第4話

その日、屋敷の中を忙しなく動く人々の空気を感じながら、アンナはいつものように刺繍に励んでいた。伯父夫婦が領地へ出立するのだ。

部屋から出ないよう厳命されていたため、見送りはもちろん、朝食だってもらえていないが、非常食として取っておいたパンを食べて穏やかな気持ちで刺繍に集中することが出来た。


最初の頃は上手く出来ずに叱られてばかりだったが、上達した今ではアンナ自身も楽しみながら針を動かしていく。


控えめなノックが聞こえたのは、昼を少し過ぎた頃だった。没頭し過ぎていたのか階段を上る音にも気づかなかったらしい。一瞬空耳かと思ったぐらいだが、待たせては怒られてしまうと慌ててドアを開ける。


「お嬢様のお手を煩わせてしまい、申し訳ございません」


トレイを手に一礼した侍女は初めて見る顔だった。テーブルの上にトレイを置き、皿に被せていたクローシュを取ると、ふわりと湯気が立ち上がる。


「何か苦手な食材でもございましたでしょうか?」


僅かに顔を顰めてしまったところを見られてしまったようで、問いかけられたアンナは慌てて否定した。


「いえ、そんなことないわ。運んでくれてありがとう」


微笑みを浮かべ、また一礼して去っていく侍女は騎士のような凛とした雰囲気があった。


(彼女は新人だから、きっと私についてまだ知らされていないのね)


何も知らないからこそ体よく仕事を押し付けられてしまったのだろう。美味しそうな食事なのに、最近起こった嫌がらせを思えば憂鬱な気持ちになった。

だが、それも食事に手を付けるまでだった。


(スープも白身魚のソテーもサラダも全て美味しいわ)


本当にこれは自分に用意されたものなのだろうか、とそんな疑問がよぎった。先ほどの侍女が間違えてしまったのかもしれない。そう思えば手が止まったが、既に口を付けてしまっている。どうせ怒られるならとアンナは美味しい食事を堪能することにした。


食事を終えたタイミングでまた扉がノックされた。返事をすると予想通り先ほどの侍女が現れて、その手にはティーポットとカップを載せたトレイを持っている。


「食後のお茶をお持ちしました」


まるで本当の貴族令嬢のような扱いだ。


「ありがとう。でも私は居候の身だからそんな贅沢を許されていないの。知らなかったとはいえ叱られるかもしれないから、そのまま厨房に戻すといいわ」


新入りだからと張り切って仕事をしようとした結果、確認を怠ったのだろう。彼女の行動は嬉しかったが、新しく入ったばかりの職場を辞めさせられるのは可哀想だ。

そう思って告げれば、目の前の女性は少し困ったような笑みを浮かべる。


「ご主人様のご指示ですから、問題ありません。お嬢様、カモミールティーはお好きですか?」

「……ええ」


果実のような香りが好きで子供の頃はよく飲んでいた。アンナの返事に、にっこりと微笑んだ侍女はカップに注いでくれる。ふわりと甘い香りに幸せだった記憶が脳裏に浮かぶ。込み上げてくる感情を抑えて、アンナは意識的に微笑みを浮かべながら尋ねた。


「貴女のご主人様は私の伯父であるヴェルス伯爵ではないのかしら?」


屋敷の者は旦那様としか呼ばない。違和感を聞き流さずに確認してみれば、侍女はあっさりと答えてくれた。


「私の主はクロード様ですよ。ご挨拶が遅れましたが、アンナお嬢様のお世話をさせて頂くことになりました、ケリーと申します。何なりとお申し付けください」


例えば彼女の主人がシェイデン伯爵であればまだ納得出来ただろう。婚約届が提出されたと同時にアンナは花嫁修業のために伯爵家に滞在するのだと聞いている。その前準備として侍女をよこすのはあり得ない話ではない。

だが侍女を手配したのがクロードだと言うのなら、あまりにも不可解なことだった。


久しぶりに口にしたカモミールティーは思い出の味よりもほろ苦く、アンナは込み上げてくる不安とともに飲み込んだ。


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