何、お隣さんだ。出前なんてしてくれないんだが、うちは特別だ。隣から運んでくれる」


オヤジはそう言うと店を出て隣のラーメン屋を覗き込み、大声でラーメンを注文した。


「何から何まですみません」


隆文は頭を下げた。


「気にするな…。好きでやってる事だ」


オヤジは隆文の向かいに再び座る。


「さっきバイトって言ったな…。兄ちゃんその歳でフリーターなのか」


「会社、潰れちゃって…今は仕方なく…」


隆文は詳しくは語らなかった。

それで良い、都会での付き合いとはそんなモノだと、隆文は思っていた。


「そうか…。このご時世だ。潰れる会社もあるさ…明日は我が身だよ…」


そう言ってくれるオヤジの言葉が隆文には心地良く無意識に微笑んでいた。


オヤジは作業着のポケットからタバコを取り出したが、どうやらタバコが残っていない様子で、その包みを手で丸めて、近くにあったオイルの空き缶で出来たゴミ箱に放り込んだ。


「ちょっとタバコ買ってくるから、ラーメン来たら受け取っといてくれよ」


オヤジはそう言うと立ち上がった。


「ああ…これ、良かったら…」


隆文は自分の上着のポケットから新しいタバコを取り出し、差し出した。


「何のお礼も出来て無いんで…。お礼って言うとおかしいですけど」


「いいのか…」


オヤジはそのタバコを受け取った。


「どうぞどうぞ」


「悪いな…」


オヤジはそう言うとタバコの包みを開けた。


「タバコも吸いづらい世の中になったな…。何処も彼処も禁煙、禁煙でよ。下手に街中で吸ってるとすぐに監視員が飛んで来て、罰金だの何だのって…」


オヤジは美味そうに煙を吐いた。


「元々は金持ちの嗜好品だって言うのによ…。今じゃ値上げ値上げで、貧乏人を虐めてる。タバコ吸うにもいちいち喫茶店に入らなきゃいけないし、いざ喫茶店に入ってみると、喫煙席は隅っこの方で…。ファミレスなんて…」


「喫煙所でしょ…。箱みたいな…」


隆文がオヤジの会話を遮り、そう言うと、オヤジはその言葉に隆文を見た。


「そうなんだよ…。何処が憩いの場だよ…。タバコも吸えないなんてな…。そんなに喫煙者がダメならいっその事売らなきゃ良いんだよ」


オヤジはニコニコしながら話していた。


「おっと、悪いな。一日一人で仕事してると、一言も話さない日もある。その反動で、誰か居るとつい喋っちまう」


オヤジは声を出して笑った。

隆文も同じだった。

一日一人で居ると、一言も喋らない日がある。

以前、社長をやっている時にはあり得なかった事だった。


「毎度…」


その時、店のドアの外にラーメンを二つ持った、隣のラーメン店の店員が立っていた。

オヤジはドアを開けて、


「そこに置いてくれ」


そう言うとポケットから金を出した。


「毎度ありがとうございます。また、丼は後で取りに来ますんで」


店員はそう言うと、頭を下げて金を受け取り帰って行った。


「さあ、伸びないうちに食おうか…」


オヤジは割り箸を隆文に差し出した。


「はい。頂きます」


隆文は箸を受け取り、椅子を机に近づけた。

トキワサイクルのオヤジとラーメンを食べながら、人の温もりを感じていた。

長い事感じた事の無い温もりの様な気がした。







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