働け貴族様(前)


何の前触れもなく意識が点いた。

寝台の傍、ガタついた窓の向こう側には未だ青白い空が浮かんでいる。

掛け時計を確認すると、時刻は六時。

案の定の早起きだった。


最近はずっとこんな調子だ。

上客を失って以降、夜中まで仕事に追われることが少なくなった。

その結果として、早寝早起きが板についてしまったのだ。

これが良いことなのかどうかと問われれば、まあ商売人としては悪いことなんだろう。

一方で、俺個人としては悪くないと感じる。

何せ久方ぶりの纏まった休息だ。

明確に次の金蔓を確保した上でのそれは、思いの外快適なものだった。


「ふぁーあ」


噛み殺しきれなかった欠伸が漏れる。

衝動に任せて思い切り伸びをすると、疼いていた筋肉が愉快な悲鳴を上げた。

たまらなく気持ち良い。

規則正しい生活、という文言に唾を吐きかけながら生きてきた自覚はあるが、この快楽のためになら偶にはこうして過ごしてもいいかもしれない。


益体もないことをつらつらと考えつつ、寝台からゆっくりと降りる。

床に転がった人型の毛布を跨いで、俺は調理場へと向かった。


氷室から苦瓜と人参、豚肉を二人分取り出す。

野菜類は軽く刻み、豚肉には小麦粉をまぶし、油を引いた浅鍋で一気に炒める。

途中で醤油を回しかけると、塩気と旨味の合わさった芳醇な香りが鼻孔に突き刺さった。

良い具合だ。

――いつも通りならそろそろか。


「……んぅ……ん」


ごろごろ、と。

床に転がる毛布が動き始める。

藍色の布地の向こう側に、白磁の肌が垣間見えた。


「マジで現金だよなお前」


「ぁ……おはようございます」


若干呆れの色を混ぜた呟きに、ふにゃふにゃの挨拶が返ってくる。

真昼の猫のようにぼんやり目を擦る姿は、いつにも増して頼りなく感じた。

しかしまあ、言った通り本当に現金な奴だ。

朝はさして強くもない癖に、飯の匂いを察知するとすぐにでも起きてくるときた。


「飯にするぞ。手伝えや」


「……はい」


ひたひたと素足と床木が触れる音が響く。

ルナが食器類を出すのを横目に、最後の仕上げとして強めに炒めてから塩を振りかけた。


菜箸で人参を摘まんで食う。

しっかり熱の通ったそれは、俺の噛む歯に少しの抵抗を見せた後甘味を弾けさせる。

火加減は充分。

こんなもんでいいだろう。


概ね満足した俺はさっさと盛り付けて、出来た二皿を中央の食卓に運んだ。

もう数品用意しても良かったんだが、待たせるとこいつの腹の虫が鬱陶しい。

全く以て、楚々とした顔つきに似合わずガキみたいな体質してやがる。


「いただきます」


言うなり、少女の箸は手荒に見えない限界の速さで動いた。

野菜を肉に包んで一口に咀嚼する様は小動物染みている。

細められた瞼と上がった口角が、何より雄弁に味の感想を語っていた。


倣うように俺も食べ始めるが、いつもの野菜炒め、としか感じない。

こんなもん誰にでも作れるだろうに、こいつはやけにこの手の雑な料理が好みだ。

それなりに高貴な家の出身なんだから、これより美味いものを散々食ってきたはずだが。


「傷、そろそろ治ったか?」


「ふぉうれふね。ふぁほもひえて――」


「食うか喋るかどっちかにしろ」


「……ぁむ……」


どっちを優先してんだこの女。

筋金入りの健啖家ぶりに呆れるばかりだ。

そのまま箸を進め、半分ほど料理を胃に運んだ辺りでルナが口を開いた。


「……ん、もう大丈夫だと思います。火傷の痕も目立たなくなってきたので」


「そうか。なら今日は出かけるぞ」


「何処へ?」


「お前の仕事場」


きょとんとした表情に本題を告げる。

傷の癒えない内に動かして壊れてもらっちゃ困るってことで、この一ヶ月は漫然と過ごしていた。

だが、いい加減動き出す時だろう。


「タダ飯喰らいは終わりってことだ」



「というわけで、こいつを此処で雇ってくれないか?」


「何が”というわけで”なのか全く分からん」


琥珀色の瞳が疑問に瞬く。


午前の光も上がったばかり。

まだ涼しさの残る時間帯に、俺はルナを連れてティモスに来ていた。


「新人が辞めて困ってるって言ってただろ。斡旋しに来たんだよ」


「ああそういう」


数日前、俺はコハクからいつもの世間話の一環としてそれを聞いていた。

最初はただの他人事程度に感じていたが、ルナの働き口を探していることを思い出したのだ。

こいつじゃ力仕事は厳しいだろうし、接客業の空きはまさに渡りに船だった。


「ま、お母さんに頼めば大丈夫だと思うけど……」


コハクがルナに視線を向ける。

その表情には好奇の色が窺える。


「どんな関係?」


「ただの客」


「ふーん……ね、あたしコハクっていうんだけど、あなたの名前は?」


「ルナです。よろしくお願いします」


「か」


一拍。

静けさの後に、それを掻き消すような歓喜の音が咲き乱れた。


「可愛い~~~!」


「え」


「うわぁ……」


「お顔だけじゃなくて声も可愛いとか……もう存在が萌えじゃん!」


「コハク、今のお前相当気持ち悪いぞ」


「うっさい、気持ち悪くないし。ね~ルナちゃん」


「は、はい」


「えへ……よし、お母さんに話通してくるね。二人目の看板娘の誕生だっ!」


ルナが喋る度にコハクの口角はだらしなく歪む。

言動が含む脂っこさが、娼館通いの中年と大差がない。

あと、さりげなく看板娘を自称してるところが一番癪に障った。


「すごく元気な人ですね」


「うるさいって正直に言ってもいいぞ」


「いえそんな……」


待つこと一分程。

厨房へ向かったコハクが、恰幅の良い女性を伴って戻って来た。

貫禄のある体格に、くすんだ小さな三角帽が不思議と似合っている。

コハクの母且つ飯処ティモスの店主であるアマンダだ。

喜色満面のコハクとは大違いで、その眉間には大きな皺が刻まれている。


「お待たせ~」


「クソガキ、あんたが私を呼ぶなんて珍しいじゃないか」


「話は聞いてるんだろ。こいつを此処で雇って欲しいんだよ」


「ふん……相変わらず口の利き方がなってないね」


そこで言葉が切れる。

近付いてきたアマンダは、隣に腰掛けているルナをじっと見つめた。

その光景はまるでさっきの焼き直しだ。


「名前は?」


「ルナです」


「どのくらい働けるんだい?」


ルナが俺に振り返る。

そういえばその辺は詰めていなかった。

まあこれから必要になる諸々の費用を考えれば大体――。


「期間は一ヶ月、全日入れる。次の働き手が見つかるまでの繋ぎだと思ってくれればいい」


「随分短いね」


「だとしても都合は良いんじゃないか?最近この店てんてこ舞いだろ」


元々客足はそれなりにあった方だったが、最近のティモスの繁盛ぶりは際立っている。

今となっては、丁度一ヶ月前のあの日、翼剣会の連中が多く通い出したのが切欠に感じる。


ともかく。

突然新入りが辞めた現状においては、この話は決して悪くないものだろう。


「こいつは見てくれも悪くないし、礼儀もこの辺の奴らに比べりゃバカ正しい。接客に向いてると思うぞ……多分」


「断言しないんかい。でもあたしもどーかん。この子絶対看板娘になれるよ」


「ったく、あんたはチョロいねえ。……まあいいか、人手が足りてないのはその通りだし」


やれやれ、と肩をすくめるアマンダ。

意外にあっさりとした承諾だったが、そんな所感を咎めるように言葉が付け加えられた。


「ただし条件がある」


「条件?」


「あんたも此処で働きな」


「は?」


提示された条件があまりに突拍子もないものだったので、知らず気の抜けた声が漏れてしまった。

アマンダの真意が全く見えてこない。

よりによって何でそれが条件なんだか。


「っ……お母さんそれ名案!」


「意味が分からんのだが」


「ガキの頃タダ飯食わせてやった恩を返せってことさ」


「見返りをアテに恩を着せるんじゃねえよ」


「……それ、あんたにだけは言われたくないね」


まるで俺が見返りをアテに恩を着せているような言い草だ。

全く以て人聞きが悪い。


「条件ってことは、吞まなかったらルナを雇わないってことか?」


「そうかもね。でも呑めば済む話だ」


「……」


提示された要求を吟味する。

クソ面倒ではあるが、他の働き先を探すのとどっちが面倒かって話だ。

その辺を天秤にかけた結果、俺の取るべき行動は一つしかないように思えた。


「タダ働きはしねえからな」


「受けるってことだね。それでいいよ」


「やった!」


コハクの笑顔が跳ねる。

随分楽しそうだが、こっちは全然楽しくない。

お陰で休暇も丸潰れだ。

まあ、忙しくないからこそこの話を受けられたとも言えるが。


「今日から後輩だね。よろしくレティ~」


「うざい」


「うざい!?」


暴れるコハクを片手で抑える。

アマンダから向けられる生温い視線が非常に鬱陶しかった。



中天に座す太陽が容赦なく肌を灼く。

時刻は真昼。

ティモスにおいて、最も客足が多い時間帯だ。


「いらっしゃいませ~!」


目一杯に声を張ってお客さんを歓迎する。

ここまでただの挨拶に全力を出せたのは久しぶりに感じた。


挨拶、受注、配膳、片付け、清掃……。

母が担当する厨房以外の仕事は、一つ一つはそう難しくなくとも実に多岐に渡る。

仕事は楽しい。

反面、最近は人手が急に減ったことや客が増えたことによる極端な多忙で、その楽しさに陰りが見えていたのも正直なところだった。


でも、今日からはそれも打ち止め。

頼もしい新入りを見て、コハクは頬を緩ませた。


「注文は?」


「あ~?何で男なんだ。コハクちゃんに代わってくれよ」


そんな新人達の一人目——レティアスが相対しているのは、顔を赤らめた中年。

年甲斐もなく駄々をこねるその様子に、コハクは既視感を覚えた。

あれは確か最近の常連。

酒癖が悪くて面倒だが、適当にあしらっておけば何とかなる分まだ良心的な客だ。

……あくまで、スピーラの基準に照らしての話だが。


「生憎あっちも接客中なんだ。男で我慢してくれ」


「こっちはお客様だぞ?何で我慢なんかしなきゃいけねえんだ。つーか敬語使えよ敬語」


「……それはしつれいしました」


不穏な気配が満ち満ちる。

レティアスの額に青筋が浮かんでいる。

発音も絡繰り人形みたいになっているし、限界が近いのは想像に易い。

そこまで考えて、コハクは自分の接客を中断してレティアスの方へ駆けて行った。


「あ~気分悪いなあ。責任取ってお代負けてくれよ兄さん」


「そんなに負けて欲しいなら――」


「えっ」


ごう、という音を立てて風が吹き抜ける。

思わず閉じた瞳を中年が開けると、眼前には振り抜かれた拳があった。


「奴隷商に支払いを代わって貰いましょうか。お客様を売って」


「ひ、ひぃいい!?」


「はい退場ー!」


男が慌てて店外へ逃げていく。

その姿を横目に、コハクはレティを羽交い絞めにした。

どう考えてもやり過ぎである。


「んだよ。ちゃんと接客してるだろ」


「あんたとあたしで“ちゃんと”の意味が違うんだけど」


「はあ……要望通り敬語使っただろ」


「そういうことじゃない!……ったく、最後まで我慢しなさいっての。酔っ払いなんて適当にあしらっとけばいいんだから」


「俺にそこまで求めるな」


「あんたねえ……」


そう言いつつも、レティアスの言葉に何処か納得している自分が居るのも事実だった。

元はと言えば半ば無理矢理に働かせている立場だ。

それも、この男の気質が接客に向いていないのは重々承知の上で。


嘆息一つ。

コハクは、妥当な落としどころを決めた。


「レティ、やっぱ厨房手伝ってきて。ちょっとは料理出来るんだしやれることはあるでしょ」


「最初からそっちで良かったじゃねえか」


「うるっさいこの無礼人間」


「無礼人間て」


「早く行って。こっちは二人で何とかするから」


さしたる抵抗を見せることなく、レティアスが厨房へ去っていく。

その背をジト目で眺めるのも数秒。

すぐに戻って中断していた注文受け取りを済ませると、もう一人の新人に視線を移す。


さらさらの金糸が慌ただしく揺れる。

黒の給仕服とのコントラストは目にも鮮やかで、天使かと見紛うほどだ。


――ああ、やっぱりあたしの目に狂いはなかった。


だらしなく口角が上がるのを自覚しつつも、コハクはそれも仕方のないことと割り切った。

何せあんなに可愛いのだ。

見惚れてしまうのも無理はない。

現にお客さんも早速彼女をちやほやしているわけで。


「ルナちゃーん、麦酒一本追加で」


「かしこまりました」


「注文いいか姉ちゃん」


「はい、少々お待ちください」


「お嬢ちゃん~酒が冷えてねえんだけど!」


「も、申し訳ありません、すぐに確認します」


「ルナちゃん、これ注文したはずなんだけど――」


「……はい――」


「嬢ちゃん――」


「――」


――あ、拙い。


仕事をこなしながらもルナの様子に耳を欹てていたコハクは、雲行きが怪しくなったことをすぐに察した。

あれは明らかに処理速度を超えている。

実際、はきはきと接客していたのも最初の方だけで、後半は情報を飲み込むので精一杯といった風だ。


「きゅう……」


とうとう処理落ちしたルナが、目をぐるぐるさせて動きを止める。

見かねたコハクが混乱する彼女を抱きとめた。


「大丈夫ルナちゃん?」


「……は、はい」


「ったく、何人かは悪ノリでしょ。この子新人なんだから自重してくださーい!」


一部の連中の悪ふざけを咎めてから、コハクは今度こそ自分の仕事に集中することにした。

まだ不慣れで少しおっちょこちょいなところもあるが、慌てなければルナの接客に問題はない。

もう任せてしまって大丈夫だろうと判断したのだ。


そうして一時間が経過した。

客足もピークを過ぎて、ルナの接客にも余裕が見え始めた頃合い。

何の前触れもなく、入り口の呼び鈴が鈍い音を鳴らした。


「いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませ~!」


二つの出迎えの挨拶は、示し合わせていないにも拘らず同時に響いた。

息が合ってきたことを喜びつつも、コハクは入ってきた客に目を向ける。

そこには、見慣れた痩躯――ヤマの姿があった。

知らず肩にかかっていた力が抜ける。


それもそのはず。

コハクとヤマの付き合いは長い。

彼はコハクとレティアスにとってちょっと頼りない兄貴分みたいな存在なのだ。

普段の白衣を着ていないから客として来たらしいが、半ば身内のような彼に対しては一切のストレスも湧かない。


一方で、ヤマの方は少し驚いていた。

コハクの姿は見慣れているからいいにしても、もう一人が本題だ。

レティアスが引き取った少女が此処で働いているというのは、率直に言って意外に過ぎた。


「お、君はあの時の……」


「あ、ヤブさん……でしたよね。お久しぶりです」


「!?」


「ぶふっ……!」


コハクの口から笑いが漏れる。

不意打ちもいいところなその発言は、咄嗟に固く閉じた唇をぶち破るだけの破壊力を持っていた。

勿論下手人は一人しか考えられない。


「あのクソガキ……妙なこと吹き込みやがって」


「あっはっはっはっ!」


「笑い過ぎだよコハクちゃん」


「ご、ごめんヤマ兄、ちょっとツボに入っちゃって」


ヤマが恨みがましい目を向ける。

珍しいその仕草すらも面白く感じてしまって、コハクは暫く接客も忘れて笑い続ける。


ルナとレティアスをティモスに引き入れてまだ初日だが、少女はある確信を得た。

これからの一ヶ月退屈することは無さそうだ、と。

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