第2話 不思議な声
辰巳と別れた帰り道。空は夕暮れに染まり、水を張った田んぼでは蛙が鳴き始めていた。
財布の中には成り行きで買ってしまった宝くじが2枚。こんなもので高額当選があるわけがない。確率的にはダンプカー数台分買って当たるかどうかではなかろうか。
そこから先はあっちこっちへと連れまわされてしまった。遊び場、遊び方、いずれも辰巳の方が遥かに場慣れしている。あまりお金を使わない方針でよくもあそこまで楽しめるものだと思う。
辰巳の住む一軒家と私の住む安アパートは学校を間に置いて逆方向にある。同じアパートに暮らす生徒もいないので、帰路はいつも1人だ。
こうして歩いていると、さっきまで笑っていた時間が宙に吸い出されて消えていく気持ちがする。背後から差し込む茜で伸びきった影を、砂交じりのアスファルトで踏んでゆく。
気が付けば、曲がるべき角をとうに過ぎていた。家に帰りたくなくて、本能的に曲がりそびれたのだと思う。
足を止めて自分の影を目で追うと、石段がゆっくりと視界に迫り、頭部の影がぐにゃりと歪んだ。
石段の左右は石垣で盛り上がり、それぞれ石灯籠が置かれている。石垣には何かわからない草蔓が絡みつき、灯籠も苔まみれで頭の部分は緑に変色していた。さらに石段の左右では、絶対に管理されていないであろう草木が好き勝手に伸びている。見捨てられ荒れ果てた神社という表現がしっくりくる場所だ。
気を引かれたのか、それとも引かされたのか。私の視線は自然と石段の奥に見える鳥居に延びていた。石色をしたその鳥居も荒れ放題だが、そこはもう気にしない。
石段に足をかける。滑らないように注意しながら鳥居をくぐった。鳥居の真ん中には板のようなものがあったが、それも劣化が激しく何が書かれていたか分からない。
鳥居を過ぎるともう階段はなく、微妙な坂道を上った先にはブロック塀のようなものが2つあった。これも苔まみれ。高さは私の膝程までしかなく、その端からは腰くらいまでの柱が伸びていた。ちょうど旗を逆さまにして地面に突き刺したような格好だ。門のようにも見えなくはない。
そこからは地面は苔だらけの石畳になっていた。通り道は直角に曲がり、先には短い石段と小屋が見えた。申し訳程度の街灯が低い音と合わせて点滅している。
(電気は来てるんだな)
見えた小屋はお参りの前に手を清める所だった。完全に干上がり、土と葉っぱで埋まっている。さらに直角に通り道が折れ、その先に短い石段と社が見えた。
その瞬間、周りの木々の間を抜けて来たのか、冷えた風が身体を撫でる。
「さっむ……」
夏服だからか、余計に肌寒い。自分を抱くようにして腕を摩り、そこではっとした。
「何してんの、私」
背中を舐めるように悪寒が走った。冷や汗が湧いてくる。
どうしてこんな寂れた神社に足を踏み入れたのか。なぜ振り返らずに進んでいたのか。こんな場所で、どうして怖いと思わなかったのか。
家に帰りたくないだけなら場所はいくらでもある。どうしてこんなところに行こうと思ったのか、自分でも分からなかった。
――こっちじゃ
弾かれたように顔を上げた。
足元で冷たい風が揺蕩う。噛みしめて絞り出されるような声が耳の奥で鳴った。
――来てくれたのであろう、こっちに来やれ
一歩後ずさり、辺りを見渡す。何もない。誰かがいる訳でもない。辛うじて空の隅に残っている夕日が辺りを薄く染めているだけだ。
(なに、いまの……)
耳に手を当てる。はっきりと聞こえた、それも二度も。空耳のわけがない。
あっけに取られて呆然としていたが、やがて思い出したかのように、心臓がものすごい勢いで脈を打ち始めた。
(に、逃げなきゃ……早く)
足が震える。ここにいては不味いと分かっているのに身体が動かない。振り返ったら後ろに何かがいそうだ。そう思うと首が回せない。喉から引きつった声が洩れる。
――来い
今度こそはっきりと聞こえた。直後、心臓が握りつぶされたかと思った。どくんと心臓が一際大きく跳ねると、足元からふっと力が消え、視界が上へと吹き飛んだ。
思わず地面に手を着く。転んで尻餅をついたのだ。そう気が付いた瞬間、私は反射的に駆けだしていた。
さっきまで固まっていた身体が嘘のように動く。門のような低いブロック塀のところで曲がり切れず、苔に滑って派手に転んだ。絵に描いたような転倒で、地面に打ち付けた腕が痛い。
――どうしたのじゃ、何を焦って
「知らない! 私はアンタなんか知らない!」
再び聞こえてくる声に、両耳を塞いで喚き散らす。怖くて泣きそうだ。もう泣いているかもしれない。
苔で滑る足をなんとか踏ん張り坂道を駆け下りる。石段が残り数段となったところで道路に飛び降りた。左の膝に痛みが走るが、構わず足を動かして神社から離れる。どうせ車も通らない道だ。遠慮なく真ん中を通る。
――待て。こら、待たぬか。不幸にはせぬ
幻だ。これは幻。そう念じながら走る。
――ま
やがて息が上がり、足が棒になり始めた時。唐突に声が途切れた。
それでもしばらく走る。それから辺り見回す。何も見えないことを確認して、大きく息を吐いた。
「な、何だっ、たの、今の」
荒い息を整えながら口に出す。問いかけても答えてくれる人がいるわけではないが、何か言わずにはいられない。冷静になり、頭の中で記憶を反芻するにつれて、怖さがぶり返してきた。寒気がする。
二度とあそこにはいかない。そう固く決意した。
自宅の二階建てボロアパートは、夜の色に包まれて一層の陰気臭さを醸し出している。確か築五十年以上。見栄えをよくするために塗り直された外壁には、萎びた老人が金歯を入れているような違和感がある。外階段の近くにはセミの死骸が転がり、灯りに照らされてオブジェのように馴染んでいた。
長年の雨風で焦げ茶になった階段は錆臭い。よく見ると階段に小さな穴が空いている。折れてしまうのではと不安になりながら登ってゆく。
玄関の軽い扉を開けると、無人の暗い部屋が私を出迎える。ほっとして電気をつけると、後ろ手に鍵を閉めた。母が家を空けがちになったのはいつ頃だっただろうか。
制服を脱ぎ捨てると、ほとんど同時に固定電話が鳴る。
電話に出れば、きっと母の怒鳴り声がすると思うと溜息が漏れた。別の誰かならいいのだが、現実問題としてこの家に電話をかけてくる人などそれくらいしかいない。
だが出なければ出ないで更に母はヒートアップするだろう。もし家で出くわせば面倒なことになってしまう。受話器越しに叫ばれるくらいなら、それで妥協しておいた方がきっといい。
「はい、
それだけ言ってあとは黙る。母が話し始めるまで黙っているのが一番波風立たない方法だ。
「真海か?」
少しして聞こえて来たのは母の声ではなかった。
「お父さん?」
間を置いて返事をした。父からの電話は実に久しぶりだ。
最後に聞いたのは三カ月くらい前になる。母の不在を狙って、中学二年生になったという連絡をしたとき以来だ。
私の両親は3年前に離婚した。原因は母の不倫だったのだが、親権は何故か母の手に渡った。いい年をしてロマンスを追い求めたのを別に否定しないが、記憶の中にある言動を探る限り、どうも本気になっていたのは母だけだったらしい。間抜けた話だ。
「今日も一人か?」
「うん、そうだよ。あの人忙しそうだしさ」
軽口を叩くように答える。仮にここで愚痴を垂れ流しても事態は好転しないし、私がスッキリすることもない。どれだけ文句を言おうとも、その庇護下でなければ何もさせてもらえないというのが未成年である私の現実だ。むしろ愚痴るたびに憂鬱な気分が増す。
このボロ家には私と母が住んでいるということになっているが、母は基本家に寄り付かないので実質私の一人暮らしだ。幸いなことに今のところは電気や水道が止められたり、家賃滞納で追い出されたりはしていない。養育費として振り込まれるお金は、その大半が母のポケットマネーになっているはずなので、きっと父が払ってくれているのだろう。
「カードは持っているか? 必要なものがあったら遠慮なく使っていいからな」
「大丈夫だよ、別にそこまでしてくれなくても。そんなに使うこともないし」
私のような境遇をネグレクトと呼ぶのだと保健体育の授業で知った。再現VTRで見せられた映像では、水道が止まった家で、テーブルに置かれるお金でコンビニ弁当ばかり食べ、お風呂にも入れず、みすぼらしくなってゆく様子を子役が熱演していた。
父がこっそり持たせてくれたキャッシュカードがなければ、私もきっとあの子役のようになっていたと思う。
母がこの家で毎日を過ごしていれば、私はどうなっていただろうか。
お金の出所を怪しまれ、すぐに種が割れていたはずだ。きっとそれだけではない。母か、あるいは母が時々家に連れ込んでいる男に、あっという間に奪われていただろう。無関心が一番つらいと言う人もいるが、私にとってはその無関心こそが唯一の救いだった。
「そうか。何か困ったことがあったらすぐに言うんだぞ」
「分かってるよ。それにずっとこの家にいるつもりもないしさ、高校や大学から県外に出るって手もあるしね」
「そうか…そうだな」
父はそう言って少し笑った。しかしそれが作り笑いだということは直ぐに分かった。
この人は今の私が直面している事実だけで泣きそうになるのだと思うと同情する。
しばらく沈黙が流れた後、私は思い出したかのように言う。
「じゃあ切るね。そろそろ買い物行かないと」
「今日はもう止めておいた方がいいんじゃないか。こんなに暗いのに」
「すぐ近くのお店だから大丈夫、人も多い通りだし。ちょうど色々切らしちゃっててさ、帰りがけに行かないといけないの忘れてたんだよ」
というのは半分ウソ。私一人なら料理するのに十分な食材はある。
だが気に入ったものが冷蔵庫にないと狂乱して暴れる人がいる。寝ている間や私が学校に行っている間に部屋を壊されては敵わない。待ち伏せされて襲われるかもしれない。
「ならいいんだがな。気を付けて行ってきなさい」
「分かった。バイバイ、お父さん」
電話を切って大きく息をつく。
財布を入れた小さなバッグを肩に引っ掛け、部屋を後にした。
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