旅立ち


時の流れというものは実に平等で、楽な時間であれクソみたいな時間であれ同じように風化させていく。

その観点からすれば、ここ最近その掟は俺の味方だったと言える。


初夏の香りは既に過ぎ去って、季節はすっかり真夏の色。

容赦ない日差しは鬱陶しいものの、それ自体が吉報でもある。


つまり何が言いたいかというと、ティモスでの一ヶ月が終わろうとしていた。


「ありがとうございました~」


時刻は夕方。

最後の客も今コハクが見送ったところで、それで最終日である今日の勤務は終了した。


「……やっと終わった」


気疲れから、空いた客席に座り込む。

暫く食卓に突っ伏していると、背後からそっと右肩を叩かれた。

振り向いた先には、ここ最近ですっかり見慣れた少女の姿。


「お疲れさまです」


「はいはいお疲れ。そっちの掃除はどうした」


「終わりました。……それと、店長さんが話があるって」


「話?」


「給金のことだよ」


ルナの言葉を引き継ぐように、豪胆な声が鼓膜を揺らす。

無論、声の主は厨房から出てきたアマンダだ。


「ほら。泣いて喜びな」


ぶっきらぼうに、煌めく何かが放り投げられる。

受け取ったそれは一枚の金貨だった。

10000テリアか。

まあこの店で一ヶ月なら妥当な金額だろう。


「コハクとルナも。受け取りな」


「ありがと~!」


「ありがとうございます」


給料を受け取った二人の反応は、程度の差はあれ実に分かりやすい。

ルナは小さく笑みを浮かべ、コハクは飛び跳ねんばかりに喜んでいる。

前者はともかく、後者に至っては毎月のことだろうにはしゃぎすぎである。


さて、受け取るものも受け取ったし、そろそろ頃合いだろう。


「ルナ、もう帰るから早く支度しろ」


「あ、はい」


「うえ、せっかち過ぎない?もうちょっとゆっくりしてってもいいじゃん」


「明日朝早いんだよ」


「レティが早起きとか嘘くさーい」


揶揄うように目を細めて、コハクがそう返す。

まあ最近ならともかく、普段の俺を見てればそういう所感になるのもおかしくはないが、生憎とこれは本当の事情だ。


「嘘じゃねえ。遠出するから仕方なくだ」


質屋がある隣町は、隣とはいってもそれなりに遠い。

馬車を使ってもなおいくつか日を跨ぐ必要はある道のりだからこそ、徒歩での移動は出来れば避けたい。

しかし、スピーラから南への馬車の出発時刻はどれも早朝に固まっている。

すると自然に、早起き以外の選択肢がなくなるというわけだ。


「……遠出かあ。ルナちゃんだけでも残ってくれたらいいのに」


「そのルナの用事だから諦めろ」


「ぶーぶー。人手足りないのにー」


「はあ……おばさん、もう次の目途は立ってるんだろ?」


見え透いた嘘を咎める言葉を口にする。

一ヶ月もあったのだ。

元々繋ぎとしての勤務だったのだから、アマンダが次を募っていないはずがない。


「まあそりゃね。というか店長と呼べ」


「いやもう従業員じゃないし」


「屁理屈を。おばさん呼びは止めなって言ってんだ。……そうだね、お姉さんなら許そうじゃないか」


「無理すんなよババア」


「クソガキ……」


アマンダが額に青筋を立てる。

昔から、年齢のことになるとクソ煩い。

コハクの鬱陶しさも結局は親譲りというわけだ。


そんな風に親が大人げなくキレる一方で、雑な嘘を暴かれた子どもは唇を尖らせている。


「ちぇー、寂しくなるなあ……ルナちゃん、また会えるよね?」


「……ええ、必ず」


「じゃ、レティのお世話よろしくね」


「はい。コハクもお元気で」


「世話すんのは逆だ逆」


最後までふざけた空気のままで、ティモスでの日常に幕が下りる。

弛緩した空気の中で、浮かないルナの表情だけがやけに心に残っていた。



「良かったのかい?引き留めないで」


「うーん……」


頬杖をついて、コハクは曖昧に唸った。

視線の先には、ティモスから離れていく青年と少女の後ろ姿。

素直な寂寥と少しの強がり。

それら両方を飲み込んで、彼女は言葉を重ねた。


「引き留めたよ一応」


「一応って程度だろ?随分簡単に引き下がってたじゃないか」


「それは――」


図星を突かれて言葉に詰まる。

昔から、母には隠し事が通用した試しがない。

苦しげな笑みを浮かべつつ、コハクの焦点は此処ではない彼方へ移った。


「――どうせ、止めても止まらないから」


「……コハク」


「レティの目見たらさ、お父さんのこと思い出しちゃったんだ」


コハク自身、今朝の時点では二人を引き留める気満々だった。

母が新しい雇用の準備を済ませていたのは知っていたが、それでもそうしたくなるほどに彼らとの一ヶ月は魅力的なものだったからだ。

そんな彼女の考えが変わったのは、ついさっきのこと。

何でもないように遠出の予定を告げる幼馴染の横顔に、コハクは昔日の父の面影を想起したのだ。


『おとうさんは、何のおしごとしてるの?』


『……父さんはな、夢を追ってるんだよ』


『夢?』


『おう。いつか央金騎士団に入る――それが父さんの夢なんだ』


いつかのやり取りが脳裏に過ぎる。

当時は目を輝かせて意気込みを聞いていたものだが、今振り返ってみると、父はろくでなしであったように思う。

確かに、音に聞こえたセントラルゴールドの王立騎士団ともなれば、それは大層ご立派な夢だろう。

だが、年齢が年齢だ。

既に三十代も半ばだった彼は、騎士団の夢を追うには些か遅すぎたと言える。

母と自分――家庭を抱えているなら尚のこと。


それでもコハクの父が普通の中年と違ったのは、その夢を叶えてしまったところだろう。

コハクが丁度十歳になった頃――丁度彼女の誕生日の席で、その朗報は告げられた。


『母さん、コハク。俺、受かったぞ!』


『お父さん、すごーい!』


『おめでとう』


『第二部隊の末席なんだけど、ギリッギリで試験を通過出来たんだ。いやあ良かった良かった』


憑き物が落ちたように父が笑う。

つられるようにコハクと母にも笑顔が移る。

まるで絵に描いたように幸福な時間だったが、次に続いたやり取りでそれはすぐに搔き消えた。


『それでだな。早速訓練に参加するために中央に行かないといけないんだけど……』


『あたしも行くっ!』


『……ダメだ。コハクは体弱いし、母さんと一緒にこっちで安静にしていてくれ』


幼い頃、コハクはある持病を患っていた。

主に朝方を中心に激しい咳を伴うその病の名は虚息病。

酷い場合は咳によって息すら儘ならなくなることからそう名付けられたそれは、東海岸特有の小児疾患であった。


両親が高い治療費を払ったお陰で今は完治しているが、そんなこんなで当時のコハクは病弱の身。

スピーラからセントラルゴールドへの移動は負担に過ぎる。

父の言葉は、そういった考えによるものだった。


『やだ!』


『……コハク』


『連れてってくれないなら、行かないでよ!』


まるで幼児の駄々のようなその我が儘に、父は怒ることもなく真摯に彼女を見つめて言った。


『約束するから。必ず帰って来るって』


『ほんとに?』


『本当に本当だ』


その時のことは、今でも容易に思い出せる。

正面から自分を説得する父の瞳が、決して折れないと告げていた。

幼いながらも察するものがあったのか、コハクは彼の説得を諦めた。

そしてまさに今日、それと全く同じようにコハクはレティアスを見送ったのだ。


「全然似てないと思うけどね」


「まあうん……性格とかは似ても似つかないけど。あの時と同じで多分止めても無駄だろうなーって思っちゃったんだよね」


「ふう……まあ、あんたがそれでいいならいいけど」


ぶっきらぼうに、しかし確かに気遣ってくれる母の優しさが温かい。

肩から力が抜ける。

思わず、取り留めのない願望が口から漏れた。


「……また二人と働きたいなあ。お母さんもそう思うでしょ?」


「そうさね。ルナは良い拾い物だった」


「レティは?」


「礼儀知らずの守銭奴が何だって?」


「あはは……」


正直予想していた返しに苦笑する。

妥当と言えば妥当な蔑称である。


「でも、レティも変わってきたと思うよ」


「そうかい?」


「……少しだけだけどね」


長年の付き合いからの体感でしかないが、コハクはここ最近の彼に僅かに態度が丸くなったような印象を抱いていた。

無論基本的に無礼でお金に汚いというのは変わりないのだが、その度合いがほんの少しだけ和らいだと言うべきか。

それに、近頃ずっと染み付いていた血の臭いが彼から消えた。

これは何より大きな変化と言える。


原因はおそらくルナなのだろうな、とも推測出来る。

彼の周囲におけるもう一つの変化が、彼女の存在だからだ。

ともあれ、普段からレティアスとよく話すコハクにとってそれは好ましいことだった。

不満があるとすれば、ただ一つ。


――その切欠があたしじゃないのだけ、ちょっと悔しいな。


そう心の裡で呟くと、仄かな痺れが胸の奥で疼く。

その感情に名前を付けないままに、少女はそれをきつく封じた。



「そういえば、アンクレアまでってどのくらいかかるんですか?」


「ああ、言ってなかったか」


居間で旅の支度をしていると、背を向けたままルナが問いを投げてきた。

言われてみれば、これからの旅路の予定について詳しく語ったことはなかった。


「馬車なら丸四日、徒歩ならその倍以上ってとこだろうな」


「あ、結構遠いんですね」


「まあ隣町って言っても領跨いでるからな。そんだけこの町は辺境ってことだ」


此処スピーラは、レッサーアクアはビオツリー領の南部にある田舎町。

対して、これから向かう目的地――アンクレアは、ビオツリー領の更に南にあるウィルコースト領の北部に広がる港町だ。

隣町とは言うものの、それは最寄りという意味でしかなく、実際にはそれなりの距離があるのだ。


「それだけ遠いとなると、換金してからこっちに戻るのは手間ですね」


「そうだな。だから戻らねえ。そのまま西に向かうってことでいいだろ」


「はい、それで異存ないです」


アンクレアで用を済ませた後は、メロ川に沿って西へ移動し、そのまま中央を経て最終目的地であるサンクトハイトを目指すといった算段だ。

何分これほどの長旅は経験がないので正確なところは分からないが、おそらく片道一ヶ月以上は必要になるだろう。

ただでさえ長い旅路をそれ以上伸ばす理由もない。

それ故に、此処に戻るという選択肢は最初から俺にはなかった。


俺の提案に同意を示したルナが、顎に手を当てて暫く考え込む。

そんな彼女が次に発した言葉は、少し意外なものだった。


「……そうだ。レティアスさん、伝言鳥を借りても良いですか?」


「あ?何のためにだ」


「あれで最後になるのなら、店長さんとコハクにお別れと感謝を伝えておこうかと」


「お前、あいつらのこと気に入り過ぎだろ」


奴にせがまれたからだろうが、少し前からコハクを呼び捨てにしていたりと、こいつとティモスの連中の仲はやたらに良い。

一ヶ月しか付き合っていない連中によくそこまで入れ込めるものだと感心する。

或いは、このクソ丁寧な気質が西の連中の特徴なのかもしれないが。


「……二人とも善い人ですから」


「ふうん。まあ勝手にすりゃいいけど、大袈裟過ぎないか。別に今生の別れってわけじゃねえのに」


「っ――」


何が琴線に触れたのか、ルナの端正な顔が一瞬歪む。

それを包み隠すように、彼女はらしくもない大仰な口上を並べた。


「これでも、貴人なので。お世話になった方には礼を失さないようにしているだけです」


「……そうかよ」


嘘くせえ。

それが率直な感想だった。

だが、追及する気にもならない。

俺とこいつの間柄において重要なのは、依頼と報酬だけ。

こいつが何を抱えていようと、それが本題に関わらない限りは至極どうでもいい。


「借用代は100テリアな」


「ぶれないですねほんと」


ルナの視線が呆れの色を孕む。

俺がどういう人間なのかは既に分かり切っているだろうに、今更な話だ。


早速メスパラックの籠の方へ向かう彼女を尻目に、いつものように窓外を眺める。

手持ち無沙汰だ。

既に翌日の準備は終えている。

金、食糧、衣類、荒事用の装備――どれも万端。

だからもう灯りを消して寝るだけなのだが、それもルナの用が済むまでは待つしかない。


退屈に曇らせた瞳で見る景色は当たり前のようにいつもの田舎町のものだった。

だが、明日から暫くこれも見れなくなるのだと思うと、ほんの少しだけ感慨が湧いた。

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