第52話 面影がいっぱい

 陛下、ご無事ですか。部屋に駆け込んできた男のそんな叫びを、数秒遅れてようやく理解する。


 ヴィットーリオがここにいることに驚いている男。ロベルトを見て心底嫌そうな顔をした男。


 私はただ、そんな彼をじっと見つめることしかできなかった。今の状況も何も、まともに考えられない。だって、目の前の男の顔ときたら。


 ファビオと呼ばれた彼は、前世の私を裏切って捨てたあの男と、それはもうよく似ていたのだ。


 表情や雰囲気はさすがに違っているものの、顔立ち自体は同一人物だと言われても驚かないくらいに似ていた。間違いなく他人の空似と分かっているのに、気味が悪くてたまらない。


 目の前には、前世のあの男にそっくりな男性。背後には、他の女に騙されて私を捨てたあの男によく似た子供たち。


 なんだこれは。冗談にしてはたちが悪いし、偶然にしてはできすぎている。


「ヴィットーリオ……様。貴方は……街道の果てで暮らしておられると、そう聞いていましたが……」


 ファビオが呆然とつぶやく。彼の視線は私を通り越して、背後にいるヴィットーリオに向けられているようだった。


「いや、私は辺境の森で過ごしていた。ロベルトが私を、そこに導いてくれたのだ」


 そっと背後をうかがうと、レオナルドの肩を抱いたヴィットーリオの姿がちらりと映った。彼はとても凛々しく、力強い目をしていた。


「こちらの魔女様と共に、私は暮らしていた。そこで、王族としての身分を捨てて生きるための訓練を積んでいた」


 その言葉に、レオナルドがさっと青ざめる。二人の背後では、ロベルトが目を伏せて神妙にたたずんでいた。


「だが……このままではいけないと、そう思う。だから私は魔女様の力を借りて、こうしてここに戻ってきた。レオナルドと話し、この国を正すために」


 ファビオの目が、一瞬だけ私に向けられた。彼と目が合った一瞬、背筋を嫌悪感が走り抜ける。別人だと分かっていても、どうにも抑えようがない。


 と、ヴィットーリオがすっとこちらに歩み寄ってきた。ファビオと向かい合うようにして立ち、恐ろしいほどの威厳を漂わせて言う。


「ファビオ、お前はレオナルドの陰で民を虐げている。それに相違ないな」


「……はい」


「ならばなぜ、そのような真似をした」


 けれど、ファビオは答えない。やけに疲れたような顔をわずかにゆがませて、唇を噛んだまま黙りこくっている。


 そんな彼を見ながら、ぼんやりと考えた。


 前世から続く長い人生の中で、私が愛し、かつ憎んだ男性は二人。前世のあの男と、そしてヴィットーリオとレオナルドの高祖父であるヴィートだ。


 ヴィートとは、一応和解できたと思う。少なくとも、彼の真意を知り、謝罪の言葉をもらえた。思うところはあるけれど、それで十分だ。


 でも、前世のあの男がどうなったかは知らない。彼の思いを聞くことも、恨み言をぶつけることもできなかった。


 あの時の苦しみが、あの時に流した涙の感触が、ファビオの顔を見た拍子によみがえる。ミモザと幸せに暮らしていたこの百年、ずっと胸の奥深くにしまい込まれていた思いが。


 けれど、涙は浮かんでこなかった。苦しくもなかった。代わりにわき上がってきたのは、はっきりとしたいら立ち。


 一、二発ぶん殴ってやったらすっきりするかしらなどという物騒な考えを、あわてて胸の奥に押し込める。彼は別人なのだから、八つ当たりしては駄目だ。あの顔面、見ているだけで腹が立つけれど。


 そんな風にあらぬことを考えている間も、ヴィットーリオはファビオを根気よく問い詰めていた。


「答えよ、ファビオ。私はお前が訳もなく国を乱す男だとはどうしても思えないのだ」


 その言葉に、ファビオの肩がぴくりと動く。


「お前だけではない、みなこの国のためを思ってくれているのだと、私はそう信じている。お前たちがこのような行動に出たことには、きっと何か理由があるのだろうと」


 ヴィットーリオは、どこまでもまっすぐだった。今でも彼は、王宮の者たちを信じていた。追放されても、殺されかけても。彼らが私腹を肥やしているのだという噂を聞いても。


 ファビオは目を見開いて、そんなヴィットーリオを食い入るように見つめていた。その唇がかすかに震えている。どうにも顔色の悪い彼は、まるで倒れそうに見えた。


 と、消え入るような声でファビオが言った。


「……貴方がそのような方であるからこそ、私たちは貴方を王として戴くことができなかったのです」


「それは、どういう意味だ」


 しかしまた、ファビオは口を閉ざしてしまう。まったく彼は、何を考えているのだろうか。あんまり手間取るようなら、無理やりにでも口を割らせるしかないか。


 眉間にしわを寄せて、ファビオを観察する。その時、ふとおかしなことに気がついた。


 ファビオは、王であるレオナルドの補佐だ。それはもう偉い人間のはずだ。それに民の噂によれば、彼は王に隠れて私腹を肥やし、好き勝手に生きている連中の一人のはずだ。


 しかし目の前の彼は、奇妙なほどやつれていた。ぱっと見立てたところでは過労と睡眠不足、あと栄養も足りていない。


 医術に携わる者であれば誰だって、今すぐ休養しろと即座に断言するだろう。それくらいに、彼はよろよろのぼろぼろだったのだ。


 おかしなことは、もう一つある。この部屋の中には、先ほどまき散らしたマジマの粉がまだそれなりに漂っている。解毒剤を飲んでいる私たちはともかく、どうしてファビオは普通にしていられるのだろうか。


 これだけ疲れ切っている状態なら、マジマの粉はさぞかし良く効くだろうに。まさか、彼はもう解毒剤を飲んだのだろうか。


「……なんでマジマの粉が効いていないのかしら」


 思わず口にしたそんな言葉に、ファビオがまたこちらを向いた。ヴィットーリオの追及から逃れようとしているらしい。


 しかしその目の下には、くっきりとクマが刻まれている。元の顔立ちが整っているだけに、もったいない。


「私は仕事柄、徹夜も珍しくないのです。眠気覚ましの薬をしょっちゅう口にしていますから、この程度の量のマジマの粉など効きはしません」


 律儀にもそう答えた彼の顔は、どこか得意げですらあった。不摂生を自慢するのは感心しないけれど、ひとまず彼がここまでやつれている理由は分かった。


 それはそうとして、私の違和感は大きくなるばかりだった。彼はどうして、そこまで身を削って職務に励んでいるのだろうか。


 見たところ今の政治は、民からあれこれを力ずくでむしり取っているだけだ。正直言ってかなり簡単だろうし、そんなに手がかかるようには思えない。


 ならば彼は、いったい何に必死になっているのだろうか。


 しかし、その問いを口にする余裕はなかった。ちょうどその時、遠くから人の気配が近づいてきたのだ。金属の鎧が立てるかちゃかちゃという音が、いくつもこちらに向かってきている。


「ヴィットーリオ様、ジュリエッタ様。そろそろここも危なくなっているようです」


 今までずっと周囲を警戒していたロベルトが、険しい声でささやいてくる。


 この王宮は広い。私はかなりの量のマジマの粉を風に乗せて送り込んだものの、王宮にいる全員を眠らせるなんて芸当は無理だ。


 だからそのうち誰かが異常に気がついて、ここまで駆け込んでくるに違いない。そう覚悟していたけれど、思ったよりも早かった。


「仕方ないわ、そろそろ引きましょうか。ヴィットーリオ、あなたは兵士たちと争いたくはないんでしょう。また改めて来ればいいわ」


 ミモザが目を覚ましたら、取れる手はもっと増える。それから改めて、またここに来ればいい。王であるレオナルドが敵ではないことははっきりした。それだけでもかなりの収穫だ。


 私の大胆な発言に目を白黒させているファビオを無視して、ヴィットーリオの肩にそっと手を置く。ロベルトがしなやかな動きで、ヴィットーリオを守るように隣についた。


「ところで、あなたが邪魔なのだけれど。帰るから、どいてもらえない?」


 半歩踏み出して、ファビオをまっすぐに見つめる。いら立ちを押し込めて、にっこりと笑いかけた。


 その笑みに不穏なものを感じ取ったのか、ファビオが戸惑いながらわずかに後ずさる。その隙を逃さず、大きく踏み込んで右手を横に振りぬいた。彼の頬を狙って。


 意味もなく彼を殴ろうとした訳ではない。あくまでもこの右手はおとりで、この行動にはちゃんとした理由がある。……平手打ちが決まったら気持ちいいだろうなあと、そう思ったことは否定できないけれど。


 そして突然のことに反応できなかったのか、私の右手は彼の頬にきれいにぶち当たってしまった。あら、ここまで見事に当たるなんて。


 驚きに目を見張りながら、ファビオが体勢を立て直す。そこを狙って、こっそりと左手に握りこんでおいたマジマの粉を思いっきり叩きつけた。ファビオの顔面目がけて。


 粉が舞い上がり、彼の顔を包み込む。さすがのファビオも、これにはひとたまりもなかったらしい。彼の目がうつろに曇り、ふらりとよろめいた。


 ゆっくりと膝をつき、床に倒れ伏すファビオ。安らかな寝息を立てている彼の頬には、私の手の跡が薄く浮いていた。


「……その、ジュリエッタ様。眠り薬をぶつけるのであれば、殴る必要はなかったのでは……私も彼のことは気に入りませんが」


「最初の平手はおとりよ。かわして体勢が崩れたところに、粉をお見舞いしてやろうとおもったのだけれど……彼、よほど疲れているのね」


 彼を見ているとどうしてもいら立ってしまうし、彼がレオナルドの陰で悪さをしていたかもしれないと考えたらなおさら腹立たしかった。


 ただ、それでも彼のやつれっぷりを見ていると、せめて今くらいはゆっくり休んで欲しいと、そんなことも思ってしまうのだった。


 彼が何を考えてヴィットーリオを追放したのか、その辺りの事情は知りたかったけれど。それは、また今度にお預けかな。


「さあ、今のうちに逃げましょう」


 そうして私たち三人が部屋を出ようとした、その時。


「にいさま、ぼくも行きます。もうにいさまと離れ離れになるのは嫌です」


 レオナルドが駆け寄ってきて、ヴィットーリオの腕にしっかりとしがみついた。ヴィトーリオは戸惑いながらも、その手を振り払うことなくこちらを見た。ロベルトも、静かに私を見ている。


 私が迷ったのは、ほんの一瞬だけだった。


「そうね、じゃあみんなで行きましょうか」


 はぐれないように手をつないで、廊下に飛び出していった。四人一緒に。

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