第60話 白い竜の秘め事

 ミモザは一人、森の木陰でのんびりと寝転がっていた。王宮の近くの、静かな森の中で。


 ジュリエッタはロベルトを連れて、城下町に買い物に行っている。せっかく王都にいるんだから、ちょっといい服を買おうと思うの、と彼女は言っていた。


 ジュリエッタは多くの女性の例に漏れず、服を選ぶのが好きだ。今日は丸一日かけて買い物をするのだと、いたく張り切っていた。


 偶然彼女につかまってしまった哀れなロベルトは、荷物持ちとして問答無用で引きずられていったのだ。


 彼はきっと、夕方頃には疲労困憊してしまっているだろう。その様を想像して、ミモザはくすりと笑う。


 彼女と違い、ミモザは特に服には興味がない。彼女がみつくろったものを、適当に着ているだけだ。だから彼はこうして、一人で留守番をすることに決めたのだった。


 既に百年近い時を一緒に過ごし、そしてさらに数百年の時を共にするであろう二人には、まだまだたっぷりと時間がある。


 いわゆる夫婦の倦怠期なるものを防ぐためにも、二人は時々こうやって、意識して別々の時間を過ごすようにしていた。


 春の柔らかな木漏れ日を閉じたまぶた越しに感じながら、ミモザは微笑む。素晴らしく整ったその顔は、天使のそれを思わせるものだった。


(ああ、幸せだなあ)


 幾度繰り返したか分からないそんな言葉を、彼は心の中でつぶやく。


(やっぱり、あの時の僕の直感は正しかったな)


 ジュリエッタには内緒にしていたが、彼は生まれ落ちて彼女と目が合ったその瞬間に確信していたのだ。この女性こそが、自分のつがいになる存在なのだと。


 だから彼は、ためらうことなく彼女についていった。


 まだ小さな足をせっせと動かして彼女の家までついていき、どうにかして中に入れてもらおうと大騒ぎした。ミモザという名前をもらえた時は、とても嬉しかった。


 彼女は彼のことを愛玩動物か何かのように扱っていたが、彼は気にしていなかった。


 このまま成長していけば、いずれ自分は人の姿になることができる。それも、彼女に釣り合う立派な一人前の男性の姿に。


 その時の彼女の驚いた顔を想像して、ミモザは小さな胸を期待で高鳴らせていたものだ。


 けれどその計画は、大幅な変更を余儀なくされてしまった。一緒に暮らした初めての冬、ジュリエッタは病に倒れてしまったのだ。


(あの時は、本当に怖かったな。今でも、思い出すと泣きそうになる)


 竜の秘薬があれば、彼女を死の淵から呼び戻せる。けれど、秘薬を生み出せるのは成熟した竜だけ。


 あの時の幼いミモザには、なすすべもなかった。意識のないジュリエッタに寄り添って、彼はずっと泣き続けた。自分の無力を呪いながら。


 飲まず食わずで泣き続けて、そのまま気を失って。次に目覚めた時、彼は人の姿になっていた。


 竜以外の姿になることができた。それはすなわち、彼が一人前の竜になったことを意味していた。本来ならば、成熟まではまだまだ時間がかかるというのに。


 どうしてそんなことになったのかは分からない。けれどその時の彼にとって、そんなことはどうでもよかった。これでジュリエッタを助けられる。彼の頭には、そのことしかなかった。


(あの時はとにかく必死で、彼女を助けることしか考えてなかったけど……まさか子供の姿になっちゃうなんて思いもしなかったよ。すぐに大きくなれたからいいようなものの)


 ジュリエッタを助けることはできた。しかし彼が子供の姿になってしまったことで、彼女は彼のことを子供扱いし始めたのだ。


 彼女と会話ができるようになったのは嬉しかったが、彼は彼女の子供ではなく恋人になりたかったのだ。


 予定と違う、こんなはずじゃなかったのに。そんな言葉を、彼は幾度となくのみ込んでいた。


(でも、そうやって子供の姿から始められたのも、結果としては良かったのかもしれないね)


 人の姿になり、ジュリエッタと共に過ごし、色んなことを話しているうちに、ミモザは彼女の過去を知った。


 愛した男性に二度も裏切られた彼女は、男性に対してどこか不信感のようなものを抱いていた。人間に対して、距離を取りがちなところがあった。


 もしミモザがいきなり成熟した男性の姿となっていたなら、ジュリエッタは彼のことも避けてしまっていたかもしれない。


 小さな竜として彼女の暮らしに加わり、人間の子供として彼女と共に歩く。あの時間は無駄ではなかったと、今の彼には理解できていた。


(そうは言っても、彼女に男性として意識してもらうのは大変だったな。あれこれ工夫して、祭りの雰囲気まで利用して)


 忘れもしない、二人で初めて参加した百花祭り。東の街が花で満たされた、あの夢のようなひと時。


 あの時ようやく、ジュリエッタは気づいてくれたのだ。彼がもう、手を引かれて歩く小さな子供ではなく、彼女と並んで歩く一人前の存在なのだということに。


(あれからも、色んなことがあったなあ)


 ジュリエッタが人間として幸せになれるようにと、身を引こうとしたこともあった。


 彼は彼女のことを愛していたから、何よりも彼女の幸せを優先させたかった。彼女と離れることは身を引き裂かれるくらい辛かったけれど、それでも彼女が笑っていられるのならそれでいいと思えたのだ。


(……本当は、今でもまだ迷っているんだ。あの時のあなたの決断が正しかったのか、僕がそれを受け入れてしまって良かったのか、って)


 彼女は何も後悔していないようだったけれど、今でもミモザの胸には小さなとげが刺さったままだった。ごく普通の人間として平穏に生きるという人生をジュリエッタから奪ってしまったという後ろめたさが、彼の胸をちくちくと刺していた。


「……ううん、ぐずぐずと悩むなんて、らしくないよね」


 ミモザは目を開ける。輝く太陽にも負けないきらきらとした金の目が、まっすぐに空を見つめる。


「僕たちはいつだって、笑って困難を乗り越えてきたんだ。二人一緒に」


 ヴィートとの再会も、ヴィットーリオとの出会いも、国を丸ごと巻き込んだ大騒ぎも。いつも二人は手を取り合って、軽やかに駆け抜けてきたのだ。


「そろそろ晩御飯の支度をしようかな。時間はたっぷりあるし、何か手のかかるものにするのもいいかも」


 あれこれと手を動かしていた方が、余計なことを悩まなくていい。ミモザはゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをした。


 大きな塊肉と滋味たっぷりの野菜を香草と一緒にじっくりと煮込んで、塩で味を調えた煮込み料理にしよう。ジュリエッタの好物であるその料理はとにかく時間がかかるので、たまにしか作っていなかったのだ。


「肉と野菜は買い置きがあるし、香草を少し摘んでこようか。あっちの水辺の近くに生えていたよね、確か」


 そんなことをつぶやきながら、ミモザはのんびりと歩き出す。ジュリエッタの喜ぶ顔が今から楽しみでならない。彼の口元には、大きな笑みが浮かんでいた。




 夕暮れ時、大荷物を抱えたロベルトを従えて戻ってきたジュリエッタは、辺りに漂うかぐわしい匂いに目を見張っていた。


「ただいま、ミモザ。この匂いって、もしかしてあの煮込み?」


「おかえり、ジュリエッタ。うん、そうだよ。暇だったし、あなたが喜ぶかなって」


 ミモザがそう答えると、ジュリエッタはきゃあと歓声を上げて彼に抱き着いた。


 その温かく柔らかな感触に幸せを感じながら、彼はしっかりと彼女を抱き留める。彼女の髪に顔をうずめ、泣きたくなるくらい懐かしくて愛おしい香りに目を細めた。


 ぴったりと寄り添う二人に、小屋の入口から遠慮がちな声がかけられる。そちらを見ると、山のような荷物を持たされたロベルトが力なく立っていた。


「あの、この荷物はどこに置けばいいのでしょう? 私、もうへとへとで……」


 二人は笑いながらロベルトに歩み寄り、彼が抱えていた荷物を手分けして運び込んだ。大荷物から解放されたロベルトが、疲れ切ったため息をついて床にへたりこむ。


「ねえ、ロベルトも食べていかない? 多めに作ってあるし、今日のは自信作なんだ」


 ミモザがそう声をかけると、ロベルトは弱々しく微笑みながら、ご相伴に預かります、と礼儀正しく、しかし弱々しく答えていた。その様子がおかしくて、ジュリエッタと二人くすりと笑う。


 そうしてミモザはジュリエッタと一緒に、食事の準備を始める。煮込みをよそって、皿を並べて、買い置きのパンとチーズを軽くあぶったものを並べて。添えてあるジャムは、ジュリエッタが一工夫した、さっぱりとした甘さのものだ。


 外はもう薄暗くなっていて、優しい夜の闇がゆっくりと辺りを包み始めていた。一番星が、ひときわ明るく輝いている。


「ああ、本当に幸せだなあ」


 ミモザのそんなつぶやきが聞こえていたのか、ジュリエッタが優しく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る