バーニングブルース


 人間というのは存外、燃え辛い。


 エリコは初めてそれを知った。人は焼かれるよりも前に燻されて死ぬ。焦げる匂いはするものの、激しく火が纏わりついて踊るように、映画やゲームで見る死に方とは全く違っていて些か肩透かしを食らっていた。初めにぐったりとして動かなくなり、着ている服が先に、荼毘に付されるように火に長く晒されてからやっと、でも一度火がつけばよく燃え始める。

「きっと家も燃えちゃうね」

 やっと全身が燃えてくれた男を見下してからエリコはそういった。

 一人目の男は父親だった。酒呑みで酒乱で、いつも自分に暴力を振るっていた男だ。母親は生まれた時から見たことがないから、きっといない。だからずっとこの父に育てられてきたのだが、彼からは良い思い出らしい思い出もなく、普段はご飯を用意してくれるわけでもなく夜には叩かれて寝床に、或いは外に連れてかれていた。だからか、いつしか父親というより自分を飼っているだけの男として認識していた。過酷な飼われ方をされているライオンはいずれその飼育者を襲う。何かの本で読んだ。この男もまた然り。エリコはランドセルに詰めれるものを詰め込んでから外へ出た。

「お嬢ちゃん。うちどこ?」

 二人目の男はおまわりさんだった。真ん中に金ピカがついた青い制帽に青いポケットまみれの服。辺りは真っ暗で、フラフラ辿り着いた知らない公園の角の、天井に枯れた蔓が巻きついた東屋にポツンと座っていたら声を掛けられた。公園入り口のすぐ外にはおばあさんとその孫か、子供が何人か固まってこちらを見ている。エリコは無言であっちと警察官を指差した。彼はまず自分の腹を見てそれから後ろに向く。少女の指は家屋などの少し上を指していて、遠いし暗いが濛々と灰色の煙が登っているのが判る。おまわりさんはそちらを向いたまま独り言みたいに「現在、イガイガ公園にて付近で火災中と思われる家の少女を発見。ランドセルを背負っていることから小学生と思われる。これより保護します」といい、向き直るとエリコに対して優しい目を向けて、「もう大丈夫だよ」と肩に触れようと手を伸ばしてきた。エリコは嫌な顔をした。それがよくなかった。

「うわ!」

 やっぱり火のつきが良くなくて、おまわりさんは最初飛び退って距離をとったがすぐに詰めて組みついてしまうと、火を吸ってしまってすぐに力がなくなった。その後もしばらく居座ってやると服が燃え始めて、おまわりさんの右腰辺りが爆発したのにはびっくりした。結局、この爆発の前から外にいたおばあさんたちが騒ぎ始めたのでおまわりさんが燃えだす前にさっさと退散することになった。

 その後は夜の街を彷徨って、今度は誰にも見られないような草の伸びきった空き家に身を潜めることにした。遅い夕飯には困らなかった。菓子パンを四つ、ランドセルに詰めていたから。外では夜通し何度もパトカーのサイレンが鳴っててうるさいなと感じたが、エリコは疲れていたのか、やがてグッスリと寝てしまった。

 朝になって、差し込んだ陽の光に照らされて起床し、まだ重たい瞼を擦って小さく欠伸をするとランドセルのなかを弄って早くも最後の焼きそばパンを頬張り、空き家を離れてまた外をブラブラ彷徨った。ランドセルはもう用済みだからと置いていく。パトカーがそこら中でサイレンを鳴らしてるわけじゃないだろうけど大通りは避けて人通りの少ない住宅街の道を抜けていった。

 アテもなく歩いていると三人目の男に声をかけられる。この男は太っていて白い無地のTシャツに色の濃いデニムを履いた顔周りが清潔とはいえないあばたまみれの中年男性でエリコにいやらしい笑みを向けていた。

「お嬢ちゃん。こんな朝早くにどうしたんだい?」

 屈んで目線を合わせてくる。男の頭の天辺が一番薄くなっていることが判った。エリコは嫌な顔をした。汚いし、何よりそのニタニタと気持ちの悪い笑みが以前の飼い主を思い出させたからだ。自分の服を捲ろうとしたとき、自分がトイレにいるときに入ってこようとしたときの脂ぎった顔にそっくりで気持ち悪かった。この男が一番よく燃え、三人の中で一番臭いが酷かった。

 夕暮れ時になり、エリコは腹が鳴っていた。河川敷に出たので川沿いに歩いて川縁の砂利の中、川を横断する橋の下まで行って、そこでしゃがんでいた。そこで声をかけられた。今度は女の人だった。その人は背が高くって長い髪を結ばないでそのままにしていて、体型は上下のスーツと相まってまるでテレビで見るアナウンサーみたいだった。顔も若々しくエリコが見ても綺麗だと感じた。

「あなたがエリコちゃん?」

 女の人はそういった。子供に話しかけるような甘さを受け取ったが、小さい子に向けるような声とは違って、大人に話しかけているみたいにも感じられた。

「そうよ。田中 エリコ」

 エリコはいった。女の人は「私は、かた かなこ」というとエリコの隣にしゃがみ込む。エリコは川の流れに目を合わせていった。

「それ、本名じゃないでしょ?」

「いいえ。歴とした本名なのよ。だから、あなたと同じくらいの歳の時にはいじめられてた。こんな名前も、それをつけた両親も大っ嫌い」

 エリコはチラとかなこを見た。かなこはちょっと前のエリコと同じく川の流れを見ていた。エリコはいった。

「私を捕まえにきたの?」

 かなこはかぶりを振った。

「いいえ。でも、あなたがお父さんを焼いたのでしょう?」

 おまわりさんも、道端のおじさんも。エリコもかぶりを振って「違う」と答えた。かなこはいった。

「私は警察じゃないの。だからあなたをどうこうしようなんて思わない」

 いって懐からコンビニで売ってるおにぎり(昆布)を取り出すとエリコに差し出した。「お腹空いてるでしょ?」言い終わる前にエリコはおにぎりをひったくって乱暴に包装を破く。破き方を知らなかった。結果、海苔がピリピリと千切れて、ビニールの中に残ってしまった。エリコは悔しがった。

「下手くそね」

 いうとかなこはエリコからおにぎりの袋を取って、ビニールに残った海苔をおにぎりの海苔がない部分に貼りつけていく。すると、なんとも不恰好で千切れた海苔がささくれたおにぎりになる。それをエリコに再度渡すと彼女は笑みを浮かべることもなく

「かなこも下手くそ」

 と吐き捨ててからおにぎりに噛み付いた。かなこはしばらくそれを眺めていたが、エリコの反対側を指差して「その子は?」と聞いた。

 すると、途端にその指が示す先から低い唸り声がして黒い大きなものが立ち上がった。座るエリコの背丈を優に越していて、同じく座るかなこと体高がほぼ同じ。四足の獣で、ボクサー犬のような隆々とした体つきで、体毛があるのかないのか、どこもかしこも真っ黒で、両目ばかりが赤く光って。唸る口から見せた鋭い牙ばかりが真っ白だった。獣は今にも噛みつかんばかりに前足を前に、頭を低く、赤い眼光がかなこを睨む。しかし、かなこは、こんな犬種いたかしら、と特に怯える様子もなく疑問に思った。牙の隙間から唸りと涎が伸びて地面に垂れる。獣が歯を震わせて一段低く吠え——。

「この子はバーニング。バーニング、落ち着いて」

 エリコがかなこに、また獣に言った。するとバーニングと呼ばれた獣はその声に唸りと構えを辞めて、お座りの姿勢を取る。かなこはその様子に微笑んだ。

「バーニングちゃん? それとも、くん?」

「バーニングはオスよ。歳はわかんない。この子は私とお庭で出会ったの」

 かなこは頷いた。また懐を弄って犬用のビスケットを出すと全部エリコに渡す。エリコがバーニングにビスケットを差し出すと彼は食べ始めた。

「お庭っていうのは、あのお家のお庭ね」

「そう。あの飼い主の。私が外に追い出されたときにこの子と遊んだら、それから来るようになったのよ。昨日はそれをあの男に見つかっちゃって、バーニングが殺されるところだったの」

 だから燃えちゃったのよ。エリコは言い訳をするという風でもなく平坦にいうとバーニングを撫でて癒した。見やればバーニングの体には傷がいくつかついているようで、彼は撫でられて伏せるとフウフウと落ち着いた鼻息を吹き始める。

「かなこは警察じゃないのにどうして来たの?」今度はエリコがかなこに聞いた。

「聞きたい?」

 エリコの問いに満面の笑顔で返すかなこ。その笑顔には気持ち悪さがあまりない。エリコは頷いた。バーニングが不意に立ち上がって川の方まで行く。どうやら水を飲みに行ったらしい。かなこが笑顔のまま言った。

「じゃあ、教えてあげましょうか。私はあなたにお仕事を手伝って欲しくてきたの」

 お仕事? 聞き返されて「そう、お仕事」という。エリコの黒い眼はかなこに注がれる。

 かなこはいった。

「あなたがやったようなことをしなくちゃいけないんだけど、どうにも自信がないの。あなたは昨日今日で三人も、いとも簡単にやったでしょ? こういう仕事にはうってつけなんじゃないかって。どう、手伝う気はない?」

 最後の「ない」は「なぁい」と間延びして聞こえる。エリコの瞳はまだかなこを捉えているが、何かをいう気は無い。バーニングが戻ってきて同じ場所に伏せる。かなこはいった。

「もちろん。報酬としてあなたには家と食事を提供したいと思ってるの。平和で、もう暴力を振るったり抑圧されたり……殴られたりすることはないと思うわ。どう?」

「……かなこが新しい飼い主になってくれるってこと?」

 じっと見つめるエリコがやっと口を開いた。かなこは表情を一切変えることなく「そうよ」とすぐに返す。エリコは首を縦に振った。


「じゃあ早速手伝ってもらうけどいいのかしら? 人を燃やすことに抵抗はない?」

 なさそうだけど。エリコは車に響くエンジン音に負けないように声を少し張り上げて聞いた。四人乗りの軽自動車の運転席からバックミラー越しに後部座席を覗く。後部座席にはエリコと、それからバーニングがいる。バーニングは乗り込んだ当初、慣れていないのか小さく唸り続けているみたいだったが、エリコが撫でると次第に大人しくなった。実はエリコを助手席に乗せようとしたのだが、バーニングは後部座席で酷く鼻を鳴らした。

「ないと思う。私が危なくなればいいだけだから」

「なるほど。それは頼もしいわね」

 かなこはアクセルを踏んで高速道路を突っ切った。

 高速を降りて目的地の近くについたころ、後部座席のエリコは眠っていてバーニングに寄りかかっていた。そのやっと訪れた安らかな寝顔を、しかしかなこは躊躇なく起こすと車を降ろさせる。

「ここは?」

 エリコはかなこに聞いた。一面の森の中を続く道路の先、草は道々から生い茂り、道路は割れて、痛々しい。目の前には学校の門のような錆だらけの引き戸式の門があって、その先に一つ、古い倉庫みたいな建物が見えた。

「野犬の農場」

 かなこはそう返すと重そうな門を力一杯押してやっと人一人通れそうな隙間を開けて門の中へ、エリコもバーニングもその後に続く。目指したのはやっぱり先にあった建物(ここも錆だらけ)で、倉庫の入り口みたいな両扉の縁を掴んで開ける。その瞬間のことだった。ワンワンという吠え声、高い、或いは低い、それの組み合わさった何百という犬の声が辺りを響かせる。エリコはうっと顔を引き攣らせる。ただし、その大合唱にではなく、漂って着たその臭いにだ。内部は思わず鼻を押さえたくなる臭いだった。おしっこの臭い、うんちの臭い。あとは何か、もっと腐ったものの臭い。

 その臭いの元を辿るように、内部をグルリと見回した。

 そして、エリコは”犬の農場”と呼ばれた”犬の監獄”をすっかりと目にすることになる。中央は開けて左右一杯に牢屋が広がる刑務所のように、倉庫一杯に中央を開けて犬一匹が入る小さなケージが左右奥に目一杯、二個三個、倉庫の天井まで積まれていた。臭いの元はそこらから。犬は自身で糞尿の後始末、ましてや檻の中にいては死んだ同類の後始末なんてできやしない。彼らはその不遇に対してか、二人と一匹の侵入者に対してか、はたまた急に入ってきた光に対してでも向かうように、犬たちは我先にと吠えたてている。かなこがその中でも平気な顔をして進むのでエリコたちもついていく。一匹は同類であろうにかなこに会った時よりも牙を見せて左右に目を光らせた。ある程度進んだところでくるりと向きを変えたかなこが後ろに歩きながら話し出す。

「最近野犬が増えて、近隣の狩りにも畜産にも農作にも被害が増えたものだから国が一斉に彼らを駆除することにしたの。人の中でまた飼えそうな子はもう引き取られたんだけど、やっぱり人の元には来れない子や病気持ちの子が多くてね。殺処分が決まったんだけど何せ数が多いから……。ここはそのための一時保管所。通称が野犬の農場」

 またクルリと前に向き直る。そしてキョロキョロと監獄を見回して、その内の一つにジッと目を合わせて近づくと、中の野良犬が内側から、届きもしないのにかなこに食いつこうと——当然ながら格子に阻まれて、それを噛んで唸った。血走った目、抜けきった体毛に赤く爛れたような肌が見えている。

 かなこは微笑を湛えた目でそれを見る。すると、やがて、野良犬は段々唸り声を小さく小さくして、ケージを噛むこともやめ、大人しくケージの奥に帰っていった。一方、バーニングが手近な犬に一度吠えてもケージからは唸り声が返ってくる。かなこはエリコを向いていった。

「エリコちゃん。ここにいる犬、今全部燃やせる?」

 エリコは不快な顔を浮かべていた。しかしバーニングを一度見て「今は無理。怖くないから」といった。怖くはない。ただとっても臭かった。

 かなこは「なるほど」というと、少し考えるような素振りをして——何を思ったのか今しがた大人しくさせた犬のゲージを入り口の鍵を開けた。檻が勝手に開いていく。すると当然ながら、奥に籠っていた野良犬が再び顔を出した。毛の無い赤みのある肌を晒していて瘡蓋をいくつも抱えた、剥き出された牙は黄色く、体長はバーニングより低いがその分体格がいい。下顎から突き出たような牙のずんぐりむっくりした犬がゆっくりと入り口を出て——かなこを見た。その血走った目が合う。犬は唸りもしなかった。その目線がゆっくりと他に動き——目線の先にはエリコがいる。エリコはかなこを見た。

「これなら怖いでしょ?」

 何でもないようにかなこがいう。エリコは犬に目線を戻すと、エリコの前にはすでにバーニングが唸って、前足を張って、首を低くして待機していた。

 エリコは嫌な顔をした。

 すると、生木を燃やしたときに鳴る、パチっと跳ねるような音がしてバーニングの体からまるで生木を燃やし始めた直後のような白い煙が立ち上っていく。土佐犬似の犬はそれを見ても尚、低く唸っていた。バーニングもまた唸りを上げると紅い目をかっぴらいた。その瞬間だった。

 バーニングの体から一斉に炎が吹き出したのだ。炎は立ち所に天井まで届いて情けなく釣り下がっていた蛍光灯が熱で破裂した。動物は火を怖がる。ゲージの中で吠えていた犬達は途端に鼻を鳴らして金属の壁を爪で引っ掻き始めた。

 対峙していたその吹き上がる炎に呆気にとられて戦意を失ったようで、逃げるようにバーニングに背中を向けた。それがよくなかった。

 バーニングは地を蹴ってあっという間にそいつに追いつくと体を踏んで首元に噛み付いた。「ギャン!」と寂しい悲鳴は揺らめいた炎の音にかき消される。野良犬はそれでもしばらくもがいていたが、バーニングが駄目押しに体に伸し掛かると、次第にぐったりとして動かなくなった。燃えだしたのはそれからしばらく後のことだ。やはり生き物は燃えづらい。

 かなこはその真横にいて逃げもせず、バーニングを見下ろしていた。冷たい目をしているようで、その口角は上がっている。

「いいわね。完璧じゃない。他のはどう?」

 そんなことをいう。エリコはかなこに、バーニングはかなこに一瞥をくれるとエリコの元へと向かう。そして彼女が手を差し出すと、炎は一斉に鎮火する。白い煙がしばらく彼の体から倉庫内を漂って、タンパク質が燃える酸っぱいような嫌な匂いが鼻を刺した。エリコはバーニングを撫でながらいった。

「もう終わり。全部襲ってくるならきっと全部燃やすけど」

 かなこは頷いて、燃え盛る犬を満足げに拝むとその場を後にした。

 車に戻ると来た道を引き返す。その車の中で意気揚々とかなこがいった。

「じゃあ、次はいよいよ本番、とあるヤクザを燃やして欲しいの」

 できればヤクザの事務所ごと。バーニングはエリコに撫でられて気持ちのいい顔をして、行きと同じく体をすっかり預けている。

「とある政治家がこのヤクザと揉め事を起こしててね。お金を脅し取ろうとしているの。つまり悪いやつ。悪いやつは迷惑をかける前に殺さなくちゃいけないの。本当なら銃をバンバン撃って方を付けたいところなんだけど……」

「けど?」かなこはバックミラー越しにエリコと目を合わせる。

「住宅街の中にあってね。そんな目立つことしたら周りに住んでる人が驚いちゃうでしょう? だから静かにヤクザを殺す必要があるの」

 そのためにあなた達を使うのよ。かなこはそれから続けざまに、まるで納得や同意など求めていないという風にヤクザの家でどうするか、何をするか、家の間取りなんかを事細かに話していく。エリコはその話を少しも理解できなかった。バーニングと窓の外を見比べて、移り変わる景色が山の中から街の中に変わったことを見届ける。やがて車が止まるとかなこは先に降りて後部座席のドアを開ける。

「じゃ、いった通りにお願いね」

 かなこがいうとエリコは頷く。駐車したのは近くのコンビニの駐車場で、店舗に対して駐車台数が多い。そこからヤクザの家まで歩く。コンビニから一本道を入ると本当に住宅街でかなこが「ここよ」といった家もヤクザの家らしいところは何も無い、普通の二階建ての一軒家だった。強いていえば、その両隣の家よりも少し土地が大きくて少し建物自体も大きい。でも、家を隠すような高い生垣や塀なんかはなく、また立派な庭園があるというわけでもなく庭には畝を作って畑にしてあった。正面にヤクザが立っているわけでも無いし、正面のドアは、新しく円筒状の長いハンドルが縦についているドアだった。

 かなこはインターホンを押す。それからエリコも変わりように驚くくらい声色を高くしていった。

「すみませーん。金崎議員の秘書をしているものですが、大山さんはご在宅でしょうか」

 返答はしばらくなかったが、「何の用? 子供と犬まで連れて」とさして威圧的でないしゃがれた声がインターホンから返ってくる。

「申し訳ありません。娘の方はどうしても都合がつかなくて……。ワンちゃんの方は金崎直々の手土産になります」

 またしばし間が空く。

「娘の同伴なんて聞いたことないけどな。まあ確認したよ。入って」

 鍵の開く音が聞こえて、ハンドルを掴んで引くとドアが開いた。暖色の照明が点いて、玄関内正面には壁が、そこに猫の一枚絵が飾られている。靴を脱いで上がると、ドスドスと足音が二つして、上下とも真っ黒いシャツにスラックスの、中肉中背で目つきばかりが険しいヤクザが二人、じろりとかなこ、エリコ、バーニングをいつか見たようないやらしい目つきで見てくる。エリコは嫌な顔をしそうになった。

「犬の足は拭いてくれねえか。秘書さん」

 いって、ウェットテッシュを抜き身で一枚差し出してくる。受け取って、バーニングは嫌な顔一つしないで大人しく両足を拭かせた。ヤクザが「こちら」とさも面倒そうに前に一人、エリコとバーニングの後ろに一人ついて案内をするのでついていく。内部も、造りは何てことはない。木目調のフローリングに白い壁、一般的な一軒家と相違ない。経年劣化か、床と壁の境目が剥がれてきているところや壁と壁の境が黒いカビで埋められてたり、通される過程でキッチンなんかも覗けたが、清潔感より生活感の方が目立っていた。エリコは無造作に積まれた即席ラーメンなんかの袋を見るにつけ、前の飼い主を思い出してまた嫌な顔をしそうになり、自分の頬をよく揉んだ。

 廊下から階段を上がって、奥の部屋へ。ドアを開ける。するとようやく、そこの床は赤い絨毯で覆われた、ドラマで見るようなヤクザの部屋になる。大山組と横に行書体で書かれた額が壁の天井近く、中央に飾られてニスの輝いた渋い造りの社長机に足の曲がった低い机、黒い革製の二人掛けと二脚の一人掛けの椅子が向かい合って並んでいる。それから低い机には人を殴り殺せそうな灰皿があった。

 大山という男はあれだろう。社長机にしつらえた椅子から立ち上がった体格のいい髭の生えた老年の男性。灰色の上等なスーツを着ており、鼈甲の眼鏡はかけていないが、顔にはやはり、それなりに怖い皺を刻んでいる。——背は小さいとエリコは思った。

「この度は金崎の提案をのんでいただけて大変嬉しく思います」

 かなこは大山と目を合わせるや一礼を先んじていう。すると、大山は社長机から手前の低い机に移動して二人掛けの椅子に真ん中にドサっと座ると(椅子がギシギシいって)足を組む。黒い革靴が随分と光り輝いていた。

「おう、姉ちゃん。まあ、座ってくれ。娘さんもな」

 インターホンで話したのは大山本人だったらしい。煙草にやられたしゃがれ声を発すると、かなことエリコの二人に座るよう手で促す。二人が座るや「ほんで?」と聞くのでかなこが例の高い声で話し出した。

「まず、ご提示された金額の入金は電子決済で行う予定です。電子決済であればどのような方法でも対応するということを言付かっていまして、今日はその御報告と、それから金崎よりお気持ちとして、世界でも滅多にない犬種を大山様に賜りたいと思い連れてきた次第です。確か、小動物の違法売買愛護活動に出資しておられましたよね?」

 大山は頷くと、その目をかなこの隣でお座りするバーニングに向けられる。

「確かに見たことのない犬種だな。いくらで? どこで買ったんだ?」

 勢いよく聞く。疑問を呈したというより興味を引いたらしい。

「中国です。値段は直に聞いてはおりませんが、かなり希少だそうで億は下らないと金崎より聞いています。先日、税関の方で引っかかったそうです」

「そうかいそうかい」

 大山は上機嫌に顔をこっくりこっくり振って、笑いだす。ゲヒヒという喉から砂でも吐いたような笑いだった。つられて一緒に入ってきた部下二人も笑い出し、かなこもつられたように、しかし口角を上げるだけで大山を見た。エリコはちっとも笑えなかった。それどころか嫌な顔をしないように自分の顔をよくよく揉んで、それでも目は引き攣りそうになっていた。

 わっはっは。ヤクザたちは汚い笑いを響かせる。この部屋では今誰も煙草を吸っていないが、かなりヤニ臭かった。また、前の飼い主を思い出す。あいつも煙草を吸っていた。エリコはかなこを見上げた。かなこはその視線に気づいてウインクをする。と——

「随分とまあ、用意したようなセリフを吐きやがるじゃねえか」

 大山がそういった。見やると大山は回転式拳銃をこちらに突きつけていた。かなこ達の背後にいた二人も同じ銃を取り出して二人に突きつける。かなこは黙っていた。エリコはかなこのスカートの裾を掴んだ。もう嫌な顔をしてもいいだろうか。

 ——だめ。合図を待たないと。

 大山は従来の強面を悪鬼のそれへとすっかり変えていた。突きつけた銃の撃鉄を起こしながら、大山は息巻いていった。

「なあ秘書の姉ちゃんよ。電子決済でつーのは頭のいい方法かもしれないがな。決済の履歴が残っちまうんで俺は嫌いでね。いつも現金なんだわ。それに俺は金崎とは付き合いがなげえから知ってる。あいつは女の秘書は取らねえ。いい女を見つけるとシャブ漬けにして捨てっちまうからな」銃口を少し揺らす。

「あんた本当は何もんだ?」

 かなこは銃を突きつけられ、嘘を看破されても全く動じない。エリコが裾を掴む手を強くしてスカートを引っ張ると、かなこは目線を大山に向けたままエリコの手を払い除けて声を普通にトーンダウンしていった。

「政府のものです。あなたみたいな国会議員の繊細な心を壊そうとする人を消すのが役目の一つ」

 大山の銃を突きつける力が強くなる。

「それで消されちゃ話にならねえな」

 いって大山の引き金を引く力が強まったと同時に、生木が弾けるような音がした。

 ヤクザ三人の目線は突然吹き上がった炎に釘付けになり、バーニングの近くにいた一人は既に彼に組み付かれていた。組み付かれたヤクザはもんどりを打って、バーニングが首を噛んでいたのもあってすぐに動かなくなった。

「なんだこいつ!」

 残るヤクザと大山は発砲を始める。かなこはエリコを、その音が聞こえるより早く、覆い被さって目の前の机よりも低く伏せた。手下のヤクザは手下らしく親分を後ろに——燃え盛る犬に腹を噛まれた。苦悶の声を漏らしたヤクザは銃を取り落とし、それでも燃える体を押し退けようとするが、一度は離した牙を再び同じ箇所に刺されると耐えられず床を這いつくばった。すると火を吸ってしまったのかそこから動きは遅くなり、結局、近づいたバーニングに喉笛を食い千切られた。大山は半狂乱になってそこを離れ——足がソファに縺れて倒れこむと、悪運がこんな男にも付いている。

 ヤクザが取り落とした銃を拾って、叫びながら片手に一丁ずつ、無闇矢鱈に炎に向かって発砲した。何発もの銃声が鳴って——するとバーニングは尻尾を踏まれたみたいに弱々しい悲鳴を上げた。状況がまるで見えない中、エリコが叫ぶ。

「バーニング!」

「死ね! 死んじまえ!」

 大山は銃を撃ち切った。カチッ、カチッと両手で虚しい空転が繰り返される。大山は火に炙られたからか顔中を大粒の汗で埋め尽くしていた。その目は恐怖に引き攣っており、「なんだこの化け物はよ!」と叫んで、鼻を鳴らしていたバーニングに銃を投げつけた。

 それがよくなかった。

 大山は銃をぶつけられたことで闘気を取り戻したバーニングにあっという間に組み付かれ、いつも通り意識を失って。脂肪はよく燃える。バーニングの爪で裂かれた腹から火はあっとういう間に引火した。こんなことは初めてだった。

 エリコはすぐに、バーニングの元に駆け寄る。ヒーヒーといっていて苦しそうに燃える体を歪めていたものの、エリコの姿を見ると落ち着きを取り戻し、火はすぐに消える。一方、大山の火はすでに部屋の中に広がりつつあった。かなこはエリコの手を引いて、バーニングは苦しそうにしながらも付いていった。外には銃声を聞きつけた近隣住民はいない。早々に離れて車に乗り込むと車は何処かへと走り出す。

 後部座席ではぐったりと力の無いバーニングをエリコが自分に寄りかからせている。しかし撃たれたというのに銃創はなく、血の出ている様子もない。かなこはバックミラー越しにそれをよく見ていた。

「バーニング。大丈夫かな?」エリコが心配そうに聞いた。

「……寄り道をしましょう」

 かなこは些か冷ややかな声でそう返すと車を走らせる。エリコはずっとバーニングを撫でていた。それでもバーニングに元気はない。しばらくすると、車が止まって、かなこが降りて、後部座席のドアが開く。「ついてきて」そういわれたのでエリコはかなこの手を掴んで車を降りた。バーニングもよろよろとついていく。

 自動ドアを潜って受付を通り過ぎ、廊下の奥へと入った。エリコはこの時、吼えたてる犬や他の獣の声を聞いた。随分奥まで行って、普通の引き戸とは違う、重そうな、病院で見たことがあるような銀の扉を開けて、するとまた重そうな扉があって、そこも抜ける。すると突き当たり、何もない部屋に出る。壁は白く、天井には換気口が部屋の周りを囲うようにあって、それとは別にパイプが這って壁で何本か口を開けている。バーニングが入ってきた。それを見届けてからかなこが振り向きエリコにいった。

「残念だけど、バーニングとはここでお別れしてもらうね」

 え、とエリコの口から漏れたのはいうまでもない。握る手の力が強くなる。かなこはしゃがんでエリコと同じ目線になっていった。

「ねえ、バーニングは銃で撃たれてしまったの。燃えていたから傷は塞げたし血も出ないけど、弾丸はまだお腹の中にある。もう長くないと思うの。だから、楽にさせてあげない?」

 エリコは力無くぐったりしたバーニングを見る。黒い毛に赤い瞳の犬は弱々しく、虫の息ではないにしろ床に伏して目だけをエリコに向けている。エリコはかなこにいった。

「大丈夫よ。前も殴られて死にそうだったことがあるの。でもすぐに元気になったから」

 それを聞くと、ウンウンと目を閉じて頷き、それから開くとエリコの両肩に手を置いて、目を真っ直ぐと見据えていった。

「あの子はあなたのお父さんを焼き殺した。おまわりさんも。変なおじさんも。ヤクザのおじさんたちもね。エリコちゃん。人殺しは本当は犯罪なの。やったら死刑になっちゃうかもしれないとっても悪いことなの。あなたは人を殺してないからいいけど、あの子はその責任を取らなくちゃいけないの」

 エリコはまたもバーニングを見る。再びかなこの顔を見て、またバーニング。弱々しいバーニング。新しい飼い主。死にそうなバーニング。初めてのお母さん。かなこはそんなエリコの耳元にそっと近づくと耳打ちをした。

 エリコはバーニングを見た。

「さよなら。バーニング」

 エリコは一部始終をちゃんと見届けた。その最後の時までバーニングから目を離さなかった。彼は悲痛な叫びをあげることもなく、火を吹き上げることもない。全てが終わった時、亡骸を抱き上げてやりたいと思った。でも、バーニングは真っ白い変な服を着た人達に抱き上げられて、部屋の外へと運ばれていった。


 エリコは啜り泣きの一つもせずにかなこと手を繋いで、部屋の外へ。かなこは笑顔をエリコに見せ、エリコもまた笑顔で返した。保健所にはバーニング候補がいっぱいいる。

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