劫火
「ブレットはん、これはここだけの話なんですがね――」
「……なんと。それは興味深い」
互いの顔に薄っぺらい笑みの仮面を張り付けて、商人二人の密談が進んでいく。
場所はスピーラの東。
さっきまで居たメロ川下流から暫く歩いた区画にある、ブレットの仮宿だ。
それにしても、長い話し合いだ。
時刻は既に夜の十一時。
奴隷市の開催まで、残り一時間に迫っている。
「あー、ブレット。あと一時間だ」
「おっと、もうそんな時間か」
焦れた俺が急かすと、ブレットは驚いたような表情を浮かべた。
時間も忘れて儲け話に夢中になっていたらしい。
その気持ちは分からないでもないが、いい加減俺も飽きた。
さっさと奴隷市の会場であるあの牢に移動しておきたいのだ。
「行きましょうか、ムント」
「そうやね。……それにしても」
ブレットに倣ってムントが立ち上がる。
その直後、その胡散臭い視線が此方に向いた。
「ブレットはん、いい護衛を雇ったもんやな」
「はは、そうでしょう?自慢の護衛です」
何を言うのかと思えば、実にしょうもない話だった。
というか、ブレットのドヤ顔がやたらにうざったい。
そんなアホらしいやり取りの間でも、俺は警戒を怠っていなかった。
一切の油断も挟まずに、あるとも知れない襲撃へ備えている。
そして、その心構えが命運を分けた。
「っ!」
爆音と共に、奇蹟特有の力の奔流が全身を駆け抜ける。
震源は——かなり近い。
次の瞬間には、宿の壁を貫いて極大の炎が此方へ飛んできていた。
射線に居たブレットを窓に向かって思い切り蹴りつける。
硝子が粉々に割れる音に紛れて、彼の情けない悲鳴が響く。
それを確認しつつも、群青の羽毛を掌に溶かして俺は大きく飛び退いた。
火の玉が着弾する。
その脅威は木造りの床を貫通して、跡形も残さない程に強く炸裂した。
「ぎゃああああっ……!?」
火達磨になったムントが転がる。
その猛火は留まることを知らず、やがて彼の全身に回っていった。
……あれはもう助からないだろう。
既に終わった命から視線を切りつつ、ぶち破られた壁の穴を見据える。
夜だというのに、肌が熱い。
闇を嘲るように鮮やかな赤が視界を照らす。
パチパチ、と家屋が死んでいく香ばしい音が鼓膜を揺らしている。
銀髪を二つに束ねた女が、熱に煙るその向こうから姿を現した。
「よう、放火魔」
「こんばんは。あんたが奴隷商?」
何処か幼さも残る瞳が爛々と輝く。
その色は辺りを包む炎より深い赤で、血を連想させた。
俺もこいつも、不思議な程落ち着いている。
交わした一言も、ただの挨拶のように気軽なものだ。
だが、互いに一切の油断は無い。
何か切欠があればすぐにでも爆発する。
そんな確信があった。
「そうだ」
「嘘。本当はあの男でしょ?」
女の目が階下――窓の外で足を押さえて蹲るブレットに向けられる。
賢そうには見えないが、流石にこんな嘘は通らないか。
それにしても、奴が足を怪我したのは良くない展開だ。
あそこじゃ完全な安全圏とは言えない。
「あんたは護衛ってわけね」
「……」
「あいつを差し出せば見逃してあげてもいいけど、どうする?」
慈悲を謳う女神のように、彼女がそんな台詞を宣う。
その傲慢さが、酷く癪に障った。
「ごたごたうるせえなあ。とっととかかってこいよ」
俺の言葉に、女は退屈そうに肩を落とす。
そのまま、場違いな程あっさりと終わりを告げた。
「あっそ。なら死ね」
腕が伸ばされる。
届くはずのない間合いを埋めるように、巨大な炎弾が放たれた。
◇
奇蹟。
それは、一部の人間に与えられた超常の力。
その自覚の多くは幼少期に起こり、冠した名前を体現するような現象を当人の意思で引き起こす。
奇蹟の種類は多岐に渡って、物理現象の延長線上のものから全く脈絡のない不可思議なものまで様々ある。
その節操のなさたるや、呪文によって統制された超常現象を引き起こす魔法とは大違いで、未だに解明されていない部分も多い。
そんな観点からすれば、女の奇蹟は実に分かりやすいものと言えるだろう。
炎の操作。
自然干渉系に分類されるそれは、ごくごくオーソドックスな奇蹟だ。
生活から戦闘まで抜群の汎用性を持ち合わせる反面、存在自体が有名な分対策も立てやすい。
次々と放たれる炎を躱して、人外のストライドで距離を詰める。
女が操る炎の規模はとんでもない。
まだ戦闘を始めたばかりだが、既に辺りで燃え盛るそれによって仮宿の二階は崩れ去って、骨組みが露出するほどにボロボロだ。
常人ならとっくにスタミナ切れしていてもおかしくない。
けれど、そんな高出力にも付け入る隙は存在する。
この手の奇蹟に共通の弱点、それは接近戦に弱いこと。
炎の奇蹟持ちはその殆どが同じ戦法――炎の射出による遠距離戦を行う。
何故か。
理由は実に単純だ。
そうしなければ守れないのだ、自分の身を。
奇蹟によって生み出される炎は、使用者の身体にすら危害を加える。
つまり、極端な近距離では彼らは力を振るえないのだ。
これがこの系統の奇蹟の最大の欠陥であり、俺が突くべき弱点だ。
……そのはずだったんだが。
「ちっ……」
「またそれ?大口叩いた癖に逃げるしか能が無いんだ」
今しがた放たれた炎が、女の足元を舐めるように吹き荒ぶ。
このまま進んだら焼かれる。
そう判断した俺は、咄嗟に急ブレーキをかける。
踏み込む足の勢いをそのまま反発力に変えて、後方へ跳ね退いた。
まさに命からがらだ。
再び開いた間合いに安堵しながらも、俺の脳裏では薄々抱いていた疑いが確信に変わりつつあった。
こいつは何かおかしい。
常識を覆す火力、持久力、そして何よりも間合い。
それはまるで――。
「お前、耐性持ちか」
「んー?」
「その規模の炎を足元で動かして何でもねえ面してるのはおかしい」
「そう言うあんたはキモいくらい身軽ね。すばしっこい虫みたい」
奇蹟は十人十色だが、その質には個人差が大きく出る。
同じ系統だとしても、上位と下位でその性質を大きく変えるものだって存在する。
そして炎の系統にも格差は存在し、上位であればあるほど出力や精度が上昇していく。
そんな上位の中でも更に上澄み。
最上位ではある特性が付与され得るという噂があった。
それが炎熱耐性。
読んで字の如く炎熱への完全な耐性を意味するそれは、炎使いにとっての理想であり夢そのものだ。
実在すら不確かなその概念を俺は今の今までただの眉唾と片付けていたが、どうやらそうではなかったらしい。
「……ったく、何だってお前みたいな奴がたかだか奴隷商一人を潰すために動いたんだか」
「そんなの決まってるでしょ、正義のためよ」
「正義だあ?」
「あたし、奴隷って嫌いなのよね」
女が少しだけ目を伏せる。
正義を高らかに謳うその声は心なしか弾んでいた。
「同じ人間だっていうのに扱いは畜生並み。いや、下手すればそれより酷い」
「……」
「そんな境遇を他人に強いる奴はそれこそ人間じゃない」
――殺されても文句言えないくらいにね。
そう付け加えて、女は花のようににっこりと笑った。
「お前、そのくらいでキレてたらこの国で生きていけないだろ」
「そうでもないわ。悪者は全員殺せばいいんだから」
「とんだイカレ女だな」
会話が途切れる。
戦闘の再開を察して、俺は前傾姿勢をとった。
一方、女の瞳孔には炎が灯される。
大きく広げた掌からは、さっきまでとは一つ次元が違うような劫火が放たれた。
躱しても良いが、それじゃ結局焼き直し。
それに、これは好機だ。
一際大きい炎弾は彼女の視界すらも潰している。
隠していた手札を切るには持ってこいの状況である。
決心は一瞬。
実行は一秒。
素早くホルダーの鉱石に触れて、俺は正面の地獄に突っ込んだ。
熱が身に染みる。
呼吸もしにくく、視界一杯の赤は目を灼くようだ。
――だが、その程度で済んでいた。
硬化した俺の身体はある程度のところで暴走する熱を抑えて、決してその生体機能を損なわない。
やがて、炎の壁を越えて視界が開ける。
女の貌が驚愕で凍り付く。
その隙だらけの鼻っ面に、全力で拳を叩き込んだ。
「がっ……!?」
鈍く嫌な音が響く。
吹っ飛んだ女は地面に転がって、さして時間も置かずに立ち上がった。
若干ふらついてはいるが、思ったより頑丈な奴だ。
「あ、あんた……何者?」
「さあな」
「……奇蹟ね。炎は効かないってわけ」
女の口角が上がる。
炎使いにとっては絶望的な状況だというのに、その瞳はより一層耀きを増していた。
危ない気配がする。
それと、途轍もなく嫌な予感も。
「面白いじゃない。倒し甲斐があるわ」
「強がりはよしとけよ。後で恥ずかしくなるぞ」
「それはこっちの台詞よ!」
叫ぶような宣戦布告。
それに呼応するように地面が炸裂した。
距離が詰まる。
それは今までとは真逆で、女の方から俺に突っ込んでくる形だった。
そのまま顔面に振るわれる拳を、硬化した拳で何とか受け止めた。
速い。
それにこの動き、軌道が不可解だ。
足の踏み切りの力だけではあり得ない。
そこまで考えて、俺は絡繰りに気が付いた。
噴射だ。
奴は体から炎を噴射して、それを速力と膂力に変換している。
自らの炎で傷つかないからこその荒業。
「ふふ……あははっ」
女は楽しくて仕方がないという風に笑う。
童女というよりも、悪魔のそれだ。
「ムカつくけどあんたは強い。だからあんたには、あたしの最強を見せてあげるっ!」
周囲に蔓延する熱が暴走する。
さっきまでの俺にも匹敵する速さで動く女は、焼け焦げた地面を蹴って大きく跳ねた。
――こいつ、まだ火力を上げるつもりか。
やがて彼女の身体は重力によって引き留められる限界まで達して、そこで突然動きを変えた。
炎の噴射は夜空を焦がすかのように上方向へ。
彼女の身体は俺を目がけるようにその逆へ。
逆しまな姿勢のまま振り下ろされたその細足には、青白く煮え滾る劫火が灯っていた。
「吹き飛べ」
「ちっ……」
回避は既に間に合わない。
遮熱の特性で受け切る他ないが、その手段を用いたとしても俺には一秒後の生存が確信出来なかった。
「――莫炎脚」
ただ一点に衝撃が収束する。
女の切り札は、受けに回った俺の両腕を爆心地とするように炸裂した。
◇
数秒の空白を越えて、視覚と聴覚が元に戻る。
全身が異常に熱く痛むが、それ以上の大きな負傷はない。
どうやら、力比べはギリギリで此方の遮熱が勝ったらしい。
……と言っても、喜ぶことなど出来ないが。
すっかり見通しが良くなった周囲を眺める。
充分ボロボロだった仮宿は遂に木端微塵に砕け散り、その残骸を嬲るように炎が燃え続けている。
それだけじゃない。
宿に隣り合う建物も全てが滅茶苦茶に破壊されていて、もはや元の姿など見る影もない。
まさしく地獄の様相だ。
そしてそれは、俺の実質的な敗北を意味していた。
「呆れたわ」
死角から耳障りな声が響く。
振り向くと、言葉の通り呆れたように俺を見つめる女の姿があった。
「本気で打ち込んだのに死なないなんて。あんたマジでかったいわね」
「そりゃどうも」
物騒なことを口走りつつ艶やかに笑いかける彼女を尻目に、俺はブレットの居たはずの地点に視線を移した。
そこにあるのは、人の形をした炭の塊が一つだけ。
生きたまま焼かれた苦しみ故か、右腕だった箇所は救いを求めるように彼方へ伸ばされている。
どれだけ保身していても死ぬ時は死ぬ。
この界隈のそんな掟を体現するように、その死体は凄惨で残酷なものだった。
……やはり手遅れか。
相手の一撃は、隣の家屋をも焼き尽くす規模だった。
宿の傍で蹲っていたブレットが無事な道理はない。
その当然の帰結を理解していても、この胸に去来する忸怩たる思いは中々収まらなかった。
――さようなら、俺の200000テリア。
言い訳のしようもなく依頼は完全に失敗だ。
こうなっては、このイカレ女とこれ以上戦う意味もない。
適当なところで切り上げて、さっさと離脱するべきか。
そんな考えを巡らせていると、突然路地の方から甲高い声が響いた。
「おいアイリス、そろそろ時間だ!」
「む……今いいところなんだけど」
「目的は達したんだからもういいだろ!それ以上遊んでるようだとお嬢が腹立ててまたオレを足蹴に……あれ、それはそれでいいのか?」
アイリスと呼ばれた女の攻め手が止まる。
全く以て場にそぐわないふざけた台詞を並べた奴は、幼児の玩具のような魔獣だった。
茶色の体毛に丸っこい体躯、小さな嘴とつぶらな瞳。
そして特徴的な橙色の長い眉毛。
何処からどう見てもそれは、大陸北部に生息するランドペンギンだ。
……何故か喋っているが。
「少しくらい見逃しなさいよエルペン。あたしも足蹴にしてあげるから」
「いやそれはおかしい。じゃなくて、大真面目に言ってんだ!撤退撤退!」
「はあ……仕方ないわね」
瞳の焔がフッと消える。
それは傍目にも分かりやすい戦意の消失だった。
「そういうわけだからあたしは帰るけど。あんたは続けたい?」
「いや全く。これ以上お前の顔見たくねえわ」
「ちっ、ほんとムカつく奴ね。……行くわよエルペン」
「あいあいさー」
人型の嵐が去っていく。
その姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた俺は、ゆっくりと火元から離れて倒れ込んだ。
全身を虚脱感が包む。
奇蹟の過使用による疲労だ。
時間で考えれば大した労力ではないとはいえ、新しく手に入れた力をぶっつけ本番で使うのは流石にやり過ぎた。
まだ戦おうと思えば戦えたが、一度張り詰めていた空気が途切れればこうなるのは当然と言える。
「くそ……感謝なんてするんじゃなかったな」
その独り言を最後に、意識が落ちる。
メラメラと煮え滾る戦場の目の前で、俺は場違いな程穏やかな眠りについた。
◇
「兄貴、起きて下さい!」
耳元の騒音。
劣悪な環境のせいで浅かった眠りは、それですぐに醒めた。
「うるせーよ」
「おはようっす!」
「だからうるせえって」
「すいません!」
「お前わざとやってるだろ」
嘆息一つ。
視線を前へ向けると、相変わらず燃え盛る炎の姿。
ちゃんと考えて寝場所を選んだから当然だが、俺が居る路地の方へ燃え移る様子は無い。
しかし仮宿の家屋通りは悲惨なもので、一帯は延焼して原型を留めていなかった。
改めて思うが、ただ一人の標的のためにここまでするとは正気の沙汰ではない。
やっぱりあいつはイカレ女だ。
「ヤンス、牢の方はどうなった」
「あ、それなんすけど……申し訳ないっす。襲撃が入って壊されました」
「そうか」
あの女は陽動か。
まああのペンギンが仲間の存在を仄めかしていたのとも辻褄が合うし、妥当な展開ではある。
しかしまあ、好き放題やられたものだ。
癪に障るが、どの道この戦力差ではどうにもならなかっただろう。
命があるだけマシか。
「奴隷共は?」
「全員逃げ出しましたけど、十八人は捕まえたっすよ。……一人は連れ去られたっすけど」
「十八人と一人?二十人居ただろあいつら」
「それが、残り一人が見つからないんすよ」
「へえ」
ヤンスの言葉に思案する。
逃げ出した、ということは襲撃者は全員の足枷を外したのか。
おそらく目的は攪乱。
最初からあの二十人の内の一人だけを逃がすことを目的としていて、他はおまけ程度ってなわけだ。
そう考えると、あの銀髪女の襲撃に陽動以外にも意図が見えてくる。
奴隷たちを縛る隷属輪。
あれの厄介な点に特定の条件で自壊することがあるが、その条件は大体今から挙げる二つの場合が殆どだ。
一つ。
所有者の血液が期限内に注がれないこと。
そしてもう一つ。
所有者が死ぬこと。
今回重要なのは後者の条件であり、ブレットの殺害は、そのまま奴隷らを彼の隷属輪から解放することを意味する。
まあ足枷も破壊出来たのなら牢を襲った襲撃者が隷属輪も壊せそうなものだが、そこは手早く済ませることと陽動を重視したってことなんだろう。
ともあれ、こうなってしまったからには取れる対処法は限られている。
「ヤンス。分かってるとは思うが、ブレットは死んだ」
「……やっぱそうっすか」
「あっちの責任者に伝えろ。スピーラの出口に網を張って、町から出る奴を炙れってな」
「は、はい」
ヤンスが目を白黒させる。
何が何だかといった風だが、指示に脳死で従えるのはある意味でこいつの良い所だ。
慌てて仲間の方へ走っていく姿を横目に、黒い空を見上げた。
まだ体はだるい。
疲れが癒えるまで、精々安静にしておくべきか。
久しい失敗だというのに、不思議と俺の心は凪いでいた。
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