第27話 解き放たれた心

 豪華な寝室に、沈黙が満ちる。まるで凍りついたような静けさを打ち破ったのは、意外なことにミモザだった。


「王子様、ううんヴィート。あなたに少し言っておきたいことがあるんだけど、いいかな」


 ミモザの口調はとても気安かった。まるで年の近い友人に話しかけているように。


 彼はその気になれば、ちゃんと礼儀正しくふるまうことができる。私と一緒に数十年を過ごすうちに、それだけの知識と分別を身につけていた。

 

 けれど今の彼は、何一つ取りつくろうことなく無邪気にふるまっている。


 そんな態度をたしなめることなく、ヴィートは無言でうなずいた。


「僕はミモザ、彼女の伴侶。でもね、僕は人じゃなくて竜なんだよ。彼女が若いままの姿でいるのも、僕のせい」


 ヴィートにとっては驚くべき事実をぽんぽんと投げかけて、ミモザはにっこりと笑った。美しく整ったその顔は、今は天使のように透き通って見えた。


「あなたが彼女を追放したから、僕は彼女と出会うことができた。あなたが彼女にしたことを許すことはできないけど、それでも」


 驚きに目を見張っているヴィートを見据え、ミモザはさらに言葉を紡いでいく。


 その表情が、ゆっくりと変わる。辛そうで嬉しそうな、ひどく複雑な笑顔に。


「一言だけ、お礼を言っておきたかったんだ。彼女をあの森に送ってくれてありがとう、って。僕たちが出会うきっかけを作ってくれて、ありがとうって」


「ミモザ……」


 彼の言葉に気づかされた。追放されたことは辛い記憶として、今も心の奥に残っている。


 けれど同時に、追放されなければミモザには出会えなかった。おかしな話だけれど、今の幸せは追放の上に成り立っているのだ。


「ごめんね、ジュリエッタ。こんなことを言ったら、あなたは気を悪くするかなって思ったんだけど……どうしても、言っておきたかったから」


 申し訳なさそうな顔をして目を伏せるミモザに、いいのよ、と声をかける。


 こちらを見ているヴィートのことなど、もうどうでも良くなってしまっていた。


 今でもやはり、彼のことを許すことはできない。けれど、彼をとがめる気持ちも消え失せてしまっていた。


 ちらりとヴィートに目をやると、彼は背中を丸めてうつむいていた。老いたその体は、さらに小さくしぼんでしまったように見えた。




「……どうやらこれで、話は終わりみたいね。だったらそろそろ、帰らせてもらうわ」


 聞くべきことは聞いたし、もうここにいる理由はない。立ち去ろうとヴィートに背を向けると、焦ったような声が追いかけてきた。


 振り返ると、杖にすがって立つヴィートの姿。


「ならばせめて、君たちを見送らせてくれ。……もう、会うこともないだろうから」


 その言葉に、すぐにミモザが反応した。なんだか楽しそうだ。


「だったら、大きなテラスか何かないかな? 広くて開けたところ。そこから帰るよ。その方が早いしね」


「テラスから、帰る……? どういうことだろうか」


 当然ながらヴィートは、言葉の意味がのみ込めていないようだった。


「さっき言ったでしょう、僕は竜だって。空を飛んで帰るんだよ」


「いいの、ミモザ?」


 テラスから帰るとなると、竜の姿に変わるところをヴィートに見せることになるだろう。


 私たちは今まで幾度となく、彼の翼で旅をしてきた。けれど、姿を変えるところを誰にも見られないように、いつも細心の注意を払っていたのだ。


 それなのにどうして、ミモザは突然こんな提案をしたのだろうか。


 眉をひそめる私とは対照的に、ミモザは楽しげに笑っていた。そのまま、意味ありげな流し目をよこしてくる。


「もう夜だし、大丈夫だよ。騒ぎになっても困らないでしょう? ここにはもう来ないんだし。それにどうせなら、ちょっとくらい驚かせたいんだ」


「まあ、あなたがいいなら別にいいけど……」


 こそこそと話す私たちを、ヴィートが首をかしげて見ている。彼はやはり、訳が分かっていないようだった。




 先ほどの少年に案内されて、私たちはテラスにたどり着いた。王宮の奥まったところにある、静かなテラスだ。この広さなら、竜のミモザでも大丈夫だろう。


「こちらです、魔女様」


 そう言いながら、少年がテラスに通じるガラス張りの扉を開ける。さわやかな夜風が吹き込んできて、私の髪をなびかせた。


 こつこつと杖の音をさせながらテラスに出ようとするヴィート。その老いて弱った体を見ていたら、ふとひらめいた。


「ヴィート、ちょっと待って」


 荷物から紙を出して、さらさらとペンを走らせる。興味深そうにこちらを見ている彼に、その紙を渡した。


「……これはもしかして、薬の処方箋だろうか?」


「ええ。その記載通りに調合させればいいわ。病人を見ると、どうにも放っておけないのよね。完治はしないけれど、楽にはなるから」


「心遣い、感謝する。やはり君は優しいのだな。……昔のまま」


「そうだったかしら? 昔のことなんて忘れたわ」


 私たちがそんなやり取りをしている間に、ミモザはテラスの中ほどまで進み出ていた。


 とことこ歩いては、あちこちで足を軽く踏み鳴らしている。どうやら、テラスの強度を測っているらしい。


 やがて彼は小さく笑うと、テラスの真ん中に移動した。すぐに、その姿が白い竜に変わる。


 ヴィートの傍に控えていた少年が叫び、後ずさって尻餅をついた。


 その目には驚きと、まぎれもない称賛の色が浮かんでいる。彼は腰を抜かしたまま、きらきらとした目でまっすぐにミモザを見上げていた。


 一方のヴィートはさすがに叫びこそしなかったものの、目を極限まで見開いて口をわななかせている。


 そしてそのまま、杖にすがってへたり込んでしまった。そのあまりの驚きように、ぽっくり逝ってしまわないかと少しだけ心配になった。


 人が駆けつけて大騒ぎになる前に、一刻も早くここを立ち去ってしまおう。


 手早くミモザの服をかき集めると、他の荷物を抱えて彼の背によじ登った。


「じゃあね、ヴィート。……ああそうだわ、最後に一つだけ」


 腰を抜かしたままこちらを見上げているヴィートに、底抜けに明るく言い放った。自然と、大きな笑みが浮かんでくるのを感じながら。


「追放してくれて、ありがとう」


 自分でも驚くほど軽やかに、言葉が口をついて出てくる。


「おかげで大切な人にめぐり会えた。私、今とても幸せよ」


 ヴィートが浮かべた表情は驚きだったろうか、それとも苦笑だったろうか。あるいは、安堵だったかもしれない。


 それをはっきりと確認することなく、そのまま私たちは夜空へ向かって旅立っていった。




 月が昇り始めた星空の中を、ミモザがゆったりと飛んでいる。上気した頬に、ひんやりとした夜風が心地いい。


「ああ、何だかとてもすがすがしい気分だわ」


『そうだね、ジュリエッタ。あなたが吹っ切れたようで、僕も嬉しいよ』


「そのきっかけをくれたのはあなたよ。ありがとう、ミモザ」


『僕は言いたいことを言っただけなんだけどな。それより、さっきのヴィートの顔、すごかったね』


「ええ。でも、あれが普通の反応だと思うわ。この姿を見て驚かない人なんて、いないと思うの」


『ふふ。かつて彼があなたを苦しめた分、びっくりさせてやろうと思ったんだけど……うまくいってよかった』


「まったく、こんなところで竜の姿をさらすなんて……万が一のことがあったらどうするの」


『でもあなただって、僕を止めなかったでしょう?』


「それはまあ、そうなんだけど。ヴィートが驚きすぎて死んじゃうんじゃないかって、少しだけ心配したわ」


『あっ、その可能性は考えてなかった』


「もうミモザったら、妙なところで抜けてるんだから」


 ヴィートの面影を振り切るように、私たちは軽やかに笑いながら星々の中を飛び続けていった。






 それからしばらくして、ヴィートは天寿を全うしたようだった。


 辺境の森の中で暮らしている私たちの生活には何の影響もなかったけれど、物資を仕入れるために出かけた街は喪に服していて、街のあちこちには黒い布がひるがえっていた。


 その光景を目にした時、私は奇妙な清々しさと、何とも言えない空虚さを覚えていた。


 もう、侯爵家の娘であった頃の私を知るものはいなくなってしまった。たった一人置いていかれたような感覚に、目を伏せる。


「僕はずっと、あなたのそばにいる」


 そんな私の手を、ミモザがそっと握ってきた。


 私が過去を思い出して悲しそうな顔をするたびに、彼はこうやって励ましてくれていた。その手の温かさに、私はいつも救われていた。


 感謝の意を込めて、彼の手をぎゅっと握り返す。彼は黙ったまま、ずっと私に寄り添っていてくれた。

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