第3話

部屋に戻ったアンナは大切な友達であるウサギのぬいぐるみを抱きしめた。子供っぽいと自覚はしているが、幼い頃からの習慣は恐怖や不安を和らげてくれる。


「クロ、お嫁に行くときは一緒に来てくれる?」


年月が経って傷んだ毛並みはくったりとしているが、凛とした瞳は変わらない。

連れて行っても捨てられてしまう可能性を考えると躊躇してしまうものの、唯一の宝物であるクロを手放せそうになかった。


階段が軋む音が聞こえて、アンナは素早くクロを袋に入れて戸棚の奥へとしまった。伯母がここへ来ることはないが、侍女の中には伯母の機嫌を取るためにアンナに嫌がらせをする者もいる。

クロを取り上げられたら、アンナはいったい何を頼りに生きていけばいいのだろう。


やってきた侍女はほのかに湯気を立てる食事が載ったトレイを持っている。不思議に思ったアンナに侍女はぞんざいな口調で告げた。


「クロード様のご指示よ。やせ細ったまま嫁に出せば先方に文句を付けられかねないと仰ってね。まったく、一食ぐらい抜いたところで変わらないのに……」


乱暴に置かれたせいでスープが少しこぼれる。本来であれば久しぶりの温かい食事に胸が弾むところだが、気になることがあり迷いが生じた。


「ほら、さっさと食べなさいよ」


意地悪そうな声にアンナが諦観とともにスープを一口飲めば、強い酸味が口の中に広がる。メインの鶏肉は塩辛いばかりで、水もないため代わりに付け合わせの野菜を口に運ぶが、それだけで緩和されるものではない。


「クロード様のご慈悲なんだから、残さず食べるのよ」


顔に出せば相手を喜ばせるだけだと無表情を装っていたものの、流石に食べ進めることはできずフォークを止めたアンナに、侍女はそう言い残して去っていった。


(どうしてクロードお兄様はこんなに私のことを嫌うのかしら……)


クロードから拒絶されたあの日以降、アンナは積極的にクロードと関わることを止めた。それなのにクロードは気まぐれのようにアンナを構い、そして絶望へと突き落とすのだ。


両親の墓に行きたくても外出を禁じられ、月命日に花を供えることも出来ずに泣いていたアンナを庭に連れ出してくれたのはクロードだ。花壇は植え替えられ面影もなかったが、風で運ばれたのか庭の片隅に母が好きだった白い小さな花が咲いていた。

クロードは器用に小さな花束を作り渡してくれたので、アンナはお礼を言った――ただそれだけだったはずだ。


甲高い声が上がり、振り返ったと同時に、アンナは強い衝撃を受けた。

くるりと視界が回り青い空と眦を吊り上げた伯母の顔が見えて、頬が焼けるように熱い。膜が張ったように遠くから聞こえる声はよく聞き取れなかったものの、良くない言葉なのだと分かる。


熱がじんじんとした痛みに変わって、アンナはようやく伯母に打たれたのだと気づいた。感情がようやく追いついて涙が込み上げてくる中、少し離れた場所からこちらを見ているクロードが庇ってくれることはなかった。


またある時は屋根裏部屋にいるアンナに焼き菓子を持ってきてくれたのだが、すぐさま侍女に取り上げられた。卑しい真似をするなと叱責され、食事を与えられず空腹と恐怖で夜を過ごしたこともある。


そんな様子を無言で見つめるクロードにアンナは困惑したし、悲しい気持ちで一杯だった。かつての従兄のように優しくされることが嬉しかったのに、すぐに奪われて傷付けられることを何度か繰り返して、アンナはそれが嫌がらせなのだと学んだ。おかげですっかりクロードのことが苦手になってしまったのだ。


アンナはクロードを警戒するようになり、それが伝わったのかクロードもアンナに嫌がらせをすることはほとんどなくなっていたのに、久しぶりの仕打ちにやっぱり気分が落ち込んでしまう。

今回は何がクロードの気に障ったのだろうか。


これまでも何度となく考えて結局答えが出ない疑問を、アンナは小さく頭を振って思考から追い払う。気にしたところで待遇は変わらないのだから、それよりも目の前の食事を優先させるべきだ。


鶏肉が塩辛いのは表面だけだったため、スープに入れて塩を落としてほのかに酸味のある鶏肉と野菜を胃に収める。塩辛さが増した酸っぱいスープは、周囲に人がいないことを確認して窓から捨てた。あまり人が通らない場所なので気づかれないだろう。


せっかくの温かい食事だったが、悪意に触れて身体も縮こまってしまった感覚が残る。クロを取り出すとアンナは膝を抱えたまま、しっかりと抱きしめる。


「クロ、大好きよ。私の味方はあなただけだわ」


柔らかな肌触りと嗅ぎ慣れた匂いに、アンナは心に刺さった棘が溶けていくように感じた。

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