第2話

「居候様、奥様がお呼びです」


ノックもなくドアを開けた侍女は不機嫌そうな表情を隠そうともしない。屋根裏部屋に繋がる階段は狭く急斜になっているので、面倒なのだそうだ。

もっともアンナの立場からすれば、ぎしぎしと軋む音で誰かがやってくるのが分かるし、部屋に来るまで少し時間がかかるので古くて良かったと思っている。


「……すぐに行くわ」


遅れればその分伯母の機嫌が悪くなる。いつ呼び出されても良いように、早朝から身支度を整える習慣が付いていた。それにアンナの仕事である刺繍を行うためには、蝋燭の灯りの下よりも徐々に明るくなっていく朝日の中のほうが針を刺しやすく効率的なのだ。


「伯爵夫人である私を待たせるなんて、いいご身分ね」


走るのは不作法なので精一杯早足で部屋に到着したものの、嫌味を言われてしまうのはいつものことだ。


「お待たせして申し訳ございません、奥様」


伯母と呼ぶことも許されず、アンナは使用人のように深く頭を下げる。


「まったく可愛げのないこと。ふふ、それよりも良い知らせよ。貴女の縁談が決まったわ」


機嫌の良さそうな伯母の口調からして、アンナにとって良い話ではないのだろう。それでもこの家から離れることが出来るなら、と希望に心が小さく揺れる。


「シェイデン伯爵様が後妻として受け入れてくださるそうよ。泥棒猫の娘には勿体ないほどの良縁でしょう?感謝しなさい」


シェイデン伯爵の悪評は、社交から隔離されたアンナでさえ耳にしている。

五十代半ばの伯爵は金鉱を所有している資産家として有名だが、それ以上に彼の妻について語られることのほうが、はるかに多いだろう。


既に四度婚姻を結んでいるものの、妻となった女性とは全員死別している。シェイデン伯爵家に嫁いだ女性は人前に出ることを禁じられ、数年以内に儚くなってしまうそうだ。

葬儀の際には棺を固く閉ざし、妻の家族にすら最後の別れを拒否するため、伯爵がその死に関わっているのではないかと様々な噂が囁かれていた。


「あの女のように色目を使って、せいぜいご機嫌取りに励むことね。貴女の母親は本当にはしたない女だったわ。お可哀そうに、ダニエル様はすっかり騙されてしまって――」


父に好意を抱いていた伯母にとって、母は父を誑かして略奪した悪女なのだ。仲睦まじかった両親の姿を覚えているからこそ、それが根拠のない中傷だと理解しているものの、それでも母の悪口を言われると胸が痛む。


ようやく伯母から解放されて食事をもらいに厨房に向かいかけたアンナは、反対方向から歩いてくる人物に気づき、廊下の端に身を寄せて頭を下げた。


(できることなら気づかないでほしい……)


でも、そんなアンナの願いはいつだって叶わない。


「アンナか。顔を上げろ」


感情を出さないようにと心の裡で唱えながら顔を上げれば、伯父は品定めするような視線を向ける。


「お前ももう十六歳か。ふん、なかなか良い具合に育ったな。姪であることが惜しいぐらいだ」


下卑た笑いにぞっとする。それでも伯父を刺激しないようにアンナに出来ることは僅かに目を伏せることぐらいだ。


伯父は長男だったにもかかわらず厳しかった祖父に認められず、優秀だった弟である父に当主の座を奪われたことを恨んでいる。また妻がかつて弟に想いを寄せていたこともその憎しみに拍車を掛ける一因のようだ。

男に生まれていれば、きっと目の敵にされただろうが、尤も女であってもこうしていやらしい視線に晒されるのだから、どちらも差はないのかもしれない。


「嫁入り前に閨の教育でもしてやろうか」


悍ましい言葉と共に伯父の手がアンナに向かって伸びてくる。


(――嫌っ!!)


逃げることも出来ず目をきつく閉じると、固い靴音とともに冷ややかな声が落ちた。


「こんなところで何をしている?まさか父上に取り入ろうだなんて愚かなことを考えていないだろうな」


恐る恐る目を開ければ、軽蔑の色が浮かんだエメラルドグリーンの瞳と目があった。明らかに不機嫌なクロードの様子に空気がずっしりと重みを増す。


「父上、このような娘に目を掛けてやる必要はありませんよ。それに領地滞在前に母上のご機嫌を損なうと厄介では?」

「……ああ、お前の言う通りだな。姪とは言え居候のタダ飯食らいだ。さっさと嫁がせて養育費を返してもらおう」


クロードの剣呑な雰囲気に気圧されたのか、伯父は取り繕うようにそう言ってそそくさと立ち去った。

助かったと思うべきなのに、未だに身体が硬直しているのはクロードがいるからだ。


「いつまでそこにいるんだ。さっさと在るべき場所に戻れ」

「……申し訳ございません」


つかえそうになる声を喉から振り絞って返事をする。厨房に行かなければ食事は手に入らないが、これ以上クロードの不興を買うわけにはいかない。


刺すような視線を背中に感じながら、アンナはうつむいたまま屋根裏部屋へと歩みを進めた。

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