第3章 お人よしの魔女は森の外
第28話 ちょっとした異変
ヴィートとの別れから、また年月が経った。
たぶん十年は経ったと思うけれど、自信はない。かれこれ百年近く穏やかに生きているということもあって、十年くらいの年月は誤差のようなものなのだ。
「雪も大体解けたし、そろそろどこかに遊びに行こうか」
長い冬が終わり、春の兆しが見えてきた。ミモザが窓の外を眺めながら、うきうきと話しかけてくる。
春の気配がしてきたら、どこか遠くに遊びにいく。それが、私たちのいつもの過ごし方だった。二人で迎えた最初の春から、ずっと。
「去年は西の方に出かけたのよね。その前は確か……南だったかしら。だったら今年は、東にしましょうか」
私たちは毎年、遊びにいく先を変えていた。顔を覚えられてしまう可能性を、少しでも減らすために。
私たちはごく普通の人間の夫婦のふりをして、年に数日ほど街歩きを楽しみたいだけなのだ。
魔女だと知られて避けられるのも、あがめられるのもごめんだ。ここ数十年のうちにその両方を経験したことがあるけれど、どちらも気持ちのいいものではない。
「だったら、東の街に少し長く滞在して百花祭りに行こうよ。もう何年も行ってないし、頃合いだと思うんだ」
「そうね、そろそろあの祭りを見たいわね」
ミモザと出会って二回目の春、私の誕生祝いを兼ねて百花祭りに参加した。それ以来あのお祭りは、私たちの一番のお気に入りだった。
あれから何十年もかけてあちこちの街を回り、色んなお祭りを見てきたけれど、やっぱり百花祭りが一番幸せな気分になれる。
あの時に彼が贈ってくれた首飾りは、今も変わらず私の胸に輝いていた。その夜明けの空のような色の石に触れながら、にっこりと笑いかけた。
「百花祭りに顔を出すのは五年……いえ、十年ぶりかしら。楽しみだわ」
「じゃあ、さっそく準備しようか。きっと今年も、華やかになるんだろうね」
そう言って嬉しそうに笑うミモザの首元にも、複雑に編み込まれた古い革紐がのぞいていた。
私が最初の誕生日に贈った、手編みの革紐だ。すっかり色あせてはいるけれど、今でも彼の一番の宝物だ。
そんな風に仲良くお喋りを続けながら、手早く旅の支度を整えていく。
徒歩で出かけていた頃には半月ほどかかっていた道のりも、ミモザの翼なら三日ほどでたどり着ける。だから、支度を急ぐ必要はない。
それが分かっていても、楽しい思いつきはすぐに実行に移したかった。私たちのそんな子供っぽいところも、昔から少しも変わっていなかった。
荷造りを終えた私たちは、いったん森の奥まで歩き、そこから空に飛び立った。
この森の入り口には、私を頼ってきた病人たちがたまに足を踏み入れる。だから、人目につかないように旅立つにはこうするしかない。
それでも時々姿を見られてしまっているようで、この森に棲むという白い竜の噂は、今もなお色あせることなく語り継がれているようだった。
ただ今のところ、その竜がミモザ、つまり魔女の伴侶だと気づかれてはいないようだった。なので、噂については気にしないことにしている。
もしばれてしまったら、しばらくここを離れてしまえばいいだけの話だし。
『さあ、しっかりつかまっててね!』
そのまま、人気のない森の上や山の中を飛び続け、東に進んでいく。目指すは、東の街の近くにある森の奥だ。
夜に飛び、昼に休む。焚火をおこして食事を作り、草の上に毛皮を敷いて二人一緒に眠る。そんなちょっとした非日常も楽しみながら、のんびりと旅を続ける。
そうして目的地にたどり着いた私たちは、軽い足取りで森の中を歩いていた。
この森を抜ければ、東の街はすぐそこだ。例年通りなら、十日ほどすれば百花祭りが始まる。
ヴィートの喪のせいで祭りが中止になっていた時は、色々な意味で寂しい思いをしたものだ。
けれどあれから年月も経っているし、きっと今年の祭りは、いつも通り盛大なものになっているだろう。
しかし街に足を踏み入れた私たちは、思いっきり困惑することになった。
「……何か変よね。明らかに」
「変だね。びっくりするくらい活気がないし、人通りも少ない。どうしたんだろう」
ここを最後に訪ねたのは、確か数年前のことだったろうか。その時は、活気に満ちた街並みが私たちを出迎えてくれていた。
通りにはたくさんの店が立ち並び、その店先には山のように商品が積み上がっていた。そして辺り中から、客を呼び込む店員の威勢のいい声が響いていた。
あの頃の東の街は、それはもうにぎやかだったのだ。
けれど今私たちの目の前にあるのは、がらんとして人の姿もまばらな大通りの姿だった。
かつて品物であふれていた店の扉は固く閉ざされ、うっすらと白く埃が積もっている。よく見てみると、そのほとんどは既に空き家になっているようだった。
以前は掃除が行き届いていた街のあちこちには、ごみやがらくたの山ができていた。その隙間を、痩せたネズミが走り抜けている。
「ちょっと見ない間に、どうしちゃったのかしら。ひどいありさまね」
「誰かに話を聞いてみようか。ひとまず、宿を探そう。……どこがいいかなあ」
正体がばれる可能性を少しでも減らせるように、私たちはなじみの店を作らないようにしていた。
たとえそれが数年に一度であっても、同じ人間と顔を合わせ続けていたら、いずれ私が魔女だとばれてしまうかもしれない。
「まだ泊まったことがないのは……東の区画かしら」
「うん。確かそうだったと思う。長く生きてるせいで、ちょっと記憶が怪しいけど」
「でも、東の区画ってあんまり治安が良くないのよね……そのせいで、今まで近づかずにぃたのだけれど」
「どうする? 街がこんなだし、東の区画はもっととんでもないかも……」
「ひとまず、行くだけ行ってみましょう」
そんなことを話しながら、足を東に向ける。
そして、初めて足を踏み入れた東の区画の荒れ方ときたら、大通りの比ではなかった。
道のあちこちには腐ったような臭いのする何かが落ちていて、掃除もされないまま放置されている。おまけに辺りには人っ子一人いない。
街に入ってから感じていた困惑は、さらに強くなっていた。
「……ミモザ、やっぱり他の区域に行きましょう。ここに泊まるのはちょっとね」
「そうだね。さすがにこの臭いの中で寝るのはきついよ」
「なあ、あんたら」
来た道を戻ろうとしていた私たちを、野太い声が呼び止める。
そちらを見ると、ぼさぼさの髪と無精ひげの中年の男性が立っていた。着ているものはくたびれていて、穴だらけだ。物自体は良いもののように見えるのに、全く手入れがされていない。
「なあ、そこのおきれいなお二人さん。何か恵んじゃくれねえか。腹が減って死にそうなんだよ」
彼の顔色は悪く、服の下からのぞいている手足はすっかりやせ衰えていた。
けれど見たところ、特に病をわずらっている様子もない。本人が言っている通り、ただの栄養失調だろう。
ミモザが困った顔で、そっとささやいてくる。
「この街で物乞いに出会ったのは初めてだね。どうする?」
「そうね、少しくらい恵んでもいいんだけど……」
下手に施しをすると、それを見た他の物乞いがさらに寄ってくるかもしれない。
お金ならたっぷり持ってきているし、施すこと自体は別に構わない。でも、騒ぎになったり目立つのはごめんだった。
どうしようかなあと悩んでいたその時、ふとあることを思いついた。にっこり笑って、ぼろぼろの男性に向き直る。
「ねえ、どうせなら少し話を聞かせてもらえないかしら? ちょっと、知りたいことがあるの。謝礼は払うわ」
うつろだった男性の目に、光がともる。そんな彼に、さらにたたみかけた。
「食事しながら話す、というのはどうかしら。私のおごりで」
「そうしてもらえるんなら、ありがたいことこの上ないが……俺は、役に立つ情報なんて持ってねえぞ」
「いいのよ。住民の話が聞きたいだけだから」
「話、まとまった? 西の通りに、まだ開いている料理店があったよ」
「それじゃあ、そこに行きましょうか」
そうして私たちは、ゆっくりと歩き出した。荒れ果てた街並みの中を。
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