第5話 解放

 窓を叩く雨の音を聞きながら、鷲尾はソファーに身体を預け、両足をだらしなく床に投げ出していた。


 湯上りらしく、その顔は艶々しく輝いている。軽装の部屋着がすっきりとした身体の輪廓を、分かりやすく描き出していた。

 しっかりと傘をさして帰ったはずなのだが、風があまりにも強すぎて結局濡れた。そのまま部屋に入らないでと母に言われ、シャワーを浴びて放心しているところである。


「あぁああぁ」

あきら、お昼チャーハンでいい? 冷凍のやつ」

「あーうん、それでいいよ」


 後ろの母の言葉に、鷲尾は脱力したままで答える。正直お腹に溜まれば何でもよかった。


「おばあちゃん呼んできてくれる?」

「いいけど、どこ?」

「たぶん床の間かな、よろしく」


 しばらく経って頼まれる。鷲尾はソファーから身を起こすと、洋室から廊下に出た。雨の音が大きくなる。


 神社の奉祀を世襲してきた鷲尾家は、かつて華族に列せられたこともある旧家だ。その家はとても大きく、8つもある座敷を広縁、廊下、板の間、式台が囲むようになっていて、そこに付け足されるように洋室や洗面所、キッチンといった比較的新しい区画が存在する。

 鷲尾は板の間から座敷に入ると、襖をあけてまた別の座敷へ。そこから襖をあけて床の間に辿り着いた。床の間では彼女の祖母が座布団を敷いて座っていた。


「ばぁちゃん、お昼チャーハンだって」

「あれ、もうそんな時間かね」


 祖母は顔を上げると眼鏡をはずした。


「玲ちゃん、そういえば学校はどうしたの?」

「警報出たから帰らされたよ」

「そっかそっか、濡れたりしなかった?」

「濡れたよ、それで今シャワー浴びたとこ。雨ってほんと嫌だよね」


 言うと鷲尾は忌々し気に外を眺めた。叩きつける雨が激しく地面を穿つ様は、まるで蛇がうねっているかのようで不気味だ。時折吹く風の音がそれの咆哮に思える。


「そうだねぇ」


 立ち上がった祖母は首を縦に動かして相槌を打つ。その後に微笑むと、遠雷を聞きながら口を開いた。


「でもねぇ、おばあちゃんが子供の頃はずっと雨が降らないと、みんな大変でね」

「田んぼが育たないから?」

「それもあるけど……雨が降らないとアヤルヨが出るって、日照り続きの時はね」

「アヤルヨ? 何それ」


 聞き慣れない単語に鷲尾は問い返す。ややあって祖母は答えた。


「さぁね、おばあちゃんにもよく分からん。子供を脅すためのお化けみたいなもんだったのかなぁ」


 帰ってきた答えは、鷲尾の疑問を解決するものではなかった。


・・・・・


 立ち込める霧に混じって、辺りには異臭が立ち込めていた。

 臭い、何かが腐ったような匂いがする。


 足を一歩進めるたびにスニーカーが泥の中に沈む。横を見ると、小さな社は巨大なハンマーで叩き潰されたようにひしゃげ、土砂や巨石交じりのへし折れた木材の間からは、茶色に変色した水が川のように流れ出していた。

 歩き続ける。何かが起こる気配を全身で感じながら。


――そう、そのまま真っ直ぐ


 ねっとりと絡みつくような声だった。何かを心待ちにしている子供のような声。

 土砂崩れが起きたと思われる神社の裏山、その裾辺りにまで辿り着いたとき、それは目の前に現れた。


「これって……」


 それは巨大な柱だった。山の中にあったものが土砂崩れで地上に現れたように見える。

 柱といってもただの木ではなく、それは真っ黒に塗られ、表面には鱗のような彫刻が下から上へとぐろを巻くように刻まれている。

 柱に近付く、この下に何かあるのだろうか。


――下ではない、奥じゃ


 言葉に従い柱の向こう側を見る。盛り上がった土に阻まれるように、崩れた山肌が黒い口を開けていた。入口は落ちて来た巨石で半分くらいが塞がれている。


――そこへ入れ。まっすぐじゃ、まっすぐゆけ


 中に入ると音が変わった。周りが急に暗くなり、潰されるような圧迫感が押し寄せてくる。


 不思議と自然にできた洞窟という感じがしない。均一な幅でずっと奥まで続いている。灯りなどどこにもないはずなのに前がはっきりと見える。


 歩いてゆくと側壁から突き出すように注連縄が天井に張られている。そして四角を組み合わせて波線のようにしたものが注連縄から三つ垂れ下がっていた。名前は知らないが神社でよく見るものだ。

 手を伸ばして触ってみると布だった。紙じゃないんだなと思いながらさらに奥へ進む。


 同じような注連縄をいくつもくぐると下り坂になった。

 降りきると、朽ちかけた小さな祠のそばに、注連縄の巻かれた棒が二本立っている。昔は灯りが置かれていたのだろうか。その前には小さな台座があった。


 そこからは横幅が広くなったが、私はむしろ通りにくい。通り道の両側にいくつもの神棚が互い違いに置かれ、それをよけながら奥に進まざるを得なくなったからだ。

 木製の神棚は大きさも形状も全て同じだ。最上段には真っ黒の剣や鏡、鐘のようなものが置かれ、それ以外の所には太い徳利や小皿、お猪口などが所狭しと並んでいる。神棚そのものが崩れてしまったのか、様々なものが地面に散らばっている所もあった。


「絶対やばいでしょ、何なのここ」


 こんな奥でまだ酸欠になっていない時点でどう考えてもおかしいが、それ以上の異様さを感じた。神道に全くと言っていいほど詳しくない私だが、それでも注連縄や神棚がどういう場で用いられるのかくらいは、何となく知っている。


 だが不思議なのはこんな場所が土砂崩れで現れたということだ。あの巨大な柱も含めて、こんな大掛かりなものを作ったのに、それをわざわざ山の中に埋めたのだろうか。


――すべて壊せ


「壊せって何を、どれを壊せばいいの」


 聞こえてきた声へ初めてまともに答えた。すると声は嬉しそうに饒舌になった。


――その棚をすべて打ち壊せ。鏡も割れ。剣があろう、それを使うのじゃ


 地面を見ると、崩れた神棚から放り出された剣が転がっている。それを両手で持ち上げると、ずしりとした重さがあった。

 手にすると急に自分が周りとは違う空間にいるような感じがした。黒く染まった景色と流れる時間が違うもののように感じられる。肌にびりびりと刺さるような威圧感があるのに、同時に心が鎮まるような清々しさがあった。


(誰か知らないけど、作った人……ごめんなさい)


 剣を振り上げ、棚に向かって振り下ろした。


 神棚は木材の劣化が進んでいたのか簡単に割れ、弾みで落ちた陶器らが粉々になった。剣や鐘も地面に落ち、大きな金属音が反響する。鏡のような丸いものは、黒ずんでいてどっちが鏡面か分からないので、剣を振り回して両面を砕いていく。そして最後のひとつの神棚をぶち壊すと、足元にたくさんの破片が散らばった。


「はぁ…はぁっ…終わった……」


 がくりと力が抜けた。剣を地面に落とし、そのまま壁にもたれかかるようにして座った。だらりと足を投げ出す。下着がないので嫌になるほど風通しがいい。普段ならば絶対にやらない格好だが、こんな場所だ。他人の目を気にするまでもないだろう。


――ようやった、ようやった。こっちを見よ


 声に釣られて洞窟のさらに奥に目をやると、今までそこに無かったはずのものが見えた。

 太い木材が格子状に組まれている。その奥にもう先はなく、行き止まりだった。


「牢屋……?」


 立ち上がって近付いてみると、その異常さに気が付いた。


 格子になっている木材や、その少し手前の内壁にはおびただしいほどのお札が貼られている。

 書かれている文字は様々で、ミミズがはっているようにグチャグチャなもの、複雑な漢字だけのもの、漢字とも違う意味不明な記号が書かれたもの。統一性はなく、とても古いものに見えた。


――剥がせ、全て剝がせ


「剥がしたら死ぬの?」


 背中を寒気が走り抜けるのを感じながら問いかけた。ここまでしておいて今更何を聞くのかと自分でも思う。


――そなたは阿呆か。殺すためにこのようなことをさせる訳がなかろう。


 小さな子供をからかうような口調で声は言う。私は格子のお札に手をかけた。

 隅から無理やり剥がす。側壁にも手を伸ばし、幾度も繰り返す。

 何枚剥がしただろうか。指先が痛くなりはじめたころ、よりはっきりと声がした。


「もうよい、出る。脇にどけ」


 頭に響く声ではなく、耳元に声の主がいるような聞こえ方だった。短い悲鳴が喉の奥から飛び出し、壁に背を張り付ける。


 低い音が響いた。巨大な打ち上げ花火が炸裂した時のような、身体の深くに染み渡るような衝撃。


 ギ、ギギッと硬いものが軋む音がする。

 音の方へ眼を向けた瞬間、世界から音が消え、視界がブレた。


 違和感を覚えると同時、重力は反転し、私の身体は宙に浮いた。


 凄まじい破壊音が鳴り響き木製の格子が粉微塵に砕ける。それに巻き込まれて私は吹き飛び、壊した神棚の残骸に雪崩れ込むように地面に叩きつけられた。


 全身に激痛が走る。身体が動かない。

 必死の思いで瞼を上げると、あんなに重厚だった格子は跡形もなくなり、左右の岩肌も大きく抉れている。独特の匂いが鼻をついた。


 半身が冷たい。地面には赤い液体が広がっている。それが自分の血であると気付くまで時間はかからなかった。


「久方ぶりじゃな」


 あの声が聞こえ、眼球だけを動かす。真っ白な着物を身に纏った少女が視界に入った。

 私の血だまりを踏みつけ、小躍りするように近づいてくる。


「我は嬉しいぞ、朋よ」


 伸びてきた少女の手が肩に触れた瞬間、私の視界は暗転した。

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