愛多ければ憎しみ至る

綾呑

愛多ければ憎しみ至る

「ごめん、別れてほしい」


 連日の大雨。やっと晴れた日にデートをし、最後にやってきた公園で、八重やえはそう告げられた。


 高校二年生のときに付き合い、それから決して短くない月日を過ごした彼から発せられた言葉は、心に重くのしかかる。


「きゅ、急にどうして? 私、冬馬とうまになにかしちゃった?」

「急じゃないだろ。八重、本当にわかんないの?」


 ぴしゃりと言われ、八重はきゅっと口を噤む。


 ――だって、仕事が忙しいんだから、仕方ないじゃない。


 社会人二年目。仕事に追われ、上司と後輩との板挟みになり、疲弊してしまっていた。


 そんな疲れが溜まった状態で、恋人と顔を合わせたくはない。憂いのない、可愛い自分で、いつだって隣に立ちたかったから。


「その顔、やめろよ」


 嫌悪感にまみれた冬馬の顔にずきりと胸が痛み、息が詰まった。


「……ぁ」


 声を出そうとすれば、目の奥が熱くなった。涙が出ると悟り、泣きたくなくて八重は喋れなくなってしまった。


 その態度に嫌気がさしたのか、冬馬は盛大なため息をついた。


「もういいよ。今まで、ありがとう」

「……私のほうこそ、ごめんね」


 絞り出した声はひどく震えていた。でも、冬馬が視界から消えるまで、泣かなかった。


「――っ」


 八重はふらふらと歩き出す。ペンキのはげたベンチに座り、眩しいほどの夕焼けを呆然と見上げた。


 ――なんで、ここなの?


 デートの最後に選ばれた場所は、冬馬に告白された思い出の公園だった。


「ふ、ぅ」


 ぼろぼろと留めなく溢れる涙をハンカチで受け止め、八重は声を押し殺して泣いた。


 ――大学が別々でも、うまくやれていたのに。


 社会人になって、学校というくくりから抜けた途端、歯車が噛み合わなくなった。ゆっくりと錆びついていき、不穏な音を上げながらも回っていたのに。


 今、完全に止まってしまった。


「あ、そうだ」


 涙が落ち着いた頃、八重は思い出す。


 ――旅行のキャンセル、お願いしなきゃ。


 なんとか有休をとり、互いにすり合わせを行って、大学生以来の旅行を計画していた。宿を予約したのは八重だが、名義は冬馬だ。


 ――お節介と思われるかもだけど、忘れていたらまずいし……。


 振られた直後にメッセージを送るのは気まずくて仕方ないが、宿の人や金銭に関わることだから、しっかり処理しておかなければならない。


 おぼつかない指を動かして、冬馬に最後のメッセージを送る。簡単な謝罪を添え、スマホの電源を切った。


「あれ? もしかして……名前、なんだっけなぁ? まあいいや、久しぶりだねぇ」


 頭上から明るい声が降ってきて、八重ははっと顔を上げる。けれど前に人はいなくて、自分の影に別の影が重なっていることに気づいた。


 振り返れば、誰かがそこに立っていた。夕日が逆光となり、顔がよく見えない。


「ん。眩しそうだ。隣、失礼するね?」


 八重は咄嗟のことで言葉が出ず、ベンチを迂回してくるその人を呆然と見つめた。


「覚えてない? 君がこーんなちっちゃい頃、よくこの公園で遊んであげたんだけど」

「――」


 八重歯が特徴的な二十代くらいの男性だ。つんつんとした黒髪は単にぼさついているのか、癖毛なのか、判断がつきにくい。


 そして、なによりも目を引くのは男性の服装である。


 ――着物を普段着にしている人、本当にいるんだ。


 弁柄色の着物に身を包む男性は、すっと八重の隣に腰を下ろした。


「なに、ほんとに覚えてない? 前は『お兄さん』って慕ってくれていたじゃない。ショックだなぁ。まあ、僕も君の名前まで覚えてないから……人のことは言えないんだけど」


 男性――もとい、お兄さんは黒い目を細くし、口元に弧を描く。器用に膝で頬杖をついてこちらを見上げられ、八重は必死に記憶を辿った。


 先ほど、お兄さんが「ちっちゃい頃」と手の高さで身長を表したのは、幼稚園か小学校に通っていたくらいの背丈だろう。


 確かに、その年頃は毎日のようにこの公園で遊んでいた。


「あ……?」


 ふいに、砂場で遊んでいるときにこちらを覗き込む着物姿の人が脳裏をよぎった。顔は靄がかかったように思い出せないが、今と同じような色の着物を着ていた気がしなくもない。


「お! その顔は思い出してくれた?」

「な、なんとなく……?」

「はー、よかった。思い出してくれなかったら不審者になるところだったよ」


 お兄さんは体を起こし、ベンチの背もたれに大きくのけぞった。そうしてほっと息をつき、ちらりとこちらを流し目で見やる。


 透き通る黒い目に吸い込まれてしまいそうで、八重は思わず目を逸らした。


「僕、君のことなんて呼んでたっけ? 昔は君みたいな子とよく遊んでいたから」


 一度きっかけを掴めば、ぼろぼろと記憶が溢れてくれる。


「やっちゃん……?」

「そう、それ! やっちゃん、うん。やっちゃんだ。教えてくれてありがとう」


 お兄さんが恍惚と微笑む。それが妙に艶やかで、八重はどきりとした。


 ――着物が見慣れないから、かな?


 どこか、胸の奥がざわざわとした。


「それで、どうして泣いていたの? 僕でよければ話しくらいは聞いてあげられるけど。ほら、昔もいろんなこと僕に話してくれていたじゃない?」


 お兄さんがこてんと首を傾げる。


 ――話しても、いいのかな?


 一抹の不安はあるが、幼い頃に会っている記憶は確かにある。それに不思議と、お兄さんと言葉を交わすと安心感を得られた。


「実は、ついさっき――」


 今に至るまでのことをかいつまみ、八重はお兄さんに恋人に別れを告げられたことを打ち明けた。


「人生の三分の一くらい、想っていたのに」


 話しているうちに、八重はまた泣いてしまった。涙を拭うたび、お兄さんは相槌を打ちながら慰めてくれていた。


「辛かったねぇ。想い人の心が離れてしまうのは、耐えがたいよね」


 嗚咽を漏らす八重を、お兄さんは優しく慰めてくれる。


「やっちゃんはよく頑張ったよ。偉いねぇ。彼氏のわがままも聞いてあげて」

「……え?」


 どちらかというと、わがままを聞いてもらっていたのは自分だ。


「たくさん、我慢したでしょ?」

「いや、我慢させたのは私のほうで」

「ええー? だって、人間は生きるためにお金が必要でしょ? 生きるために仕事するやっちゃんの、なにが悪いの? その冬馬くんがもっとやっちゃんを思いやるべきじゃない?」


 振られたばかりで感情は追いついていない。当然、冬馬への気持ちもあって、この短時間で吹っ切れるわけがない。


 八重はまだ、冬馬が好きだ。


 だというのに、冬馬を否定するお兄さんを、否定できない。


 ――あのとき、私も……仕方ないじゃんって、思った。


 違う。冬馬は悪くなくて、自分が悪いのだと心の中で繰り返す。けれどそのたび、「でも」、「だって」と言い訳を被せる自分もいて、心の中で意見が割れ始めた。


「冬馬くんって、やっちゃんが思うほどやっちゃんを大事にしてたかなぁ? 話を聞く限り、やっちゃんばっかりが譲歩して、気遣って、ご機嫌とって……」


 じわじわと首を絞められていくようで、は、は、と呼吸が短く、荒くなる。


 デートでは冬馬が可愛いと言った格好をした。


 ――ひらひらする服は、私はあまり好きじゃなかった。


 時間がないときは仕事終わりだけでもと一緒に食事をして過ごした。


 ――残業続きで、一刻も早くメイクを落として布団に包まれたかった。


 会えない日が続けば、仕事を調整し、冬馬に合わせて有休をとった。


 ――決定事項みたいに話すから、必死に後輩のフォローをして上司に頭を下げた。


 そして、それで、それから、あとは。


「――苦しかったね?」


 耳元で囁かれ、八重はびくりと肩を震わせる。


「っ」


 ゆっくりと顔を向ければ、お兄さんは可哀そうなものを見る目をして、艶然と微笑んでいた。


 ひゅ、と喉が小さく鳴った。あんなに安心しきっていたはずなのに急に怖くなって、八重は息を呑むことしかできない。


「もう、面倒なことしなくていいよ。だからさ、僕と一緒に行こう?」


 お兄さんはふっとベンチから立って、八重を見下ろした。


「い、行くって、どこに……?」

「んー? 昔、行けなかったところ」


 首を傾げ、手が差し出される。


 だめだと脳が警鐘を鳴らすのに、ぴくりと右腕が動いたのが自分でもわかった。無意識のうちに、手を重ねようとしていた。


 ――昔、昔って……なに? 本当にあのときの、お兄さん?


「やっちゃんがいやだと思うこと、僕が全部よくしてあげる。それに昔、一緒に来てくれるって、約束までしてくれたじゃない?」


 熱っぽい視線に、八重の瞳が揺れる。


 ――なにか、約束していたような。


「さあ、帰ろう。待ちに待った約束を果たして?」



   ◇◇◇



「お嬢さん、今日もここにいるね? ここが好きなの?」


 公園の砂場にしゃがみ、山を作っていた八重は顔を上げた。


「誰?」


 小学一年生。毎日、帰り道にある大きな公園で遊んでいた。子ども向けの遊具やシニア向けの散歩道まであるここは、多くの人たちが憩いの場としている。


「んー、お兄さんって呼んでくれたらそれでいいよ」

「わかった。お兄さん、誰?」

「お兄さんはお兄さんだよ」

「ふーん」

「興味ないね?」


 お兄さんから興味を失した八重は砂に目を戻す。


「それ、楽しい?」

「ううん」

「じゃあ、どうして山を作っているの? 山だよね?」

「ほかに作れないから。遊具は怖いし……お兄さんはお城作れる?」


 ぱっと顔を向ければ、お兄さんは引きつった笑みを浮かべていた。


「うーん、作れない……かな?」

「じゃあ、作れるようにしておいてね」

「えっ」


 砂遊びをやめ、水道で手を洗っているとお兄さんと目が合う。


「やっちゃんはもう帰るから、お兄さん、練習していていいよ」

「やっちゃん?」

「うん、やっちゃん。じゃあまたね、お兄さん」

「……またね、やっちゃん。明日も待っているね」


 その日から、八重とお兄さんの砂遊びが始まった。


 お兄さんもお城は作れなかったが、山を作ったりトンネルを掘ったり。二人で協力するのはそれなりに楽しかった。


 学年が上がるにつれて砂場から遊具へ転々としながら、およそ五年も続いた逢瀬は唐突に終わりを告げた。


 高学年になった八重が次第に、公園に興味を示さなくなったのだ。


「やっちゃん、僕と一緒に……行ってくれる?」


 お兄さんはそれを悟っているかのように、八重が公園で遊ぶことをやめる日、そんなことを言った。


「行くって、どこに?」

「どこだと思う?」

「……砂場?」

「ふふ。そうだったらよかったのに」


 夕焼けに照らされたお兄さんの横顔が、とても綺麗だと思った。それでいて、どこか悲しそうで、寂しそうで。


「いいよ」


 深く考えず、答えていた。


「いいの?」

「お兄さんとなら、公園で遊んでもいいよ。でも、友だちとかお母さんやお父さんに、知られないようにね」

「どうして?」

「同じクラスの友だちが言っていたの。公園で遊ぶのは赤ちゃんだけだよって。だから私は、もう公園で遊ばない」


 いつしか一人称は「やっちゃん」から「私」に変わり、世界は広がっていた。


「やっちゃんが言ったんだよ。僕と一緒に行ってくれるって。約束だからね、したからね」

「うん?」


 口早に、それでいて差し出される手に、八重は幼心に危機感を覚えた。


「やっちゃんが僕に心を開いてくれたから、僕が存在できているんだよ。だから、早く――」

「八重ちゃーん! 一緒に帰ろー!」


 差し出された手からぱっと顔を背け、八重は声のほうへ向く。同じクラスの女の子だった。


「うん、帰る! またね、お兄さん」

「……待っているね。ずっと、ずっとね。約束したからね」

「わかったってば!」


 八重は同級生に元へ駆けていく。


「――次はちゃんと、つかまえないと」


 行き場をなくした手を凝視するお兄さんから紡がれたその言葉は、 子どもたちに帰宅を促す放送にかき消されたせいで、八重の耳に届くことはなかった。



   ◇◇◇



「思い出した?」

「あ、れ……?」


 八重の意識が、過去の記憶から戻ってくる。


 いつの間に重ねていたのか、手の甲が優しく撫でられてはっとする。その瞬間、ぐいっと腰を引き寄せられた。


「またねって言ったのにね? やっちゃんが来たかと思ったら、びゅーんって自転車で抜けていくから、声をかける暇もなかったよ」


 中学時代の話だろうか。自転車通学になった八重は近道に公園を利用していた。


「お、お兄さん」

「うん?」


 全身から血の気が引いていく。


 ――記憶の中のお兄さんと、まったく変わっていない。


 昔、出会ったときからお兄さんは歳をとらず、容姿も一切変わっていない。あのときは気がつかなかったが、今ならその異様さが理解できた。


「お兄さんは、誰、なの?」

「ふふ。お兄さんはお兄さんだよ」

「そ、そうじゃなくて! に、にん――」

「ああ、人間じゃないよ?」


 あまりにあっけらかんとしていて、いざ言われると思考が止まる。


「だけど僕ももう、自分が神さまなのかあやかしなのか、わからなくなっちゃった。昔……やっちゃんと出会うより、もっともーっと昔に、埋められちゃったんだよねぇ」


 お兄さんが不気味に微笑む。


 ――こういうのって、漫画の世界の話で……もっと田舎であるようなやつじゃないの!?


 震える手でお兄さんの二の腕を掴んで押しても、びくともしない。


「それにしても、やっちゃんがやっと会いにきてくれたと思ったら、知らない男を連れているからびっくりしちゃった。僕と約束までしてくれたのに」

「あれは……っ」


 子どもだったから。


 約束の重みなんてわかっていなくて、ましてやお兄さんが人間じゃないなんて、思いもしなかったから。


「――」


 しかし、お兄さんの切なそうな顔に続きは言えなくなる。怖いという感情が消えていき、今度は罪悪感が芽生え始めた。


「一度は途切れかけた縁だけど、名前を教えてくれたのも、手を繋いでくれたのも、全部やっちゃんでしょ?」


 ぎゅう、と強く抱きしめられ、八重は息を呑む。


「一人にしないで。もう、一人になりたくない」


 絞り出したような掠れた声に、胸が苦しくなる。


「八重、お前……なにしてんの?」


 刹那、割り込んできた声に、お兄さんの背中に伸びかけていた手が止まる。


「冬馬……?」


 なんとか首を回して、声のほうへ顔を向ける。


 息遣いの荒い冬馬が、そこに立っていた。


「な、なんで」

「お前が、メッセージくれたからだろ! 俺、お前が宿を予約までしてくれてるなんて、思ってなくて。どうせまた、口だけだと思って……っ」


 冬馬はスマホの画面をこちらに向け、八重が最後に送ったメッセージに、いくつか冬馬の返信がされた画面を見せられる。


 当然、八重は既読すらつけていない。


「なのに……なんでって、こっちの台詞だよ! そいつ誰だよ!?」


 現実に引き戻されるように、お兄さんに傾いていた気持ちが冬馬へ戻ろうとする。だが、お兄さんはそれを許さなかった。


「なんでって、僕の台詞でもあるなぁ」


 ぼそりと呟いたお兄さんは八重を抱きしめる腕に、さらに力を入れる。


「聞いた? やっちゃん。仕事を頑張って休みを取ったのに、旅行を楽しみにして宿まで予約したのに、口だけだと思っていたんだって」


 冬馬が怒りに顔をしかめた。


「だからお前は――」

「やっちゃんのこと、なーんにも大事にしてくれていないよ。挙句の果て、やっちゃんを捨てたのにのこのこと戻ってきて、やっちゃんとはもう関係ない人になったのに、いきなり怒鳴りつけてきて」


 視界の端に、激昂する冬馬が映る。


「ひどい人」


 耳元をくすぐられ、八重はきゅっと口を結ぶ。


 お兄さんの言う通り、どうして怒られなければならないのだろうか。そちらから関係を断っておいて、どうしてお兄さんとのことをとやかく言われなければならないのだろうか。


「やっちゃんが幸せそうだったから見守ってきたけどさ」


 ぷつん、と自分の中でなにかが切れたような気がした。それと同時に、夕日が建物の影に入ってあたりが一気に暗くなる。


「でも、なんか愛想つかされちゃったみたいだし、もういいよね? 大丈夫だよ。冬馬くんじゃなくて僕が、幸せにしてあげるから」


 お兄さんは冬馬がいないかのように話を進めた。


 けれどそれは八重も同じで、こくりと小さく頷いていた。


「約束したらから、お兄さんと一緒に行く」

「ふふ。やっと、つかまえた」


 絆されてしまった。人ならざるものに心を絡めとられて、囚われてしまった。


 だって、面倒なことも煩わしいことからも、解放してくれると言うから。ずっと、待って、想っていてくれたのだから。


 ――ずっと、お兄さんと一緒にいられる。


 もう寂しい思いはしたくないし、させたくない。


「八重!」


 こちらに手を伸ばす冬馬の姿を最後に、八重の意識は途絶えた。






『次のニュースです。今日午後、市内の公園で女性が誘拐される事件が発生しました。友人の証言では男に連れ去られたとのことですが、警察の調べでは付近の防犯カメラにはそのような男は映っておらず、警察は友人に詳しく話を――』

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