第3話 嵐来たる

 ある日、私の住んでいる県が台風の通路になった。


 確かに明朝から前ぶれのような風はざわざわと吹いていた。ただ想定外の進路だったようで、朝のニュースではとある大学の准教授だという人がその不思議な進路についてパネルを使って警鐘を鳴らしていた。台風が上陸したと思われる地域では、記者が暴風に襲われながら賢明に情報を伝えている。一種の夏の風物詩だが、正直そこまでしなくてもいいのではないかと思う。


 だがあいにく警報の発令はない。学校からの連絡もない。

 普通の子供ならば落胆する出来事だろうが、家に居座っていると母あるいはその相手の男が帰ってくるかもしれないと考えていた私にとってはむしろ好都合だった。風で逆向きに吹っ飛びそうになるスカートを警戒しながら学校へと向かった。


 しかし午後からは凄まじい嵐になった。爆撃のような雨が窓を叩く。変わらず辰巳と授業をサボっていた私だったが、休み時間中に校内放送で休校になる旨が伝えられた。


――チッ、休校にするなら最初からしろよグズ


 忌々し気に舌打ちをする辰巳を笑ってなだめる。正直気持ちは分からなくもない。

 靴箱で待っていると言う彼女を背に、荷物を取りに教室に戻る。教室に戻ると休校のイベントに誰もが盛り上がっていた。ざわめきのどさくさに紛れることができるのは好都合だ。


「おかえり、不良少女」


 隣の席の鷲尾わしおが声をかけてきた。彼女の机には学生鞄が乗っている、既に帰り支度を終えたのだろう。


「サボりも程々にしておけよ、後々に響いてくるぞ」

「はいはい、面倒見のいい友人を持って涙が出るよ」

「茶化すな、真面目に言っているんだ。今は真似事のつもりかもしれないけど」

「わーってるって。別にいいんだよ、私は」


 冗談交じりに返したが、鷲尾はじろりと私を睨みつけながらバッサリと言い捨てた。


「破滅願望は嫌いだ」


 こうもはっきり言い切られると対応に困るが、きっと彼女なりに私のことを心配しているのだろうと思う。鷲尾は真っ直ぐな性格をしているが、それゆえに不器用な行動が多い。

 きっと今もそうなのだろう、語尾はきついが嫌な気はしない。


「そんなに怒んないでよ」

「怒ってない、元々こうなんだ」


 拗ねたような声で言うと、鷲尾は腕を組んでそっぽを向いた。彼女はこの地域の大きな神社の子で、本人に継ぐ気はないらしいが、ザ・巫女とも言える真っ黒な長髪が背中で綺麗に纏まっている。弓道部だからだろうか、それとも長身で強調されるせいだろうか、横から見ても凛々しい。又聞きした程度で真偽の程は定かでないが、鷲尾を目当てに弓道部に入った1年生が結構いたとか。


 荷物をまとめていざ帰ろうと思ったとき、間が悪く担任が入ってきた。かなり年配なせいか、おじいちゃん先生と言われている。おそらく過半は本名すら覚えてないだろう。私も覚えていないから人のことは言えない。


「はい、座って座って」


 教卓に手をつきながら、しわがれた声で呼びかける。これでは教室から出られない。

 早く帰りたいこともあってか、すぐにクラスは静まった。


「えー、えっとね、みなさん知ってます通り、えー警報がね、出たのでね、これから帰宅してもらうということに、はい、なりました」


 その言葉にお調子者たちが拍手を送る。それをにこやかに手で制すると、おじいちゃん先生は続ける。


「ただね、これはあくまで危険からみなさんを守るための、措置。だからね、えー調子に乗って遊びに行ったりしないよう。まっすぐ家に帰ること、ね」

「そうだぞー」

「うん、特に君ね。落ち着きがないんだから」


 誰かがふざけて言うと、当の本人を指しながらおじいちゃん先生が言う。笑いが起きた。

 わざわざ言われなくてもこんな大雨暴風の日に「遊びに行こうぜ!」となる生徒はいないだろう。友人の家に行くにしても、これでは道中で濡れネズミ確定だ。


「外に行くなよ、綛井」


 隣から鷲尾の声がする。行かないよと笑って返した。


・・・・・


 看板はがたがたと音を立てて揺れ、街灯の明かりも揺らめいていた。

 雨粒は横方向から容赦なく突き刺さるように降り注ぎ、傘をさしても身体が濡れてくる。路地には水しぶきが上がり、霧がかかったように空気がかすむ。


 辰巳は学校に残ると言っていた。私がクラスにいる間に、迎えに行くと父親から連絡が来たらしい。羨ましいことだ。一緒に送ってあげようかとも聞かれたが丁重に断った。あんな家を見られるくらいなら濡れて帰った方が良い。

 私自身が風に押されて飛んでゆきそうだった。戦うようにスカートを押さえていると、雷光がぱっと空を覆い、かなり遅れてから轟音が響き渡る。傘をさしているので雨よりも雷が怖く、走るように家を目指した。


 玄関の鍵を取り出しながらアパートの外階段を上る。建て付けの悪い戸を引き、家に上がった。


「おかえ…なんだお前か」


 部屋の中からぞんざいな声がかかる。思ってもみなかった反応に体が固まる。

 母の声だった。こんな時間になぜ家にいるのだろう。


「出てってくんない? 邪魔なんだけど」

「今日は無理だよ。静かにしてるから居させて」

「出てけっつったの聞こえなかった? お前がいるせいで男が寄ってこないんだよ。再婚もできやしない、お前なんて産まなきゃよかった」

「……それは分かってるよ、ごめん」

「思ってもねぇのに謝ってんじゃねぇよ気持ち悪い。そういうウジウジしたのマジでキモイんだよ」


 母は独り言のように言葉を発し続ける。雨音は強くなるばかりだったが、不思議とその声はよく通った。


 私は口を真一文字に結び、無反応でいるよう心掛けた。無視しているように見えるがこれでいい。サンドバッグに会話は求められていないのだ。少しでも反応すればヒートアップさせるだけだと知っている。

 慣れたはずだったが、電話越しと直ではまた違うものがある。


 私が居なくなれば母は自由になれるのだという。だが一方で私が居なくなればお金が入らない。男にも貢げない。

 母の収入になっているお金だけが、私の命を繋ぎ止めているか細い糸だ。


 そろそろサンドバッグ役は終わっただろうか。そう思ったとき、ガチャと軽い金属音がして背後のドアが開く。


「あん? 誰?」


 大きくなった雨音に混じって濁った声がする。振り返ると手ぶらの男がいた。

 派手なスカジャン、サングラスを額にかけ、首筋には刺青が這うように巻き付いている。私を見下ろすその目は焦点がどこに合っているのか分からない。


「愛莉ぃ、これ誰ぇ?」


 男は私を一瞥すると、奥にいる母に向かって声をかける。母はさも興味がなさそうに言う。


「教えたでしょ、私の娘」

「あぁ金蔓ね」


 男がケタケタと下品に笑う。何がそんなにおかしいのか分からない。


「毎月キッチリ払ってくれて頭が上がんねぇや、ハハハ」


 彼は腕で私を押しのけると、ドスドスと足音を立てて冷蔵庫へ向かう。そして中を覗き込むと、口元を歪めて大きく舌打ちした。


「ねぇんだけど、俺の好きなヤツ」

「だったら買って来なさいよ、お金あげたでしょ」

「ねぇよあんなもん」

「はあ? 今月のはもうあげたでしょ? もう使ったの!?」

「あんなんじゃ酒もろくに買えねぇっての」

「そんなわけないでしょ! いったい誰の金だと…ぎゃっ!」


 言い終わる前に、男は母に近寄ると髪の毛を掴み上げた。苦痛に歪む母の顔にぐっと近付き、威圧するように言う。


「お前の金は俺の金なんだよボケ」


 それが当たり前の理屈であるかのような静かな声だった。母は非力な抵抗を続けていたが、突き飛ばされるように男の手が離れると、小さな悲鳴と共に倒れこんだ。


「とっとと買ってこい」


 男は吐き捨てるように言うと、再び母の髪を掴み上げた。引っ張るように玄関へ歩かせると、私の隣にポイと放り出す。よろけた母は鋭い目で私を睨み、私から傘をひったくるようにして出て行った。鍵も閉めずに。

 男の方から寒い視線を感じた。その口元には薄ら笑いがある。


「似てねぇな。ま、それはそれで良いか」


 言うが早いか、男の手が私の胸倉を掴んだ。制服が伸びる勢いのままに奥へと引きずり込まれる。この男が何をしようとしているのか。想像される答えに寒気がした。


「いやっ! いやだ!」

「うるせぇなぁ、諦めろっての」


 叫んで抵抗するが抵抗になっていない。男は私を軽々と床に突き飛ばした。咄嗟に立ち上がって逃げようとするが、男は追いかけるように私の身体を潰す。手首を掴まれながら身体をひっくり返され、仰向けに押さえつけられた。


「あーいいねぇそういうの、俺ァ好きだよ。中学だっけ? 随分発育いいねぇ」


 男の指が私の胸を掴む。恐怖で心臓が止まりそうになる。思わず悲鳴を上げて足をばたつかせるが、あっという間に下着を取り払われた。


「あんまり暴れんなよな。蛙の子は蛙って言うだろ? ロクな大人になんてなれねえんだからさぁ、今から楽しんで慣れとけよ。手伝ってやるから」


 男の手の中に丸く握られた私の下着がある。男はそれを私の口に突っ込もうとした。

 首を振る。すると狙いが外れたのか、男は舌打ち交じりに私の顔を抑えにかかる。

 ほんの偶然だった。口の前に男の手がある。視線を目いっぱい下げる、男の親指。

 私はそれに思い切り嚙みついた。


「があぁぁぁっ! この、クソガキが!」


 今度は男が叫んだ。弾みで両手が自由になる。嚙みついた方の手を両手で抱えると、さらに強く喰らい付く。無我夢中で、指を食いちぎってもいいと思った。

 男は立ち上がると、自由な方の拳で私の顔を思いきり殴った。とっさに目を閉じるも衝撃は襲ってくる。経験したことのない感触が広がったが、口は離さなかった。


「離しやがれ!」


 今度はお腹を殴られた。弾みで口が開き、出血した親指が口から離れる。それと同時に思いきり蹴られた。床で身体を強く打つ。息ができない。

 視界を回すと目の前に玄関がある。男はどうやら私を玄関に向かって蹴り飛ばしてしまったらしい。逃げなければ、その思いだけが脳裏に浮かぶ。


 ここしかない。


 指を押さえて激昂する男を背に、私は玄関に向かって逃げ出した。息はできないが動ける。

 弾みで落としてしまった財布を拾い上げると、そのままドアに体当たりするように外へ飛び出す。靴を履いている余裕はない。靴下が雨でぐちょりと濡れた。


「ぶっ殺してやる! 逃がさねぇぞクソアマぁ!」


 背後から咆哮が聞こえ、次の瞬間ドアが吹き飛ぶのではないかと言う勢いで開いた。

 だが振り向かない、振り向いたら終わる。外階段を3段飛ばしで駆け下りると、そのまま道路に飛び出した。アスファルトは雨で濡れ、履いているのは靴下。踏ん張りがきかない。


 赤信号の横断歩道を走って渡る。トラックの図太いクラクションの音がした。


 私の背後でトラックが飛沫をまき散らして急停車する。はねられなかった。同時に私を追いかけていた男がトラックに向かって激怒する叫びが聞こえた。トラックの運転手も怒鳴り返し、言い争いが始まっている。


 私は振り返らず走り続け、裏路地に逃げ込んだ。

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