筑前煮
芥子菜ジパ子
一年に一度、私は筑前煮を作ります。
仕事を終えて建物を出ると、町の喧騒が波のように押し寄せてきた。それはクリスマスの時の、シャンパンの炭酸が弾けるようなものではなく、どどうと大きくうねりながら押し寄せてくる波だ。
今日は十二月二十六日。クリスマスで甘く足を止めていた時間はその日を境に、そう、まさに師走の名にふさわしく、一年の幕引きに向けて大袈裟なまでに仰々しく走り出していた。
「おせちの材料、買わなきゃなあ」
マフラーの中でもごもごと呟き、スーパーへ向かう。特に誰に食べさせるわけでもない独り身のくせに、私は毎年おせちを作っている。この身体に流れる日本人の血がそうさせるのか―― いや、もしかしたら単なる同調圧力なのかもしれない。そんなことを考えているうちにスーパーに到着した。店の前にでんと陣取った正月飾りのコーナーに思わず苦笑いをする。同調圧力というのも、あながち冗談とは言い切れない気がしてきた。
去年は何を作ったか。普段ろくに料理をしない私だが、年に一度、正月だけは、ほんの数日のためだけに料理をする。が、所詮年に一度だけのこと、記憶は毎年綺麗にリセットされ、結局いつも何を作ったのかを思い出すところから始まる。
そうだ、去年は筑前煮を大量に作ったのだったっけ。一年前の想い人が好きだと言っていた、たったそれだけの理由で。付き合ってすらいない男が、食べさせる予定も食べてくれる予定もない男が好きだと言っていただけで、私は大量の筑前煮を作り、その後数日間それを消費すべく一人で奮闘したのだった。
「今年はすこしだけ、ね」
材料をぽいぽいと籠に放り込んでゆく。少しだけでいい―― 今年の籠のなかには淡い予感すらも存在しない、つまりはそういうことだ。
彼は、へらへらと色々なものを煙に巻くように笑う人だった。その笑顔の影に、たくさんの苦悩を抱えている人だった。その苦悩が滲んだ、かさついた大きな手が好きだった。それなのに私は、彼の苦悩を知りながらも、結局自分の都合だけを押し付けてた。彼のへらへら笑いが消えた瞬間の、背中から氷を流し込まれたようなあの感覚は、なかなか忘れることが出来なそうだ。もしあの時、私が自分の都合を後回しにして煙に巻かれたままでいたら、私は今年も笑顔を
季節の変わり目や年の変わり目になるとやけに過去を振り返ってしまうのは、年齢のせいなのだろうか。それとも、一年の終わりをこれでもかと強調してくる、この街の空気のせいなのか。
会計を終えて店の外に出る。冷たい空気が服の隙間から忍び込んで肌という肌に張り付いてゆく感覚に、息が苦しくなった。このまま過去を振り返って立ち止まっていたら、寒さに窒息させられてしまいそうだ。
全てを振り切るように、ぎこちなく足を動かす。冬は嫌いだ。大きく吸い込んだ冷たい空気が身体の中身を
―― 笑っとけ笑っとけ。
泣きそうになると、今でも彼のその言葉を思い出す。もう顔もおぼろげにしか思い出せないのに、少し掠れた低い声とその言葉だけは、未だに私を落ち着かせる。けれど、それはそれでなんだか気に入らない。過去は冷え切ったものであってくれないと、現在とのバランスが取れないじゃないか。
気に入らないと言いながらも、私はその言葉に倣って口角を上げる。
―― 笑っといたら色々とどうでもよくなるから。
どうでもよくなんか、これっぽっちもなっていない。だって、未だにあんたが胸の中にいるのだから。ああ本当に嫌になる。むかつく。
胸のうちにいまだ居座りへらへらと笑う男に、ひと通り悪態をついた。それでもやっぱり、私は彼のその言葉がとても好きだ。
観念して笑い続けてみよう。そうすれば、来年は今年よりもう少し色んなものがどうでもよくなっているかもしれない。そう、今年の筑前煮の量が、少しだけ減ったように。
筑前煮 芥子菜ジパ子 @karashina285
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます