第5話

お茶を飲み終えると、執事のトマスが現れて書斎へと案内される。かつては父に仕えてくれていたトマスと顔を合わせるのはいつ振りだろう。正直なところ、侍女頭のエイミーとともに解雇されたのだと思い込んでいた。


アンナの視線に気づいたのか、トマスは微かに柔らかい笑みを浮かべる。以前と変わらない微笑みは、アンナがずっと切望していたものだというのに不安と困惑に胸が騒ぐ。



「アンナ、今日からお前は私の婚約者だ」


(こんやくしゃ、婚約………誰が誰と……っ!)


言われた言葉が理解できずに反芻し、その意味を悟った途端にアンナは血の気が引いた。打擲された痛みが、恐ろしい形相で罵声を浴びせる伯母の姿が甦り、アンナは必死に言葉を紡いだ。


「お、お戯れを……奥様に叱られてしまいますので、どうかご容赦、くださいませ」

「大丈夫だ。もう二度と母上にも父上にも手出しをさせないから、余計な心配はするな」


少しだけ声が和らいだような気がしたが、クロードの方を見るのが怖くてアンナは俯いていた。


(シェイデン伯爵に嫁ぐと言われていたのにどうして……)


突然の事態に頭が理解を拒むのか、視界が回るような感覚に足元がふらつく。


「大丈夫か?部屋を用意したから少し休むといい」


頭上から声が落ち、クロードが自分を支えてくれているのが分かる。アンナを嫌っているはずのクロードがどうしてわざわざ気遣ってくれるのだろう。


「お嬢様、どうぞこちらへ」


ケリーに促されてアンナは混乱したまま後に付いて行こうとしたが、身体が宙に浮き胃の辺りがきゅっとなる。


「運んでやるからそのまま楽にしていろ」


抱きかかえられて狼狽するアンナだったが、クロードの言葉に動きを止める。逆らってはいけないと反射的な行動だったが、クロードはふっと満足そうな吐息を漏らす。

最早「どうして」以外の言葉が浮かばなくなったアンナは考えることを放棄して、クロードの機嫌を損ねないことに全神経を注ぐことにした。



新しく用意された部屋は日当たりがよく、温かみがある落ち着いた色合いで統一されていた。見覚えのない二人の侍女に湯浴みを手伝ってもらうと、浅緑色のドレスに白のフリルが付いたドレスへと着替えた上に、薄く化粧まで施される。


「とてもお似合いですわ」

「クロード様の反応が楽しみですわね」


見知らぬ侍女たちに褒めそやされるが、アンナは落ち着かない。久しぶりに世話をしてもらったせいもあるが、それ以上にアンナには気がかりなことがあった。


「あの、屋根裏部屋に戻りたいのだけど……駄目、かしら」


徐々に言葉が小さくなってしまったのは、彼女たちに痛ましいものを見るような目を向けられたからだ。


「ご心配なさらなくても、ここがアンナお嬢様のお部屋ですからね」


労わるように言われれば、我儘を言えずにアンナは押し黙るしかない。


(どうしよう、クロと引き離されてしまったわ)


屋根裏部屋にいるのだから逆に安全なのかもしれないが、万が一不用品と見なされ捨てられてしまったらと思うと気が気ではなかった。


「失礼いたします。お嬢様の持ち物と思われる物をいくつかお持ちしました」


部屋に入ってきたケリーに目を向ければ、手に下げた籠の中には作りかけの刺繍と見慣れた袋がある。

アンナは声もなくケリーの下へ向かうと、袋に手を伸ばす。結び目を解けばいつもと変わらないクロの姿があり、アンナは安堵の溜息とともにクロを抱きしめた。


(良かった、クロがいるわ)


人目も憚らずそんな行動を取ってしまったのは、思いがけないことが続きどうしようもないぐらい不安だったからだろう。

だがアンナはそんな自分の浅はかさをすぐに後悔することになる。



ノックの音と現れたクロードを見てアンナは我に返ったが、いまさらクロを隠すのは不自然過ぎた。

侍女たちが下がり、二人きりになると否応なく緊張が高まっていく。


(……怖い)


クロードの言動がこれまでとは全く違っていて、次に何が起こるのか予想がつかないのだ。


「アンナ」


名前を呼ばれて強張った身体がびくりと震えた。機嫌を損ねた気配があり、アンナは堪らずクロを抱えた腕に力を込める。

一人ではないのだから、クロのためにも自分がしっかりとしなければいけない。そんなアンナの覚悟はクロードの一言であっさりと崩れ去る。


「子供ではないのだし、もうは必要ないだろう」


クロードの視線は明らかに腕の中にいるクロに向けられていた。アンナに向かって足を踏み出すクロードと距離を取るべく後ろに下がるが、窓を背にしているため逃げ場はない。

やけに大きく聞こえた溜息はアンナの愚かさに呆れているのだろうか。


クロだけは失いたくない、アンナの頭にあるのはそれだけだった。


「――っ、アンナ!」


唯一の逃げ道であるベランダへ駆け出すと、クロードが叫ぶように名前を呼んだが足を止めることなど出来ない。温かな日差しと穏やかな青空に、何故か涙が溢れそうになる。


背後に迫るクロードの気配と必死な声を振り切るように、アンナは片手でクロを強く抱きしめたまま手摺の向こうへと身を投げ出した。

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