第6話

常に不平不満ばかりを口にする両親を鬱陶しく思うようになったのはいつからだろうか。


歳の離れた弟を非難し己の境遇を嘆く父とプライドが高くすぐに癇癪を起こす母に疑問を持つことが出来たのは、クロードにとって幸いなことだったのかもしれない。

だが過度な期待と理想を押し付けてくる両親に息が詰まりそうだった。


そんな環境においてクロードが最も楽しみにしていたことは、当主一家の訪問だったのだから皮肉と言うしかない。


「クロードおにいさま!」


会えば嬉しくて仕方ないというように、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる少女は、いつもクロードに充足感と喜びを与えてくれた。小さくて柔らかい手の平は温かく、きらきらと輝く瞳はどんな宝石よりも綺麗で見ていて飽きない。


「クロードおにいさま、見てください。私の新しいお友達です!」


身体の半分近くあるウサギのぬいぐるみに埋もれそうになりながらも、誇らしそうな表情がとても愛らしい。


「うん、可愛いね」


ぬいぐるみではなくアンナへ向けての言葉だったか、途端に花が咲いたような笑みが浮かぶ。そのぬいぐるみの素敵なところを拙い口調で一生懸命に伝えているのをクロードは微笑ましい気持ちで見つめていた。


「この子のお名前はクロにしました」


黒いウサギだからクロ、子供らしい単純な名付け方にそうかと返事をすれば、アンナは小首を傾げて言った。


「クロードおにいさまと一緒の緑色のお目目だから、お名前もお揃いにしたの、ダメですか?」

「――っ、僕の名前から付けたのか?」


こくこくと頷くとアンナはさらに驚くべきことを告げた。


「クロードおにいさまとはたくさん会えないけど、この子がいればきっとさびしくないです」


ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめるアンナに、何かを言わなければと思うのに声にならない。じわじわと心の奥から湧きあがる感情に胸が締め付けられるような感覚を覚えたが、それは決して不快ではなかった。


「僕もアンナに会えないのは寂しいから、もっと一緒にいられるように頑張るよ」

「クロードおにいさま、大好き!」



アンナの無邪気な笑顔が消えて、見慣れた天井が視界に映る。

懐かしい夢の残滓にクロードは僅かに口元を緩めた。ずっと続くと思っていた宝物のような時間は叔父夫婦が亡くなったことで、唐突に終わりを告げた。


(……あともう少しだ)


アンナの自由と笑顔を取り戻すために必要な手筈が間もなく整う。勉学に励む傍ら、密かに投資や事業などで自由に使える資金や人脈を確保した。

領主としての仕事も代行を務めるようになり、父の不正の証拠も入手済みである。アンナに手出しが出来ないようひとまず領地へ抑留するが、正式に後を継いだ後は領外へと追放するつもりだ。


血の繋がった両親に対してあまりにも薄情だろうかと思ったものの、彼らは弟夫婦が亡くなった知らせを聞いて歓声を上げるような人間だ。それに母がアンナにした惨い仕打ちを考えれば自業自得というものだろう。



「クロード、貴方は次期伯爵となる立場の人間よ。もうあんな娘を甘やかしてやる必要なんてないわ、分かるわね?」


叔父夫婦が健在な時は、なるべくアンナの機嫌を取るようにとせっついていた母の鮮やかな手の平返しにクロードは吐き気を覚えるほどだったが、母の望む回答を口にした。


「もちろんです。当主の娘だから優しくしてやっていただけですよ」


満足そうな表情にうんざりしたが、母の機嫌を損なえば庇護者を失ったアンナがどのような目に遭うか分からない。その場しのぎの回答で乗り切れると思っていたのに、母の言葉に凍り付くことになる。


「いい子ね。では貴方の口からきちんとあの愚かな娘に自分の立場を教えてあげるといいわ」


言い聞かせるような優しい声から紡がれた残酷な言葉と愉悦の色を帯びた瞳に、クロードは表情を保つのが精一杯だった。まだ子供だったクロードのアンナに接する態度が義務的なものだけでないと母は気づいていたのだろう。


屋根裏部屋に向かう足は重く、どうすればアンナを傷付けずに済むだろうと頭を振り絞って考えたのに良案は一向に思いつかない。

クロードの顔を見ると、どこか虚ろだった瞳に光が戻り表情が綻んでいくアンナに息が詰まりそうになる。


「俺を兄と呼ぶな!お前が妹なんて絶対に認めない」


大嫌いだとは嘘でも言えなかった。だが突き放すために告げた言葉の効果は絶大で、アンナの表情を見ていられずに乱暴に扉を閉めて逃げるように階段を下りた。


(俺がアンナを守らないといけないのに……)


天使のように無垢で愛らしい少女にあんな表情をさせてしまったことを後悔しながらも、クロードはアンナの心を少しでも癒してやりたかった。

母の叔父夫婦に対する妄執をその時のクロードはまだ理解していなかったのだ。


「このあばずれが!」


鬼のような形相の母がアンナの柔らかな頬を容赦なく平手打ちを浴びせた。


「私の息子に色目を使うなんて!さすがあの女の娘だわ、汚らわしい!」


七歳の少女にそんな暴言を吐く母に唖然とした。突然のことに状況が理解できないのか、アンナは倒れたまま呆然と母を見上げている。守らなければと足を踏み出そうとしたところで、クロードは後ろから袖を引かれた。


「クロード様、どうか堪えてください。クロード様が庇えばあの方は決してお嬢様を許さないでしょう」


押し殺した声で嘆願する女性はヴェルス伯爵家に仕える古株の侍女だった。彼女は母が叔父に懸想していたこと、そんな叔父が自分よりも劣ると信じていた女性を妻に迎えたことを恨んでいたことなどを教えてくれた。


(そんなことアンナには関係ないのに……)


母の罵声は止まらず、縋るような眼差しを向けるアンナをクロードはただ見ていることしか出来ない。少しでも元気づけたくて渡した花束は踏みにじられ、自分の浅はかな行動により傷付けてしまったアンナの心を表わしているようだった。


自分のせいでアンナが心身ともに傷付けられてしまってからは、クロードはより慎重に行動したが、どれも失敗に終わったことでクロードは認めざるを得なかった。

アンナを守るためには今の自分では無力なのだと――。


その日からクロードはアンナを守るために必要な力を手に入れるため、全ての時間を費やしたのだった。



両親を領地へと向かわせたあとにほぼ全ての使用人を総入れ替えし、アンナには護衛を兼ねた侍女を付けた。碌に書類に目を通さない父の署名が入った婚約届も入手している。


婚約を告げたアンナの表情が晴れないのは、これまでの扱いを考えれば仕方がない。

これからゆっくりと想いを伝え共に時間を過ごせば、きっとまたあの頃のような笑顔を見せてくれるとクロードは信じていたのだ。


部屋に入れば縋るようにぬいぐるみを抱きしめるアンナがいた。自分と同じ瞳のぬいぐるみを大切にしているのを微笑ましく思う一方で、自分よりもそちらを頼りにしているような様子が少し面白くなく、クロードはつい不満を漏らしてしまった。


「子供ではないのだし、もうは必要ないだろう」


そもそもそれはクロードの代わりだったはずなのだ。だがその言葉を聞くなりアンナは怯えたように後ずさった。

父親からの最後のプレゼントであり、これまで心の支えになっていたであろうぬいぐるみを相手に、大人気なかったと思いなおす。


安心させようと声を掛けたところで、アンナは身を翻して駆け出した。その行動の意味が分からず固まったのはほんの僅かな間だが、それが取り返しのつかない時間となる。


「アンナ、止まれ!!」


伸ばした手は何もつかめず、光を反射した黄金色の髪が視界に広がり、瞬く間に見えなくなった。

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