第18話 一番大切なもの
ミモザが、どこかに行ってしまった。いなくなってしまった。
ようやく状況を理解した私は、急いで伯爵に会い、診療所の話をいったん保留にしてもらうことにした。今は何よりも、ミモザを見つけ出すのが先だ。
ミモザは自分の分の荷物を持っていった。探さないでとも書き残していた。ならば、彼は旅に出てしまったのかもしれない。
でも、どこへ。そして、どうして。謎ばかりがつのっていく。
「ふむ…、ここから出ていったとなると、行き先は東の街か、その先の国境を越えた隣国か……西には君たちのいた森くらいしかないし、北も一面の深い森だからな」
伯爵が首をひねりながら、ここの周囲の地形を説明してくれている。
「あるいは、南の街道から王都を目指したのかもしれない。いずれにせよ、あてもなく探し回るのは難しいだろう」
「……私はいったん、森の小屋に戻ってみようと思います」
そう告げる私の声は、ひどく震えていた。
「ミモザはこの辺りのことは何も知りませんし、一度小屋に戻って支度を整えようとするかもしれません」
「そうか、分かった。彼が無事に見つかることを祈っている。診療所の件については、その後だな」
「ありがとうございます。わがままを言って済みません」
「気にするな。……こんなことをこんな時に言うのもおかしいかもしれないが、君たちは二人で一つ、そういった存在なのだと思うのだよ」
そう言って、伯爵は穏やかに笑った。
伯爵にはああ言ったものの、本当は違うことを考えていた。ミモザは小屋ではなく、森に戻っていってしまったのかもしれない、と。
昨日、診療所の件について話していた時のミモザはどこか様子がおかしかった。
彼は、私が東の街に住むことをいいことだと言ってくれていた。それなのに、一緒に来て欲しいと私が言った時、彼は一瞬切なそうな顔をしたのだ。
私と一緒にいるのが自分の願いなのだと、ミモザはそう言っていた。けれど、それ以上に私に幸せになって欲しいのだとも言っていた。
彼が私と一緒にいたら、私が幸せになれない。あの時の彼は、もしかするとそう言おうとしていたのではなかったか。でも、どうしてそんな風に考えたのだろう。
昨日、ミモザの話をもっとちゃんと聞いておけばよかった。そんな後悔を抱えながら、すぐに旅支度を整えて屋敷を飛び出した。
女の一人旅は大変だろうと、伯爵は小さな馬車を貸してくれた。御者としてついてきてくれたのは、実直そうで無口な老人だった。
馬車に乗り近くの宿場町にたどり着くと、ミモザがいないか、彼の姿を見かけた者がいないか探して回った。
しかしそこでは何の情報も得られず、失意のうちに次の宿場町を目指すことになった。
次の宿場町でも、さらに次の宿場町でも、ミモザの手掛かりは何も得られなかった。連れの老人は、彼はこちらには来ていないのかもしれないよと言って、焦る私をなだめていた。
彼には言うことができなかったけれど、私は確信していた。ミモザは、竜の姿で飛んで帰ったのだろう、と。
去年の夏、一度彼に抱えられて飛んだことがある。あの時の彼は、歩くよりもずっと速く飛んでみせたのだ。
きっと竜の体もさらに大きくなっているだろうし、私という荷物もない。今の彼なら、もっとずっと速く飛べるに違いない。
街道の北側には深い森が広がり、その向こうには高い山がそびえている。夜にあの辺りを飛べば、街道を行く旅人に見つかって大騒ぎになることもないだろう。
そんなことを考えながら、私はひたすらに小屋を目指した。馬車に揺られながら、早くミモザが見つかりますようにと祈り続けていた。
結局ミモザを見つけられないまま、辺境の森の入り口まで戻ってきてしまった。
ここまで運んでくれた老人に礼を言い、一人で小屋に戻る。老人は三日だけ近くの宿場町で待ってくれるらしい。
もう一度礼を言って、小屋への道を駆ける。鼓動がうるさくて、何も聞こえない。
ミモザにもらった首飾りが、動きに合わせて胸の上で弾んでいる。
そのきらめきが、ひどく悲しかった。これをくれた時の彼の、無邪気な笑顔を思い出してしまって。
二か月近く放置されていた小屋は、すっかり雑草に埋もれていた。まるで、長いこと誰も住んでいない廃墟のように見える。
胸がぎゅっと痛むのを感じながら、そっと小屋の扉を開けた。ひんやりとした空気が流れ出て、埃が舞い上がる。窓は閉められたままで、小屋の中は真っ暗だった。
魔法で中を照らしながら、足を踏み入れる。祈るような思いであちこち探していると、寝台の上にぽつんと置かれたミモザの荷物を見つけた。
この荷物は、東の街に出かける時に彼が持っていた旅の荷物だ。よく見ると、その横には東の街で買った物の包みも一緒に置かれている。
ああ、ミモザはここに戻ってきていた。ほっとしたとたん、膝の力が抜ける。思わずその場に崩れ落ちて、両手で顔を覆った。
けれどまだ、安心するには早い。私は震える足を叱咤しながら立ち上がり、さらにじっくりと小屋の中を観察する。
寝台の近くに、ミモザのものらしい足跡がある。けれどそれ以外の場所には、分厚く埃が積もっていた。
おそらくミモザはここに荷物を置いて、すぐに出ていってしまったのだろう。
ならばきっと、彼は森の中にいる。自分の荷物をミモザの荷物の横に置いて、今度は森の奥に向かって駆け出していった。
「ミモザ、どこにいるの? お願い、出てきて」
森の獣を刺激しないように、声を抑えて呼びかける。ミモザは耳がいいから、きっと聞こえている。気づいてくれる。
一緒に薬草を摘んだ森。魚を捕ったり、宝石の原石を拾ったりした川。そのどこにも、ミモザの姿はなかった。
森の中をさまよっていると、次々とミモザの思い出がよみがえってくる。
彼と暮らすようになってから、まだ二年も経っていない。それなのに、私にとってはその時間が一番濃密で幸せな時間だったように思えてならない。前の人生と、今の人生を合わせた全ての時間の中で、一番。
絶対に、ミモザを見つけてみせる。にじんできた涙を袖でぬぐうと、さらに森の奥まで歩いていった。
気づけば夕方になっていて、森の中は薄暗くなり始めていた。
それでも魔法で明かりをともしながら、さらに歩き続ける。ミモザのいないあの小屋に、一人で帰りたくはなかった。
ひたすら歩き続けているうちに、どんどん足が重くなっていった。ついに大きな木の根につまずいて転び、膝をついてしまう。
そうやって足を止めたとたん、疲れと絶望とが一気に襲ってきた。泣きたいのを必死でこらえる。今泣き出してしまったら、きっともう立ち上がれない。
歯を食いしばりながら膝を抱えてうずくまっていると、やがて足音のようなものが徐々に近づいてきた。
こんなところに来る人間はいない。きっとミモザだ。
でももし、違ったら。顔を上げて、違う人が立っているのを見てしまったら。今度こそ私は、絶望してしまうかもしれない。
希望と恐れの間で揺れながら、少しずつ、ゆっくりと顔を上げる。
そこにはずっと探していたミモザが、悲しそうな目をして立っていた。
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