ドッペルの憂鬱

星賀 勇一郎

プロローグ






「おじさん。アタシ買わない」


まだ幼さの残る少女はそう言うと、短い制服のスカートを申し訳程度に捲くり上げた。


「いくらだ」


ほろ酔いの男はポケットに手を入れ、クシャクシャの千円札を出すと、その少女に渡した。


「これで飴玉でも買えよ」


そう言うと歩き出す。

男は安い酒を何杯か飲み、追い出される様にいつものバーを出て来たところで、行くあても無く歓楽街をフラフラと歩いていた。


「ちょっと…」


少女は小走りに前を歩くその男に追い付くと、両手で持ったクシャクシャの千円札を広げて見せた。


「飴玉が欲しい訳じゃないの。アタシを買って欲しいの」


男は一度空を見上げると、汚れた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「あのな…。悪い事は言わねえから、そういうの止めろ。後で後悔するぞ…」


若いヤツに説教するのは嫌だった。

極力、説教染みない言葉を選んでゆっくりと語った。


「おじさん、お金無いの…」


少女は強い眼差しで男の目をじっと見て訊く。


「ああ、金も無いし…何もない。過去も未来も、夢も希望もな…」


男は鼻で笑うと再び歩き出した。


「だけど、女には不自由してないぜ…」


後ろ手に少女に手を振る。


少女は男の後ろ姿を睨む様に見ていたが、その背中は何処か哀愁が漂い、寂しげに見えた。


「君」


その時、少女の肩を叩く者がいた。

振り返ると少女の後ろには二人の制服警官が立っていた。


「こんなところで何をしているんだい。君、未成年だろう」


少女は咄嗟にその警官を険しい表情で睨んだ。


「何だって良いでしょう」


少女は警官の手を振り払う様に解き、ズカズカと歩き出す。


男は立ち止まりタバコを咥え、火を点けた。

ふと振り返るとさっきの少女が警官に肩を掴まれ、抵抗しているのが見える。


俺には関係ない…。


男は少女たちから視線を外し、暮れた空に煙を吐いた。

その煙は風に流されて直ぐに消えて行く。


「放せよ。触るな…」


少女が声を荒げているのが聞こえ、男は再び少女を見た。


「仕方ないな…」


男は溜息を吐いて、来た道を少女の方へと戻った。


「おい、リョウコ。何をやっているんだよ」


男はその少女を呼び寄せるかの様に手を上げた。

そしてその少女の傍まで歩き、肩を抱いた。


「すみません。俺の妹が何かしましたか…」


男はそう言うと警官に微笑んだ。


「あ、保護者の方ですか」


警官は少女から手を離した。


「最近この辺りで未成年者の売春が横行しているので…」


「俺の妹がそんな風に見えましたか。この先で、飯でも食おうと思って連れて来たんだけど…」


少女は男の後ろに隠れる様に回った。


「やっぱり、こんな歓楽街に未成年者連れて来るのはまずかったかな…」


そう言って警官に軽く頭を下げると、二人の警官も頭を下げて去って行った。

その警官に男は再び頭を下げる。


「ありがとう。助けてくれて」


少女は男の腕を引っ張って礼を言った。


「だから言ったろ。そんな格好でこんなところに居ちゃ目立って仕方ないだろ…」


男が歩き出すと、その後ろを追うように少女も歩き出した。


「リョウコって誰。彼女」


「そうだな…彼女みたいなモンだな」


男はまだ長いタバコを溝の中に投げ捨てた。


「みたいなモンって何よ…」


「みたいなモンは、みたいなモンだ」


そんな返事に少女は何かを察したのか、口元を緩める。


「そうなんだ」


少女は嬉しそうに男の周りを飛び跳ねる様に付いて行く。


「腹減ってないか」


男はニコニコと微笑みながらスキップをする少女に訊いた。


「ペコペコ…」


少女は立ち止まり男の手を掴んだ。


「メシでも食うか」


「うん」


少女は嬉しそうに微笑んだ。


男ははしゃぐ少女を見て苦笑した。


「けど、メシ食ったら家に帰るんだぞ」


「考えとく」


少女と男は歓楽街の外れにある洋食屋に入った。


「こんな店初めて来た。良いの。高くないの」


少女は店の入口で雰囲気のある照明の薄暗い店内を見回していた。


「この店は安くて美味い。心配するな。金が足りなきゃ、お前を売り飛ばして金にするさ」


男が少女に微笑むと、少女は少し膨れっ面になる。


「いらっしゃいませ」


奥から出て来た店員は男に頭を下げた。


「お久しぶりです」


「ご無沙汰してます」


男も丁寧に頭を下げる。


「奥の席が空いておりますので…」


店員は男を店の中へ案内した。


「ああ。ありがとう」


男が上着を脱ぎながら店の中へ入って行くと、少女も少し緊張気味にその後ろを付いて行く。


「常連さんなんだ…。何か凄いね」


「黙ってろ…」


男は少女に小声で言う。


店員に席を案内されて、二人は座った。


「俺はバーボンのロックとミックスフライ。彼女は…」


「オムライス」


少女はコートを脱ぎながら店員に微笑んで言う。

男はそんな少女を見て微笑んだ。


「それで…」


店員は頭を下げ、


「かしこまりました」


と言うと、オーダーを通しに行った。


「オムライスか…。好きなのか」


「うん。洋食屋さんではオムライスでしょ」


少女はずっと笑顔で、男もその顔を見ていると自然に笑顔になってしまう、何処か不思議な少女だった。


テーブルに水が運ばれて来ると、少女はそれを一気に飲み干す。


「喉、乾いてたのか…」


「うん」


少女は近くを通る店員に水のお代わりを頼んだ。


「緊張しちゃってさ。寒いのに喉はカラカラ…」


「緊張…。お前程慣れてても緊張するのか」


「アタシ慣れてるように見えるかな…」


少女は運ばれて来た二杯目の水を口に運んだ。

そんな少女を男は真っ直ぐに見据えた。


「いつからやってるんだ」


男は椅子に寄り掛かって訊く。


「六時半頃かな…」


少女が水の入ったグラスをテーブルの上に置くと、静かな店内にコトリと音が響いた。


「今日の話じゃ無くてさ…」


男はテーブルに肘を突き、身を乗り出してそう訊いた。


「あー。だって今日初めてだもん。同じ事だよ」


少女は携帯を取り出してテーブルの上に置いた。

男は安堵したかの様に、再び背もたれにもたれた。

そして、


「良いか、二度とやるんじゃないぞ。バイトなんて他にも色々とあるんだ。身体売るなんて、まともなヤツのやる事じゃない」


少女を指さしながら言った。


「わかってるって。だから誰にも声かける事出来なかったんじゃない…」


今度は少女が男を睨んだ。


「あーあ。もっと簡単だって聞いてたんだけどな…」


男は少女のその言葉に顔を引き攣らせた。


「何…、流行ってんのか…」


「みんなやってるよ。ほら…」


少女はそう言うと、自分の携帯を男に見せる。

どうやら援助交際用のサイトだった。

興味の無い男はチラッとだけその画面を見て、目を逸らした。


料理が運ばれて来た。

男の前にはミックスフライ、少女の前にはオムライスが置かれた。

男は一緒に運ばれたバーボンのロックを手にした。


「ほら、いつまでも馬鹿なモン見てないで、さっさと食え」


「はあい」


少女は携帯をスプーンに持ち替え、ドミグラスソースのかかった大きなオムライスをすくい、大口を開けて放り込んだ。


「美味しい」


身体を震わせながら少女が言うと、男はそれを見て微笑んだ。


まだ子供なのにな…。


「良いか。それ食ったら家に帰れよ」


男はバーボンを口に含み、苦虫を噛み潰した様な顔をした。


「わかってるって。アタシには向いてない事わかったから、もうやんないよ」


少女はアッと言う間にオムライスを半分程食べていた。


友達同士や同世代の仲間同士でモノを食うと異常に遅いが、そんな事を気にしない人間と一緒に食うとやたらとがっつく。

もちろん、途中で「もうお腹いっぱい」なんて残す事も無い。


「あ、おじさんさー。連絡先、教えてよ。今度、お礼するから」


少女はスプーンを置いて再び携帯を手にした。


「いいよ。そんなの」


「だーめ。アタシ、借り作るの嫌いなんだよね」


そう言うと男がテーブルの上に置いていた携帯をひったくる様に取り、自分の携帯と通信して番号を登録した。


「おっけ。出来た」


するとまたオムライスを食べ始める。


「アタシ、久美子。大崎久美子」


「幾つなんだ」


「十七…。高二だよ」


見た目の方が幼く見えた。


「中学生かと思ったよ…」


「酷いな。そんなにガキに見えるの」


少女たちの年齢であれば少しでも大人に見て欲しいと思うのだ。

しかし、もう少し大人になれば、少しでも若く見て欲しくなるモノだ。


「おじさん名前は…」


「いいよ。そんなの…」


男はグラスをテーブルに置いた。


「登録出来ないじゃん」


少女、久美子は少し膨れっ面になった。


「早く教えてよ」


男はそれを見て、歯を見せて笑う。

そんな風に笑う事など長い事忘れていたかもしれない。


「下の名前だけでも良いからさ」


久美子は相当腹が減っていたのだろう、携帯を片手にオムライスを食べ続けていた。


「隆文だ」


男は教える必要の無い名前を、その不思議な少女、久美子に教えた。


「タカフミねー。了解」


久美子は自分の携帯にその名前を登録した。







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