第1話 自己破産の男





銀行のATMが、けたたましい音と共に彼のキャッシュカードを吐き出した。

チラチラとノイズの走る小さな液晶画面には「残高不足」の文字が表示されていた。


「ちっ…」


有山隆文は舌打ちした。


経営していた会社が、事実上倒産して半年が経つ。

小さなコンピューターのソフトウエア開発会社を経営していたが、大手取引先の倒産の煽りを受けて、あっさりと倒産した。

しかし隆文は正直、自分の会社が倒産して清々していた。

IT、ITなどと囃し立てられた時代もあったが、別にそれで美味しい思いをした訳でもない。

スマートで格好の良い業界であると大学生の就職人気も上位に居た業界だが、そんなモノは虚空で、実際には血反吐を吐く思いで毎日毎日仕事をしていた。

それは社長と呼ばれる者も同様で、社員より人件費の掛からない社長を始めとする役員が残業して作り上げる。

それが当たり前の世界だった。

その上に日々、金、金と金に追い立てられる事から逃れる事が出来ただけでも、隆文は肩の力を抜く事が出来た。


結果、会社を廃業して、自己破産した。

今は、週に何度かのアルバイトをして、数十年振りに時給幾らの世界で働いている。

もちろん自分の時間も金も無いが、それでも今の生活の方が隆文は充実していた。


銀行を出て、ポケットに手を入れ、踵を踏んだ靴でペタペタと街を歩く。

そして道端に停めた古い原付に跨り、ヘルメットを被る。


「あーあ…。しばらくカップ麺だな…」


そう呟くとエンジンをかけ、走り出した。


社長と呼ばれていた間は、月に二十万程の家賃を払い、良い部屋に住んでいたが、今は少し山手の方に行った古いハイツに引っ越した。

隆文自身も驚く程の環境の変わり方だった。

社員はもちろん、十数年一緒にやって来た仲間も蜘蛛の子を散らす様に去って行った。

社外にそれ程迷惑をかけた者が居なかった事がせめてもの救いかもしれない。

それでも社長、社長と寄って来ていた者たちからの連絡はほとんど無くなった。


それでも隆文は以前より充実し、毎日を自分のペースで生きる事が出来た。


古いハイツの下で原付を停め、ギシギシと音のする階段を駆け上がった。

ドアにカギを差し込み、錆びて固くなったカギを開けた。

玄関で靴を脱いで中に入ると、そこには女モノの靴が二つ、一つはキチンと揃えて、もう一つは脱ぎ散らかしたままの状態で転がっているのが見えた。

それを見て、隆文は溜息を吐く。


「おい、ユキ。来る時は連絡してから来いって言っただろうが」


大袈裟にそう言いながら部屋に入って行った。

奥の部屋に隆文のベッドが置いてある。

部屋に似付かわない大きなベッド。

それは引っ越す前の部屋で使っていたベッドで、そのまま狭い部屋に放り込んで使っている。


隆文はそのベッドの毛布を勢いよく剥ぎ取った。


「キャッ」


そこには見知らぬ女が、全裸で丸くなり、見せたくない部分を隠していた。

その女を隆文は見て、また溜息を吐いた。


「ごめん。由紀子は何処…」


隆文はその女から目を逸らして訊いた。


「シ、シャワーだと思います…」


身の危険を感じているのだろうか、女は震えながら言う。

それが当たり前の反応だろう。


隆文はすべてを悟った様に小さく何度か頷き、


「ありがとう」


と言うと毛布をその女に掛けた。

そしてゆっくりとベッドの横にしゃがみ込むと、


「君もさ、レズじゃないんだろ。止めた方が良いよ。女は男を愛さなきゃ…」


隆文は毛布の中の女の肩をポンポンと叩いたが、女はまだ小さく震えていた。

どうやら由紀子に初めて誘われた女なのだろう。


隆文は部屋を出て、バスルームへと向かった。

向かうと言う程、広い部屋でも無いのだが。


「ユキ」


隆文が思い切りバスルームのドアを開けると、全身を泡だらけにして身体を洗っている由紀子が立っていた。


「あら、帰ったの」


「帰ったのじゃないよ…。また女連れ込みやがって」


「良いじゃない。女だし」


隆文は呆れて由紀子から目を逸らした。


「そういう問題じゃないだろうが…」


すると由紀子は隆文に顔を近づけ、


「ちょっと待ってて、石鹸流すから」


と微笑み、バスルームのドアを閉めた。

隆文はまた溜息を吐き、ダイニングテーブルの椅子に座った。


由紀子と隆文の関係は隆文が破産しても、何ら変わる事は無かった。

この由紀子。

隆文の彼女でもあるのだが、彼女は男も女も相手が出来る、いわゆるバイセクシャルで、以前は昼間仕事で居ない隆文の部屋に女を連れ込んでいたのだが、今は隆文が昼間居る事が多いので、何度かこうやって鉢合わせしていた。


「ジャーン」


由紀子は自分で効果音を出しながらバスルームから出て、大きな胸を揺らし誇らしげに立っていた。


「どう」


「また大きくしたのか…」


隆文は目を丸くして由紀子の胸を見ながら言った。


「隆文も好きでしょ…大きな胸」


由紀子は整形を何度となく繰り返し、小さかった胸は今では裸で街を歩きたいと本人が言う程に大きくなっている。

細くて腫れぼったかった目もぱっちりと二重で大きな瞳になり、口角もキリッと引き上げ、頬の骨も削ったらしい。

一時は隆文が会う度に何処かが変わっている程だった。

所謂、整形マニアでもある。


隆文はもう何度目かわからない溜息を吐く。


「いいから服着ろよ。そして彼女を連れてホテルに行けよ」


「嫌よ。ホテルなんて…。そんな事したら私がバイってばれるでしょ…」


隆文はその言葉に目を白黒させながら、


「そこは拘ってる訳ね…」


と頷いた。


「そう。だって水商売ってそう言う噂が命取りになるんですもの」


由紀子はバスタオルを身体に巻いた。


「だから隆文、二、三時間どこか行ってて」


「あのな…」


そう言い出す隆文の前に由紀子は一万円札を指で挟んで差し出した。


「タダとは言わないわ…。ホテル代払うから」


隆文は文句を言おうとした口を止めた。

目の前に差し出された一万円が、今の隆文には大きかった。


「良いだろう」


隆文はその一万円を指で挟んで受け取った。


「ありがと。そんな隆文が大好きよ」


由紀子は隆文にキスをした。


「夕方には戻るから、それまでに頼むぜ」


隆文が立ち上がると、由紀子は微笑み無言で頷いた。


「いいな。夕方だぞ」


隆文は玄関で靴を履きながら念押しして外に出た。

隆文は手に持った一万円を見て微笑み、軽快に軋む階段を下りて行った。






隆文は原付で街へと向かった。

電車の高架沿いを東へ走る道。

これがいつものルートだった。

思っても見ない臨時収入に気を良くして、鼻歌を歌いながら軽快に飛ばしていると、突然パンという音と共に後輪のタイヤの空気が抜け始める。


「パンクかよ…」


ハンドルを取られそうになる隆文は原付を道の脇に停め、スタンドを立てた。

しゃがみ込んで後輪を見ていると、後ろでクラクションが鳴った。

顔を上げると、一台の軽トラックが停まった。


「どうしたの」


一人の老人が、軽トラックの運転席から顔を出し、声をかけて来た。


「パンクしたみたいで…」


隆文はしゃがんだまま、男を見上げて言うと、老人は軽トラックから降りて来た。

作業着を着た老人、その作業着の胸には「トキワサイクル」とネームが入っていた。

老人は隆文の横にしゃがみ込み、手際良く隆文の原付の後輪を回し、パンクの箇所を確かめた。


「これだな…。ほらココ」


老人は隆文にわかる様に指を指した。


「ガラスの破片、踏んでるよ」


老人は隆文に微笑みかけた。


「次の信号の高架下にうちの店が有るんだ。そこまで押せるか」


「はい。大丈夫です」


隆文が強く頷くと、老人も頷き、軽トラックに乗り込んだ。

そしてゆっくりと走り出す。

隆文もそれに付いて行くように原付を押した。






薄っぺらな街。

隆文にはこの街はそう映っていた。

文字通り山から海岸まで、そう距離もなく、その薄っぺらい街にごちゃごちゃと人が集まっている。


仲間だと思っていた人々も隆文が破産すると同時に去って行き、たまに顔を合わせても無表情な顔で自分の事を見る。

憐れみなのか、苛立ちなのかわからないが、死んだ様な目で隆文を見る。

隆文にはそれが耐え切れなかった。

今は週に二、三度アルバイトをして生計を立てている。

大きな倉庫で汗を流し、商品の仕分け作業を行っていた。

「会社の社長をやってた人」などと陰では言われている様子だったが、隆文にはそんな事はどうでも良かった。

大企業の社長をやってた人でも、タクシーの運転手をしている人なども多くいる。

隆文自身、社長をやってたからと言って人より偉いなどと思った事は一度もない。

そんな性格だった。

元々社長には向いてなかったのかもしれない。


「社長なんだから、少しは良い格好しないと」


などと言う仲間も居たが、隆文はそんな気にはなれなかった。


「自分は形だけの社長だから」


そう言った事もある。


自分には向いていない世界から解放された気分はある意味、爽快だった。


パンクして真っ直ぐ走らない重い原付を押しながら、必死に走っている自分の姿を想像して隆文は笑っていた。

額に汗が流れ、その汗を手の甲で拭いながら高架下のバイク屋の前で隆文は止まり、肩で息を吐いた。


「お疲れさん。これ、飲みなよ…」


バイク屋の老人は隆文に冷たいスポーツドリンクを投げると、そのペットボトルを受け取った。


「頂きます」


礼を言うと、早速スポーツドリンクを飲んだ。


バイク屋の老人は隆文の原付を押して、店の中に入れると、年齢では考えられない力で後輪を持ち上げ、ガラスを踏んだ箇所を見ていた。


隆文は老人の横にしゃがみ込み、一緒にそのタイヤを覗き込む。


「すぐ直りますか…」


「いや…こりゃタイヤも交換しないといけないな…」


老人は隆文の原付のタイヤを触りながら言う。


「金掛かりますね…」


隆文は今の自分が一番弱い部分の、「金」の心配をした。


「金、掛からん方が良いよな…」


老人は隆文の顔を覗き込む様に訊く。


「出来れば…」


隆文も老人の顔を見て微笑んだ。


「じゃあ、二、三日預けてくれるか。中古品のタイヤ探して来るから。このタイヤはどうせ在庫も置いてない。ついでに整備も、しといてやるから」


バイク屋の老人はゆっくりと立ち上がった。


「なに…。俺もこの原付、一度とことん触ってみたかったんだ」


そう言うと声を出して笑った。


「良いんですか…」


「ノープロブレムだ」


老人は隆文の原付のシートをポンポンと叩いた。


「ありがとうございます」


そう言うと隆文は頭を深々と下げた。






隆文はバイク屋に原付を預けた後、行き付けの本屋で本を買い、オープンカフェへ行き、その本を読んでいた。

面白くも何ともない部類の本なのだが、以前からビジネス書を読む癖が抜けず、何となく読んでしまう。

紙コップの美味くも不味くも無いコーヒーをすすりながらページを捲って行く。

店内は禁煙なので、隆文はいつも屋外の陰になる場所で長時間、本を読む事が多かった。


テーブルの上に置いたタバコを取ろうと手を伸ばし、器用に一本タバコを抜き、咥えると、今度はライターを取ろうと手を伸ばす。

テーブルの上を探っていると、指先が人の手に触れるのを感じた。


「勝手に破産しておいて、こんなところで呑気に読書ですか…」


隆文の向かいにはニコニコと笑う小柄な男が座っていて、隆文のライターを握っていた。


「平本さん」


隆文は咥えたタバコをテーブルに置いて、本を閉じた。

平本の後ろには野村という平本の用心棒的な男が隆文を睨む様な顔で立っていた。


「野村さんも…」


「お久しぶりですね。弁護士からの書類ありがとうございます」


平本は隆文のライターをテーブルの上に静かに立てた。


隆文は姿勢を正し、


「この度は誠に申し訳ありませんでした。多大なご迷惑をおかけしまして」


そう言うと頭を下げる。


「いえ…。そんな事はどうでも良いのです」


平本は白いスチール製の固い椅子の背もたれに寄り掛かった。


「で、今は何をされているのですか」


「今…ですか…」


隆文は手に持った本をテーブルの上に置いた。


「今はアルバイトを少々…」


その言葉に平本と野村は顔を見合わせて笑い、隆文がテーブルの上に置いた本を手に取り、パラパラと捲った。


「こんな難しい本、必要無いでしょう。自分の会社も無い訳ですし…」


そう言うとその本を床のタイルの上に落した。


隆文はその平本の落した本を目で追った。


「弊社が御社の倒産で被った損害、今日は頂ける様に書面を交わさせて頂こうと思いまして…」


平本は再び背もたれに寄り掛かった。


「いや…しかし…」


隆文は小さな声で言う。


「法律を使って借金をチャラにする方法ももちろんあります。しかしですね…それで迷惑を被る者もいる。それをお忘れではありませんか…」


平本は淡々を語った。


「いえ…そんな…」


隆文は慌てて首を横に振った。


「では、返して頂けるのですね…」


よく喋る平本とは対照的に、後ろに立つ野村は無言のまま隆文を見下ろしていた。

この平本は別に金貸しという訳では無い。

隆文とは仕事の繋がりで一緒に仕事をしていた会社の社長だった。

少々、平本の会社に買掛金があり、その分を払えという事の様だった。


隆文は少し背筋を伸ばし、姿勢を正した。


「平本さん。おっしゃる事は良くわかります。申し訳ないという気持ちもあります。しかし、今の私には御社へご迷惑をおかけした金額を準備出来る能力はありません。裁判所の決定が不服であれば異議申し立てをして下さい」


隆文はそう言うと地面に落ちた本を拾い、埃を払った。


「有ちゃん」


隆文が社長をしていた時代は仲間に「有ちゃん」と呼ばれていた。


本の埃を払っていた隆文の頭上から野村が声をかける。

隆文はゆっくりと頭を上げた。

顔を上げた隆文の頬に野村の拳が食い込み、隆文は大きな音を立てて、椅子ごと後ろに倒れた。

その様子を見ていた周囲の客は咄嗟に立ち上がり声を上げる。


冷たいタイルの床に倒れた隆文はゆっくりと起き上がり、目を白黒させながら頬を押さえ、溜息を吐いた。


「何するんですか…」


隆文は立ち上がり、倒れた椅子を起した。


「私の痛みはそんなモンじゃありませんよ」


スチールの椅子の背もたれに寄り掛かったまま、平本は淡々とそう言った。


隆文は自分の足元に落ちていた本を再び拾い、乱れたテーブルを直した。

そして、平本と野村に背を向けたまま、


「お怒りはごもっともだと思います。出来れば私もこんな形にはしたくなかった。何とか立て直そうと必死に動きました。しかし、結果こうなってしまった」


隆文は振り返り二人を見た。


「本当に申し訳無く思っています」


そう言うと深々と頭を下げた。


「あなたが頭を下げても一円にもなりません。こうやって私がわざわざやって来たんです。社員の手前、手ぶらで帰る訳にもいかないでしょう。それはわかりますよね。有山さん」


平本はゆっくりと立ち上がる。


隆文は小さく何度も頷きながら、


「そうですね…」


そう答えた。


野村は平本の横に立ってじっと隆文を睨みつけている。


「平本さん…。あなたは私に幾ら払えとおっしゃってるのですか」


隆文は再びスチールの椅子に座った。


「金額の問題じゃないのです。何か馬鹿にされた気分になりましてね…」


「私が…あなたを、馬鹿にしたと…」


「はい。実際そうでは無いですか…。いきなり弁護士からの書状を送り付けて来るなんて」


平本もまた椅子に座った。

周囲の客もその様子を見てざわつくのを止めて席に座っていた。


「そんなつもりは一切ありません」


平本は声に出して笑った。


「ならばもっと性質が悪い。無意識に馬鹿にしたという事ですね」


「平本さん…」


隆文はテーブルに腕を乗せて前に乗り出した。

同じだった。

平本も野村も死んだ様な目で隆文を見ていた。


「どうされましたか…」


そう声をかけて来たのは制服姿の警官だった。


「男性が殴られたと通報が有ったのですが…」


警官は事務的な口調で言った。


「ああ…何でもありません」


隆文は左手を上げて警官に言う。

その間に平本は立ち上がった。


「じゃあ、そういう事で頼んだよ。また連絡する」


平本は野村を連れて去って行った。


「大丈夫ですか…ご主人ですよね。殴られたのは…」


警官は隆文の肩に手を当てた。


「いや…何でも無いんです。勘違いです。大声で話をしていたので…」


隆文は傷だらけになった本を開いた。


「わかりました。何かありましたらご一報下さい」


警官は一礼するとあっさりと帰って行った。






夕方まで隆文はそのカフェで本を読んでいたが、平本たちが戻って来る事は無かった。


コーヒーを三杯とタバコを十数本、そして本が一冊。

安上がりな男だった。


隆文はアーケードの中を歩き、部屋へと戻っていた。

週末のセンター街は夕方からでも人が増え続け、ぶつかりそうになる人波を避けて歩く。

これも都会に住んでいるからこそ身に付けた技なのかもしれない。


隆文のポケットで携帯が鳴った。

スマートフォンの画面には「杉本涼子」と表示されていた。

隆文は画面に慣れた手つきでタッチして電話に出た。


「はい、もしもし」


隆文は人混みを避けて、脇道に入る。


「隆文。うるさいわね…今何処」


「あ、センター街だよ。ごめん、ちょっと移動するよ」


隆文は人の少ない方へ急いだ。


「悪い悪い。どうしたの…」


「ううん。明日、予定が空いたから会えないかなって思って」


「明日…。良いよ。夜はバイトがあるけど」


「社長だった人が、四十過ぎてバイトしてるなんて、おかしな話ね」


涼子は澄んだ声でそう言った。


杉本涼子。

彼女は隆文とはライトな付き合いをしていた。

特に恋愛感情のある関係では無く、言うなればセックスフレンドと言う所だ。

あるパーティで知り合い、その日だけの関係のつもりが、妙にセックスの相性がお互いに良かったのか、それ以来数年、そんな関係が続いている。

涼子も人妻で、時間の融通が思う様に付かず、いつも涼子の方から連絡がある。

そんな関係だからこそ、隆文がどんな状況になっても関係なく付き会えているのかもしれない。


「うるせえよ。大きなお世話だ」


隆文はこの涼子とも気軽に話が出来ていた。

社長業をやって、会話術だけは誰にも負けないモノを身に付けたのかもしれない。


「ごめんごめん。じゃあ、明日、十一時にいつものところで」


涼子もそんな隆文と居るのが楽なのだろうか、何でも冗談で笑い飛ばしていた。


「わかった。あ、でも…」


隆文の言葉を涼子が遮る。


「わかってるわよ。四十過ぎのフリーターにホテル代出せなんて言わないわよ」


涼子はクスクス笑いながらそう言った。


「あ…そう」


隆文としてもバツの悪い話だが、無いモノは仕方ない。

それでも会いたいと涼子が言うのだ。

隆文は自分にそう言い聞かせた。


「それじゃ、明日ね」


涼子は電話を切った。


隆文は切れた電話をじっと見つめ、画面をタッチするとポケットに入れ、再び人波の中を歩き出した。


涼子の夫は、この街でも有名な建設会社の社長だった。

山の手にある高級住宅地の大きな家に住んでいる。

隆文は何度かタクシーで送った事があった。

初めて関係を持った日、その家の前までタクシーで送り届けた時に、その表札を見て、杉本建設の社長、杉本孝一郎の妻である事に気付いた。

一代で大会社を創りあげた大手の建設会社の社長であるからには、それなりに関わりたくない裏の世界とも繋がりが有るのだろう。

しかし涼子は、そんな事を気にさせる様な女では無かった。

そんな要素もあり、この関係は続いているのかもしれない。

隆文の足取りは少し軽くなった。

もちろん、隆文の部屋で女を抱く女。

由紀子には内緒の関係だったが、涼子は由紀子の存在は知っている。

それどころか、


「由紀子さんにも一度お願いしたいな…」


などと言っていた。


「気持ち良ければ男でも女でも良いのか」


隆文は真剣に涼子にそう訊いたが、涼子はそれには答えず、ただ笑っていた。






家の近くで弁当とビールを買って、部屋に戻る。

軋む階段を上がると、部屋の明かりが点いている事に気付く。

どうやらまだ由紀子が部屋に居る様だった。


部屋のドアにカギを差し、ドアを開けた。

するとダイニングテーブルに由紀子とピンクのスーツ姿の女が座っていた。


「あら、おかえりなさい」


由紀子は隆文に気付いた。


「おかえりなさいじゃねーよ」


隆文はダイニングテーブルの上に弁当を置いた。


ピンクのスーツを着た女は、間違い無くベッドの中で見た女だった。

その女が隆文に会釈したので、隆文も軽く頭を下げた。


「あ、彼女ね。うちの店に昨日から来てくれてるリョウコちゃん」


由紀子はそのピンクのスーツの女を隆文に紹介した。


「リョウコ…」


自然に口からその名前が出た。

そしてリョウコの顔をじっと見つめた。


「何…。リョウコちゃんがどうかしたの」


由紀子は不思議そうに隆文の顔を覗き込んだ。


「いや…生き別れの妹に似てたんでつい…」


隆文は我に返り、椅子に座った。


「何言ってんのよ。妹なんて居ないくせに」


由紀子とリョウコは二人で笑っていた。


「良いのか、そろそろ仕事の時間だろうが」


隆文は買って来た缶ビールを開けた。

缶ビールを開ける音は決まって美味そうな音がする。

あの音が購買意欲を更に掻き立てているのかもしれない。


「今日は同伴もないし、リョウコちゃんとご飯食べてから出勤しようと思って」


由紀子は隆文が開けたばかりの缶ビールを、喉を鳴らして飲んだ。


「おい…。俺んだぞ…」


隆文は由紀子の手から缶ビールを取り返す。


「ケチ」


由紀子はそう言うとリョウコに同意を求めるように頷いていた。


「お前らさ、不健康だよ。セックスは異性としないと」


隆文は弁当の蓋を開けながら二人を交互に見た。


「じゃあ今晩は隆文に二人の相手してもらおうよ」


「な、何を言ってるんだ…。俺はもう四十過ぎてるんだよ。若さ溢れる女二人を相手に出来る体力はありません」


「あら、結構合格点だけどな…」


由紀子は頬杖を突いた。

リョウコは隆文と由紀子のやり取りを見ながら、終始笑っていた。


「バーカ、バーカ、バーカ」


隆文は由紀子の耳の横でそう繰り返すのを見て、リョウコはまた声を上げて笑い出した。

笑顔の可愛い子だった。

その笑顔を見て隆文は箸を止めた。


「でも、アレだよ、リョウコちゃん。女のコイツと抱き合うなら俺とセックスした方がよっぽど健康的だよ。歪んだ世界からは一日も早く引退した方が良いよ」


「そうですね…」


リョウコは俯いて、少し顔を赤らめていた。


「私の彼女、取らないでよね…」


由紀子はリョウコの後ろに回り、背後からリョウコを抱きしめた。


それを隆文は見て、


「はいはい。その偽物のオッパイには勝てません」


そう言って弁当を口に放り込んだ。


「うるさいわね」


由紀子は少し怒った顔をして、テーブルの上の隆文のビールを再び飲んだ。


「お前、今から客の金でたらふく飲むんだろうが」


隆文は由紀子の手から残り少なくなった缶ビールを取り戻し、一気に飲み干した。


「早く仕事行けよ」


「言われなくても行きますよお。インケツ社長は放っておいて行きましょ。リョウコちゃん」


由紀子はリョウコの手を引いて玄関へ立った。


「じゃあ、言ってきまあす」


由紀子たちはそう言って出て行った。


隆文一人になった部屋は静かだった。

その静寂の中で、美味くも無く不味くも無い弁当を一人噛みしめていた。

ふと、我に返り、テーブルの上に置いたリモコンでテレビを点ける。

静かな部屋にそのテレビから流れて来る女子アナの声だけが響いていた。







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