人間ごっこ

翠華

第1章 開幕

第1話 始まり

 小さな指の間を砂が滑り落ちていく。

 細かい粒子が両手を覆い、爪の先には満遍なく砂粒が入り込んでいた。


 料理人が調味料を加えるような慎重さで幼女は砂を撒く。砂山をスコップで叩いて、崩れないように形を整えていく。飽きることなく、気取った顔で眺めているところを見る限り、納得のゆく出来であるらしい。

 一緒にお城を建設していた友達は既に帰ってしまった。だがそれを寂しいと思っている様子はない。空が濃い橙へ変わり始めていることも、彼女の集中を削ぐには足らないようだ。


――楽しそうじゃな、我も混ぜてくれぬか


 不意に聞こえてきた声に、幼女はぴくんと顔をあげた。

 餌を探して歩く鶏のようにきょろきょろと首を巡らせると、すぐにお目当ては見つかった。


 少女の真後ろ。視線の留まった先には小さな人影があった。白い着物をまとった少女で、闇が下りかけている中で浮かび上がって見える。着物は指が見えないくらいに裾が長い。幼女よりも一回り大きく、小学生程度だろうか。砂場には不釣合いな存在に見えるが、本人は全く気にしていないようだった。


 背後にいきなり子供が現れるという、大人であれば叫んで飛び上がるような状況だが、幼女は逃げ出すわけでもなく、不思議そうに首をひねった。ひねりすぎて身体ごと傾いてしまっている。


「共に遊ばぬか?」

「えー」


 幼女は考え込んだ。砂山と遊ぶ手が止まる。両腕を組み、口をへの字に結んでいる。彼女にとってはかなり難しい問題らしい。

 しかし十秒もしないうちに幼女はぱんと手を打った。どうやら問題は解決されたらしく、晴れ晴れとした顔で「いいよー!」と叫ぶ。


 少女は口角を吊り上げて微笑むと、着物が汚れることもいとわずに膝をつき、砂山を挟んで幼女の正面に座った。


「遊ぼうかの。どうすればいいのじゃ?」


 口調は古めかしい。どこか芝居がかった口調で、時代を間違えているとしか思えない。

 だが、遊ぶことに一生懸命な幼女にとってはどうでもいいことなのだろう。


「だめぇ! そこちがうの!」

「ああ、すまぬ。こうか?」

「もー! ぜんぜんちがうの!」

「う、うむ……」


 幼女の意図に反する度に可愛らしいお叱りを受けると、着物姿の少女はがっくしと肩を落とし、また指示を受けて砂山を掘り始める。幼女は満足そうに頷くと、またお城の建設を再開する。


「できたっ!」


 やがて夕日が落ちて辺りが闇に包まれた頃、砂の城の前で大儀そうに両腕を開き、幼女は大きく息を吐く。額に滲んだ汗をぬぐい、満足そうな表情で胸を張った。


「ね、できたでしょー」

「そうじゃの、ほんに楽しかった。今しばらく遊ばぬか?」

「や、もう帰る」


 あたりが暗くなり、あるのは寂しい灯だけ。

 ついに心細さが遊び心に勝ったらしい。幼女は誘いを容赦なく突っぱねた。


「つれないのぅ……」


 いじけたように、着物姿の少女は顔を下に向けた。

 口をとがらせて足元の砂を軽く蹴とばすと、思いついたように顔を上げる。


「ま、よいか。次に遊ぶ時のために、そなたの名を教えてはくれぬか?」

「えっ、やだ」

「嘘じゃろ」


 予想していなかった拒絶に少女は目を丸くした。だがその表情は長く続くことなく笑みで上書きされる。

 幼女の答えを楽しんでいるのか、その口元には悪戯っ子のような表情が浮かぶ。

 くくく、と小さく笑いながら少女は続けた。


「名を教えるくらいよいではないか」

「知らない人に名前教えちゃダメーってせんせーが言ってたもん」

「もう朋だと思うておったのに……」


 少女は口をとがらせると、そのまましゃがみ込んで上目遣いで幼女を見上げた。


「おともだち?」

「そうじゃ。そなたに我の名を教えよう。次に出会う時のために」


 不思議そうに瞬きをする幼女を見て、少女は右手を差し出した。


「寂しいのぅ。名を知らねば我とそなたはもう会えぬ、もう遊べぬ。せっかく朋になれたのに悲しいのぅ」


 わざとらしいくらいに強調された悲しげな声に、幼女は身体をダイナミックに使って悩んでいたが、やがて決意を固めたように「いいよ!」と叫ぶ。


「まみ! かせーまみ!」


 差し出された手に小さな両手を重ね合わせ、幼女は笑って答える。

 少女の口角がつり上がった。歯が見えるほどに。


「カセイ、マミ……か。うむ、良き名じゃ」


 不意に風が吹いた。冷たい風に首筋をなでられて、幼女は反射的に首を竦める。


「カセイのマミよ。家の者が心配するでな、我がそなたを家まで送ってやろう」


 まみと名乗った幼女の顔から笑みが消えないうちに、その身体を白いもやが覆い始めた。波に洗われて砂山が崩れてゆくように、辺りの空気との境がおぼろげになってゆく。白いもやを眩しいと感じ、幼女は目をぎゅっと閉じた。


「我の名は――」


 その瞬間、幼女の視界は暗転した。


・・・・・・


 学校特有のチャイムで私は目を覚ました。

 ぱちりと目を開けると、古びた天井の模様が視界を満たす。足を振り上げて勢いをつけると、寝転がっていたソファーから起き上がった。


 ここは教室ではない。

 授業終わりに道具をしまう音もしなければ、生徒のざわめきも聞こえない。


 季節は夏。誰もが薄着になり、下敷きやノートが団扇として活躍する時分。空は青絵具をぶちまけたようで、窓を貫通してくる日差しは暴力的だ。


 田舎らしからぬ豪華な校舎の構造的な問題なのか、今私がいる部屋の気温は快適だ。何かの準備室らしいが、部屋名を書いたプレートは劣化して文字がかすんでいる。休み時間でも人が来ず、授業をサボっても問題のない場所くらいの認識しかなかった。


「お前さ、そんなソファーでよく眠れるね」


 職員室から戦力外通告を受けたであろう回転椅子に座り、くるくると回りながら辰巳タツミが言う。私をサボりに引き込んだ張本人の彼女だが、こうするようになって早二ヶ月、私もすっかり板についてしまっている。

 背中の部分が破れた回転椅子からは綿が飛び出し、それが回転につられて羽のように振り回されていた。背もたれを太ももで挟むように座りながら、辰巳は手持ち無沙汰げに両足をふらふらとさせている。


 ソファーは中の綿が所々死に柔らかさがまばらだ。そんな所で寝ていたせいか首が痛い。


「なんっか変な夢見たわ」


 頭を回しながら呟くと、辰巳は背もたれに顎を置いてこちらを見る。


「へぇ、どんな」

「なんか子供でてきた、着物の子供」


 寝起きでぼんやりとしている頭を右手で軽くかく。頭の中にはモヤのような夢の欠片が残っているが、手の届かないところに遠ざかっているように感じる。

 辰巳は座面に胡坐をかくように座り直した。


「こっわ、呪われてんじゃねーの」

「馬鹿、勘弁してよ」

「ははは、しかしよく眠ってたねぇ」


 笑いながら辰巳は、生徒指導から逃亡し続けている茶色いショートヘアーを指で弄りながら気だるげに続ける。


「ま、こんな日だしね。縁起のいい夢だと思うよ」

「今日って何か記念日だったっけ?」

己巳つちのとみの日、御利益は金運上昇」

「辰巳ってそういうの信じるタイプだったっけ」

「アタシじゃなくてうちのパパがね。いつも運が良いからって大量に宝くじ買って来んの。そんでママが毎回ブチギレるから、もうサイクルが頭に入ってんだよね」


 よく買うよねぇ当たりもしないのに、と辰巳が笑う。口調から察するに大きな当たりは一度もないのだろう。


「あ、もしかしたら夢に出て来た子供って座敷童じゃね? アタシも宝くじ買ってみよっかな」

「あんたも大概お父さんに影響されてるね」

「うるせぇ」


 名案が浮かんだと言わんばかりに両手をパンと打ち鳴らす辰巳に私は苦笑した。


「ほら帰るよ、居残りの趣味はないっしょ?」


 辰巳が言って思い出した。今日は午前で授業が終わる。日が高いうちに帰宅できることは多くの生徒にとって喜ばしいことだろう。

 いつの間にか扉の近くにいた辰巳は、それ中身入ってんのと聞きたくなるくらいペラペラで軽そうなカバンを右手で肩に背負い、左手を招き猫のように動かしている。

 私も重い腰を上げてソファーから立ち上がるが鞄は重い。熟練サボり魔の辰巳と違い私のサボり歴は浅い。日によって気分が変わるから念のため授業の用意をしてきている。今日はサボるのやめとこうと思った日に限って教科書がないという事態を避けるためだ。置き勉すればいいと思うが、私の担任はそれを見つけると怒るタイプなので実行できない。


 一緒に廊下へ出ると熱気と雑草の混ざり合った独特の匂いがした。廊下の窓が中庭に面しているせいだろう。蒸し暑い空気を肌に感じながら私と辰巳は歩き出す。


「今日はどこ行くの?」

「宝くじ……」

「いいってそれは」


 未練がましそうな辰巳の横顔を見る。身長差から私が見下ろす格好になるが、雰囲気だけは辰巳の方が大人に見える。見た目のせいだろうか、それとも振る舞いが堂々としているからだろうか。

 はぁとため息をつくと、辰巳がこちらを見上げた。


「わかったって、そんなに嫌なら行かないよ」

「別に宝くじが嫌なんじゃないよ」

「だったら何」

「いやね、なんていうか……」


 視線をさらに下に落とす。スカートは短いし、シャツの裾は外に飛び出している。可愛いと皆から評判のリボンタイだって邪魔だと外してしまっている。見た目が良いのに勿体ないと伝えたことはあるが、本人に関心がないのだからどうしようもない。


「不良っぽいのと一緒にいるのが嫌?」

「違うよ、それは違う」


 ここまで服装を崩して堂々としていられるのは正直羨ましいと思う。


「神頼みってのがあんまり好きじゃないんだよ、役に立たないし」

「ひえー無神論者。祟りがあるぞよ」

「あんたもでしょうが」

「いいんだよ神様なんて都合の良いときだけ使ってやれば。多分日本人で本気で神様に祈った理由ランキング取ったら1位は腹痛とかなんだしさ」

「なにそれ、馬鹿みたい」


 吹き出した私に、辰巳はケラケラと笑った。


 正門からずらずらと出てゆく生徒たちに交じって学校を後にする。巨大な入道雲が山から天に向かって突き上がり、絹のように光っていた。


「あーいう雲見っとさ、ちょっとセンチになるね」


 辰巳が私の顔を見て言う。


「まだ中二でしょうが。年寄り臭くなるにはだいぶ早いよ」

「きっと10年20年たって思い出すんだよ。あの時は楽しかったなぁって」

「他に思い出とか作らないわけ?」

「幸せとは何気ない日々なのサ。分かるかい、真海クン」


 辰巳は私の名を呼ぶと、数歩だけ前に出てから身体を回転させた。短いスカートがひらりと浮き、危うく下着が見えそうだ。そのまま私が追い付くと、私を見たままで後ろ歩きに進み始める。


「苗字でいいのに、なんで名前呼びすんのかね」

「名前の方が言いやすいじゃん。てか別にいいでしょ、友達なんだし」

「友達だっけ?」


 冗談を飛ばすと、辰巳は私の横に並んで大袈裟に口を開け、両手で顔を覆う仕草をした。


「うーっ、うーっ、友達だと思ってたのにー」


 ちらりと指の間から覗いているのが分かる。


「えーんえーん……えーん」

「もういいってメンドクサイな」

「はいはい」


 すぐに嘘泣きをやめて元に戻る。

 辰巳が私を名前で呼ぶのは初対面の時からだ。諸々あって初めて授業をサボったとき、近づいてくる足音を警戒して動けなくなっていたところを、辰巳が手を引いて例の準備室に連れ込んだのが始まり。


――ここバレねーからさ、サボりたいなら歓迎だよ。ひとりで暇だし。


 備品であろう机の上に胡坐をかいて辰巳は言った。身長が低いから始めは後輩だと思い、1年生かと聞いたら紙の筒で殴られた。


 何もかもが真逆でクラスも別。おそらくサボりがなければ知り合うこともなかった間柄だろうが、不思議と親しくなるのに時間はかからなかった。サボっているという背徳感を共有していたお陰だったのかもしれない。


「で、どこ行くよ。真海」


 からかうような口調で言い、辰巳は歯を見せて笑った。


「宝くじ買いに行ってもいいよ、付き合ってあげる」

「え、ホントに! マジで! よっしゃあ!」


 そんなに行きたかったのか。

 分かりやすく身体全体を使って嬉しがる辰巳に、私は苦笑しながら付いていく。


 綛井カセイ真海マミ。それが私の名前。

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