第95話 うら若き乙女の憂鬱

 メリナはただ一人、そっとため息をついていた。


 あの水害を未然に防いだ功績と、その他の事情が考慮された結果、彼女たちは問題なく王宮に戻ることができた。


 それも、誘拐などというとんでもないことをやらかしてくれた数名以外は、全くのおとがめなしで。


 けれど彼女はこの事態を素直に喜べずにいた。王宮の廊下をすたすたと歩いていた彼女は、ふと足を止めて、また大きくため息をつく。


 彼女の目の前には、割とよく見かける、しかし彼女にとっては見過ごせない光景が広がっていたのだった。


「見つけたわよ、シーシェ。こんなところで油を売ってないで、早く長のところまで来なさいよ」


 廊下の端のほうで親しげに話しこんでいるのは、頬を赤く染めたメイドと、いつも通りの明るい笑顔を浮かべたシーシェだった。


 シーシェはさわやかに笑うとメリナに向き直る。そしてメイドはうっとりと、その笑顔を見上げていた。


「遅れずに行くと、さっきお前の使い魔に返事をしただろう? 心配するな」


「そ、それはそうだけど……だったらこんなところで何してるのよ」


 実のところ、メリナはシーシェが遅刻するかもとは思っていなかった。シーシェは大雑把だが律義なところもあるし、意外にも時間はそれなりにきちんと守るほうだ。


 だから彼女がわざわざ彼を探しにきた理由は、彼女が心配していることは、もっと他にあったのだ。


「ごちゃごちゃ言ってないで、行くわよ」


 メリナはシーシェの袖をつかみ、引っ張るようにして歩き出す。


 シーシェは笑顔でメイドに別れを告げていたが、メイドのほうはこの上なく残念そうな顔をしていた。彼ともっと話していたかったのにと、その顔には書いてあった。


 一刻も早くこの場を離れようと、メリナはせっせと足を動かし続けた。自分よりずっと大きなシーシェが、歩調を合わせるようにのんびりと歩いているのを感じながら。


 あの岩山に、魔術師たちだけでこもっていた頃が懐かしい。メリナはそんなことを思わずにはいられなかった。


 女性の魔術師はメリナを含めて数名しかいないし、みなシーシェにとっては仲の良い友人で、気心の知れた同僚に過ぎなかった。


 それに彼女たちのほうも、シーシェに過度に近づきすぎないように気を遣ってくれていたのだ。みんな、メリナの思いを知っていたから。


 それが、ここではどうだ。王宮のいたるところを歩いているメイドたち、時折姿を見かけるどこぞの令嬢たち。ここには女性が多すぎる。


 しかも困ったことに、みな男前のシーシェのことを憎からず思っているらしい。


 そこへもってきてシーシェは、腹が立つくらいの博愛主義だった。誰彼構わずに近づいていって、やけに親しく話しかけてしまう。


 おかげでメリナは、気が気ではなかった。どこぞのメイドと深い仲になってしまったらどうしよう、どこぞの令嬢に口説き落とされたらどうしよう、そんなことを考えずにはいられなかったのだ。


 シーシェをしっかりと捕まえたまま、メリナは大股で長の部屋に向かう。そこには既に、数名の魔術師たちが集まっていた。


「おお、来たか。メリナ、シーシェ、お前たちには、あちらの仕事を担当してもらう」


 長はそう言って、机の上に置かれた数枚の書類を指し示した。どことなく誇らしげに。


 かつて彼らが追放される前は、魔術師はほぼお飾りに近い存在だった。


 有事の際以外は特に目立って動くこともなく、日々自分たちの技を磨くことだけに精を出す。彼らは代々、そんな暮らしを送っていたのだった。


 けれど今回、彼らは見事に川の氾濫を防いでみせた。そんなこともあって、王であるレオナルド及びその周辺の人間は、魔術師たちに新たな仕事を与えようと考えたのだった。


 メリナが書類を手に取り、ざっと目を通す。シーシェは彼女に覆いかぶさるようにして、背後から書類をのぞき込んでいた。


「選抜された魔術師候補たちをしっかりと鍛え上げよ、ですって。責任重大よ。頑張らなくちゃ」


「基礎の魔法なら俺でも教えられるが……俺でいいのか? 教えられるのは基礎魔法くらいのものだぞ。転移の魔法は……なんとなく習得していたからな。どう教えたものか」


「今のうちに、教え方を考えておくべきね。私も手伝うから、一緒に考えましょう」


 レオナルドの命により魔術師たちに与えられた仕事は、このようなものだった。


 魔術師の数をもっと増やし、手分けして王都の防衛や、土木工事などの作業に当たらせる。


 これにより国はより盤石となり、魔術師たちも力を持て余さずに済む。なにより、彼らに国を守っているという実感を持たせることができる。


 そんな素晴らしい計画ではあったのだが、シーシェは少々気乗りがしないようだった。


「ああ、頼む。……そもそも俺としては、忙しくなるのはあまり嬉しくないんだが」


「仕方ないでしょ。あの大乱闘のせいで、私たちが力を持て余してるって判断されてしまったのだし」


「まあ、あれを見れば誰でもそう思うか」


 小声でひそひそと話し込むシーシェとメリナに、長がゆったりと笑いかけた。


「我らの力を、ようやく認めていただいたのだ。その期待に恥ずかしくない働きをせねばならぬぞ」


 先日、みなで川の氾濫を食い止めてからというもの、長の様子は少しずつ変わっていった。。


 魔術師たちはその変化に戸惑って……若干気味悪がっている者もいた……が、おおむね前向きにその変化を受け入れていた。


 そして以前の長からは考えられないほど穏やかに、優しく長は言葉を続けている。


「お前たちには、特に期待しているぞ。メリナの使い魔の魔法に、シーシェの転移の魔法。どちらも、我らの中では群を抜いている」


 上機嫌にそう言って、長は交互に二人を見た。


「メリナはよい教師となるじゃろう。シーシェは……メリナの補佐として、必ずよい働きをするはずじゃ」


 有能ではあるものの、メリナは少々物言いがきついところがある。一方のシーシェはとても友好的で、即座に相手の懐に入り込むことができる。


 二人は互いの足りないところを補い合える、そんな存在だと、そう長は断言したのだ。周囲の魔術師たちも、無言でうんうんとうなずいている。


 メリナの頬がゆっくりと赤みを帯びていく。彼女の顔には、ただ嬉しさだけが満ちていた。自分の能力を褒められたことが嬉しいのか、それともシーシェとの関係を褒められたことが嬉しいのか。


「ありがとうございます。これからも、頑張ります」


 いつもより少し高く明るい声で礼を言って、メリナはシーシェに向き直る。


「さあシーシェ、さっそく打ち合わせよ!」


「お前は今日も元気だなあ」


 のほほんと笑うシーシェの袖をぐいぐいと引っ張りながら、彼女は意気揚々と部屋を出ていった。




 しかし、それから数日後。


「はあああああ……もう、何なのよ……」


 魔術師見習いたちへの指導が終わった後、メリナは会議室で大いに落ち込んでいた。ついさっきまで、ここで見習いたちに魔法を教えていたのだ。


 今日ここに集まっていた魔術師見習いたち。どういう訳か、妙に女性が多かった。


 そして当然ながら、シーシェに熱い視線が注がれまくってしまっていた。女性の見習いたちはメリナのことを邪魔だと思ったらしく、時折こっそりとメリナをにらむことすらあった。


 シーシェがもてるのは昔からだ。見習いたちに反抗的な態度を取られたこともまあ許せる。メリナにとって許せなかったのは、彼女たちに対するシーシェの態度のほうだった。


 彼は見習いたちがメリナのことを敵視していることにはかけらほども気づくことなく、いつもと全く同じように、それはもう友好的に見習いたちに接していたのだ。


 彼らしいといえば彼らしいのだが、そのせいでメリナの胸の中には複雑な思いが渦巻いてしまっていた。


「鈍感、かっこつけ、人たらし……」


 メリナの口から、シーシェを罵倒する言葉が次々とこぼれ出る。そうでもしなくてはやっていられないくらい、メリナは落ち込んでいたのだった。


「私がずっと見てることに、気づいてもくれないくせに……」


「お前が何を見てるんだ?」


「きゃあああああ!!」


 彼女の独り言に、いきなり問いが投げかけられた。全く予想もしていなかった事態に、メリナは反射的につんざくような悲鳴を上げる。


 振り返った彼女の視線の先には、目を細めてのけぞったシーシェが立っていた。今の悲鳴に圧倒されたらしい。


「な、なっ、いきなり出てこないでよ!!」


「俺はちゃんと足音をさせていたぞ? 声をかけるまで気づかないなんて、よほど集中していたんだな」


「あっ、あなたには関係ないから!」


 実のところ思い切り関係があるのだが、メリナはそれをシーシェに告げるつもりはなかった。どうせ不毛な片思いでしかないのだから、下手に動いて玉砕したくはない。彼女はそう考えていたのだった。


 肩で息をしているメリナの前に、何かが差し出された。小さなガラスの器に盛られた白い塊に、小さなスプーンが刺さっている。


 メリナはこれをよく知っていた。乳と蜜を合わせて凍らせたものに、新鮮なベリーがちょこんと添えられた、甘くて冷たい氷菓子だ。


 彼女はこの氷菓子が大好物だったが、追放されてからは一度も口にしていない。


 砦や岩山での暮らしにおいて物資に困ることはなかったし、氷は魔法で簡単に作れる。けれどさすがに、新鮮な乳は貴重品だったのだ。


 目の前の氷菓子に思いっきり気を取られながら、メリナは恐る恐る尋ねる。


「シーシェ、これって……」


「お前、この氷菓子が好きだっただろう? 今日お前はとても頑張っていたし、ちょっとした褒美くらいあってもいいと思ったんだ」


 差し出された器を、メリナは呆然としながら受け取った。冷えたガラスが、彼女の指から熱を奪っていく。


「さっき厨房に立ち寄って、ぱぱっと作ってきた。俺は料理は不得手だが、これだけは得意だからな」


 メリナの気持ちなどつゆ知らずのシーシェが、いつも通りにあっけらかんとそんなことを口にする。メリナは頬が熱くなるのを隠すように、そっとうつむいた。


「ん? なんだ、気に入らなかったか?」


「そんなことない! ……その、ありがとう」


「そうか、それなら良かった。じゃあ、溶ける前に食べろよ。俺はまだ仕事があるから、またな」


 明るく言い放つと、シーシェは軽やかな足取りで会議室を出ていった。一人残されたメリナは添えられたスプーンを取ると、氷菓子をすくって口に運ぶ。


「……甘い。ちょっと甘すぎ。また目分量で作ったのね。相変わらず大雑把なんだから」


 小声で悪態をつく彼女の顔には、この上なく幸せそうな笑みが浮かんでいた。

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