第96話 兄弟の畑

 長雨もようやく終わりを告げ、春らしい陽気が戻ってからしばらく経った頃。


 ヴィットーリオは弟のレオナルドを連れて、王宮の中庭に立っていた。


 彼らの目の前には小さな畑。そこには、青々とした葉をぴんと伸ばした葉野菜がずらりと並び、太陽の光をいっぱいに受けていた。


「そろそろ食べ頃ね。今年はやけに雨が多かったからどうなることかと思ったけど、うまく育って良かったわ」


 彼らの隣で並んで畑を見ながら、ジュリエッタが嬉しそうにつぶやく。彼女はヴィットーリオの命の恩人で、そして彼の師匠であり、憧れの人でもあった。


 この畑は、ヴィットーリオとレオナルドが二人でせっせと世話をしたものだ。ジュリエッタと、その伴侶のミモザに教えられながら。


 ヴィットーリオはかつて辺境で畑仕事にいそしんだ経験があったが、ずっと王宮で暮らしているレオナルドは、もちろんこれが初めの畑仕事だった。


 当然ながら彼にとっては、収穫も初めてだった。食べ頃だと言われても、どうしていいか分からない。


「あの……これを食べるのですか?」


 細い首をかしげるレオナルドに、すぐ隣のヴィットーリオが微笑みかける。どことなく誇らしげに。


「もちろんだ、レオナルド。野菜とはそういうものだからな」


「そのまま茎をつかんで、引っこ抜けばいいんだよ。もっと大きな野菜だと、鎌を使うこともあるけど」


 畑をのんびりと眺めながら、ミモザが口を開いた。どこから見てもごく普通の美青年でしかない彼は、これでも白い竜の化身なのだ。


 かつて辺境を離れ旅に出た時、ヴィットーリオは竜のミモザに運ばれて空を飛んだ。そのことは、今でもヴィットーリオの密かな自慢だ。


 レオナルドがうらやましがるので、自分からそのことを話題にすることはないけれど。


「……抜いてしまうのですか」


 そうつぶやきながら、レオナルドが悲しそうに眉を下げる。葉野菜を育てているうちに情がわいてしまったのか、抜くことに抵抗があるらしい。


 ジュリエッタが困ったように微笑み、レオナルドをなだめようとしている。


「でも、これ以上育ったらおいしくなくなるわよ。固くて筋っぽくなるし」


 ミモザも苦笑しながら、また畑を見渡した。


「実のなる野菜にしたほうが良かったかなあ。でも春先に簡単に育てられるのって、大体が葉野菜なんだよね。夏なら、トマトとかあるんだけど」


 ヴィットーリオはそんな二人を見て、幼い顔をきゅっと引き締めた。それから、ゆったりとした動きで弟に向き直る。


「レオナルド、手塩にかけた葉野菜を抜きたくないというお前の気持ちも分かる。だがこれは、避けては通れないことなのだ。私が手本になろう。しっかりと見ていろ」


 いっそ厳かと言ったほうが正しいような顔でそう告げると、ヴィットーリオは畑に一歩踏み込んだ。


 彼の背後ではジュリエッタたちが、立派になったわねえ、お兄さんらしくなったねなどと優しい声でささやき合っている。


 しかしその弾んだ声は、ヴィットーリオの耳には届いていなかった。それくらいに彼は、弟の見本になろうと張り切っていたのだった。


 ちなみに少し離れた植え込みの陰では、ロベルトとファビオがそんなヴィットーリオをじっと見つめていた。


 少しの間仕事をさぼることにしたロベルトが、座りっぱなしは体に毒ですよと言ってファビオを引っ張り出してきたのだ。


 そうして王宮の中を歩いていた二人はたまたまこの現場に行き合い、こうして息をひそめてなりゆきを見守っているのだった。


 たくさんの視線を受けながら、ヴィットーリオは葉野菜のそばにかがみ込む。まるで、何かの儀式に臨んでいるかのように。


 彼は茎をそっと握りしめ、腕に力をこめた。よく耕された柔らかな土を巻き上げながら、葉野菜はあっさりと抜けた。


「あっ」


 レオナルドが切なげに声を上げた。振り向いたヴィットーリオが見たのは、すっかりしょんぼりしてしまっている弟の姿だった。


 ヴィットーリオは柔らかな頬に土をつけたまま、葉野菜を掲げてにっこりと笑ってみせた。


「悲しむことはないぞ、レオナルド。この野菜はこれから私たちの血となり、肉となるのだから。そうやって、命はつながれていくのだ」


「にいさま……」


 涙目で、レオナルドが兄を見つめる。彼は一生懸命に、微笑もうとしているようだった。


 その後ろでは、ジュリエッタとミモザがとても嬉しそうに笑っていた。さらに遠くでは、ロベルトが無言でむせび泣きながらファビオにしがみついていた。




 それからさらに数株の葉野菜を引っこ抜いたヴィットーリオは、葉野菜を手に意気揚々と厨房に向かって歩いていた。


 彼の片腕にはレオナルドがしっかりとしがみついている。その小さな手にも、葉野菜が一株握られていた。彼も頑張って、自分で葉野菜を抜いたのだ。


 彼らのすぐ後ろには笑顔のジュリエッタとミモザが付き添い、さらに少し離れたところではロベルトとファビオが、こそこそと隠れながら後をつけていた。


 ジュリエッタたちが前もって話を通してあったこともあって、料理人たちは戸惑うこともなく笑顔で彼らを迎えていた。


 そうしてみなが見守る中、ヴィットーリオは小さな器をいくつかと、卵とチーズを引っ張り出す。


「何を作るのですか、にいさま?」


「焼き物だ。葉野菜を切って、卵とチーズを乗せてオーブンで焼く。簡単だが、とても味わい深いのだ」


 うきうきと答えるヴィットーリオと、目を輝かせるレオナルド。彼らには聞こえていなかったが、厨房のすぐ外ではちょっとした言い争いが起こっていた。


「ヴィットーリオ様がオーブンを扱うなど、もしものことがあったらどうするのだ!」


「黙っていなさい石頭。貴方たちのせいで、いえ貴方たちのおかげで、ヴィットーリオ様は料理の経験も積んでおられます。あの料理も、何度も作ったことがあるのですよ」


「しかしだな……」


 声をひそめながら、ファビオとロベルトがそんなことを言い合っている。皮肉たっぷりかつ誇らしげなロベルトの言葉に、ファビオの声が小さくなっていく。


「それに、ジュリエッタ様とミモザ様がついておられます。もしものことがあっても、お二人がどうにかしてくれるでしょう」


「あの二人に頼り切るのも、どうかと思うが……」


「今さらですよ、今さら」


「ねえ、そこの二人。さっきから丸聞こえだよ? 隠れるなら、もうちょっとうまくやらないと」


 そんな二人に、ミモザのおかしそうなささやき声が投げかけられた。ジュリエッタもヴィットーリオたちのほうを見たまま、こっそりと笑いを噛み殺している。


 そうして彼女は、ことさらに明るい声で言い放った。廊下のロベルトたちに、一瞬だけ視線を送ってから。


「ねえヴィットーリオ、野菜はたくさんあるのだし、大目に作ったらどうかしら? 他の人たちにふるまったら、きっと喜ばれるわよ」


「それは素敵ですね!」


 ヴィットーリオはぱあっと顔を輝かせて、それからすぐ隣のレオナルドに呼びかける。


「レオナルド、お前も手伝ってくれ。一緒に作ろう。大丈夫だ、私が教えるから」


 幼い二人は手分けして野菜を洗い、ヴィットーリオがそれを小さく刻んでいく。その手つきは、王の兄とは思えないほどに慣れたものだった。見守っていた料理人たちから、感嘆の声が上がる。


 切った野菜を器に敷いて、卵を割り入れる。チーズを散らし、塩をぱらぱらと振る。


 初めての経験にレオナルドは戸惑っていたが、ヴィットーリオの優しく丁寧な指導のおかげですぐにこつをつかんだようだった。


 二人ではしゃぎながら、次々と器に中身を満たしていく。それからヴィットーリオが、オーブンを慎重に開けた。器を並べた天板を、慎重にオーブンに入れていた。


「ああ、ヴィットーリオ様、本当に立派になられて……」


「大の大人がこんなことで泣くな、気持ちが悪い」


「そういう貴方も涙声ですよ、一人だけ偉そうに」


 廊下では、やはり二人がこそこそと言い争っている。けれど子供たちはオーブンを見つめるのに忙しくて気づかない。ジュリエッタとミモザは、さっきからずっと笑いをこらえている。


 そうこうしているうちに、いい香りがしてきた。ヴィットーリオがさらに慎重に、熱いオーブンから天板を取り出す。


 葉野菜に囲まれた、半熟の卵。ココットだ。


「わあ、おいしそうです……あっ」


 身を乗り出したレオナルドが、小さく声を上げて飛びのいた。同時に廊下からも、二つの小さな悲鳴が上がる。


 レオナルドは料理に見とれていたせいで、うっかり熱い天板に触れてしまったのだ。小さな指先がほんのり赤くなっている。


「それくらいなら、冷やしておけばじきに治る。これもまたいい経験になるだろう」


 すかさず小さな水桶を差し出しながら、ヴィットーリオはレオナルドを安心させるように微笑みかけた。


 半泣きになりかけていたレオナルドはおとなしく水の中に手を差し入れ、小さくうなずいている。


 ヴィットーリオがほっとしたように息を吐いた。それから、ついと廊下のほうを見る。


「ところで、今ロベルトとファビオの声が聞こえた気がしたのだが」


 次の瞬間、ロベルトが何食わぬ顔で姿を現した。その変わり身の早さがおかしくて、ジュリエッタとミモザが肩を震わせている。


「何やらにぎやかでしたので、ついのぞきに来てしまいました。レオナルド様、お怪我をなさったようですが……大事ありませんか?」


「……その、何やら良い匂いがしますね。料理……ですか」


 それに続き、ファビオも厨房に入ってきた。ロベルトとは対照的に、その表情はとてもぎこちない。


 ヴィットーリオは一瞬目を見張り、それから朗らかに笑った。


「ああ、私とレオナルドが育てた野菜を使って、私たち二人で作ったのだ。たくさんあるから、お前たちも食べていくといい」


 そう話すヴィットーリオの目は、年頃の少年らしい期待にきらきらと輝いていた。普段は年の割に大人びている彼のそんな表情に、ロベルトとファビオがそっと目元を潤ませた。


 そんな二人を尻目に、ジュリエッタとミモザはさっさと天板に近づいていた。ココットの器を手に取って、フォークで中身をつついている。


「ふふ、良くできてるわ。とってもおいしい。頑張ったわね、二人とも」


「本当だ、おいしいね。そろそろ夏も近づいてきてるし、今度は別の野菜を育ててみる? そうすれば、もっと色々な料理が作れるよ。レオナルドも、料理を覚えたいんじゃないかな」


「はい! ぼくも、にいさまみたいに料理ができるようになりたいです!」


「久しぶりに料理をしましたが、楽しかったです……」

 子供たちはそう答えながら、できあがった料理をぱくりと食べた。二人そろって、暗面の笑みを浮かべる。


 それから四人は、和やかに相談を始めた。次は何を植えようか、何を作ろうか。


 そんな彼らのすぐ後ろでは、ロベルトとファビオが料理を食べながら感動していた。


「ああ、ヴィットーリオ様とレオナルド様の手料理をいただける日が来るなんて……生きていて良かった……」


「はなはだ不本意だが、お前の意見に同意せざるを得ない……ヴィットーリオ様、レオナルド様、このファビオ、まことに感服いたしました」


 普段はいつもいがみ合っている二人が、今は全く同じ思いを共有していた。


 なんとも言えない顔で自分たちのことを見ている料理人たちの存在に気づくことすらなく、彼らは一口一口噛みしめながら小さなココットを食べ進めていたのだった。

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