第47話 失くしたもの

 見覚えのある場所に、私は立っていた。


 地面はふわふわの白い雲。目の前には抜けるように青い空が広がっていて、虹色の雲がすぐ近くに漂っている。誰もいない、静かで美しい不思議な世界。


 ここに来るのは三度目だ。一度目は前世で死んだ後のことで、そして二度目はあの小屋で病に倒れた時だった。たぶんここは、死後の世界なのだろう。


 一度目はそのまま、今の自分として生まれ変わった。二度目の時は、ミモザが雲の下に引き戻してくれた。


 だったら早く、ここから出ていかないと。いやそもそも、どうして私はここにいるのだろう?


 呆然としながら、今までのことを必死に思い出してみる。


 確か、ずっと話していた中年の女性がヴィットーリオに迫って……危ないと思って、とっさにその間に割り込んで……ああ、彼女の手元で鈍く光っていたのは細長い刃物だった、やっと思い出した。


 理由は分からないけれど、あの女性は刃物でヴィットーリオを襲おうとしていた。それをかばって、私はまた死にかけている。そういうことだろう。


「……だったら、待つしかないわね」


 状況は理解した。それでも私はうろたえることなく、ただじっと待っていた。きっとまた、ミモザが私を呼び戻してくれる。そう信じていたから。


 柔らかな雲を踏みしめ、まっすぐに立って遠くを見つめる。そのままじっと、待ち続けた。


 と、どれくらいそうしていたのか、突然口の中にしびれるような甘い味が広がった。


 これはミモザが年に一度私に与えてくれる、竜の秘薬の味だ。そういえばそろそろ、今年の分をもらう時期が近づいていた。病を遠ざけ、体を強くする秘薬。


 ずっと前に、私を死の淵から呼び戻してくれたのもこの薬だ。だったら今回も、きっと。


 すぐに、じんわりと体が温かくなってくる。私の体を包み込むような、柔らかく優しい感触。間違いない、ミモザが私を呼び戻そうとしているのだ。


 確信と共に目を閉じると、すぐに意識が遠のいていった。




 目覚めると、そこは馬車の中だった。荷物をどけて毛皮を敷いた上に、私は寝かされていた。傍らには真っ青な顔のミモザがいて、震える手で私の手を強く握りしめていた。


「ジュリエッタ……良かった……」


 彼の顔は、涙に濡れていた。さらに涙をこぼしながら、彼は輝くような笑みを浮かべている。どれだけ彼に心配させてしまったのか、その顔が全て物語っていた。


「ごめん……僕、少しだけ、眠るよ……必ず、戻ってくるから……待って、て」


 切れ切れにそうつぶやくと、ミモザはふらりと崩れ落ちた。横たわったままの私の肩に額をつけるようにして、そのままゆっくりと隣に倒れこむ。


「どうしたの、ミモザ?」


 ミモザの異変にうろたえながら、そっと身を起こしてミモザを軽く揺さぶる。けれど彼は固く目を閉ざしたまま、身じろぎ一つしなかった。


 かすかに眉間にしわを寄せたその顔は、今まで見たこともないほど白かった。そのあまりの白さに、心臓が嫌な感じに乱れ打つ。


「ジュリエッタ様……」


 横合いからの声に振り向くと、馬車の片隅でヴィットーリオとロベルトが身を寄せ合ってこちらを見ていた。二人とも一睡もしていないのか、顔色がひどく悪い。


 この二人なら、何が起こったのか知っているに違いない。いきなりミモザが倒れてしまった、その理由についても。


「ねえ、何があったのか教えてもらえないかしら? どうしてミモザはこんなことに?」


 私の問いに、ロベルトが重い口をゆっくりと開いた。


「……あの女性は、どうやら暗殺者だったようです。眠りに誘う香と、あの話術でこちらの注意力を奪い、隙をついてヴィットーリオ様を襲おうとした。失敗だと悟るや否や、速やかに逃げ去っていったので確証はありませんが、おそらくはそういうことかと」


「私は……また、ジュリエッタ様に助けていただきました。私の代わりに、ジュリエッタ様が暗殺者の凶刃を受けられて……」


 ロベルトの腕は、ヴィットーリオの肩にしっかりと回されていた。それはまるで、ひな鳥を守る親鳥のようにも見えた。ヴィットーリオも彼の腕の中で、かすかに震えている。


「騒ぎで目が覚めた私たちは、ただちに貴女の手当てをしようとしたのですが……」


 二人の目線が一斉にミモザに注がれる。それでもミモザは、ただ静かに眠り続けていた。


「……私たちには手の施しようがありませんでした。ミモザ様が『僕が必ず彼女を呼び戻すから』と言って、一人で手当てをされていました」


「ミモザ様は、何かを貴女に飲ませた後……ずっと回復魔法を使い続けていました」


 ロベルトに守られたままのヴィットーリオが、かすかに青ざめながら言葉を添える。


 それで、ようやくミモザがこうなってしまった理由が分かった。竜の秘薬は体を強くするけれど、傷を治してくれる訳ではない。秘薬の力でひとまず死は免れたとしても、致命傷を急いで直すなら回復魔法しかない。


 そして回復魔法は、ささいな傷を治すのですら大量の魔力と体力を使ってしまう。命に関わるような傷を完治させるのは、普通ならまず不可能だ。それこそ十人以上で、代わる代わる魔法を使うとかでもしない限り。


 けれどミモザは竜で、体力も魔力も普通の人間とはけた違いだ。彼はその力の全てを使い、無理やり私をあの世から呼び戻したのだろう。その代償として、彼は深い眠りについてしまった。


 必ず戻ってくるから、待ってて。先ほど聞いたミモザの声が、頭の中に反響する。


「……分かったわ、待ってる。あなたは約束を破るような人じゃないものね」


 そうつぶやいて、彼の頬にそっと触れる。冷え切っていた彼の肌に私の温もりが移るまで、ただじっとそうしていた。




 そこからの旅は、すっかり重苦しいものになってしまった。眠り続けたままのミモザを馬車の中に寝かせ、私がそこに付き添う。


 ロベルトが手綱を取り、ヴィットーリオはマントで身を隠しながら彼の横に座る。


 本当なら、ヴィットーリオは安全な馬車の中にいたほうがいい。けれど今、ヴィットーリオをミモザのそばにいさせたくなかった。


 ヴィットーリオをかばって私が死に瀕し、それを救おうとしてミモザが眠りについた。おそらくあの暗殺者は、近衛兵たちと同じく王の近くにいる者が差し向けたのだろう。


 そんな事実を目の当たりにしながら旅を続けるのは、ヴィットーリオにとってあまりにも酷だ。それが私とロベルトの結論だった。


 灰色の空からちらちらと雪が降り続ける中、私たちは王都に向かって粛々と進み続けた。


 僕のことは気にしないで、先に行ってよ。早く、ヴィットーリオの望みをかなえてあげよう。大丈夫、僕は頑丈だから。


 そんなミモザの声が、聞こえているような気がした。




 そうして今日も、がたがたと小気味よく揺れる馬車の中で、眠るミモザに語りかける。


「ミモザ、ちゃんと待ってるから、早く戻ってきてね」


 表情のない彼の顔はまるで、天使の彫像のように見えた。そういえば、初めて彼が人の姿になった時も、そんなことを思ったものだ。


「寝込むまで回復魔法を使うなんて、無茶しすぎよ。……こんなことを言ったら、『先に無茶したのはあなたのほうだよね』って言われてしまいそうね」


 いたずらっぽく微笑みながらそう言い返してくる彼の姿が、ありありと目に浮かぶ。その声が聞けないことにため息をつきながら、彼の髪をそっとなでた。


「長く生きてきて、大概のことにはそこまで動じなくなったとは思っていたけど……辛いわ、ミモザ」


 少しずつ涙声になっていくのを感じながら、それで必死に笑う。ここで泣いたら、きっと止まらない。


 私を抱きしめてくれる人は、悲しい時に慰めてくれる人は、まだ眠ったままなのだ。それに。


「……私が暗い顔してたら、ヴィットーリオの負担になってしまうものね」


 そうつぶやきながら、そっとミモザの手を握る。彼の手が少しだけ動いたような、そんな気がした。

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