働け貴族様(後)
冷えた夜の空気を塗り潰すように、白い煙が立ち込める。
それを脱力した体で眺めながら、ルナはほう、と一息ついた。
生まれて初めての接客を一日こなし切った安堵と、心身共に疲労困憊で今は何も考えたくないという怠惰。
彼女の吐息には、そんな二つの色が混在していた。
人肌以上の温かさが疲れた体に染みる。
湯浴に浸かるのは、実に数か月ぶりのことだった。
「ルナちゃん、一緒に入ってもいい?」
「あ、はい」
扉越しに快活な声が響く。
断る理由もないので受け入れると、間をおかずコハクが浴室に入ってきた。
「湯加減はどう?」
「丁度良いです」
「それは良かった」
不思議な状況だ。
体を洗い始めるコハクをよそに、ルナは内心でそう独り言ちた。
何せ、コハクとは今日が初顔合わせ。
そんな相手と一緒に風呂に入ることになるなんて、今朝レティアスと会話している時には想像もしていなかった。
何故こうなったのか。
火照る頭を動かして、ルナは夕刻のやり取りを想起した。
◇
日は傾き、もう半刻もすれば夜の帳も下りる頃合い。
ティモスでの初勤務を終えたレティアス達が帰り支度をしている最中に、その事実は露見した。
「え……あんたら一緒に住んでるの!?」
「叫ぶなようるせえな」
「いやいやそりゃ叫びもするでしょ」
レティアスが適当にあしらうが、コハクの勢いは一切収まらない。
切欠は、帰り道を心配したコハクがルナに自宅の場所を尋ねたことだった。
その問いに対して、咄嗟に聞かれたせいか自分は居候だとルナは正直に答えてしまったのだ。
色々な意味で言葉を濁すべきだったが、後悔は先に立たない。
至極面倒そうなレティアスの瞳を見つつ、少女は申し訳なさに肩を落とした。
「仕方ねえだろこいつ家も金もないんだから」
「どんな状況よ……ってかただの客って言ってたの、あれ嘘じゃん」
「嘘じゃない。そこ含めて依頼されたんだよ」
ルナの事情を詳細に語るわけにもいかない。
それ故やや抽象的だが、レティアスの返しは淀みない。
彼の生業を良く知っているコハクにとっても、その答えは一定の理解を得られるものだった。
しかしながら、彼女が問題としている核心はそこではない。
「まあそれはそうなんだろうけど……レティん家って一部屋しかないじゃん」
「それがどうかしたか?」
「大問題だよ!男女が同じ部屋で寝泊りするなんて」
うがーっ、とコハクが吠える。
色々と無頓着なレティアスとは違い、ルナには彼女の懸念が充分に理解出来た。
だが、その懸念は取り越し苦労というものだ。
それを伝えるべく、ルナは二人の会話に割って入った。
「あの、私は気にしてないので……」
「ダメだよルナちゃんそんなこと言っちゃ。男は皆獣なんだから」
「……でも、レティアスさん優しいですよ?食事を作ってくれたり、寝具を貸してくれたり」
「寝具貸してるって……同衾?」
「なわけあるか。毛布渡して床に転がしてるだけだ」
「いや扱い雑。それはそれで複雑だわ」
呆れたようなコハクの視線を受けて、レティアスは斡旋の時から脳裏で少し考えていたことを思い出す。
なし崩し的に始まった同棲だが、このままじゃこれから一ヶ月ずっとうだうだ言われることになるだろう。
それならば――。
「そんなに納得いかないなら、こいつが此処で働いてる間お前ん家で引き取ればいいじゃねえか」
「む」
「俺からしても、そっちに住み込みで働いてくれるならその方が楽だし」
口にしてみると、それは理想的な方策に思えた。
元々レティアスの自宅は二人以上が暮らすには向いていない。
コハクはルナを甚く気に入っている様子だし、一ヶ月だけでもそこで養って貰えるならそれに越したことはない。
無論、それ相応の給金は天引きされるだろうから、その度合いと要相談といったところではあるが。
レティアスの提案を受けて、今度はコハクが考え込むことになった。
率直に言って、非常に魅力的な話だ。
勢いで受け入れたくなる気持ちも山々だったが、流石に一人で決められることではない。
「……ちょっとお母さんに相談してくる」
大真面目な表情で、コハクがアマンダの方へ赴く。
かくして、アマンダのあっさりとした賛同の下、ルナの仮住居変更は成され。
途中から話の急転に翻弄されていたルナは、アマンダ宅で夕飯を馳走になっている最中もずっと混乱したままだった。
◇
「あー気持ち良い~……このために生きてるわ」
体を洗い終えたコハクが木造りの浴槽に入ると、ギリギリまで張ってあったお湯が彼女の体積分溢れ出る。
台詞から仕草までその全てが年端もいかない少女らしくないものだったが、ルナには寧ろそれが彼女の魅力のように思えた。
ともかく、暫くの回想を経て、漸く置き去りになっていた心が状況に追いついた。
余裕が出来たルナはずっと気になっていたことについてコハクに尋ねることにした。
「あの、コハクさん」
「うん?」
「……何でここまでしてくれるんですか?」
夕食時にアマンダが話していたが、住み込みの費用は実質タダであった。
食事、睡眠、更にお風呂の世話までしてくれてそれだ。
とてもじゃないが、ルナには今日入ったばかりの新人に対する待遇とは思えなかった。
その疑問が喉に刺さった小骨のようにずっと引っ掛かっていたのだ。
「んー、可愛いから」
「えっ」
「何だかんだ言ってレティも男だし、同棲続けてる間にルナちゃんが襲われたら嫌だなーって思っただけ」
「――」
苦笑交じりにコハクが零した言葉は、彼女の夕刻の振る舞いの通りだった。
確かに、彼女の言っていることはルナの価値観的にも正しい。
結婚していない男女が同じ部屋で寝泊りするなんて、故国ではあり得ないこととされていたから。
だが、主張の正しさは本題ではない。
コハクの語った理由が真実かどうかの方が重要だ。
ただの感覚に過ぎないが、ルナには彼女の言葉が建前に思えてならなかった。
「そう、ですか」
「……ごめん、ちょっと嘘ついた」
「嘘?」
「うん。ほんとはさ、ルナちゃんのことをもっと知りたいなって思ったからこうしたの」
訝しむルナの顔色を目敏く察したコハクが本音を晒す。
「レティがあそこまで親切にするなんて珍しいから」
「……仕事だからでは」
「それにしてもだよ。あいつ、仕事だから優しくするなんて性質じゃないし」
――それはきっと、私の用意した報酬が特別高価だから。
言いつつ天を仰ぐコハクに、ルナは声にならない返事をした。
言葉にすることは出来ない。
それをすれば、依頼の詳細まで彼女に語らなければならなくなるためだ。
自分の不義理さにルナは嫌気が差すが、それも今更の話だった。
何せ、全てを晒すべき相手にすら未だ嘘を吐いたままなのだから。
胸につかえた後ろめたさが、つい口を突いて出た。
「ごめんなさい。詳しいことは話せないんです」
「……そっか」
コハクの声色は意外そうなもの。
けれど次の瞬間には、その黄の瞳は優しげに緩められていた。
「――じゃあ、詳しいことじゃなくてもいいから。色々教えて?」
「色々?」
「そ。好きな食べ物とか、どんな男の人が好きとか」
コハクが挙げたのは核心に触れないどうでもいいような質問ばかり。
気遣いなのだろう。
ルナは、自身の強張っていた心が氷解していくのを感じた。
「ちなみにあたしはアズマダイの煮付けと優しくてお金に汚くない男の人が好き。はい、ルナちゃんどうぞ!」
「一番好きなのは、キャラビスの揚げ物ですかね」
「わ、意外に庶民派。男の人のタイプの方は?」
「……うーん、そういうのは考えたこともないです」
「えー、ルナちゃん絶対モテるのに勿体ないよ」
「あはは……そうだといいんですけど」
取り留めのない談笑が続く。
束の間ではあったが、その時間はあまりに温く優しいもので。
ルナの中で、コハクの存在が他人からもっと近いものへと変わりつつあった。
そのせいだろう。
心の紐を緩められたルナの口から、素朴な疑問が零れ出てきた。
「……コハクさん、もう一つだけ聞いていいですか?」
「もっちろん。一つと言わずいくらでも聞いていいよ~」
「じゃあ、遠慮なく。コハクさんは――」
◆
「「いらっしゃいませ~!」」
客席の方から、昨日より息が合った挨拶が響く。
それを聞き流しながら、俺は小麦粉と片栗粉を塗したイエルの切り身を油に放った。
油が弾ける雨音が鳴る。
ジッと眺めていると、自分は何でこんなことをしているのだろう、という身も蓋もない疑問が膨れ上がってくる。
なので、素直に聞いてみることにした。
「なあ店長」
「なんだい」
「何で俺まで雇ったんだ?」
アマンダの振るう平鍋が止まる。
少しだけ考える仕草を挟んで、彼女は厭味ったらしい笑みを浮かべた。
「あんたの無礼さを矯正するためだよ」
「んだそれ。百万歩譲って俺が無礼だとしても誰にも矯正する権利はねえよ」
「はあ……百万歩譲るまでもなくあんたは無礼だけどね」
全く以て心外な言葉だ。
常ならばもう少し反駁しているところだが、こんな揶揄い交じりの嘘にそうする必要はない。
「――で、本当のところはどうなんだ。そんなアホみたいな理由じゃないだろ」
「……あの子のためだよ。最近あんたの話ばかりでうるさかったからね」
アマンダの視線の先には、いつもの給仕服姿のコハクが居た。
つまりはあれか。
あいつが俺にご執心なことを慮って、変に条件を交渉してまで俺を此処に引き入れた、と。
「親馬鹿もいいとこだな」
「うるさいよ」
話している間にすっかり揚がり切ったイエルを、箸で摘まんで皿に移す。
綺麗な狐色と食欲をそそる濃厚な匂いが辺りを包む。
誰だって涎を垂らすこと請け合いのその光景に、しかし俺の心は踊らなかった。
負け惜しみのような台詞を吐いたアマンダの表情が、鈍い棘のように刺さって抜けない。
言葉にするのなら、それは子を思う親の貌。
その当たり前の景色が、どうにも気に食わなかったのだ。
「レティ、これ運んじゃうね」
「ああ」
「何か元気ないね……どったの?」
配膳にやって来たコハクが、目敏く様子を窺ってくる。
その何も考えていない風な童顔を見ると、急に全てが馬鹿馬鹿しく思えた。
「何でもねえよ」
「嘘だあ、絶対何かあったでしょ。先輩に言ってみ?」
「……ルナと並ぶとお前のアホ面が際立つなって思っただけだ」
「はあ?」
昨日の焼き直しのように、コハクが暴れるのを抑える。
あと一ヶ月もこんな調子で労働を強いられるのだと思うと、憂鬱でならなかった。
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