ある素人童貞が「女」を見出したときの記憶
島尾
理解できない愛が必要である。
暗い年末を過ごしている。歯茎から血が出ていたから急いで歯ブラシに歯磨き剤を付けて歯を磨いた。今、指で歯茎を触ってみたところ、まだ血が出ている。
一
「大学ではサークルに入らなければならない」という一種の通念に支配されていた19の私は、ピアノサークルに入部した。4歳からやっていてそこそこ誇ることのできる腕前だったため、恥をかくこともないだろうと思っていた。
私は陰キャだ。安易に陽陰で分ける風潮に疑問を抱いている一方、分かりやすい類別方法とも思える。その方法で他のピアノサークルの部員の平均的性格を表すならば、明らかに陽キャだった。分かり合えることもなく、そもそも話をすることも、顔を出す頻度もほぼ無いまま、20歳のときに退部した。
そんなことはどうでもいいのである。
あれは、初めてサークルに顔を出したときの思い出だ。私から見ればくだらない者たちがワーワーやっていて、謎の恐怖心と警戒心を抱いていた。そこにいた1年生は全員部員になり、先輩の強引な勢いで「飲み会をやろう」ということになって、私はただ流されて参加することになった。
部員の多くは支度をするために一旦家に帰り、夜7時か8時か忘れたが、駅で再度合流するという流れになった。方々に散ってゆく部員たち。最初は10人以上の集団だったのが、駅構内に至ったときにはたった2人になっていた。
私と、Mさんという女子である。
支度をする理由がなかった私。家には飲み会用の服もカバンも存在しなかったため、帰る理由が無かった。Mさんも帰ることなく駅でそのまま待機する選択をした。理由は知らない。
今ではあり得ないことだが、当時私はスマホを所持していながらにしてLINEをインストールしていなかった。それまでの私は、そんなものを必要とする人生ではなかったゆえだ。もっと言えば、LINEをやっている人間を腹の底から軽蔑していた。「食わず嫌い」と似ている。
よってMさんに言われた。「え、LINEやってないの?」と。「うん」と答えた私。Mさんは、確か、LINEをインストールするように促した。しかし私にはその方法すらも分からなかった。インストールする方法は分かるが、そこからどうやるのか全く分からなかった。
よって最も効率的な方法として、Mさんが私のスマホを操作し始めた。私の手の中にあるスマホの、その画面を、Mさんが指で高速でいじっていた。今となってはもう古い、iPhone 5sである。
何やら変なものがじわじわこみ上げてくるのを感じた。「もしかしてこの人と……」という邪念と、「女なんてくだらない」という別の邪念が拮抗し、私は私のスマホ画面上を走るMさんの指をただ見ていた。
そのとき、いきなりMさんが顔を上げて私と目が合った。私が唐突な出来事に狼狽していると、Mさんが、なぜか首をカクッと傾けながら「にこっ」と笑って、…………私はそれを2秒程度凝視したのち、すぐさま目を逸らした。
Mさんは明らかに「女」だった。次第に部内でも人気者になってゆき、他の男たちのMさんに対する視線も怪しいものになっていった。
二
エロ漫画を読み過ぎてセックスがしたくなった、ある日。Mさんとの「別れ」からかれこれ3年ほど経っていただろうか。エロ漫画に出てくる女の顔、女の液体、女の声、それを生み出す元になっている男、このすべてに対して羨望の念を抱いていた。どうしてもそれを手に入れたいと思った私は、出会い系サイトに手を出した。長々しい規約を読まず、適当に女を選んで、いくらか課金して待ち合わせの約束が完了、とある飲食店の駐車場で今か今かとそわそわしていた。
初めてのセックス。私はその女の人に喜んでもらうべく、2万円をプレゼントしようとATMに向かった。夜で、手数料のかかるコンビニのものだったが、そんなことはどうでもよかった。
駐車場をぐるぐる回って時間を潰していた私。「まだ着かないのか」「今どこにいますか」、そんなメッセージを送っていた記憶がある。
そして、とうとう女の人がやってきた!
…………
…………
イメージしていたのとは全然違った女の人が現れた。身長の割にやたら大きなカバンを持っていたし、初対面にもかかわらず満面の笑顔を向けてくれていた。しかし、何だか喜べない自分がいた。そして彼女が私の名前を尋ねてきた瞬間、すべての感情が消失した。
その人は、日本人ですらなかった。カタコトの日本語だったからである。「どこの国出身ですか」と尋ねたら「タイワン」とカタコトの日本語で言っていた。「遠くからようこそ日本に」みたいな返事をしたら、その人はへらへらしながらお辞儀した。「ホテル初めて?」と聞かれ、「初めてです」と答えた(詳細は覚えていない)。
それでホテルに到着したとき、最初の違和感を覚えた。部屋の料金を全額払うように言ったのである。平等主義な自分にとっては、それが嫌だった。しかし「嫌」と言えない性格だから、少しも抵抗することなく払った。
室内に入ってから、二度目の違和感が襲った。「オ小遣イ、お願いしマス」と言ったのである。それが何を意味するのか、私にはさっぱり分からなかった。よく覚えていないが、「え?」と聞き返したような気がする。そして私は……
ホテルに入ってから20分か30分かが経過した時、誰もいない畑の中の、街灯が点々と光るだけの陰湿なあぜ道を、私は一人で
そのとき悟ったことがある。「やっぱり愛情は必要である」と。エロ漫画に出てくる女の顔は、欲求が元にあって初めて出てくる悦楽の表情であって、そのさらに元には恋または愛なる感情が渦めいているはずだ、と。二人でいろいろと物語を紡ぎ、段階を一つづつ上がってゆき、何か複数の条件が満たされたときに、初めてエロ漫画に出てくる女の顔が現実の女のそれになって現れる、と。自分には何もないこと、そして自分が見ている現実世界にも何もないことに気づかされ、ただただ虚無感に包まれる中、私は舗装されたコンクリートのあぜ道を歩いていた。夜中の、誰もいない雨の中で。
三
研究室に配属されたとき、一番最初に自己紹介があった。工学部であり、ほとんどが男衆な中、たった一人だけ女子学生がいた。Nさんという彼女は声がかわいく、見た目はさほどでもなかった。メガネをかけており、東京出身ということだった。
かわいい声にはもう一つの特徴があった。あるとき、彼女が長く話さねばならないことがあった。自分で論文を読んで自分でパワーポイントにまとめたものを元に、自分で説明せねばならないという必修科目があって、その練習をやっていたときだ。私が発見した彼女の声に関する特徴は、長く話していると声が震えてくるというものだ。出だしはかわいらしい声であるが、徐々に焦りと緊張の色を帯び始め、最後の方には息を少し切らせながら話すほどだった。その一連の声に最初こそ違和感を抱いた私だが、徐々に、何とも言い難い魅力をじわじわと感じ始めてしまった。なぜ震えるのか、その原因は分からない。しかしそれに関係なく、声の震えに魅力を感じていた。
あるとき、先生が実験の手順を見せるために、私とNさんを呼び出した。本を見せる先生のすぐ隣にNさんが立ち、そしてNさんの隣に私が立っていた。
ふと、Nさんの頭頂部が視界に入った。1本の波打った毛と、決してサラサラとは言えない髪の毛全体。後ろで縛っていたために、はみ出たその1本の毛は特に目立っていた。私もNさんも実験手順をメモするために先生の手本を見ていたため、すぐに私はメモを書くことに戻った。
研究室内ではスリッパを履かねばならない。Nさんのスリッパは、お世辞にも可愛いとは言えなかった。白とも言えないクリーム色のような変な色と、黒色、その2色。潰れたような薄っぺらい形状ではあるが、綿毛のようなふわふわした物体で覆われた、見るからに貧相なスリッパ。
かわいい声は、世間一般にウケるかどうかは分からない「かわいさ」である。私はかわいいと思ったが、他の研究室の男がかわいいと思っていたかどうかは分からない。それに、かわいい声のナンバー1は私の中で声優の小倉唯さんを於いて右に出る者は一人もおらず、同率2位に数名の女性声優、同率3位に何十人もの女性声優、以下4位5位もおそらく女性声優であり、10位か11位にかのMさんが位置する。6位か7位に位置するのは、当時ツイキャスで配信をやっていた「るみ」だか「なみ」だかいうカワカテの女である。彼女はブラックな保育所に勤務し、日々の上司からのセクハラ・モラハラに苦しみつつも、子供たちの笑顔や仕草をエネルギーに仕事を頑張っているということだった。コミュニケーションに難がある私は「声がかわいい」だの「仕事がんばって」だのという無意味に近いコメントしか送れなかった。一度、ディスコードとかいうアプリで通話したことがある。「炙りカルビ」ということばを連続で何回言えるかという子供じみたゲームを楽しみ、私は惨敗した。なぜか「るみ」とその他のリスナーが大笑いしていて、一応喜ばせることができたので満足はしている。「るみ」は、よりビッグになるために「転生」を決意し、その前夜にリスナーたちといろいろ相談をやっていた。私にはどうしてもその相談が滑稽かつ稚拙に思えてならなかった。どこの誰かも分からない「声だけ」の存在に対して、本気で応援したり投げ銭を投じたり配信者-リスナー間の関係性の持論を展開する者たちを、上からなのか下からなのか断定できないが、私はただ眺めていた。虚像と実像が混ぜこぜになって現実を見失い、配信者という虚空間に存在する虚像に人間関係という実空間における相互作用を求める者たちの「足掻き」。それも含めてエンターテインメントなのか、と思うと、あの日私がエロ漫画の再現を求めて怪しい女とヤったときと共通するものを感じずにはいられない。
Nさんの声に魅了されてしまった私だが、もしそれがツイキャス内での「出会い」であれば、私はNさんのことを高速スワイプして別のもっとかわいい声の配信者、あるいは「るみ」を求めただろう。まずもってNさんが現実に存在しているという前提が必要だったのである。その上でかわいくも震えてしまう声・波打った1本の髪の毛・貧しい見た目のスリッパなどに感化され、その後よく分からない状態になり、いつの間にかNさんのことを気にしていた。好きか嫌いではなく「気になる」という、「恋が芽生えるか芽生えないか不安定な状態」が数か月続いた。
四
何を求めるということでもない。過去の愛おしい記憶をもう一度味わいたいという気分がないわけでもないが、なくてもよい。かわいい女やかっこいい男は虚空間でのみ輝けると思う。現にかわいい・かっこいいという印象は、化粧や画像加工アプリでどうとでもなる。「内面で勝負するしかない」と言った人がいるが、「優しい人」「頼りがいがある人」は入れ替え可能だ。また、どれだけ親密な関係を築くことができても、それが地面でなく空中に築かれたものであれば何かの拍子に一気に崩壊するか、または、させることができる。
異性への魅力というのは、目に見える情報や性欲、経済的状況、親密な関係性などの、人間が理解できることの範囲を超えたどこかにあると思う。ある人にとっては異性ではなく同性かもしれない。脳内物質の影響には違いないが、それを薬で制御することが可能だとしても私は服用しない。
極めて幸せそうなカップルを見ると、「素晴らしい」と思える。上に書いた、人間が理解できない条件が互いに満たされていると思えるからだ。同時に思う。「本当にこの関係は続くのか」、あるいは「この関係をずっと持続させてほしい」と。いろいろな苦境に陥って関係が断絶しそうなときは、最も根底にある「理解できないつながり」を再度感じて認識し、「私たちはどう考えても私たちでなければならない」という共通の感覚を最強の武器にして苦境を乗り切ってほしいものである。
ある素人童貞が「女」を見出したときの記憶 島尾 @shimaoshimao
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