第3話 森に棲む魔物
私の追放生活は順調だった。順調すぎて、少し怖くなるくらいに。
最初の数日だけは、強烈な筋肉痛と戦う羽目になってしまった。
毎日忙しく動き回っていた前世とは違い、生まれも育ちも貴族であるこの体は運動慣れしていなかったのだ。
しかし体が痛いからと言ってじっとしていることはできない。
そんなことをしていては飢えてしまう。追放された時に渡されたわずかな食料は、もって二日分といったところだった。
きしむ体を引きずるようにして森に分け入り、前世の記憶を頼りに食べられる草を探した。毎日川に水汲みに行き、ついでに魚を捕る。
そうやって無理にでも動き回っているうちに、じきに体が痛むこともなくなっていた。
この森には食べられる野草が豊富に生えていた。魚を取るのにもすっかり慣れた。ぜいたくを言わなければ、食べるものには困らない。
さらにありがたいことに、森の小道の分かれ道の一つが岩塩の鉱脈につながっていた。
おそらく、私の前にここに住んでいた誰かがこれを見つけ、ここまでの道を作ったのだろう。その誰かさんに心から感謝だ。
そうやって生活に余裕が出てきた私は、今度は料理に精を出すようになっていた。小屋の中の台所にはかまどもあったし、古びていたが鍋なども残されていた。
魚に野草、それに塩と香草ぐらいしかなかったけれど、それでも工夫次第で目先の変わったものを作ることは十分に可能だった。
毎日新鮮でおいしい食事にありつけるようになったことで、さらに気持ちにゆとりが出てきた。
たまには肉を食べたいなと思わなくもなかったけれど、それについてはおいおい考えることにした。仕留め方、さばき方など、難易度が魚の比じゃないし。
食料も安定して手に入るようになったので、今度は薬草を集めてみることにした。森のあちこちには、様々な薬草も生えていたのだ。
たくさん集めれば、薬を調合できる。なにせ前世の私は薬師の娘、薬師見習いだったのだから。
痛み止めとか傷薬とかはこれから必要になるだろうし、金に換えることもできるかもしれない。
追放される時に薬草図鑑や薬の辞典を持ってきていたということもあって、その気になればかなり多種多様な薬が作れそうだった。
足りないものがあったら近くの村で手に入れろと言われていたけれど、今のところその必要はなかった。
それにあの王子のせいで少しばかり、いやかなり人間不信になっていた私には、この一人きりで静かな暮らしはとても心地よく感じられていたのだ。
村の人間はこの森に棲むという魔物を恐れていて、この森には立ち入ろうとしない。私がこうしている限り、ずっと人と関わらずに生きていくことになりそうだった。
何だかんだ言って、私は今の追放生活を割と楽しんでいたし。
そうして元気にたくましく生活しているうちに夏は終わり、暦の上では秋がやってきていた。
照りつけるような日差しは幾分か和らぎ、時折涼しい風が吹き抜けるようになっていた。
気持ちよく晴れたある日、私は少しだけ遠出をしてみることにした。いつも魚を捕っている川に沿って、上流の方にひたすら歩いてみることにしたのだ。
この森には色々なものがあるし、行動半径を広げればまた何か面白いものが見つかるかもしれないと、そう考えたのだ。
私もそろそろこの森に慣れてきたということもあって、警戒心が薄れ始めていたのだった。
この森には魔物が出るという話だし、森の小道から外れたところに足を踏み入れるのは怖い。
けれど川沿いに進むだけなら道に迷うこともないし、視界も開けているから魔物にいきなり襲われることもないだろう。
そんなことを考えながら川辺を歩いていると、遠くからピィー、と笛のような音が聞こえてきた。
森で暮らし始めた頃、こんな音は聞こえなかった。音が聞こえ始めたのは、ほんの数日前のことだった。
きっと渡り鳥でもやってきたのだろうと思いながら、立ち止まってその音に耳を澄ませる。
どこか胸が苦しくなるような、妙に心惹かれる声だった。
やがて、音が止まる。私は一応辺りを警戒しながら、また歩き始めた。岩がごろごろした道なき道を、転ばないように気をつけながら。
そうこうしていたら、小さな崖の上に出た。
どうしても前世の最期を思い出してしまうので、未だに高いところは怖い。けれど周囲の地形を確認するには、ここはもってこいの場所のように思えた。
震えそうになる膝を叱咤し、そろそろと崖の先の方に進む。そこにあった手ごろな岩につかまりながら、恐る恐る周囲を見渡した。
そこから見えるのは深い森に広い草原、そして高い山だけだった。
草原の中に細く走っている街道らしきもの以外に、人間の痕跡はどこにもない。近くにあるという村は、森の陰になっているのかここからは見えなかった。
もっとよく見ようと身を乗り出したその時、またあの笛のような音が聞こえてきた。それも崖の下から。
思わずそちらを覗き込んだとたん、足元の岩がいきなり崩れ落ちた。突然のことに悲鳴を上げることすらできないまま、私はまっすぐに落ちていった。
落ちていく恐怖に、必死に体を丸める。私の体はすぐに木々の梢にぶつかり、枝をへし折りながら落ち続けた。
このままでは、地面にぶつかってしまう。既に結構な高さを落ちている。嫌だ、こんなところで死にたくない!
永遠のように感じられたその短い時間の後、いきなり体が柔らかい何かにぶつかった。
何が起こったのか把握するよりも早く、私の体は上にぽんと弾き飛ばされていた。次の瞬間、地面に思いっきり投げ出される。
「い、痛たた……」
うめき声をあげながらゆっくりと身を起こし、全身にさっと目を走らせる。
あちこち打っているし擦り傷もできているけれど、どこも折れてはいないようだった。
安堵のため息をついたその時、大きな金色の瞳と目が合った。
私の身長ほどもありそうなその金色の目は、穏やかな光をたたえてこちらを見ていた。
さっきまでとは違う恐怖に身を震わせながら、その目を見つめ続ける。逃げ出そうにも、足がすくんで動かなかったのだ。
その存在は、私が今まで見てきたどんな動物よりも大きかった。今私が住んでいる小屋よりもずっと大きい。
そして、その全身は私の顔よりも大きな鱗に覆われていた。元は白かったのだろうその鱗には苔が生えていて、あちこちが薄緑色に変わっている。
その優しい緑と金色は、周囲の風景によく溶け込んでいた。
そろそろと頭を上げ、それの姿をじっと見る。
耳のように突き出したひれに大きな翼、長い尻尾にかぎ爪の生えた大きな手足。
その姿は、子供の頃絵本で見た竜にそっくりだった。猫のように、うずくまって丸まっているけれど。
私は、たまたまこの竜の上に落っこちてしまったのだ。さっき一瞬体が上に弾んだのは、おそらくあの竜の翼の上に落ちたせいだろう。
この竜のおかげで大怪我をせずに済んだ。けれどきっと、この竜こそがこの森に棲むという魔物だ。ならば結局、私はとって食われてしまうのかもしれない。
ああ、短い追放生活だった。こんな形で終わることになるなんて。
私が心の中だけでそう嘆いていた時、突然竜が笑ったような気がした。
聞き覚えのある笛のような音が、その口からもれる。それではあの音の正体は、この竜の鳴き声だったのか。
思わずあんぐりと口を開けた次の瞬間、竜の体がぼんやりと光り、砂のようにさらさらと崩れていった。白く輝く細かな砂は、空中に溶け込むようにして少しずつ消えていく。
さっきから色々なことが起こりすぎていて、どうにもこうにも事態についていけない。
ただ戸惑うことしかできなくなっている私の目の前で、竜の体はすっかり崩れ去ってしまった。そうして、その中から小さな白い何かが姿を現す。
最初は白い球にしか見えなかったそれは、ぐんと伸びをすると小さな手足をいっぱいに伸ばした。
ぴい、という甲高い声がその口からもれる。その声は大きな竜の鳴き声と似ていたが、もっとあどけなく、可愛らしかった。
そこにいたのは小さな白い竜だった。さっきまでいた大きな竜とよく似ていたが、それは余りにも小さく、幼かった。
全体の大きさは犬くらいで、体の割に大きな頭と真ん丸な金色の目、小ぶりの翼と丸くぷっくりしたお腹、小さな爪がちんまりと並んだ柔らかそうな手足。
私はさっきまで大きな竜におびえていたことなどきれいに忘れて、愛くるしい小さな竜に見とれていた。
「か、可愛い……」
そんな独り言を聞きつけたのか、小さな竜はくるりとこちらを振り返り、また一声鳴いた。
そのまま、小さな足でとことことこちらに歩み寄ってくる。人間のように、後ろ足だけを使った歩き方だ。長い尻尾は地面につかないようにぴんと立てている。
じっと見守る私の目の前で、その竜は私の足元までやってくると、そのまま私の足に頭をこすりつけてきた。ちょうど猫のような仕草だった。
恐る恐る手を差し出すと、今度はその手に頭をすり寄せてくる。気がついたら、両手で思いっきり竜をなでまわしていた。竜は目を細めて気持ちよさそうにしている。
可愛い。恐ろしく可愛い。できることなら連れて帰りたい。あの小屋でこっそり飼う分にはばれないと思う。
でもこの子は小さいとはいえ竜だ。そんなものを飼うのは色々とまずい気もする。
そんな風に揺れ動く自分の気持ちと戦っていた私は、ついに決心した。この竜はここに置いていこう。
こんな小さな竜を一人きりで置いていくのもどうかと思うけど、竜の飼い方なんて分からない。それに、万が一誰かに見つかったら大変だ。
「それじゃあ、私は帰るから。元気でね」
お腹を見せて甘えている竜にそう言うと、竜はがばりと起き上がり悲しげに鳴いた。小さな手で私の手をつかみ、一生懸命に引き留めようとしている。
「駄目よ。私は帰らないといけないから。離してね」
もう一度言い聞かせると、竜はうつむいて手を離した。背中を丸めてがっくりとうなだれている。まるで人間のような仕草だ。
思わずほだされてしまいそうな自分を叱りとばすようにして、竜に背を向けて歩き出した。
そして数歩進んだ時、とても大切なことを忘れていたことにようやく気がついた。
帰り道、どっちなんだろう。
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