閑話2 魔術師のいる日常

第93話 犬猿の思いやり

 みなが寝静まった、真夜中の王宮。その一室で、今夜もファビオは仕事にいそしんでいた。一度は消えた目の下のクマも、またくっきりと刻まれてしまっている。


 ジュリエッタたちが手伝ったおかげで未処理の書類もかなり減ってはいたものの、それでも彼の仕事はまだまだ山のように残っていた。


 このところの長雨で、王宮の西にある大きな川が氾濫してしまった。最初の氾濫による被害は微少なもので済んでいたし、魔術師たちの働きにより新たな氾濫は食い止められた。


 それでも、全く被害が出なかった訳ではない。多少なりとも水をかぶった畑があり、家を壊された民がいる。


 どこにどれだけ被害が出たのかを確認し、援助の内容を決める。さらに、川がまた氾濫しないように、川岸を整備する手筈も整えなくてはならない。


「この地点に兵士たちを送り込まなければならないが……国の守りにつかせる人員を確保しつつ……さて、どれくらいの人数を……」


 兵士たちの管理については、ファビオに一任されていた。だが、兵士たちを川の整備のために送り込むとなると、決めなくてはならない。


 だが、財政についてはロベルトが担当している。兵士の移動と滞在にかかる費用、川を工事するための多額の費用については、彼の判断を仰がなければならない。


「……こちらの案件については、私一人では判断できないな。……また明日にでも、ロベルトと話さねば」


 ファビオはその書類を『保留』と書かれた箱に入れる。しかし彼の手は止まらない。彼はかたわらの書類の山から次の書類を手に取ると、また眉間にしわを寄せてじっくりと読み始めた。




「ああ、やはりまだ起きていましたか」


 突然声をかけられて、ファビオはのろのろと顔を上げる。


 本人としては素早く顔を上げたつもりなのだが、疲労からかすっかり動きが鈍くなってしまっている。


「仕事中毒もたいがいにしないと、体を壊しますよ。そうなったらジュリエッタ様のいい餌食ですねえ。きっと、丹精込めて薬を作ってくれるんでしょうね」


 いつの間にか、ロベルトが部屋の中に入ってきていたのだった。ファビオは眉間にしわを寄せて、彼をにらみつける。


「扉を叩きもせずに部屋に入るな。失礼だろう」


「おや、聞こえていなかったんですか? 私はちゃあんと叩きましたよ? 何回か、声もかけましたし。あなたが顔を上げないので、仕方なくここまで近づくことにしたんです」


「……そうだったのか」


「あれだけ音を立てたのに聞こえていないだなんて、あなた、既に半分くらい眠っていたのでは? もういっそ、きっちり寝てしまったらどうです。そのほうが効率がいいですよ」


 いつも通りに軽やかに、そしてにぎやかに喋るロベルトに、ファビオは大きくため息をつく。眠いせいかいら立たしげに手を振って、ロベルトを追い払うような仕草をした。


「……うるさい。まだ仕事があるんだ。おちおち寝ていられない。なんだったらお前も手伝え。ちょうど、お前に聞こうと思っていた案件がある」


 そう言いながら、ファビオはさっき書類を放り込んだ箱を指し示す。ロベルトはちらりとそちらに目をやり、大仰に肩をすくめてみせた。


「嫌ですね。だいたい、今何時だと思ってるんですか。そんな寝ぼけた頭で頑張ったところで、間違いが増えるだけでは?」


「……うるさい」


 どうやら眠気で頭がまともに動いていないらしく、ファビオはそれだけをいらだたしげに言い放った。そのままゆっくりと視線を落とし、また手元の書類をにらみつける。


「この前みたいに、またみなさんに手伝ってもらえばいいでしょう?」


「……魔術師たちには、新しく仕事を与えてある。レオナルド様とヴィットーリオ様には、ご自分の執務がある。ジュリエッタ様とミモザ様は……」


 そこまですらすらと答えたところで、不意にファビオが口ごもる。


 あの二人はいつも自由きままにその辺りをさまよっている。書類仕事くらいなら、いつでも快く手伝ってくれるに違いない。しかも二人とも、普段辺境でのんびり暮らしているとは思えないくらいに有能だ。


「……あの二人に、これ以上借りを作りたくない」


「とか何とか言って、実はあの二人にどう接していいか分からないだけでしょう? あの方々は、石頭の貴方とは真逆ですから」


 ファビオは黙りこくったまま答えない。そんな彼をロベルトは妙に優しい目で見ていたが、やがてわざとらしく肩をすくめてみせた。


「仕方ありませんね、少しだけ手伝うとしましょうか。少しだけですよ」


 そう言うと、ロベルトは書類を手にして長椅子に腰かけた。相変わらず書類に目を落としたままのファビオの口元が、ほんの少しほころんでいるようだった。




 静かな室内に、書類をめくる音だけがかすかに響く。処理済みの書類の山が、少しずつ高くなっていく。ふと、ロベルトがおもむろに口を開く。


「ところで、最近どうですか」


「どう、とはどういうことだ」


「そのまんまの意味ですよ。体調など、問題ありませんか?」


「……なぜ、そんなことを聞く」


「おや、なぜとは心外ですね。貴方は何でもかんでも抱え込んでしまいますし、ぶっ倒れないように気遣うのは同僚として当然のことでしょう」


「お前に気遣われると、鳥肌が立つのだが」


「おやおや、それはとても光栄です。私としても、こんな石頭を気遣うなんて大変不本意ですから。貴方にそう言ってもらえて、少しばかり報われた気分ですよ」


 口先では茶化しつつも、ロベルトの目はとても優しいものだった。


「ところで、冗談抜きにどうです、この辺りで休んでも。だいぶ作業も進んだでしょう」


 そんなことを言いながら、ロベルトはふわりとあくびをした。ファビオはしきりに瞬きをしながらも、首を横に振った。


「いや、あと少し……ここの山だけでも、片付けておきたい」


「まったく、本当に仕事中毒ですね。……ああそうだ、この書類を見てもらいたいのですが」


 ロベルトが呆れたようにため息をつきながら、ファビオに歩み寄る。そうして彼の前に、一枚の書類を差し出した。


 半分目をつぶったままのファビオが、そちらに身を乗り出す。次の瞬間、ロベルトは握っていた左手をファビオの目の前でぱっと開いた。


 手の中に握りこまれていた何かの粉が、ファビオの顔にもろにぶちまけられる。


「なっ、お前……」


 ファビオはみなまで言い終えることができなかった。ずっと眠たげにしていた彼の目がゆっくりと閉じ、そのまま彼は執務机の上に突っ伏す。


「まさか、私までこんな真似をすることになるとは思いませんでしたよ。ジュリエッタ様ならともかく」


 苦笑しながら、ロベルトは手についた粉をはたき落とす。それはジュリエッタがしょっちゅう持ち歩いている、マジマの粉だった。


 安らかなひとときの眠りをもたらす粉を吸い込まないように気をつけながら、彼はファビオに語り掛ける。


「みな、貴方のことを心配しているのですよ。この不意打ちも、ヴィットーリオ様とレオナルド様に頼まれてのことですし」


 ファビオは机に突っ伏したまま、静かに寝息を立てている。


「まったく、もう少し自分を大切にすることを覚えてはいかがです? ジュリエッタ様のおっしゃる通り、こういう男にはさっさと所帯を持たせてしまった方がいいのかもしれませんねえ。一番近くに寄り添って、ひたすらに身を案じてくれる誰かが必要ですよ」


 眠り続けるファビオに、ロベルトは小声で語り続けた。


「……おそらく、貴方はあの一連の事件について償おうとしているのでしょうね。けれどあのことを悔いているのは、貴方だけではないのですよ」


 ロベルトの顔には、深い苦痛の色が浮かんでいる。彼が思いだしているのは、ヴィットーリオが追放され、レオナルドを擁した奸臣が暗躍して国を傾けかけた、あの出来事だった。


「みなが少しずつ過ちを犯し、みながそれを乗り越えて前に進もうとしているのです。責任を感じているのは、貴方一人ではないんですよ。まあ貴方の石頭では、中々理解できないでしょうけれど」


 そんなことをつぶやきながら、ロベルトはファビオを抱え上げようと腕を伸ばす。すぐに、彼の顔がしかめられた。


「……無駄に重いですね。私、力仕事は苦手なんですが……」


 盛大にぼやきながら、ロベルトはファビオを引きずっていく。かなり苦戦しながら、彼はどうにかファビオを長椅子に横たえることに成功した。肩で息をしながら、ロベルトはつぶやく。


「おやすみなさい、いい夢が見られるといいですね」


 小さく笑い、ロベルトは静かに部屋を出ていった。眠るファビオの顔は、幼子のように安らかなものだった。

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