第102話 あの頃の記憶は今も生き生きと

 目的地は、あまりにも近かった。心の準備がしっかりと整うよりも先に、馬車は屋敷のある街にたどり着いてしまっていた。


「……こんなに近かったかしら。王都と、この街って」


 みるみる近づいてくる、私の故郷。侯爵令嬢として生まれ育った、懐かしい街。それを見ながら、私はそっと身震いしていた。


 気だるい暑さが辺りに満ちている。それなのに、どういう訳か寒気がする。頭は痛くないし、熱もない。どこもかしこも正常で、見事なまでに健康なのに。


「今回は馬車だから、すぐに着いたんだよ。昔は歩きだったしね」


 昔、まだ両親が生きていた頃。私たちは毎年のように、いや年に何回も、両親のところに遊びにいったものだ。


 辺境のあの小屋から王都の近くの森まで、ミモザが竜の姿で飛ぶ。それから歩いて王都に入り、そのまま一泊する。そうして王都で必要なものを買いそろえてから、徒歩でこの街に向かう。それがいつもの、私たちの旅程だった。


 けれど今、私たちは王都のすぐそばに住み着いている。そして、馬車で旅をしている。私たちはあの頃と何も変わっていないのに、気づけば周囲の状況が勝手に変わってしまっている。


 普段は気にも留めていないそんな事実が、やけに気にかかって仕方がない。やっぱり私は、すっかり弱気になってしまっているのかもしれない。


「やっぱり、古い街は変化もゆっくりなんだね」


 ミモザは窓の外を見ながら、そんなことをつぶやいている。石造りの建物が並ぶ街並みは、最後に見た時とほとんど変わっていなかった。そのことに、また胸がぎゅっと痛む。


 馬車は街の大通りをまっすぐに進み、大きな屋敷の前で止まる。私が生まれ育った屋敷は、あの頃と何一つ変わらない姿で私たちを出迎えてくれていた。


 ミモザが馬車から降りて、門番と話しこんでいる。私は少し離れたところで、そんな彼らをぼんやりと見ていた。


 そうしていたら、自然と昔のことを思い出していた。


 あの日、追放されてから初めてこの街に来たあの時。ちょっとだけ屋敷を見て帰ろうとした私を、お母様が呼び止めた。ジュリエッタ、あなたなの。そう言って。


 こうしていると、またその辺りからひょっこりとお母様が現れるような気がしてならない。私も、ミモザも、あの頃と何も変わらない。目に映る光景も、やっぱり何も変わらない。だったら、もしかして。


 ……ううん、そんなことは起こらない。あれから長い時間が過ぎた。それはもう、嫌というほど分かっている。


 でも、やはり願わずにはいられなかった。お母様、私を呼んで、と。


 もちろん、誰も現れない。誰も私に、声をかけてくれない。そのことが、どうしようもなく悲しい。私だけ、置いていかれてしまった。


「ジュリエッタ」


 ひどく優しく、私を呼ぶ声。のろのろと顔を上げると、ミモザがこちらに手を差し伸べていた。あの頃と何も変わらない、輝くような笑顔を浮かべて。


 その時ようやく、自分が泣きそうになっていることに気がついた。涙をこらえながら、その手を取る。そのまま彼は私を引き寄せた。私の肩が、彼の腕に触れるほど近くに。


「あの日のこと、思い出しちゃった? この街に来た、最初の日のことを」


「……あなたには、全部お見通しなのね」


「それはそうだよ。いったい何年、一緒にいると思ってるの? たぶんあなたのことなら、あなた自身よりもよく知ってるよ」


 彼の手に指をからめて、ぎゅっと握りしめた。彼もまたそれに答えるように、手に力をこめてくる。


「そうよね。みんないなくなっても、あなただけはずっと一緒にいてくれるのよね。これまでも、これからも」


 そうだ。ミモザと決めた。これから何が起こっても、一緒に乗り越えていくのだと。私は一人じゃない。こんなところでただおびえているなんて、私らしくない。


 そんなことを思いながら、そっと彼の肩に額をつける。ミモザは何も言わず、静かに寄り添っていてくれた。




 それから私たちは、執事の案内で屋敷の中を歩いていた。


 主の変わった屋敷の中は、ほんの少しだけ雰囲気が変わっていた。ところどころに、見覚えのない絵や細工物が飾られている。


 それはとても趣味が良く、元からある家具や内装とも調和していた。それでも、そんなささいな変化に寂しさを感じずにはいられない。


 けれどつないだミモザの手の温もりのおかげで、私は前を向いていられた。何がどれだけ変わってしまっても、彼だけは変わらずにそばにいるのだから。


 そんな物思いにふけっていると、不意に執事が足を止めた。ここは、客を招く時に使う応接間だ。


 うながされるがままに、中に入る。がらにもなく緊張してしまっていた。


「ようこそいらっしゃいました、ジュリエッタ様、ミモザ様」


 そこに立っていたのは、とても落ち着いた雰囲気の女性だった。年の頃は四十ほど、頬の辺りにほんの少し衰えが見えるものの、まだまだ若々しい。


 しかしそれ以上に私たちの目を引いたのは、彼女の面差しだった。おっとりと穏やかな表情を浮かべてはいるけれど、この顔って。


「うわあ、そっくりだね」


 ミモザがはしゃいだ声を上げる。私と目の前の女性は、互いに顔を見合わせて目をぱちぱちさせていた。


 私と彼女は、それはもう良く似ていたのだ。もしも私が順当に年を取っていったら、きっとこんな感じになるのだろう。


 もっとも、雰囲気は全く違ったものになるとは思う。私はこんな風に落ち着いた大人になれる自信がない。


「私はエルマ、この家の現当主です。あなたの従兄の血筋に当たるのですよ、ジュリエッタ様」


 少女のように可愛らしく笑って、エルマは礼儀正しく名乗る。お母様を思い出させる優しい声を聞きながら、何とも言えない不思議な思いにため息をつく。


 私はずっと、ミモザと二人で生きてきた。もちろん、そのことを後悔はしていない。


 私たちは人と違う時間を生きて、人の生の営みを離れたところからそっと見守る。そのはずだった。


 それなのに、気づけば人として生きていた頃の思い出がたっぷりと詰まった場所で、自分と同じ血を引く、よく似た人と向かい合っている。


 胸に満ちるこの感情を、どう言い表せばいいのか分からない。でもそれは、決して嫌なものではなかった。むしろ、泣きたくなるくらいに温かい。


 込み上げてくる涙を隠すように、ことさらにいつも通りの口調で答える。


「だったら私たち、遠い血縁なのね。自分と血のつながった者にこうやって会うことになるなんて、思いもしなかったわ」


 きっと私の強がりは、ミモザだけでなくエルマにも分かってしまっていただろう。けれど二人ともそのことを指摘することなく、同じように優しく微笑んでいた。

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