第2話
「お嬢様…お嬢様そろそろ起きられた方が、お食事をお持ちしましょうか?」
「へっ?」
獅子堂なの?
今、お嬢って呼ばれなかった?
杏奈はそんな風に起こされた事は今までに一度だってない。
ううん、きっと夢でも見ているんだ。
ベッドの上でもぞもぞ身体を反転させてまた眠ろうとする。
「お嬢様。起きて下さい」
「一体誰よぉ、私を起こそうとするのは…」
杏奈は目をこすりながらやっと重たいまぶたを開ける。
えっ?ここはどこ?獅子堂かと思っていたら全く違う人がいた。
謎だらけの事態が杏奈の脳を駆け巡る。
やだもう、夢に決まってるじゃない。
でも、それにしては目の前に映し出される光景があまりにリアルだ。
「えっ?ここはどこ?」今度ははっきりと言葉がこぼれ落ちる。
驚くのも無理はなかった。
一度目覚めた時にはまだぼんやりとしていて夢の中のようだった。
なのに今は目に入らなかった景色が広がっていた。
ベッドは見たこともないきっと四中式ベッドというものであろうと思う。目の前には淡いピンク色のレースのような美しい布が垂れ下がり、その向こうからまるで中世ヨーロッパのメイド服を着たような女性が心配そうな顔をしてこちらを見ている。
杏奈は急いで辺りを見回す。
えっ、ぇぇぇぇぇぇ!
わたし…わたし…確か保育園にいて…そうだ!男が入って来て、ナイフで刺され…
ちょ、ちょっと待って、わたし死んだって事?ここは天国か何かで、でも天使って確か羽があって、こんなメイド服着ているとは…?
「ルヴィアナお嬢様どうされたんです?まだご気分でもお悪いんですか?無理もありません。まだお熱が下がったばかりですもの…お医者様を呼ぶようにいたしましょうか?いえ、その前にお母様にお知らせしなければ…そうそう、王宮の迎えが来てしまうのでそちらにもお知らせを…」
「今なんて?ルヴィアナお嬢様って?」
あっ、お嬢ってそっちの…おかしな納得。
「はい、ルヴィアナお嬢様、まだ具合でもお悪いのでは?失礼します…」
そのメイド服の女性がそっと額に手を当てた。
「熱はなさそうですけど、お母様にお知らせしましょう」
杏奈はどうしていいかわからず言葉が出てこない。
その人は部屋を出て行こうとしてやっと慌てて引き留める。
「あの待って下さい、あなたはどなた?それにここは何処?」
メイドが急いで杏奈に近づいてくる。
「えっ?お嬢様本当に大丈夫ですか。私は侍女のマーサですよ。わかりますか?ここはお嬢様のお部屋です。お嬢様あなたの名前はルヴィアナ・ド・クーベリーシェ。伯爵様の娘で、ここはそのお屋敷ですよ」
「えぇぇぇぇぇ!」
杏奈は聞いたこともないような奇声を上げた。
無理もない。昨夜目覚めてその話を聞いたなどという記憶すらぶっ飛んでいた。
「やはり奥様を呼んできます」
マーサは走って部屋を出て行った。
その間に自分の着ている寝間着を見て驚く。それはシルクのような艶やかな美しいもので俗にいうネグリジェとか言うものだろう。
杏奈は生まれてから一度だってネグリジェなんか来たこともない。それなのにこんな寝間着を着てまるでラノベでよくある貴族令嬢のような…
ううんマーサとか言ううら若きメイドはさっき私の事をルヴィアナ・ド・クーベリーシェと言った。伯爵の娘でここはその屋敷だと…
一体どういう事?
脳が痺れたみたいにぶるりと震えた気がする。
そう言えば昨晩も似たような会話が…やっとルヴィアナと呼ばれた記憶が脳内をかすめた。
まさか…まさか…それは小説の中の話で、異世界に転生するとかあるはずがない。
未だに事の状況が分からず狼狽える杏奈はベッドから飛び起きた。
そして美しいボルドー色のベルベットのカーテンを開ける。そこには見たこともない格子窓がはめられていて観音開きになった格子窓を開けて外を見た。
美しい芝生の広い庭、その向こうに鉄柵で出来たらしい高い門が見える。
下を見下ろせば、馬が二頭黒色の馬車につながれていた。
ここは天国ではないのは間違いないらしい。
でもあの時ナイフで刺されたことまでははっきり覚えている。もしいるとしたら病院のはず、だけどどこにもそんな傷はなかった。
ここは病院ではない。
「ここはどこなのよ!」
杏奈はふかふかの絨毯の上にへなへなと倒れ込んだ。
そしてそのふかふかの絨毯にうずくまった。
突然声を掛けられる。
「まあ…ルヴィアナ大丈夫?さあ、ベッドに行きましょう」
あなたはだあれ?
美しい女性は腰がキュッと締まった美しいドレスを着ていて髪は金色で瞳はアメジストの様な色合いで、こんな瞳の人地球上にいた?
ベッドに連れて行かれながら通りすがりに鏡があって、そこに自分の顔が映った。
私はだぁれ?
鏡に映った顔にさらに驚愕となる。
その顔は白く大きくパッチリとした瞳、高い鼻梁と頬、つやつやのピンク色の唇、そして艶やかなはちみつ色の長い髪が…
杏奈が見たこともないほど美しい女性が映っていた。
「さあ、ルヴィアナ横になりなさい。今日は王宮に行くのは止めましょう。わたくしが伝えておきます。それで気分はどうなのです?何か飲みますか?」
杏奈の混乱した脳内にさらにチンプンカンプンの言葉が並ぶ。
王宮?
プッ!わたくしって?もうやっぱりラノベのご令嬢のワンシーンみたいじゃない。
「そうだマーサ。ルヴィアナに温かいスープを用意して…さあ、あなたはもう少し休んだ方がいいわ。少し根を詰めすぎたのです。そんなに必死にならなくても王太子はあなたと結婚してくださるわ。いくらディミトリー殿下に好かれたいからって頑張りすぎですよ」
その女性が杏奈の額に触れる。温かく優しい手のひら。ふわりと香る花の香り。とても優雅な仕草。
「そうね。熱は下がったようだし、でも今日は安静にした方がいいわ」
その人はそう言いながら納得する。
杏奈は恐る恐る疑問を口にする。
「あの…王太子って?」
「また…ルヴィアナやっぱり数日お休みをいただいてゆっくり休んだ方がいいわ。母から言っておきます。安心なさい。結婚は国王直々に頂いたお話ですよ。断られるはずがないのですから」
母?この人が私のお母さん?噓……だが、そう言えば昨晩もそんな事を…
そのお母様は自信たっぷりにそう言うと部屋を後にした。
杏奈はその後マーサから色々なことを聞き出した。
この国はレントワール国。国王がニコライ・ド・ロンドワールで王妃はクレア王妃。王太子がディミトリー21歳。
私たちは9年前に婚約をしたらしい。
それでルヴィアナは今19歳。毎日王妃教育を受けるため王宮に出向いている。行儀作法、ダンス、乗馬、国の歴史や諸国の知識や情勢などを勉強しているらしい。
今は主に諸国の事を学んでいるらしいと分かる。
そしてディミトリー殿下のお手伝いもしているらしい。
それで王宮から迎えが来るって言ってたのね。
それに結婚の話は国王から来た話って事も、でも私たちの肝心のディミトリーとの関係はどうなんだろう?
ルヴィアナの記憶だと、彼女は殿下にぞっこんっていうか、なんだか殿下を私だけのものにしたいって思ってる気がする。
こうやって王宮に休まず会いに行ってるらしいから…
でも肝心の殿下の方はどうなのかしら?
まあ、はっきりとはわからないけど、小説で読んだ政略結婚みたいなやつなら向こうには恋愛感情はないって事なのかしら?
今の記憶では殿下との楽しい時間は浮かんでこなかった。
はぁぁぁ、それにしてもどうしてこんな世界に転移してしまったのだろう?
だけどルヴィアナのふりをして行くしかないわよね?
だって、どうしようも出来ないじゃない。
私はマーサが持ってきてくれたスープを飲むとやっと少し気持ちが和らいだ。
ほっと溜息をつくと……
その瞬間色々なことが雪崩のように蘇った。
それはルヴィアナの今までの記憶だった。
杏奈はルヴィアナという女性に転生してしまったのはどうやら間違いないと確信した。
とにかくこの部屋から出てみたい。
もはや恐れというより好奇心の方が勝っていた。
一人で着替えを済ませて髪を整える。顔は全く別人だったが瞳の色と髪の色だけは杏奈の時と同じ色だった。
私は”よしっ!”と掛け声をかけると自分の部屋を出て階段を下りた。
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