第17話 人と共にある未来
私が調合した薬を飲んだ伯爵の妻は、少しずつ、しかし確実に回復に向かっていった。
伯爵は大喜びで、私たちはそれこそ下にも置かないようなもてなしを受けるようになっていた。
伯爵の妻がある程度回復するのを見届けたいと考えていたこともあって、滞在はすっかり長引いてしまっていた。
その間に、伯爵と色々なことを話した。私が追放された元貴族だとばれたらどうしようとは思ったけれど、幸い伯爵は気づいていないようだった。
しかし私たちが辺境の森に住んでいると聞いいた伯爵は、ひどく驚いた顔になった。
「あの森には魔物が住んでいると聞いたが、君たちは恐ろしくはないのか」
森の魔物の話は、こんな遠くまで知られていたらしい。その事実に内心舌打ちしていると、伯爵はさらに驚くべき言葉を付け加えてきた。
「最近、あそこには恐ろしい白い竜が出たそうじゃないか。君たちも気をつけるのだぞ」
その瞬間、私は持っていたティーカップを取り落としそうになったし、ミモザはかすかに悲しげな表情のまま固まっていた。
伯爵は、私たちのおかしな様子に気づいていないらしい。真剣な顔で、じっと私たちを見つめていた。
「は、はい、気をつけます。心配、ありがとうございます」
そんな彼に動揺しながらそう返事をして、ミモザとこっそりと目配せし合った。
伯爵はいい人だけれど、ある意味普通の人だ。彼には絶対に真相を知られないように気をつけよう、と。
そして滞在が一か月を超えた頃、伯爵は驚くような提案をしてきたのだった。
「東の街で診療所を開いてはどうか、ですか?」
「ああ。君のその素晴らしい腕を、森の中で埋もれさせるのは惜しい。必要な費用は全て私が出そう。君にとっても、悪い話ではないと思うのだが」
その言葉に、心が揺らぐのを感じた。
あの森の小屋は居心地がいい。けれど村の人たちを避けるようになってしまったミモザのことを考えると、東の街に住むというのもいいかもしれないと思えたのだ。
ミモザはじきに年を取らなくなるらしい。でも東の街は大きくて、たくさん人がいる。あそこでなら、そんな彼でもさほど目立たずに暮らせるかもしれない。
祭りの間、ミモザはたくさんの人に囲まれて心底楽しそうに笑っていた。あんな風に、毎日笑って過ごすことができたなら。
伯爵の提案に乗りたい。心が大きく、そちらに傾く。でももう一つ、大きな問題があった。
ついつい忘れてしまうけれど、私はこれでも追放中の身なのだ。見張りすらいないとはいえ、よその街で薬師などしていていいのだろうか。
しばらく悩んだ後、伯爵に私の身の上を打ち明けることにした。
王子のことと前世のこと、それにミモザのことは伏せて、あくまでも濡れ衣で追放されたことだけを説明する。
驚かれるだろうか、嫌な顔をされるだろうかと尻込みしながら。
しかし私の話を聞いた伯爵は、すぐに明るく笑った。
「なるほど、君は元貴族だったのか。その品のある所作、堂々としたたたずまい、納得がいったよ。そして追放の件については、全く気にすることはない」
伯爵の笑顔がわずかにゆがむ。苦笑しているような、あざけっているような、そんな不思議な笑いだった。
「王都の人間は、この辺り一帯をまとめて辺境扱いしている。彼らが東の街に来ることなんてめったにないし、君があの森を離れていたところで彼らが気づくことなどない」
その言葉に拍子抜けしながらも、ひとまず返事を保留させてもらった。この大きな決断の前に、一度ミモザと二人きりで話したかったのだ。
「ミモザはさっきの話について、どう思う?」
客間に戻ってすぐに、そう切り出す。
私は伯爵の提案を受けたいと思っていたけれど、ミモザはきっと慎重な意見を口にするだろう。彼は、人と関わることにまだ少しためらいがある。
ところが、ミモザは予想に反してにっこりと笑った。一点の曇りもない、鮮やかな笑顔だった。
「僕はいいと思うな。あなたがずっと薬について勉強していたのを、僕はよく知ってるから」
彼の金の目は、恐ろしく穏やかだった。
「伯爵の申し出を受ければ、もっと色々な薬草を扱えるようになるし、多くの人を救える。それって、とても素敵なことだと思うよ」
どこか不安になるほど、ミモザは明るく希望に満ちた未来を語り続けている。
本当に、それでいいのだろうか。私は、何か大切なことを見落としているのではないか。
そんなつかみどころのない焦りを感じながら、さらに言葉を返す。
「だったら、ミモザも薬師見習いになるのはどう? 一緒に東の街で暮らしましょう。きっと楽しい日々になるわ」
と、ミモザが一瞬途方に暮れたような顔をした。
「……うん。僕は、あなたと一緒にいたい。初めて会った時からずっと、それだけが僕の願いだった。でも今は、それ以上にあなたに幸せになって欲しいって思ってる」
けれど次の瞬間には、もう彼は元通り穏やかに微笑んでいる。
「だから、提案を受けてもいいと思うんだ。何よりあなたは、もう乗り気でしょう?」
「あら、ばれてたの?」
「ふふ、僕はいつもあなたを見てるから」
「じゃあ、伯爵に伝えてくるわ。診療所のお話を受けますって」
「うん、僕はここで待ってるよ。いってらっしゃい」
そうしてミモザに見送られて、私はまた伯爵のもとに向かっていった。
ミモザの澄んだ瞳に、妙に胸が騒ぐのを感じながら。
私の答えを聞いた伯爵は大喜びで、すぐに具体的な話を始めてしまった。
東の街のどの辺りに診療所を構えるか、どれくらいの規模にするか、何人くらい人を雇うか。
今まで一度も考えたことのないような事柄を矢継ぎ早に繰り出され、私は目を白黒させることしかできなかった。前世でも現世でも、こんな話とは無縁だったのだ。
伯爵は私の様子を見ると愉快そうに笑い、今度は一つ一つかみ砕くようにして説明を始めてくれた。
彼は領地を統治しているだけあってこういう実務にも長けているらしく、その話はとても勉強になるものだった。
話し合いに熱中していたせいで、私が客間に戻ってきた時には、すっかり夜も更けてしまっていた。
客間にミモザの姿はない。たぶん、庭にでも出ているのだろう。小屋で暮らしている時も、彼はそうやってたまに夜の散歩に出ていた。
長い話し合いで疲れてふらふらになっていた私は、ミモザの帰りを待たずに先に休むことにした。もう目を開けているのすらおっくうだったのだ。
柔らかな寝台に横たわって目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。
たくさんの人に囲まれてミモザと笑い合っている、そんな幸せな夢を見た。
次の朝目を覚ますと、ミモザの姿はどこにもなかった。彼の寝台には使われた形跡がなく、彼が一晩中戻ってきていないことは明らかだった。
客間中を探し、それから屋敷の中を手分けして探した。
けれど、どこにもミモザはいなかった。青くなりながら客間に戻り、手掛かりを求めて彼の荷物を探す。
彼が使っていたクローゼットは空になっていた。紙切れが一枚だけ、ぽつんと落ちている。
震える手で拾い上げて、書かれている文字に目を通す。それは間違いなく、ミモザの字だった。
『僕のことは探さないで。ジュリエッタ、どうか幸せに』
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