3.因習村なら『にこもち様』とか呼ばれるやつ

 虫の声がする。


 虫の声を静けさと表現する人がいるけれど、あれは嘘だ。

 普段なんとなく聞き流しているだけで、時計の針の音よりもずっと大きい。

 最初は二度寝しようと思っていたのに、一度気になってしまうとそれ以上は眠っていられなかった。

 あいつらが静かなのは真冬くらいだよ、ホント。


 身体を起こして、伸びをして気付く。

 今日は12月31日。

 違う。あたりがほんのり明るいから、たぶん1月1日。

 真冬だ。


 ぱっと見では、雪がない以外は頭を打つ前と似たような景色だけれど、薄暗い中でも見逃すはずのない磐座がどこにも見えない。

 鎮守の森といっても街の隙間に残った小さな森だ。遠くを見れば街の明かりが見え、耳を澄ませば車の走る音が聞こえてくる――それがこの森にはない。


 なにより、大晦日の喉を刺すような冷気と違って、春の終わり頃のようにあたたかい。だから二度寝しようなんて思ったんだけど、本当ならジャケットを着ていても身体が冷えきる気温のはずだ。


 じゃあ、ここはどこだ?

 立ち上がって土を払う。

「生きてる、よね」

 声は出る。打ち付けたおでこもほんのり痛い。おなかもちょっとすいている。


 うん。食欲があるなら大丈夫。





 だけど、ここが死後じゃないとすると……いくつかの木の枝からぶらさがる、あの光る物はなんだ?

 それは水族館にいるラッコそっくりで、片腕を枝に伸ばしている。脚がなくてかすかに青白く光っているせいで、なんとなく幽霊っぽい。


 ふいに虫の声が静まる。

 光るラッコの一匹が『チー』と鳴くと、残りも一斉に鳴いて、短い腕で枝から枝に跳び移りながら森の奥へと消えていった。


 なるほど、足は必要ないんだ。とぼんやり考える。


「お姉ちゃん」

 後ろからの声に振り返ると、そこには『妹』がいた。私に妹はいないけど、とにかくそこに妹がいたのだ。


 妹はちょっと離れた木に半分隠れながら、えへへと照れ笑いをする。

「お姉ちゃん」

 名前を知らない相手に呼びかける「お姉ちゃん」ではなく、しばらく会えなかった家族に呼びかける、明るくはずんだ「お姉ちゃん」だった。


 だけど、誰……?


 その子のもちもちしたほっぺたとパッチリ丸い目は、家族の誰にも似ていない。

 背が低くて癖っ毛なところは、わたしよりもお母さんに似ていた。


 木に隠れてよく見えないけれど、服装はわたしが通った中学のブレザーに近い。目立つところに桜色が使われていてちょっと恥ずかしかったんだけど、目の前のこの服は桜色が増えて大変なことになっていた。

 なんというか、変なコスプレ感があるんだ。





 とにかく、知らない場所でひとりきりじゃなかったことに安心する、が、

「お姉ちゃん」

 さっきの二回と全く同じトーンで、『妹』がまた「お姉ちゃん」と呼びかけてくる。


 ……これ返事してもいいやつ?


 怪談でよくあるじゃない。誰が来ても朝になるまで絶対に扉を開けちゃいけない、返事もしちゃいけない、みたいなやつ。

 呪術では、呼ばれてこたえると繋がりができる、みたいな考え方もある。

 そんなことを思うくらい、目の前のその子はなにかが不自然だ。


「んっ、もう一回、お姉ちゃんって言ってみ?」

 わたしはできるだけ返事にも会話にもならないよう、慎重に言った。


「お姉ちゃん?」

 今度はトーンが違った。


 表情はあいかわらず『にこにこもちもち』しているけれど、条件どおりに同じ動きをする食虫植物みたいな存在ではないらしい。

 それはきっと、相手が追うつもりなら、わたしの足では逃げられないということでもある。

 なら、返事をしても一緒かな。





「隠れていないで出てきなよ。ちょっとお話しよう」

「お姉ちゃん!」

 その子は、やった! みたいに跳びはねて、笑顔を隠すように両手を口元でそろえた。


 かわいいなぁ……

 この異常事態の中でもそんなことを思ってしまう。


「お姉ちゃん。今から行くよ、今から行くよ」

 やっぱりどこか怪談のような話し方をする。


 身体を隠している木からゆっくりと離れるときには、最後まで恐る恐るといった感じで片手をそえていた。

 その片手もようやく離れると、一歩一歩たしかめるように歩み寄ってくる。


 足がわるいのかな?

 いやいや、おかしいおかしい。もしそうなら、

「どうやってここまで来たの?」

「お姉ちゃん、おなかすいたよ」


 にこにこもちもち。

 ゆっくりゆっくり近寄ってくる。

「おなかすいた」


 にこにこもちもち。


 わたしは『妹』から目を離さないように、急いで神社作業用のポーチを探る。

 なにかあったかな?

 そのあいだにも、言葉と表情がぜんぜん合っていない『にこにこもちもち』が、幼稚園児みたいな歩幅でちょこちょこ近づいてくる。


 それはとても可愛らしく見えたけれど、中学生にんげんはそんな動きをしない。 

 気をつけてよく見ると、重心が違う、目線の動きが違う、呼吸が違う。


 化け物だ。


 文字通りの『化け』物。


 ポーチの中の小さな和ばさみに触れた。

 握りしめる。

 にこにこもちもち。

 距離、およそ3メートル。


「おなかすいたぁ!」

 和ばさみを引き出す。ポーチの中身がこぼれる。

 そいつは一瞬、地を這うように身を縮め、跳びかかってきた。





 この動き、知ってる!

 タローが焼き芋を狙って飛びかかってくる軌道だ。

 そう思ったら、ほとんど無意識に和ばさみを取り落としていた。


 右手をゆるく握り、伸ばした親指に中指を添える。

 空中でいっぱいに伸びたそいつは、にこにこもちもちからしなやかな身体の猛獣に、めちゃくちゃな変形をする最中だ。

 突き出た鼻先は湿っている。

 わたしは身をひねりながら、右手をそいつが跳び込んでくる軌道上に置いた。


 牙を噛み鳴らす音が早かったのか、

 それとも濡れた鼻にデコピンが直撃するほうが早かったのか、


『きゃうん!』

 と声を上げて地面に転がったのは、化け物のほうだった。

 さっきまでのもちもちに戻って、鼻を押さえて転げ回っている。


 そりゃ痛いでしょうよ。こういう生き物の鼻って、神経が集まってるからね。

「お姉ちゃん、痛いよ、おなかすいたよ……」

 わたしは化け物に近寄って、また跳びかかってこないうちに体重をかけて押さえ込んだ。

 膝で胸を押さえているのに、一口でもかじろうというのか腹筋みたいな動きを繰り返すところなんて、うちのバカ犬にそっくりだ。


「ねえ、あんた名前は?」

 体重では勝っているはずなのに、がんばって押さえつけないと抜け出されそうになる。

「うちのがタローだから……」

 ハナコ? いや違う違う。タローはおじいちゃんがつけた名前で、タロットTarotのことだ。


 よし。


「じゃあ、カルタって呼んでいいかな?」

「カルタ?」

 そいつはじたばたするのをやめて、こてん、と小首をかしげた。

 そんな仕草、どこで憶えたんだろう。

「そう、カルタ。名前があったほうが呼びやすいでしょ」

「かるた、カルタ……」

 しばらく目をくるくる動かしながら、名前を繰り返していたけれど、

「カルタ!」

 理解できたのか、にぱっと笑った。


 もう完全に、にこにこもちもちに戻っていた。

 その笑顔が、なんだか擬態じゃないような気がして、わたしはカルタのいましめをゆっくりと解いていった。


 ま、いつまでも押さえ込んではおけないし、負けたばっかりなのに今すぐ襲いかかってきたりはしないだろうからね。

 思った通り、カルタはちょっと伸びをしたあと、四つん這いになってあたりを駆けめぐった。


 きっとすぐに逃げると思っていた。

 けれどカルタはずっとにこにこもちもちしていて、わたしから離れなかった。


「お姉ちゃーん、いっしょに走ろー」

「カルタ、お行儀悪いよ。二足歩行にしなさい」

 お姉ちゃんぶってカルタに言いつけると、素直に両足でぴょんぴょん跳ね回るんだから、かわいいものだ。


 だけど、これからどうしようか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る