3人目:恋人を死なせてしまった音楽教師、康太の場合

 美しい少女ノーラはその身にある呪いを背負っている


 それは「姿」という呪いだ

 そのかわり「姿」という能力を与えられた


 しかし「自分の姿には戻れない」ため、ノーラの母は彼女を娘だと認識できない

 ノーラの親友も彼女のことを認識できない

 かつてノーラを知っていたすべての人からノーラは失われてしまったのだ


 だが呪いを解く方法はある

 それは誰かのために、その人が望む姿になって、

 その人の願いを叶える、という方法だ


 そうして99人の願いを叶えた時、

 ノーラにかけられた呪いは解けるといわれている


 かくしてノーラは今日もそうした願いを持っている人を探し求め、

 その人が願う姿に変わり続けるのだった



 そして今日、ノーラは康太と出逢う。



 ピアノの音は、まるで康太の心を映し出す鏡のようだった。

 彼が指を滑らせるたび、音楽室に響くメロディは喜びよりも哀愁を帯びていた。

 生徒たちはいつものように彼の才能には目を輝かせているが、この音は康太の内面の戦い、ハルカへの後悔の詩だった。

「先生、その曲、なんていう名前ですか?」

 穏やかな声が康太の思考を遮った。

 康太はゆっくりと振り返り、ぎこちない笑顔を作って答えた。

「これはね、まだ名前のない曲なんだよ」

 生徒が教室を去った後、康太は孤独を感じながらも、彼女の全てを連想させるメロディを奏で続けた。

 あの日、ハルカが康太の飛び降り自殺を止めようとして自分だけが助かったことを、彼は決して許すことができなかった。

 ビルの屋上からの風、彼女の叫び声、そして彼女の手が滑り落ちる感触。

 全てが夢のようで、彼には全てが昨日の出来事のように鮮明だった。

 空っぽの教室で涙を一滴落とすと、康太は重い足取りでその場を離れ、またあの屋上へ向かった。

 同じ場所で何度も立ち尽くしていると、何度も彼女の笑顔と声が頭をよぎる。あの時の自分は自分じゃなかった。初めての学校で激務に追われ心を病み、自分はもう死ぬしかないと思いつめていた。そして今日もまた、もう返事をしてくれることのないハルカへの問いを続ける。

 突然、風が吹いた。

「康太君、こんなところでまた何をしてるの?」

 風が運んできたのは愛しい香りと久しく聴いていなかった鈴のような軽やかな声。

 振り返ると、そこには理解できないほどハルカそっくりな少女が立っていた。

 康太の心は狂おしいほどの驚きと混乱に襲われた。

 「ハルカ……? いや、そんなはずはない! お前は誰だ!?」

 ノーラは優しく微笑んで言った。

「私はノーラ。あなたが知らないあなたの願いを叶えに来ました」

 康太の否定にも関わらず、彼女は彼の隣に腰を下ろし、都市を見下ろす景色に目をやった。その視線は慈愛に満ちていた。

「僕が……僕が受け入れなきゃいけないのは、ハルカがもうこの世にいないって事実だけだ! お前は何者だ!? どうしてハルカの姿をしてるんだ? やめろ! これ以上僕を苦しめるのはもうやめてくれ!」

 ノーラは康太の手をゆっくりと取りながら、心を込めて話し始めた。彼女は自身の呪いとこれまでの旅について、そして康太の懊悩を解くために彼の前に現れた理由を語った。

「僕を……こんな僕を救ってくれるっていうのか?」

 康太の目は疑いで潤んでいたが、心の奥底では何かが揺り動かされているのを感じていた。

「あなたの願い、聴かせてください。それが私の使命ですから」

 ノーラは穏やかに微笑みながら言った。

 康太は言葉を詰まらせながらも、自身の罪悪感、ハルカへの未練、そしてどうしても果たせなかった彼女への謝罪の気持ちを伝える。

 ノーラは静かに聞き、彼の言葉一つ一つに耳を傾けた。

「僕……僕の願いは、もう一度ハルカと話すこと。彼女に謝ること、そして……一言ありがとうと言うことだけ、です」

 彼は嗚咽交じりにそう言って、涙を流した。

「安心してください。私はあなたの願いを叶えます。だからもう、苦しまないでください。」

 ノーラの声は決意に満ちていた。

 ノーラは彼に複雑な感情を打ち明け、彼の心の高い壁に手を差し伸べた。

「康太、あなたの涙はハルカさんに届いてるよ。あなたの愛は変わらないし、彼女もあなたを愛していた。でもあなたは生きていなさいって、ハルカさんは言ってる。あたしとの想い出を大切にしながら……あたしには彼女の声が聴こえるのです」

 その言葉に包まれて、康太は自分の内に潜む罪悪感と直面し、ハルカへの愛を新たにして、彼女との別れを受け入れ始めた。そんな彼を見て、ノーラは満足そうに、また、静かに消えた。

 日が経つにつれて、ノーラの言葉は康太に新しい希望を吹き込んだ。そしてある日、康太は彼女と一緒に前を向く決意をする。彼はもう一度音楽を通じて、彼女への追悼と、未来への扉を開くことを選んだ。

 今日も康太は夕陽の差す音楽室でピアノを弾き続ける。

「先生、その曲、なんていう名前ですか?」

 ピアノを弾く康太に生徒が無邪気に問いかける。

「これかい?」

 康太は弾く手を休めずに答える。

「ハルカへのセレナーデ、さ」


(了)

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