第54話 おかえりなさい

 扉の向こう、テラスにたたずむミモザの姿。その姿を見た時、考えるより先に体が動いた。


「ミモザ!」


 そう叫んで背後の扉に手をかけ、一気に押し開ける。ヴィットーリオとレオナルド、それにロベルトをテラスに向かって押し出して、一緒に外に出た。


『ごめんね、遅くなっちゃった』


 ずっと聞きたいと願っていた彼の声に、自然と涙があふれてくる。袖でぐいと涙をぬぐいながら、思いっきり走る。


 彼が差し伸べてくれた手に駆け寄って、大きな指に抱き着いた。固い鱗の感触が、とても懐かしい。


「ああ、良かった! このまま目覚めなかったらどうしようって、ずっと心配で」


『大丈夫、もうすっかりいつも通りだから。心配かけてごめんね』


「いいえ、そもそも私が無茶したのが悪いのよ。あなたが謝ることはないわ」


 彼は笑いながら、私をそっと拾い上げる。そのまま彼の手のひらに乗り、彼と間近で向かい合う。空の月よりももっと美しい、素敵な金色の目。


 ずっと、この目が見たかった。また浮かんできた涙を拭いもせずに、まっすぐにミモザを見上げた。


「それよりも、どうしてここが分かったの?」


『眠っていた間も、音だけは聞こえていたんだ。だからあなたたちが今夜王宮に向かうことも、ちゃんと知ってたんだよ。だったら、テラスから追いかけたほうが楽かなって』


「そうだったの……」


 どうやら、今までの私の泣き言は全て聞かれてしまっていたらしい。思いもしなかった告白に、ちょっと焦る。


 彼が倒れてしまってから、私は眠る彼にそれはもう色々なことを話しかけ続けていた。泣き言とか、面と向かっては言い辛いようなことも。……ミモザが戻ってきてくれたのは嬉しいけれど、恥ずかしい。


『あなたって、強がっているけど意外と泣き虫だよね。そんなところも可愛いんだけど』


 私の思いを見透かしたかのように、ミモザが言う。頭の中に直接聞こえてくるその声には、はっきりとした笑いの響きがあった。


「もう、ミモザったら! からかわないで」


『からかってないってば。僕がいないと駄目なんだなって、嬉しくなっただけだよ』


 恥ずかしさにいたたまれなくなって、目の前にあるミモザの大きな爪をぺちりと叩く。と、ミモザが小さく声を上げて笑った。頭に響くあの声ではなく、竜の大きな声帯を震わせて。


 静かな夜の闇に、彼の鳴き声が吸い込まれていく。


 私は彼の指につかまったまま、全身でその響きを聞いていた。普通の人間ならおびえきってしまうだろうその音は、とても私を安心させてくれていた。




 ひとしきり笑った後、ミモザはくりんと首をかしげた。ちっちゃな竜だった頃を思わせる、とても可愛い仕草だった。


『ところで、そっちは今どういう状況だったの? なんだかたくさん兵士がいるみたいだけど』


「あらいけない、忘れてたわ」


 ミモザとの再会が嬉しくて、ファビオと兵士たちのことをきれいさっぱり忘れてしまっていた。ヴィットーリオたちのことも、テラスに押し出したところまでしか覚えていない。


 大きなミモザの手から落ちないように気をつけながら、そっと下を見る。


 ヴィットーリオたちは、三人一緒にミモザの足元に避難していた。つい存在を忘れ去っていたことに罪悪感を覚えつつ、ほっと胸をなでおろす。


 そして何となく予想していた通り、兵士たちはみな腰を抜かしてしまっていた。いきなり現れた大きな竜に驚きすぎて、床にへたり込んだままはって逃げようとしている。


 しかしよく見ると、ファビオだけは逃げようとしていなかった。彼はしっかりと立ったまま、まっすぐにこちらを見つめている。


 呆けたようなその顔からは、先ほどまでのかたくなで興奮したような色は抜けていた。


 その顔を見た時に、ぴんときた。今なら、私たちの言葉が彼に届くかもしれない。理論と恐怖でできた硬い鎧がはがれている、今なら。


「ミモザ、戻ってきてすぐに何だけど、ちょっと手伝って欲しいの」


『もちろん。僕があなたの頼みを断ったことがあった?』


 いたずらっぽくそう答えるミモザに、思いついたことを手短に説明し始めた。




 それからの光景は、ファビオや兵士たちにとっては信じられないものだっただろう。夢を見ているのではないかと疑った者も一人や二人ではなかったと思う。


 ミモザは片手に私を乗せたままかがみ込むと、もう片方の手にヴィットーリオを乗せて身を起こしたのだ。レオナルドとロベルトを守るかのように、長い尻尾をくるんと前に巻き込んで壁にしている。


 月光に照らされた大きな白い竜が、うやうやしく胸元に少年を掲げ持っている。その姿は、もしかすると神々しくさえあっただろう。私は真横から見ているから、あまり実感はないけれど。


 ファビオたちはみんな、凍りついたように動けなくなっている。こちらを食い入るように見つめるその顔には、恐怖とも畏怖ともつかない表情が浮かんでいた。


「ファビオ、もう一度話を聞いてくれ」


 ミモザの手の上で、ヴィットーリオが朗々と声を張り上げる。


 夜風になびく金の髪が、月光に照らされてきらきらと輝いていた。まるで王冠のように。


 その声に導かれたかのように、ファビオがふらふらとおぼつかない足取りで数歩進み出た。そんなファビオをじっと見つめながら、ヴィットーリオがさらに言葉を続ける。


「お前は、この国のことを心底案じてくれている。そのことは理解した。だが、もっと良いやり方があると私は思うのだ」


 ファビオは動かない。ほんの少し口を開けたまま、ぽかんとヴィットーリオを見つめている。周囲の兵士たちもみな、魂を抜かれたような、そんな顔をしていた。


「私は民を虐げることなく、この国を守りたい。そのために、私は持てる全ての力を使おう」


 まるでファビオを優しく諭すかのように、ヴィットーリオの声が優しく響く。王が民を慈しむような、そんなまなざしがファビオたちに注がれていた。


 こちらを見上げたままのファビオの瞳が、不安定に揺らぐ。


 ヴィットーリオは私たちの小屋で暮らし、そして一緒に旅をしている間に、驚くほどの成長を遂げていた。追放された悲しみに涙していた子供は、民のために危機に立ち向かう少年になっていた。


 そのことを、とても誇らしく思う。彼の力になれたことを、そして今力を貸せることを。


 笑みを浮かべて、口を開く。きっと私がここに来たのは、今ここでこの言葉を告げるためだったのだと、そんな確信めいたものを感じながら。


「私は魔女、白き竜を伴侶とし、北の辺境に住まう者」


 そう宣言して、厳かに言葉を続けた。


「私たちはつい最近、隣国を見てきたわ。あなたが言っている隣国の姿とは、色々と食い違っていた。今すぐにこの国が攻め落とされるようなことはないと、私はそう思う」


 声を張り上げると、ファビオはのろのろとこちらを見上げた。憎らしいあの男と同じ顔は、あの男が一度たりとも浮かべたことのない、助けを求めてすがるような表情をしていた。


 その時、ようやく実感できた。前世のあの男とファビオとは恐ろしいほどよく似ているけれど、間違いなく赤の他人なのだと。


 あれから百年以上の時が経っている。憎むべきあの男は、もうとっくに土の下だ。それが分かっていてなお、私はあの男への憎しみを思い出していた。そのかけらを、ファビオにぶつけていた。


「……過去にとらわれてもろくなことがないって、ヴィートの時に学んだはずなのにね。私もまだまだ未熟だわ」


 そんな私の小さなつぶやきは、夜風に散らされて消えていった。きっと、ミモザ以外の誰にも聞こえなかっただろう。当のミモザは、大きな目をこちらに向けてわずかに微笑んでいた。


 彼にそっと微笑み返して、またファビオたちに言い放った。


 魔女の名にふさわしく、威厳たっぷりに、そして思いっきり偉そうに。この存在にならすがってもいいのかもしれないと、彼らが勘違いできるように。


「もし隣国が攻めてくるというのなら、私たちがこの国を守ってあげるわ」


 そうして、ゆっくりとミモザのほうを見る。彼も、目を細めて私のほうを向いた。


「この王都にはあまりいい思い出はないし、この国自体にも愛着はないけれど……この国に住まう人たちを守りたいと、そう思うから」


 東の街のバルガス達の顔がよみがえる。彼らはあんな無茶をやらかしてでも、あそこでたくましく生き抜こうとしていた。そんな彼らがこれ以上苦しむのを、黙って見過ごすのは嫌だった。


 月光に満ちたテラスが、しんと静まり返る。誰も動かない。いや、動けないのだろうか。


 やがて、ファビオはゆっくりと息を吐いた。こちらを見上げていた彼の顔が、力なく下がっていく。そうしてそのまま、がっくりと膝をついた。糸の切れた操り人形のように。


「ヴィットーリオ様……申し訳、ありませんでした」


 切れ切れにそれだけの言葉を口にした後、ファビオはテラスの石畳に額をつけて、うずくまってしまった。


 彼のはるか後方では、同じように膝をついた兵士たちが、黙ったままうなだれていた。

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