第59話 幼い王の幸せな今日

 レオナルドは上機嫌だった。こんなにも素敵なことがあっていいのだろうかと、彼は小さな胸を高鳴らせていた。


 まだ七歳の彼は、ついこの間までずっとふさぎ込んでいた。


 大好きな兄ヴィットーリオが、視察の途中に行方不明になってしまったと、そう聞かされたのだ。いくら探しても兄は見つからず、彼はべそをかきながら自室に引きこもる日々が続いていた。


 ファビオが心配してあれこれと声をかけてくれていたけれど、レオナルドの涙が乾く日はなかった。


 けれどついに、兄が帰ってきてくれた。それも、驚くほどたくましくなって。


 しかも、ロベルトも一緒に。レオナルドはロベルトのことも好きだったから、彼らの無事が嬉しくてたまらなかった。


 さらに兄は、すごい人を連れてきていた。辺境の森に住む魔女様だ。


 兄に読んでもらった絵本に描かれていた魔女様が、レオナルドの目の前にいた。さらさらと揺れる銀の髪に、宝石のようなすみれ色の目。


 そして想像していたよりずっと綺麗で、ずっと優しそうな彼女は、レオナルドににっこりと笑いかけてくれた。


 レオナルドの驚きには、まだ続きがあった。兄が帰ってきた夜、王宮のテラスに大きな白い竜が姿を現したのだ。


 きっとあの竜は、辺境の森に棲むという魔物なのだろう。けれど月の光を受けてきらきらと輝くその姿はとても美しく、清らかだった。魔物というよりも、神の使いのようだとレオナルドは思った。


 そしてその竜は人の姿になり、ミモザと名乗った。「僕が竜だってよそに知られたら大騒ぎになっちゃうから、内緒にしてね」とミモザに頼まれてしまったレオナルドは、目をきらきらと輝かせて首がもげそうなほどうなずいていた。


 そうやって、レオナルドの壊れてしまった日常は、元よりもずっと素敵なものに変わったのだった。




 今日もレオナルドは、勉強に励んでいた。ふさぎ込んでいたせいで遅れていた分を頑張って取り戻して、早く立派な王になるために。


 兄たちが帰ってきたことで、彼は兄たちがいなくなった真相を知ることができた。そしてその事実は、レオナルドを打ちのめすに十分なものだった。


 自分が弱くて幼いせいで、こんなことになってしまった。だから強く賢くなって、兄を守れるようになりたい。それが今の、レオナルドの望みだった。


「レオナルド、頑張るのはいいが休憩も大切だぞ」


「あっ、にいさま」


 勉強が一段落ついた頃合いを見計らったかのように、ヴィットーリオが顔を出した。その後ろには、ジュリエッタとミモザも立っている。


「遊びに来たわよ、レオナルド」


「今日は何をしようか?」


 ロベルトよりもファビオよりも若い見た目のこの二人は、まるで我が家を歩いているかのように堂々と王宮をうろつき回っている。


 けれど誰も、彼女たちをとがめることはなかった。それもそうだろう、気まぐれだけれどとても親切なこの二人がいなければ、この国は遠からず大変なことになっていたのだから。


 それにレオナルドにとっては、この二人は兄の命の恩人だった。自分に幸せを返してくれた人だった。


 そして、そんなことを抜きにしても、レオナルドはジュリエッタたちのことが好きだった。彼女たちと遊べることが嬉しくて、レオナルドは思わず歓声を上げる。


「だったら、お話が聞きたいです!」


 彼は興奮で頬を赤く染めながら、三人を部屋に招き入れる。年相応の明るさを取り戻した彼の姿を、教師とメイドが微笑みながら見送っていた。




 レオナルドは、ジュリエッタたちの話を聞くのが好きだった。


 どれくらい遠くにあるのか見当もつかない辺境の、静かな森の中に建つ小屋。そこでの暮らしは、レオナルドの想像を遥かに超えるものだったから。


 そして、一時とはいえヴィットーリオとロベルトもそこで暮らしていたという事実は、レオナルドをさらにわくわくさせるものだった。


「自分で育てて収穫した野菜が、その日の晩餐になるのですか……」


「そうだ、レオナルド。手にまめを作って、汗をかきながら毎日世話をして、ようやく実りが得られるのだ。あの時の食事は、一段と美味だった」


「いいなあ、ぼくも食べてみたい……」


 それまでに兄がしてきた苦労も、抱え込んでいた苦悩も実感できていないレオナルドは、無邪気にそう答える。


 しかしヴィットーリオは嫌な顔一つせず、明るく弟に笑いかけた。


「そうだな。今はまだ難しいが、国が落ち着いてきたらそういった機会を持てるかもしれない。だから頑張るのだ、レオナルド。私もついている」


 その言葉に、レオナルドがこくんとうなずく。と、横合いから軽やかな声が割って入った。


「じゃあ、その辺に畑でも作ってしまいましょうか?」


「中庭の片隅なら、ちょっとくらい耕しても問題ないよね」


「ジュリエッタ様、ミモザ様……おそらくファビオが反対すると思うのですが」


 困った顔をするヴィットーリオに、大人二人はにやりと笑う。


「そんなもの、強行突破すればいいのよ。これも帝王教育なんだって押し通せばいいわ」


「そうそう。民がどうやって暮らし、どんなことを思うのか身をもって知るのも、王様には大切なことだよ」


 一見もっともらしいことを言っているようで実は面白がっている二人と、複雑な顔をしているヴィットーリオ。


 そんな三人を見て、レオナルドはくすぐったそうに笑い声を上げていた。




 その日の夜、レオナルドはヴィットーリオの部屋を訪ねていた。


 離れていた時間を埋めるかのように、彼はことあるごとに兄と話したがっていた。昼間にもお喋りをしたというのに、彼はまだまだ足りないと感じていたのだ。


 窓辺に二人並んで、夜空を見上げながらとりとめもないことをのんびりと話す。それは今のレオナルドにとって、一番幸せな時間だった。


「にいさまが無事に戻ってきてくれて、本当に良かったです」


 レオナルドが、胸に満ちる素直な思いをそのまま告げる。それを聞いたヴィットーリオが、くしゃりと顔をゆがめた。


 さっきまでの穏やかな様子とは打って変わって、苦しそうに目を伏せている。そうして彼は、窓の外をまっすぐに見つめたまま口を開いた。


「……私は、一度はこの国を捨てて逃げようとした。自分が生き延びるために。ロベルトやジュリエッタ様、ミモザ様に守られるただの子供であろうとしたんだ」


 レオナルドがきょとんとした顔で、隣のヴィットーリオの顔を見上げた。弟の肩をしっかりと抱きしめて、ヴィットーリオは続ける。


「私はお前を見捨てた。本当なら、私はお前の兄を名乗る資格などないのかもしれない」


「にいさまは、にいさまです。ぼくの大切な、大好きなにいさまです」


 それはレオナルドの掛け値のない本心だった。かつて兄が何を考えていたとしても、こうしてちゃんと自分のもとに戻ってきてくれた。それだけで、彼はこの上なく幸せだった。


 だからレオナルドは、ありったけの思いをこめて兄をぎゅっと抱きしめた。彼の腕の中で、兄がかすかに震えている。


「にいさま、どうしたのですか。どうして泣くのですか」


「……ここに戻ってきて、本当に良かった。ありがとう、レオナルド。私を受け入れてくれて。私はお前を、誇りに思う」


 レオナルドは、兄が何を言っているのか良く分からなかった。それでも、兄が自分を愛してくれているということだけは理解できた。


 彼はにっこりと微笑んで、兄を抱きしめる腕に力をこめた。兄の肩越しに、満天の星空が見えている。


 きっと明日も、良く晴れるだろう。明日は兄を誘って、王宮を散歩しよう。もしかしたら、またジュリエッタたちと遊べるかもしれない。


 素敵な明日の予感に、レオナルドはくすくすと笑う。いつしかヴィットーリオも、小声で笑っていた。


 二人の子供の笑い声は、その後もしばらく続いていた。

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