第6話 神は微笑む

 微かに開いた目の間から光が差し込んでくる。

 視界が白く染まって前がよく見えない。瞬きをして、目をこする。


 冷静になってゆくにつれて、恐怖が湧いてきた。

 土砂崩れの跡を突っ切って、洞窟に入って、神棚を破壊し、そして突然の爆風に吹き飛ばされた。


(死んじゃったのかな……)


 片腕で両目を覆うと、ぽつりと脳で考えが浮かぶ。意識ははっきりしているけれど、雨に濡れた気持ち悪さも、血が流れ出してゆく感覚もない。居心地の良いベッドから目覚めたようだった。


 こう楽になれるなら、死ぬのも悪くない。


「起きたかや?」


 上からの声。腕をどけると、目の前には逆さまになった人の顔があった。


「わぁぁぁっ!」


 叫んで飛び上がると、その顔に私の額が激突した。痛い。

 横に転がってから上体だけを。どうやら膝枕されていたらしい。


「痛った……」

「ふははは、よいよい。童は騒がしいくらいが似合っておるわ」


 声のする方を見ると、着物の女の子が綺麗に正座していた。歳は十歳くらい。

 黒に限りなく近い藍の髪型は昔のお姫様のように見える。

 この子は誰だ。そんな疑問が表情に出たのか、彼女は私に言う。


「何を呆けておる。よもや忘れたわけではあるまいな」


 忘れた。誰だこの子。


「あー、えっと…すみません、忘れました」

「吹き飛ばしたのを怒っておるのか? 完璧に治したのじゃから、そこまで怒らずともよかろうが」

「いや、そうじゃなくて、本当に忘れました。あなた誰ですか?」


 すると彼女は目を丸くして、身を乗り出すようにして私を見る。


「まさか、本当に忘れたと申すのか?」

「はい」

「何という……」


 女の子はがっくりと項垂れてしまった。何か悪いことを言っただろうか。


「まぁよいわ。人の子はすぐ忘れるからの。神を何だと思うておるのか」

「神……?」

「うむ、我は神なるぞ」


 自信満々に言うと、彼女はにっと笑った。

 見た目というのもあるのだろうが、正直まったく威厳がない。


「我が名は、そうさな……ルミとでも呼ぶがよい」

「随分と現代チックな名前ですね」

「昔のそなたは可愛いと言うてくれたのじゃが、世知辛いのぅ」


 言うと彼女――ルミは大きく笑い、正座を解いて歩み寄ってきた。


「ま、やむを得ぬ。そのような酷い臭いをさせておるのじゃ、湯浴みなどしておらぬのであろう。乞食の心は荒むものよ」


 私が臭いんじゃなくてゴミから拾ったスニーカーが臭いんだ。

 そう言い返す前に、ルミは私の顔を覗き込むと、眉尻を下げて笑った。


「立つがよい。取ってやろう」


 手を伸ばしてくる。私の中に湧いていた恐怖心は、不思議と消え去っていた。

 小さな白い手を取ると体がふわりと浮いた。そして地面にそっと足がつく。


 ルミは空中で糸を掴むような仕草をすると、何かを払うようにさっと手を動かした。ふわりと風が吹いたかと思うと、それまで感じていた臭いが嘘のように消えた。足元を見ると、あんなに汚れていたスニーカーは新品のように綺麗になっている。


(嘘……)


 こんなことで、と思い、そこで気が付いた。

 靴だけではなく、ずぶ濡れだったはずの制服や靴下はすっかり渇き、母の愛人に掴まれて破れた箇所は跡形もない。


 身体のどこにも傷はなかった。床に叩きつけられて痣になった腕も、神社で転んで擦りむいた頬も、そして格子の炸裂に巻き込まれた出血も。転んだ時に泥に汚れた髪の毛だって綺麗になって乾いている。


 恐る恐る自分の身体を見分していると、ルミは満足そうな笑顔を見せる。

 背後で大きな高い音がした。


 振り返ると洞窟の天井が落ちている。細かい石や砂がパラパラと落ちてきていた。


「おお、そろそろ崩れるか。我が出てしもうたし、やはりそうなるか」


 我が意を得たりと言わんばかりに頷くルミの手を思わず引っ張る。


「ちょっと、崩れるって何!?」

「んあ? 言葉のままよ。ここは我の力を以て我を封じるために作られた場所。なれば我が出れば崩れる、道理であろうが」

「崩れたら死ぬでしょうが!」

「死なぬが?」

「私は死ぬの! 人なのよこっちは!」


 ルミは、私の言っていることが心底理解できないという表情で首を傾げた。


「死ぬのかや? 何故じゃ」

「潰されるでしょうが! 神様と人間は違うの!」

「我がおるのじゃ、死ぬわけがなかろう」


 話が通じない。

 この子が本当に神様なら、人間について何も知らないのは当然かもしれないが、それにしても酷すぎやしないか。


「なんじゃ、そなた怖いのか。あれほど死にたがっておったのに」

「それとこれとは違うから!」


 私はルミを半ば強引に抱き上げると、入り口に向かって全力で走った。神様なのだから放置してもいいはずなのに、小さな子供を置き去りにするようで、反射的にその身体を持ち上げていた。


「おぉ? 随分とがっつく――」

「逃げるの!」


 私の気など知る由もなく、肩に担がれたままでルミは笑った。


「はははは! やはりそなたは優しいの!」


 嬉しそうな声がしたかと思うと、地面が大きく揺れた。

 弾みで上手く地面を踏むことができず転ぶ。ルミの軽い身体を抱きかかえたまま前に倒れる。


 私の全体重で圧し潰される形になったルミは「ぐぇ」と短い悲鳴を上げた。重い物が軋む音がする。後ろでは天井が重力に引きずられるようにたわんでいた。


「神を押し倒すでないわ馬鹿者」

「仕方ないでしょ!」

「にしてもそなた重いのぅ、着瘦せするのか?」

「やかましい!」


 私に押し倒された格好のままでルミが笑い声を上げる。

 元気付けたいのかもしれないけれど、そんなことに構っている場合ではない。


 だが、早くここから出なければと焦る気持ちとは逆に、ルミは笑うばかりで全く動こうとしていない。動揺する素振りすらない。死という概念のない神様だからこその余裕なのだろう。私はそうじゃないのに。

 大きな音がして前を見ると、入り口への道は完全に塞がれていた。


「あ、ああっ!」


 絶望が私にのしかかる。生き埋めになって死ぬのか。そんな苦しい死に方で。


「何で……」


 鼻の奥がツンと痛くなった。涙がじわりとせり上がってくる。

 私の死に様をきっと誰も知ることは無い。私の苦しみも知らない。

 母は高笑いするだろうか、あるいは金が入らなくなったと怒るだろうか。きっとあの男は罪悪感を覚えることすらない。

 もう友達と話すこともできない。私の死体はずっとここで独りぼっちだ。


「何で、私だけ……」

「泣くな泣くな」


 ルミが手を伸ばして頭を撫でてくる。余計に涙が止まらなくなった。

 学校から帰った時にいつも暗い家も、すっかり味に飽きてしまったコンビニのお弁当も、自分で作る不慣れな料理も。全部辛かったのに。


「何を泣いておるのじゃ。言ったであろうが、死なぬと」

「で、でもっ、埋まっちゃう……」

「案ずるな」


 下から柔らかな声がする。慰めるでも憐れむでもない声。それはとても心地よくて、心が安らいだ気がした。


 身体が地面から離れる。


「え……あっ」


 ルミの細い腕が、私の脇の下を通って背中に回されている。

 私はルミに抱き上げられるような態勢で宙に浮いていた。


 すると周りが白くなってゆく。無数の紙吹雪が舞っているように、輝く小さなものが上下左右で煌めく。


 ルミは、私の背中をぽんぽんと叩いた。

 子供をあやすように。そして耳元で囁くように言う。


「飛ぶぞ。恐ろしければ、目をつむっておれ」


 白い何かは二人を包むように球体を成すと、一瞬で砂粒程の大きさに縮まった。

 強く輝くと同時に、煌めきだけを残してその場から消滅する。


 二人の姿が消えた直後、落盤が洞窟の全てを完全に埋め潰した

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人間ごっこ 翠華 @5x5G5IwE

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ