第13話
ベランダから転落したにも関わらず、庭の低木の上に落下したアンナは奇跡的に軽傷で済んだ。
だが一向に目を覚まさないことにクロードは不安を募らせることになる。
ようやく意識を取り戻したと安堵したのも束の間、アンナは全ての記憶を失っていた。
医者の問診を終え、クロードはアンナに休むように告げて部屋を出た。
困惑し疲れたように嘆息するアンナを気遣う気持ちはもちろんあったが、傍を離れたのは自分も一度落ち着きたかったからだ。
医者からは最悪このまま記憶が戻らない可能性もあると告げられた。
(追い詰めただけではなく、アンナの記憶まで奪ってしまうことになるなんて……)
無邪気に自分の名を呼ぶアンナが頭に浮かんだが、もう二度とあのような笑顔を向けてもらえないだろう。取り返しのつかない状況にクロードが項垂れていると、背後から控えめな声が掛かった。
「クロード様」
普段は冷静で感情を見せないトマスも、今は沈痛な表情を浮かべている。かつて叔父に仕えていた執事はアンナを案じて屋敷に残ることを選択した。
子供だったクロードに必要な知識を与え、陰ながらアンナを見守り続けたトマスはクロードにとっても唯一の味方と言える存在だ。
「もしかするとこれで良かったのかもしれません。お嬢様にとってお辛いことが多すぎましたから」
ぽつりと零したトマスの言葉にクロードは頷けなかった。何もかも忘れてしまうことは果たして幸せなことなのだろうか。
答えを出せないまま部屋に戻れば、ベッドどころか室内にアンナの姿が見当たらない。焦りのあまり乱暴に扉を開き、名前を呼べば洗面室からアンナが顔を出した。
思わず抱き寄せてしまったのは、本当にここにいるのだと実感したかったのだろう。
(――もう二度とアンナを失いたくない)
込み上げてきた思いにクロードは自分の本心を知った。
柔らかく温かな身体は離れがたかったが嫌われてしまっては元も子もない。
幸いにも嫌悪感を示されることもなく、口元を緩ませながら菓子を食べ進めるアンナは稚く、愛おしく思える。
婚約者だと告げると驚いたあと眉を下げられて落ち込んだが、罪悪感によるものだと必死に説明する様子に、嫌っていないのだと言われているようで嬉しくなった。
(もしアンナが記憶を失わなかったら、こんな風に会話することも出来なかったかもしれない)
アンナの不幸を喜ぶような考えを慌てて打ち消したが、わだかまりのないやり取りに感じる心地よさを手放すことは出来そうになかった。
そんな罪悪感や過去の分を補填するように、アンナを甘やかすことに時間を注げば、遠慮がちでよそよそしかったアンナも徐々に心を開いてくれるようになった。
恥ずかしそうにしながらもクロードが与える菓子を口にするし、好意を伝えれば顔を真っ赤に染める。
自分と同じような気持ちではないものの、嫌がっているようには見えない。このまま距離を縮めていけば、アンナも自分を愛してくれるのではないか、そんな予感があった。
だからアンナが両親について知りたいと言い出した時には、即座に反対した。無理に思い出して欲しくないし、思い出せばきっとアンナは自分から離れていく。
執務室の机の一番下の引き出しを開ければ、いつものように黒いウサギのぬいぐるみがあった。
治療のため引き剥がす際には、アンナが強く握りしめていたので苦労したものだ。片目は取れて腹部からは白い綿が覗いているボロボロのぬいぐるみを、クロードは修繕することも捨てることもできずにいる。
もしもアンナが記憶を取り戻した時に、クロがいなければきっとショックを受けるだろう。
ぬいぐるみを確認したクロードは引き出しを閉じて鍵を掛ける。
そこまで管理をしていてなくなるはずがないのだが、気になってしまうのは罪悪感を覚えているからかもしれない。
本来であればアンナを追い詰めてしまった自分が彼女の隣にいる資格などないのだろう。
だが記憶が戻らないほうがアンナもきっと幸せになれるはずだ。
そう自分に言い聞かせながらクロードは執務室を後にした。
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