火星の風

 地球にくらべて彩りの乏しい火星においては、より色彩豊かな服が好まれた。


 あらかたテラフォーミングが完了していても、最優先で考慮されるのは生命活動の維持である。とはいえ、一般市民の移住も進みつつあるなか、日常生活には同時に潤いも必要であった。

 無味な生活を豊かにするための手段の一つが毎日の衣服選びである。今日はどんな服を着ようか。あの人はどんな色の服が好きだろう。地球を遠く離れているからこそ、地に足のついた生活を人々は求めた。その先にあったものが、当たり前の日々を華やかに彩る装いである。

 人類の生活圏が火星に到達する以前に、衣服の大きさで人の器が計られた時代があったと主張する服飾史の研究者がいた。しかしながら確たるエビデンスも示せず、まったくのペテンであると見向きもされずに学会から追放されたらしい。考えるまでもなく、大切なのは大きさではなく彩りだ。


 現代の火星において、服は無限の色彩を手に入れた。

 テラフォーム後のドーム内に充填された感覚素子のおかげで、人は好きな色、好きな形の服を自在にまとうことができるようになった。感覚素子とは酸素や窒素などと同じように大気中に遍在している、超々微細のナノマシンのことである。通常時は目に見えない。火星中央政府のネットワーク下で量子AIによって自律管理されており、体内に取りこんでもまったく害はない。

 火星で服を着るとは、感覚素子に設定をほどこすことを指す。中央政府のネットワークを介して感覚素子の設定をする(=服を着る)と、服を着た者の移動にあわせて、動線上の感覚素子の色が順次変わっていく。赤い服を着て(=設定をして)動けば、身体の動向にそって赤い服が移動し、赤い服を着た者が通りすぎるとその座標の感覚素子は赤色から元の色にもどる。外見上はまるで実際に衣服を身につけて動いているようだが、本当は最低限の下着しかつけていない。

 感覚素子の表出できる色合いは地球上にあるものすべてであり、すなわち無限といっても間違いではないだろう。また、感覚とはなにも視覚だけに限ったものではなく、嗅覚や触覚にも影響を及ぼすことが可能だ。

 感覚素子の働きにより、当人だけでなくドーム内すべての人間に「服」を認識させることができるようになっている。毎朝ネットワークに接続しおすすめのテンプレートから着替えを選択することもできるし、自ら形や色を調製することも可能だ。十分おきに切り替えるなど楽しみ方は人それぞれだったが、この日々の作業が人々の生活に彩りと潤いを与えた。


 一方で、毎日の服を考えるのが面倒と感じる向きもあった。そもそも人の前に出るのが億劫なタイプは今も昔も変わらずいる。人の目がどうしても気になるのだ。

 とはいえ人間は一人では生きてはいけず、発展途上の火星においてはどうしたって直接の助け合いも必要である。直接他人と向きあうのが苦手な面々の行きついた策が、感覚素子の服を活用した透明化だ。

 服の色を、動線上の座標にもともとある色から変わらないように指定する。あわせて、全身をすっぽり覆うようにセットする。こうすることで、頭のてっぺんからつま先までその場所ばしょの色をまとうことができるのだ。

 移動する先々で感覚素子が次々と変化して実像を見えなくしている状態であり、厳密には光を透過するという本来の意味での透明ではない。結果として同じ事象を発現しているので透明化という言葉が定着したようだ。かつて地球に生息していたカメレオンという生き物が開発の際に参考にされたらしい。

 透明人間になれると聞き邪な活用法を考える者もいたが、感覚素子と同様、ドーム内にいる人間の位置はすべて火星中央政府のログに記録されていることが周知だったため、実際に悪用できた者はいなかった。


 そうこうするうち、戸外では透明化で他人の目をやりすごし、自宅など人の目を気にしないで済む場所では解除するライフスタイルが、徐々に浸透し始めた。

 移動の際に透明同士だと衝突する危険性もあったが、甚大な事故が発生することはなかった。火星への移住が当初の予想よりも進まず、人口が少なかったことが要因と思われる。感覚素子による触覚への働きかけにより、すぐそばを人が通れば、あ、いるな、くらいには認知が可能だったこともその理由の一つであろう。無風のドーム内では、透明化した人が歩けばそよと空気が揺れ、走ればひゅうと音が鳴った。

 火星に移住してきた者に子が産まれ、その子がまた子を産み、またその子らが一家を成すようになるころには、外出時に透明化する層が多数派となった。「透明化する」という意味で「服を着る」という言葉が使われるようになったのもこの時代からである。


 そうして服は誰の目にも見えなくなり、火星に吹く風となった。

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